素敵なナイショ |
最近、啓太はメモ魔である。小さなメモ帳とペンをいつもポケットに入れていて、誰かに何かを尋ねていたかと思うと、こそこそっと何かを書きつけるのである。そして、気になった七条が何を書いているのか覗きこもうとしたとたん、ぱたっとメモを閉じて隠してしまうのだった。もちろんにっこり笑って「ナイショです」とつけ加えるのを忘れないのだが、これではやられた方はかえって気になってしまうだろう。それがもう何日もつづいていた。 もう少し七条に社交性があれば、啓太が尋ねている相手から訊きだすこともできたのに違いない。それは成瀬や遠藤のことが多く、七条にも決して遠い相手ではなかったからである。七条はだがそういうタイプの人間ではなかった。 「伊藤くんはいつも何を書いているのですか?」 「もちろん。ナイショに決まってます」 「僕にも教えてもらえない?」 「七条さんって俺のことなら何でもわかっちゃうって思ってたんですけど、わからないこともあったんですね」 どうにも我慢ができなくなって正面突破を挑んだ七条だったが、あっさりと啓太にかわされてしまったようだ。楽しそうに会計室を出て行く後姿を見ながら、七条は思わずため息をついていた。そんな副官の姿を、西園寺がこれまた楽しそうに見遣っていた。 「ずいぶん重症のようじゃないか」 「まったくどうしたものでしょうね。伊藤くんがこんなに露骨に隠し事をするなんて」 「わたしは何もそんなことをいっているわけではないぞ」 西園寺がくすくすと笑い始めていた。こらえようとするのだが、狐につままれたような七条の顔を見ているうち、また吹きだしてしまうのである。 「では郁は伊藤くんから何か聞いているのですか」 「いいや。何も」 「だったら……」 「近くにいすぎて見えないのか?」 そしてなおも不思議そうな表情が消えない七条に、「いつから啓太がメモを取り始めたのか。どうしてメモを取っているのか。それを考えてみるんだな」と言い残して、西園寺も会計室を出て行ってしまった。ひとり取り残された七条は不思議に思いながらも、ゆっくりと時間をさかのぼるために、自分の席に座りなおした。 伊藤くんがメモを取り始めたのは、昨日や一昨日のことじゃない。あれは先週……。そうだ。二学期が始まった次の日。あの日のお昼にはもうメモを持っていた。それまであんなメモ帳は持っていなかったから、きっとお昼までに購買部で買ったのだと思う。 ではメモを取る原因は始業式の日ということか。あの日に何があっただろう。……駄目だ。思い出せない。というより思いつく限りでは何もない。二週間ぶりで会った伊藤くんを抱いて彼の部屋で寝た。それだけだ。伊藤くんはいつも以上に悦んでくれて……。あのときふたりで何を話したのだったか。 ピロートークなんて他愛もないことばかりだ。あの日もたいしたことは話さなかったと思う。そういえば僕の誕生日を、日にちをずらして連休に……とか言ってたっけ。今度の三連休っていうことはきっと横浜のマンションに行きたいっていうことなんだろうけど。ふふっ。何もあんなに申し訳なさそうに言わなくてもいいのに。マンションでの伊藤くんは本当に可愛らしいのだから。寮にいるときよりも何倍も感じてくれて、僕も愛しがいがある……。 夕食時。いつものように西園寺を迎えに行った七条は、ドアを開けた西園寺に爪楊枝で作った小さな白旗をあげてみせた。 「駄目でした。原因になったらしい日までは特定できたんですけど……」 「そうか駄目か」 「駄目です。伊藤くんがどんな表情をしてどんな声をあげたかとか、どんなふうに腕の中で震えていたかとか、そんなことは細かく思い出せる……」 言い終わらないうちに西園寺が、受け取った白旗で七条の鼻の頭を軽くはたいた。 「真顔で惚気るんじゃない。馬鹿」 「別に惚気ているつもりはありませんが」 「それを惚気ているというんだ」 「なるほど。そう言われればそうかもしれません」 『近くにいすぎてわからない』といった西園寺のことばは気になったものの、七条はこの件を考えないことに決めた。とりあえず丸呑みすることにしたのだ。ちょっとばかり大きかったが、眼をつぶればなんとか飲みこめないこともない。 横浜へ出発する直前まで、啓太のメモはつづいた。メモの中は線で消されたり、また復活したり、書き加えられたり、丸で囲まれたりで、もう真っ黒に近くなっていた。そしてそのメモ帳は、啓太が寮を出る前、大事そうにジーンズのヒップポケットに入れられた。だがそれを知らない七条は、メモが自分に関係することだということさえわからないままでいた。 連休初日の夕方。啓太に懇願されて一足先にマンションに着いていた七条は、大きな荷物を両手に下げた啓太を迎え入れた。ああ、重かったぁ。二日分の食料が入った荷物を下ろした啓太は、そう言うと思わず上がり框にへたりこんでいた。 「おやおや。すごい荷物ですね。電話をくれたら迎えに行ったのに」 「だって七条さんには荷物の受け取りをお願いしてたし……」 「駅で預かった荷物なら、ちゃんと冷蔵庫に入れておきましたよ。それから埼玉から届いた荷物はそこに置いてあります」 「ああ、有難うございます。じゃあ早速……」 啓太は七条の脇をすり抜けて台所に入ると、これだけは大事そうに持ったままだったケーキの箱を冷蔵庫に入れた。あいかわらず冷蔵庫は空っぽに近く、啓太が七条に託したタッパウエアがふたつ入っているだけだったので、大きなケーキの箱も楽々と収まった。啓太が玄関に残した荷物を持って後から台所についてきた七条は、テーブルに荷物を載せると、後ろから啓太を抱きしめた。 「うあっ!! 何ですかぁっ!?」 「何ですか、って? 冷たいですね。伊藤くんは」 そういうと七条は腕の中でくるりと啓太の身体を回した。 「こんなに待ち焦がれていた恋人に、キスのひとつもしてくれないなんて」 「うん、もう……。じゃあキスだけですよ。約束できます? 俺、夕食の支度をしたいんです」 「伊藤くんは僕のキスより夕食の支度のほうが大事ですか?」 「はい。今は。だってキスはもっと後でもできるでしょう?」 「しかたないですね。冷たい人を恋人に選んだのは僕だ」 「そう。……貴方、です」 そして七条はゆったりと預けてきた啓太の身体を受けとめた。 啓太が埼玉の実家から送ってもらったのは、庭で使えるバーベキューのセットだった。ところが組み立ててみるとベランダでは少々手狭だったので、全開にした窓際で使うことにした。啓太が寮から持ってきた肉を七条が焼いているあいだに、啓太は黄色や赤のパプリカ、たまねぎなどを用意した。応接用のテーブルにはふたり分の取り皿、フォーク、グラスのほかに、サラダの入ったボウルとパンの籠、そしてダイエット・コークのボトルが置かれた。任せきりになっていたが、七条は思ったより楽しそうに肉や野菜をひっくり返していた。 「ほら伊藤くん。焼けてきましたよ」 「有難うございまぁす」 いい焼き色のついた肉を七条が啓太の皿に乗せた。まずは毒見とばかりに啓太が頬張る。ただでさえ大きな眼が、いっぱいに見開かれた。 「あっ、美味しい!」 「どれどれ……。ああ、本当に美味しいですね」 「この焼き加減。もう絶品、って感じですね」 「伊藤くんが準備してきた肉がよかったんじゃないですか。このトマトソースをからめながら焼くっていうのがとてもいいですよ。これならいくらでも食べられそうです」 「あああっと。食べ過ぎちゃ駄目ですよ。デザートはチェリーパイですからね」 「WAO !!」 「明日の夜は残ったお肉とソースでバレンシア風のパエリアを作る予定なんです。だからお肉は残っても大丈夫」 そう言いながらもふたりはどんどん肉を焼き、サラダを食べ、コーラを飲んだ。七条のどこを探しても、西園寺と一緒にいるときの穏やかさはかけらも見られなかった。焼くのも食べるのも、七条は本当に楽しそうで、時折、声をあげて笑ったりもした。始めて見るそんな七条の様子に、啓太はこの誕生日を企画してよかったと思った。 啓太は大事そうに抱いて持って帰ってきたチェリーパイを大きく切り分けるとレンジで熱くして、バニラアイスをたっぷりと添えてから七条に差し出した。 「ああ。僕の思い描いていたチェリーパイだ」 そうつぶやいた七条は、ゆっくりと味わいながら二週間遅れのバースディ・ディナーを締めくくった。 簡単に後片付けをすませてから、啓太と七条はアメリカンコーヒーを手にベランダに出た。そして肩を寄せ合って手すりにもたれると、眼下に広がる黒々とした夜の海を眺めながらコーヒーを飲んだ。 「伊藤くん。今日は本当に有難う。僕の好きなものばかりでした。よく分りましたね」 「だって七条さん、前に『日本食は味が薄くてよくわからない』とかって言ってたじゃないですか」 「そんなこと覚えてくれてたんですか」 「俺、七条さんのことだったら何でも覚えていたいから……」 はにかんだように言う啓太の顔を七条が優しい眼で見つめる。ふたりはコーヒーカップを持ったまま、そっとくちびるを触れあわせた。 「最初はコンピュータのパーツをプレゼントするつもりでいたんです。お誕生日当日は西園寺さんがフランス料理を予約してくれてたから、そこで渡せばいいかな、って。でも寮に戻った日。七条さん、言ってたじゃないですか。ほんの小さいときを除いて、家族に誕生日を祝ってもらったことはない、って」 「それは仕方がありません。母は仕事で忙しい人ですからね。でも祝ってくれないわけじゃない。母とそれから別れた父も、カードはちゃんとくれますよ。現に今年も……」 「だあから、それじゃ駄目なんです、ってば」 啓太のあまりに強い、だがどこか悲しそうな口調に、七条は思わず片眉を跳ね上げた。 「それぞれの家庭にそれぞれの事情があるってことは、俺にだって分ります。だけど俺は、それを黙って受け入れてしまってる七条さんが、とても悲しいんです」 啓太はことばを切ると、今度は微笑いながらつづけた。 「七条さんは俺の誕生日に引出しをくれて、このマンションに俺の居場所を作ってくれたでしょう。だから俺はそのお礼に、七条さんに普通の家族の普通の生活をプレゼントしようと思ったんです。でもどうしたらいいのかよくわからなくて……。そしたら和希が『ふたりで料理を作るってのはどうだ』って言ってくれたんです。そういえばいつも外食か、どこかで買ってきたお惣菜だったし。ふたりで作ったらきっと楽しいだろうなって」 「ええ。こんなに楽しい時間は思い出せないくらいですよ」 「ああ、よかった。どうやったら七条さんが喜んでくれるのか考えてるとき、俺、すごく楽しかったんです。だから七条さんが楽しんでくれたんだったら、すごいうれしいです」 「僕のことを考えるのが楽しかったなんて。伊藤くんは僕にはもったいないくらいの人ですね」 「そうは言っても俺、何を作ったらいいかわからなかったから、和希とかうちのクラスの工藤とか、アメリカ居たことのある連中に、向こうでどんなものが好まれてるか、聞いて回ったんです。バーベキューがいいって教えてくれたのが工藤で、肉を固まりのまま一度煮込んでから焼くっていうレシピを考えてくれたのは成瀬さん。絡めたトマトソースは自信作だって言ってましたよ。カリビアン風らしいです。どこがカリビアンなのか聞いても答えてくれませんでしたけどね。それからチェリーパイは熱くしてバニラアイスを添えるってのは和希の……」 「えっ。じゃあ伊藤くん、もしかしてあのずっと書いていたメモは……」 七条が啓太の顔をのぞきこんだ。西園寺の言っていたことばの意味に気づいたのだ。啓太がうれしそうにうふっと笑った。 「そうです。だからナイショだったんです」 「……とても素敵なナイショですね」 七条は啓太の持っていたカップを取り上げて脇へどけると、啓太の肩を抱いた。どちらからともなく顔が寄せられ、ふたりはくちびるをむさぼりあった。絡めとった啓太の舌はかすかにコーヒーの味がした。 「……ソファでいいですか?」 「……」 返事のかわりに肩にしがみついてきた啓太を、七条がそっと抱き上げた。 七条の長い指が啓太の前髪をかきあげた。啓太の髪からは、ついさっき七条が洗ったシャンプーの香りがした。おそらく七条の髪からは啓太が洗ってくれたシャンプーの香りがしていることだろう。 シャワーのあとで啓太とベッドに入る。気だるいのに、それでいて何故かゆったりとして満ち足りた、七条の好きな時間だった。 「啓太くんは不思議な人ですね」 「そうですか? 俺ってよく『わかりやすい』って言われるんですけど」 不思議そうな啓太のことばに、七条は思わずくすっと笑いをもらした。怒るつもりもない啓太が、わざとらしく頬を膨らませた。 「もう……。笑わないでくださいよ」 「はい。ごめんなさい」 七条が啓太の耳に、ごめんなさいの小さなキスをした。 「でも本当に不思議ですよ。啓太くんはいつも新しいドアを開けて、僕を知らない世界、忘れてしまっていた世界に連れて行ってくれる」 「俺は別にそんなことをしてるつもりはないですけど……」 「今日もそうですよ。郁は僕に友人というポジションを与えてくれました。でもそこまでなんです。それが悪いといっているわけじゃない。郁は啓太くんとは別の意味で本当に大切な存在です。だけど啓太くんは違う。郁が入ってこなかった場所にまで、とても簡単に踏みこんでくると、僕に家族を作ってしまった。僕がすっかり忘れてしまっていた家族というものを思い出させてくれた……」 「臣さん……」 「どうすればいいんでしょうね、僕は。家族と一緒に『寂しい』ということばまで思い出してしまいましたよ」 「寂しい、ん、ですか……?」 「啓太くんがいなければ、僕は寂しいです。どうすればいいか分らなくなるくらいに」 「臣さんが寂しかったら俺も寂しくなってしまいます。俺、一緒にいます。ずっと一緒にいます。だから寂しくならないでください。ね?」 「わかりました。……まったく、啓太くんにはかなわないですね」 啓太がうれしそうな顔を七条に向けた。 「ねえ、臣さん」 眠りに落ちる前、思い出したように啓太が言った。 「明日、朝、先に起きたら駄目ですよ」 「どうして?」 「明日は俺が朝ごはんを用意して、それで臣さんを起こしてあげるんです」 「伊藤くんが、僕を?」 「そう」 「わかりました。おとなしく寝ていますよ」 「うん……」 甘えたしぐさで顔をうずめてきた啓太を、七条がいとおしむように抱きしめた。 |
いずみんから一言 |
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