嗚呼! 花の紐育 |
留学。 聖徳太子の時代に刷り込まれたDNAが尊敬と憧れを呼び起こすのか、はたまた明治の記憶が残っているのか、日本人の胸を騒がせてくれる単語。もっと知りたい。もっと極めたい。その思いはインターネット全盛の21世紀になっても変わらないらしい。変わったのは昔のような悲壮感がないことくらいかな。 だが一口に「留学」と言ったって千差万別。百人いれば百通りの。千人いれば千通りの留学があると思う。 最先端の技術を身につけたくて海を渡るヤツもいれば、自分の感性を磨きあげるために異国の風土が必要な場合だってあるだろう。語学を習得するのには、360度どっちを向いてもその言葉しか聞こえてこない環境に身をおくのは、とても有用な方法だ。こればかりは日本にいたら徹底するのは難しいからな。まあ……。「語学習得のため」とか言ってるヤツの中には、ただ「留学してきた」と言いたいだけの勘違い野郎もいたりするのだが。これもまた「千差万別」を構成する重要な要素のひとつであることに間違いはない。 そもそものはじまりである学校選びからしてそうだ。たとえ同じ大学の同じ学部同じ学科の同じゼミに籍を置いたとしても、そこに行き着く経緯にはひとつとして同じものはない。「学びたいモノ」で出来上がったリストが「学力」というフィルターにかけられ、残った大学の中から環境やら費用やらといった、鬱陶しいが非常に重要な諸々との妥協点を探し出さねばならないのだ。日本ではなんとかしちまえることだって、海外では無理になったりもする。よく「○○に着いたとき、ポケットの中には100ドルしかなかった」とかって話が流れたりするが、あれで成功できるのは一握りどころかほんの一つまみだ。勉強に専念するためには、やっぱりそれなりの資金が必要になる。指導を受けたい教授がそこにいるとわかっているのに、予算の都合で断念しなきゃならねえのは悲劇以外の何物でもない。 その点、俺は恵まれていると思う。ランドセルしょって小学校の校門をくぐって以来、ちっとばかし要領よく勉強してきたおかげで、ほとんど妥協らしい妥協をせずにすんだからだ。 ぶっちゃけて言えば、鈴菱の留学生審査に通ったってのが、やっぱ大きい。あのクソ面白くもない親父に「もうあと何年か学校に行かせて下さい」と言わずにすんだだけでも有難いぜ。いくらバイトはしてても、たった2年じゃ留学中の生活費をまかなえるほどは貯まらないからな。そんなこんなで学費のほかに生活費として月1500ドルもらった俺は、迷うことなくコロンビア大学を選んでいた。ゆくゆくは国連関連の仕事につきたい俺にとって、コロンビアはこれ以上ない足がかりとなるはずだ。 同じ法学部でもヒデの野郎はハーバードを選んだ。企業買収を手がけたいと言っていたからな。悪くない選択だ。高校に入ったときからハーバード進学を決めていたあいつは、何事もなければ高校卒業と同時に留学していたはずだった。 それが3年の秋に転校してきた後輩といい仲になったと思ったら、あっという間に予定変更。可愛い恋人が卒業するまで、留学を先のばしにしやがった。待っている2年の間に、行きがけの駄賃とばかりに日本の弁護士資格をとったってのが、まああいつらしいと言えばとてもあいつらしい。おかげで当初の予定通りの時期に留学した俺まで、「中嶋と一緒に留学した」と思われてしまった。迷惑なことこの上ない。だいたいヤツのハーバードはボストン。コロンビアはニューヨーク。アメリカという国のスケールで測ればたしかにご近所かも知れねえが、一緒くたにはされたくない。 俺のそんな屈折した思いとは関係なく、ニューヨークってトコは想像以上に面白い街だった。面白そうだとは思っていたが、実際に住んでみたら自分の想像力の貧困さを思い知らされただけだった。土地のスケールがでかけりゃ面白さのスケールもでかいようだ。 何が面白いってな、いいところも悪いところも。きれいなものも汚いものも。およそ思いつくすべてのものをひとつのナベに入れてかきまぜてぶちまけたら、きっとこんな感じになるんじゃないかと思う。田舎で食うごった煮が意外と美味いみたいなもんだ。 猥雑、沈滞、喧騒、色彩、静畢。錯綜。そして成功と挫折。 一見、相反しているような単語のどれもがこの街を形作る要素となっているのだ。岩井はこの街をみて「万華鏡みたいだ」と言った。 なるほどなあ。万華鏡かあ。ちょこっと角度が変わっただけでまったく違うモノが見えるところなんざ、確かに万華鏡そのものだ。それを聞いたとき俺はマジで感心したもんだ。俺なんかには到底思いつかない表現だぜ。さすが芸術家は言うことが違う。 あー、そうそう。何で岩井か、ってな。じつは今、2年間の期間限定で岩井とルーム・シェアの真似事してんだよ。岩井画伯は再来年の春に、ここニューヨークは57丁目のギャラリーで個展を開くんだそうだ。規模は大きくないが良質の顧客がついてる店とかで、これからの岩井にとって大きなチャンスになるらしい。確かにBL学園はそれなり以上の人材を集めた学校だ。画家だって音楽家だっているだろう。だが親しいヤツからそんなすげえ芸術家が出るとはな。自分のこと以上に誇らしい気分になる。是非成功させてもらいたいもんだ。 それの打ち合わせやら新作用のスケッチやらで、岩井は今、平均すると月に10日程度こっちに滞在している。その都度ホテルをとればいいだけの話なんだが、岩井の体調 ―― それも特に精神面での ―― を心配した画商の河本さんにルーム・シェアをもちかけられた、って訳だ。無機質なホテルの部屋に帰って独りきりでいるより、誰か気軽に喋れる人間がいる部屋。それでいてドアさえ閉めれば独りになるのも簡単だ。いつもの如く食事がとれなくなってしまったときには、たとえ篠宮ほどでなくても口に合いそうな料理が作れる環境。それやこれやを考え合わせた上でルーム・シェアが選ばれていた。これは岩井の意見でなく、絵を描く邪魔になるというリスクを差し引いてもまだマシだろうという画商の判断があったようだ。それはきっとその通りなんだろう。岩井にとっても。そして、岩井の絵にとっても。 おかげで俺は、しがない留学生にはありえねぇようなアパートに住めている。ツインのベッドルームがふたつもあり、それなりの広さのリビングとダイニングとキッチンがついている上に眺めもいい部屋なんて、岩井が7割近く出してくれなきゃ無理だって(苦笑)。そのかわり場所と部屋は、岩井側が岩井にとって最善の環境だけを考えて選んでいる。幸いにも俺は、それしきのことで文句を言うほどヤワにはできてないからな。大学までの時間が20分やそこら余計にかかったって、なーんの問題になりゃしねえ。近くて便利だけど狭くて設備も古い部屋なんかより、広くてきれいなアパートの方がいいに決まってる。部屋のベッドがツインなのは「たまにはわたしも岩井くんと語り明かしたりしたいからね」と河本さんは言っていたがな。それは後からつけた「理由」にすぎないと思う。もしこっちで岩井に親しい人間ができたとき。男だろうと女だろうと、とにかく岩井が「共に時間を過ごしたい」と思う人間が現れたときに、いつでもそうできる環境を作ったんじゃないか。俺にはそんな気がしてならないのだ。まあ……。岩井は愚か俺の方までそんな相手がまだ見つかってないのは、ちょっとしたご愛嬌ってヤツさ。急ぐ必要なんてどこにもないんだ。 さて。 さして急いでいるようにも見えないのに留学やら弁護士資格やらを手にした上に、可愛い恋人と日々よろしくやりまくっている ―― 念のために言っておくが、ヒガミなんかじゃねえぞ? 客観的事実ってヤツだ。これは ―― ヒデの野郎から電話が入ったのは、今年最後の月に突入した日のことだった。 最近はメールばっかりで声を聞くことも少なくなっていたからな。俺たちには珍しく、10分ばかし話しこんだ。と言っても近況を報告しあうほど離れていた訳じゃない。話題の多くは前日が誕生日だった俺らのマドンナの思い出話だった。もう「思い出」でしか語れないのが悔しいけどな。でも思い出を共有できる相手がいるってのは、思ったよりいいもんだ。柄にもなく、なんかあったかいモノが胸を満たしてくれる気がした。 もし悪魔というヤツが本当にいて、ターゲットの中に入りこむ隙を狙っているとしたら。それはまさに悪魔の瞬間だったろう。そしてそれはよーく見知った男の顔をしているのに違いない。ヒデの野郎は意識の半分が思い出の方を向いちまってる俺にさりげなく、本当に気のないふうにこう言いやがったのだ。「近いうちに啓太を連れてそっちに行きたいんだが」と。 俺に否やのあるはずがない。っていうか、啓太が来てくれるとなればもろ手をあげて歓迎するぜ。あいつも二十歳を過ぎて身体もちっとはでかくなったし、顔のラインもシャープさが加わりつつある。だがあの笑顔。見る者を皆、癒しの光で包んでくれるあの笑顔はそのままだ。こっちに来てから2度ばかり理由をつけてボストンへ行ったのも、知らないうちに突っ走りすぎていた歩調を緩め、息を継ぎたかったからだ。その啓太が自分の方から来てくれる、って言ってるんだ。願ってもない、ってのはこのことだ。 そこにまさかあんな策略があるとも知らず、俺はソッコーでOKしていた。 「そりゃーもう。熱烈歓迎。いつなりともお待ち申し上げております、ってな」 「そうか。有難い」 「有難い」と言ってる割に、さして有難くもなさそうな声でヒデは言う。だがこういうときにこそあいつは何かをたくらんでいる。長い付き合いだからな。そこまでは俺にもわかった。なのに。もう一歩の踏み込みが足りなかったんだよなあ……。とりあえず探りは入れたんだぜ。「しかし急だな」と。それに対するヤツの返事は、ちょっと意外なものだった。 「チャンドラセカールの特別講義に行っていただろう?」 「ああ。場合によっちゃー啓太の様子を見に行ってくれっていってたアレだな」 「あの特別講義を引き当てたのが啓太だ」 「Oh……! グレイト!」 チャンドラセカール・ヴァージペーイってのはインド系アメリカ人の弁護士だ。80年代の終わりに世界中の新聞の一面を飾った巨大企業の買収劇を成功させたチームの中心人物でもある。彼がいなければあの買収は成り立たなかっただろう。いや。着手さえできなかったはずだ。その経緯をまとめたノンフィクションは法学部生のみならず、多くの経営者たちの手に、今も取られつづけている。 ただ弁護士になりたいとだけ思っていた中嶋少年は買収劇のドキュメンタリー番組を見てチャンドラセカールに興味を持ち、さらにその著作に出会ってその目標を渉外弁護士に定めることになった。言うなればヒデのヒーローだ。そんな年齢のときに目標にできる人に出会えるのは幸せなことだと思う。 その後引退したチャンドラセカールはワシントン州の田舎に引っ込み、今は執筆三昧の日々だ。そいつが数年に1回、近くの大学で特別に集中講義を行っている。それがまあ抽選なんだがよ。なにしろ神様みたいなお方なもんだから世界中から希望者が殺到する。地元枠を除いた100人に、今年は2700人近くが応募したようだ。それを引き当てたとはな。啓太の運のよさは日本を出ても有効だったらしい。 「そんな訳でちょっとご褒美だ。もうそっちの電飾は綺麗だろう」 「ああ。毎日どこかが点灯していってる。まあ見事なもんだぜ」 「そうか。じゃあ来週の土曜あたりならいいかもしれないな」 「来週の土日だな。その頃なら俺の方も大丈夫だ」 大丈夫も何も、週末を一緒に過そうって相手がいないだけなんだけどな。そんなことまでわざわざ教えてやる義理はない。っていうか。いちゃいちゃは自分らだけの専売特許みたいに思ってるあたり、腹が立つんだよ。で、ちょっとばかり嫌がらせの真似事みたいなものでもしてやろうかと思いついた。 「イルミネーション観るんだったら夜だよな。宿はどうした」 「うん? ああ……。そのあたりでホテルでも取ろうと思ってるが」 「だったらうちへ来いよ。観光に便利とは言えないけど、俺の部屋と岩井の部屋にベッドがひとつづつ空いてるからな。久しぶりの日本語で、夜っぴいて話でもしようぜ」 ……それがヒデの策略だったなんて。どうして俺に分かる? 俺は神様でもなけりゃ超能力者でもないんだ。俺はちょっと、ヤツと啓太を別々の部屋で寝かせてやろうと思っただけだったんだ。なのに。すっかりヤツの術中に落ちてしまっていた。 「それは有難いが、岩井はいいのか?」 「ああ。岩井は水曜に帰ったところなんだ。もう年内は来ないとか言ってたな。クリスマスには興味がないらしい」 「そうなのか? だったら俺と啓太で、岩井の部屋の空きベッドひとつで構わないが?」 ベッドひとつだと? それ、構います。むっちゃくちゃ構いますとも。たとえ岩井の方がたくさん家賃を払っていようとも、このアパートは俺の家。この屋根の下でお前らにいちゃいちゃさせてたまるもんか。家主の権利として断固阻止する! 「お前らなあ……。年がら年中いちゃいちゃよろしくやってんだろ? たまには離れろ。その方が新鮮だぞ? 帰ったときにはお互いの有難味も増してるってモンだぜ」 ……言ってることが無茶苦茶だ、とかってわざわざ言うなよ? 自分でも途中から何言ってんだか意味不明になってんだからな。けどまあその無茶苦茶具合がよかったのか、ヒデはそれを了承した。 そして週末。啓太はやってきた。まさに天使が舞い降りてきたみたいなもので、殺風景な男の部屋が、一気に天国へグレードアップした。 え? ヒデ? ああ引率者ね。仏頂面して隣に立ってるヤツのことなんかどうでもよろしい。俺にとってのゲストは啓太ひとりなんだからな。今日の夕方。空港で出迎えた瞬間の啓太の笑顔は、ニューヨーク中のイルミネーションさえ蹴散らすほどのものだった。ちょっとばかり痩せた気がしないでもないが、そのくらいは誤差の範囲内。啓太の魅力を損ねる、これっぽっちの要因にさえなりゃしないぜ。 念のために言っておくが、俺は女の方が好きだ。いくら癒しのオーラを振りまいてくれると言ったって、隣で寝顔を見るのはやっぱり可愛い女の子の方がいいに決まってる。だから啓太とどうこうしたいと思う訳じゃない。転校してきた啓太を「可愛いな」と思ったことは確かにあるが、その頃でさえ「じゃあ抱けるか」となったら、おそらく答えは「無理!」だったと思う。男の身体なんていくら見たって。っていうか、見れば見るほど勃たねぇよ。いくら性欲の有り余っているお年頃だったとしてもな。ただ、啓太ってのはそんな範疇にはおさまらない存在なんだよ。さっき「天使が舞い降りてきた」って言ったろ? 天使って性別を超越した存在じゃねえか。ちょうどあんな感じだな。 その天使さまは一通り俺のアパートを見て回ったあと、頬を上気させて「いい部屋ですねえ」と言ってくれた。中嶋はそれを「寒い外から部屋に入ったら頬が上気するのはあたりまえ」なんて言いやがったが、それは無粋というものだ。 「家具なんかもとても落ち着いてるし、何より居心地がいいです」 「まあな、河本さんが岩井のために準備した部屋だからな」 「岩井は元気なのか?」 「ああ。啓太が来るから部屋を使わせてくれとメールをしたら、会えなくて残念だと返事がきた」 「岩井さんには、このニューヨークの寒さはつらいかもしれませんね」 そう。ニューヨークは寒いんだよ。だからなんだろうなあ。このリビングはあったかいカーペットを敷き詰めただけでなくあちこちにアクセント・ラグが置かれ、さらにクッションが点在している。もちろんソファのセットはあるんだがな。床に座って絵を描くのが多い岩井への配慮がありありだ。ま、今日みたいな日には飲み会の会場に早変わりしてくれて便利ではある。椅子に座っての宴会ってのは、もうひとつ盛り上がりに欠けるだろ? やっぱ飲み会は車座じゃねえとな。 イルミネーションを見てきたついでにテイクアウトしてきた中華やらピザやらローストターキーやらを真ん中に置き、好き勝手なものを飲みはじめると、時間が一気に高校時代にまで巻き戻されたような気になる。それはヒデも同じだったらしい。特に口数が多くなったとかいう訳ではないが、ビールのビンを取り上げる仕草がゆったりしていて、機嫌のよさがうかがえた。 「でも王様は本当にすごいです」 ハンディボックスに入ったパイナップルの焼き飯をせっせと口に運んでいた啓太が、思い出したようにそんなことを言った。 「綺麗なイルミネーションのポイントはいっぱい知ってるし、美味しいテイクアウトのお店も知ってるし。あたりが暗くてもクルマですいすい走っちゃうし。俺なんてようやく学校とスーパー以外のところに行けるかな? って思えはじめたばっかりなのに」 「そりゃおまえ、過保護で心配性の亭主がそうさせてるだけだろうが」 「誰が過保護で心配性だって?」 「ここにいるインケン眼鏡亭主」 「俺の何処が」 「おまえなあ……」 本気で不思議がっている中嶋の様子に、わざとでないため息が思わず漏れた。 「啓太を真綿でくるんで押し込めた箱を、目の届くところにしか置こうとしないくせに。いくら可愛い恋女房でも、ちっとばかりやりすぎだろうが」 「もし俺が過保護で心配性だとしたら。それは、いつまでたっても危なっかしいこいつが悪い」 「え〜? そりゃ高校生の頃はそうだったかもしれませんけど……。でもほんのちょっとくらいマシになってませんかぁ?」 「ほう。マシになった、か。それは失礼した。だったらどのあたりがマシになったのか、具体的に例をあげてもらおうか」 「えーっと、うーんと……」 あ〜あ。はじまっちまった。いちゃいちゃいちゃいちゃ。ほんの些細な一言で、あっという間にふたりの世界にどっぷりだ。本当に、こいつらいつまで新婚気分なんだか。けっ。 それにしても、とちょっと思う。俺が彼らのことを「亭主」だの「本妻」だのとからかいはじめて、もう3年以上になる。その都度、啓太はちょっとくすぐったそうな、それでいて幸せそうな表情を見せたものだ。 それがどうだろう。今は何の反応も見せていない。だけどそれはきっと悪い意味ではなく、ごく当たり前の事実として啓太の中で落ち着いてしまっているからに違いない。学園の資料庫の片隅で、俺は啓太がこっそり泣いていたのを知っている。真っ白になっちまった顔で呆然と立ち尽くしていたのだって何度も見かけた。狭量な男の相手は大変だろうと、何度となく思ったものだ。 だがそれはヒデの言葉に傷ついたというよりも、ヒデの求めるレベルになれない自分への悔し涙だったのかもしれない。だからこそ努力もできたんだろうし、そうやって勝ち取った今の居場所は自分自身のものだと実感できるのだろう。 「おいおい。痴話喧嘩なら家でやってくれ」 苦笑まじりに言ってやると、啓太はいたずらを見つかった子供みたいな顔をし、中嶋は「悔しかったらおまえもやってみろ」みたいな目をしながら眼鏡のブリッジを押しあげた。 「だいたい俺がテイクアウトの店をいろいろ知ってるのだって、かわりにメシ作ってくれるヤツがいないだけなんだしな」 情けない話だが、それはまぎれもない事実だ。でもな「今日いない」ってのは「明日もいない」のとイコールじゃないんだよ。たとえ限りなく近似値であったとしてもな。少なくとも俺はそう考えている。 「あっ! ごめんなさい。すっかり忘れてましたっ!」 何を忘れていたんだか、啓太が慌てたように言った。 「おっと。驚くじゃねえか。何だよ、いきなり」 「明日の朝食は俺が作ります」 「いや、いいよ。そういうつもりで言ったんじゃねぇんだから」 「違うんです。中嶋さんに言われてたんです。今日、泊めてもらうお礼に、明日の朝食は作らせてもらおう、って。だから王様はゆっくり寝ててくださいねっ」 ……ふうん。作らせてもらおう、か。中嶋はたぶん、そんな言い方はしなかったはずだ。ヤツならいいとこ「作ってやれ」だろう。それが啓太を通して翻訳されたとたん、「作らせてもらう」になったのに違いない。啓太はやっぱり可愛いなあ。翌朝、思いっきりのアホ面をさらすことになるとも知らず、俺はその申し出を無邪気に喜んでいた。 俺は一人っ子で、ほんのガキの時分から夜はひとりで寝ていた。ずっとそういうモンだと思っていたし、それしか知らねぇからひとりで寂しいと思ったことはない。むしろ旅行なんかで誰かと一緒に寝るときの方が、寝息や寝返りのかすかな音まで気になって眠れなかったりしたものだ。それまでがどんなに楽しかったとしても。それはおそらくヒデも同じだったんじゃないかと思う。6畳一間のアパートで家族全員が生活……ってんならともかく、あの豪邸で年の離れた姉ちゃんと寝るなんてありえねえからな。けど、そんな俺らでも昨夜はいろいろと楽しかった。啓太が先に寝ちまったあとも酒を飲み、ベッドの中でまで他愛もないことを喋り続けた。 きっと俺らにも疲れ、いや、ストレスみたいなものがたまってたんだと思う。環境が変わって3ヵ月。自分では気づかないうちに降り積もっていたあれやこれやを、酒と馬鹿話で発散させてたんだな。まあ……なんだ、ほら。アフリカとかの野生動物だって、ミネラルが足りねえと思ったら岩塩を舐めに行くだろ? あれと同じだ。今日こうして3人集まったのは俺たちなりの岩塩を舐めたかったからに違いない。 で、俺の見るところその疲れやストレスはヒデの方が大きかったようだ。俺は俺のことだけをやってればいいが、ヤツは啓太も見なきゃならねえからな。今日だってこっちの空港到着が4時になってしまったのも、啓太の勉強の都合だった。月曜の予習を前倒しでやらせて、終わるまで動かないあたり、あいつも相変わらずだ。 ところがだよ。あいつときたら。啓太に余裕がなくて掃除やら洗濯やらの当番をしてなかったりしたらな、黙って代わってやってるんだと。あのヒデがだぞ? 「やってないぞ」って指摘するんなら分かるんだがな。啓太には当番を忘れてたことさえ悟らせてないってんだから恐れ入った。それを聞いて俺は中嶋のことがとても羨ましくなったのだった。そんなふうにまでしてやりたいと思える相手に出会えたんだからな。 そうしてふたり分の疲れをしょいこんだ中嶋は、俺が起きてもまだ眠ったままだった。これは非常に珍しい。付き合いはじめて6年以上になるが、俺よりあとに起きたことなんて1度もなかったのだ。何でも「夜遊びしたときほど早く起きて仕事をはじめる」が家訓だそうだからな。今日も本当なら誰よりも早く起きてコーヒーを淹れながら新聞でも読んでいたはずだ。 それが起きてないってのはよほど疲れてたんだろうと思った俺は、そっと部屋を出てトイレに行こうとした。とたんに味噌汁の香りが流れてきて、「そうか。啓太が朝メシ作ってくれるんだった」と思い出した。俺は特に必要としてないが、岩井のために和食関係は一通り揃ってるんだよ。そうするうちに今度はゴマのいい香りが加わり、俺はたまらずにキッチンをのぞこうとした。 今にして思えば、それがどれほどの愚行だったかがよくわかる。鶴女房の時代から、嫁がこもって何かをしてたら、そこは決して中を見てはいけない禁断の場所だったのだ。中嶋の策略に気づかず、また、先人の教えを身につけることもなかった俺は、ぱたぱたと軽いスリッパの音を立てながらキッチンの戸口に立った。「ここにいるぞ」とばかりに撒き散らしてしまった気配に気づいたらしい啓太が、ごりごりとゴマをすっている手を止めずにこう言いやがった。 「あ、英明さん。起きたんですか? ごはんはもうちょっとかかりますから、そこで新聞でも読んでてくださいね」 ひであきさん? ひであきさん、って「英明さん」のことか? 上に「中嶋」とくっついている、あの「英明」か? 相手はたしかに万年新婚さんだ。名前を呼び合ったって不思議でもなんでもないだろう。けどよぉ。聞かされる方にはたまらん何かがある。だって俺の前ではずっと「中嶋さん」って呼んでたんだぜ? 俺の知らない間にこっそりと、ヤツらは関係を進めてたわけだ。 らぶらぶの証拠を突きつけられて思わず硬直してしまった体に、口だけがぱくぱくと開いたり閉まったりする。と、そこへ ―― 。 「ああ。急がないからゆっくりやってろ」 追い討ちをかける声に振り向けば、いつからそこに立っていたのか、真顔で惚気る亭主がいた。そしてその顔に寝起きのかけらも感じられなくて、俺はそれが。というより今回ニューヨークまでわざわざやってきた目的が、啓太の口から「英明さん」と聞かせることにあったのだと悟ったのだった。 そうして今。俺は中嶋と向かい合って、新聞を読みながらコーヒーなんぞをすすっている。最初は腹が立っていたが、だんだん可笑しさの方が勝ってきている。中嶋にしてみれば、啓太に「英明さん」と呼んでもらえるようになって、むちゃくちゃうれしかったんだろう。それはきっと世界中に触れて歩きたいくらいに。けど他人様に言っても「ふうん? だから何?」で終わるのがオチだろうからな。手近なところで聞かせるには俺しかいなかったということだ。 一方で啓太は恥ずかしがりのところがあるから、素直に俺の前で「英明さん」と呼ぶとも思えない。だから俺たちが朝寝坊するシチュエーションを作り、啓太に朝食の用意をさせたわけだ。あとは寝てるフリをして俺を先にキッチンへ送り込めばいい、と。 おそらく啓太もまだ「英明さん」と呼ぶことに慣れてないんだろう。だから朝の最初の「英明さん」は朝食を作りながら、中嶋の顔を見ずに言っていた……。ってところなんじゃないか。最初の一言さえ出ちまえば、あとは意外に簡単なモンだしな。 たった一言、俺に「英明さん」と聞かせたいばっかりにここまで手の込んだ策略を考え、わざわざ花のニューヨークまで飛んできた中嶋。どんな顔して考えていたんだか。想像するとむちゃくちゃ可笑しい。どうにも抑えきれなくなった俺は、新聞の陰に隠れて笑いつづけていた。 嗚呼! ニューヨーク。New York 。紐育。ヌイヨー。 夢と希望を抱いた民が集まる街は、らぶらぶ馬鹿っプルさえ受け入れる懐の深さがあるらしい。 だったらヤツらを見守る自由の女神よ。 ただアテられてるだけの哀れな俺にも、どうか心の平安をを与えてくれ ―― ! |
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いずみんから一言 最初にお断りしておきますが、チャンドラセカール・ヴァージペーイは 架空の人物です。モデルになった買収劇もありません。 探したりしないで下さいね(笑) ただ、あってもおかしくない設定なので、伊住の知らないどこかで似た ような話があるかもしれません。 それはさておき。 これで「誕生日にはおねだりを」とつながりました。 珍しくも中嶋氏が浮かれている分、王様が不憫です。 |
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