啓太のおねだり |
ついこの間、桜が散ったと思っていたら、学園島は一気に緑に包まれていた。男ばかりの学園には不似合いなくらい可愛らしい花をつけたドウダンツツジを、気持ちのよい風が揺らしている。ほんのわずかな潮の香りを含む風は、鮮やかな緑を巻きこんで、日に日に濃密さを増していくようだ。 窓際に座って外を眺めていた伊藤啓太は、その風を思いっきり吸いこむと、一度、大きく伸びをした。ここは会計室で、西園寺の選んだソファが、とても座り心地がいいのだ。新年度から学生会を引き継いだ啓太は、本来なら学生会室にいなければならないはずなのだが、毎日何か用事を作っては、こうしてソファに座りに来ていた。 ああ。そろそろ帰らなきゃ。学生会長はサボるのが伝統、なんて言われたら恥ずかしいよ。 そう思いながらも、つい帰るのを五分伸ばしにしていた啓太だった。会計室にあるのは何もソファだけではない。ここには美味しい紅茶と、それを淹れてくれる人の静かな笑顔もあるのだ。啓太は窓の外から部屋の奥に眼を移して、その姿を探した。携帯電話で話をしていたその人は、啓太と眼があったとたんに、ふっと口元に笑みを乗せてくれた。 「ええ。そうです。……。はい、会計室にいますよ。……ああ、そういうことなら喜んで。……。ええ、お待ちしています。じゃあ」 携帯電話を切った七条臣は、もう一度、啓太の方を見て微笑みかけた。 「伊藤くん。すみませんが、ちょっとこちらに来てもらえますか?」 「なんですか? 七条さん」 啓太はソファから立ち上がると、軽い足取りで七条のところに向かった。その啓太を七条が抱き寄せる。えっ!? と思う間もなく、啓太はくちびるを奪い取られていた。 「臣っ!!」 書類を作っていた西園寺郁が、あからさまに不機嫌な声を出した。 「ここではやるなと言っておいたはずだが?」 「ええ。でもこれは理事長のいいつけですから」 「遠藤の? またくだらないことを……」 ようやくくちびるを解放してもらった啓太は、がっちりと抱きこまれた七条の腕の中で、精一杯背中をそらして彼の顔を見ようとしていた。 「和希のいいつけって、何なんですか」 「理由は知りません。さっき電話があったでしょう? あのときに頼まれたんですよ。こうして、君を抱いておいてください、って」 「だからどうして和希が……、あっ」 というわけですので。そういって七条は、またしてもくちびるを押しつけていた。ごそごそともがく啓太だったが、七条は焦らない。ゆっくりと促すように、啓太のくちびるを舌でなぞっていくだけだ。やがて理性を封じ込められた啓太は、自分から口を開いていた。 「……七条さぁん? 俺は確かに『啓太を捕まえておいてくれ』とは言いましたけど、『キスしておいてくれ』なんて一言も言ってないですけど?」 啓太の後ろで、呆れと怒りと諦めが微妙にブレンドされた声がした。いつの間にか遠藤和希が会計室に入ってきていたらしい。ノックもしただろうし声もかけたに違いないのだが、七条の舌に気を取られていて、啓太の耳には届かなかったのだ。慌てて振り向こうとした啓太を、腕に力を入れた七条が自分の胸に押さえつけた。 「おや。そうでしたかね」 「そうですっ」 「でも、ただ抱いているだけだと、遠藤くんがここに来るまで間が持てませんよ。それに僕がつまらない」 「だぁから。誰も『抱いていろ』とは言ってないんです」 「じゃあ手を離しましょうか」 「……。いえ。ついでですから、そのまま抱いておいてください」 「はい。喜んで」 黙ってじゃれあいを眺めていた西園寺が、馬鹿にしたような笑みを片頬にのせた。 「見世物としてはおもしろいかもしれないが、ここではやめてもらいたいものだな」 「すみませんね。この間から啓太が逃げてばっかりなので」 啓太の背中からジャケットを脱がせながら、和希が説明した。 「こいつ、もうすぐ誕生日なんですよ。で、サマーセーターを編んでやるっていってるのに、逃げ回ってばっかりで、ちっとも採寸させてくれないんです」 「サマーセーターなんて男が着たって不細工なだけだって」 「おまえの着るセーターだぞ。俺がそんな似合わないもの作ると思うか?」 「だったらサイズはクリスマスのと一緒でいいって、何度も言ってるだろっ」 「馬鹿。おまえ成長期に入ってんだぞ。半年も前のサイズ使えるもんか。……ほら、右手伸ばして」 メジャーとメモを出した和希が、啓太のサイズを測り始めた。 「そういえば伊藤くんは背が伸びましたよね。胸囲も大きくなっているみたいだし」 「えっ。そうですか?」 「そうですよ。キスがしやすくなったし、こうして抱くと、前より腕が余らなくなりました」 「……七条さん……」 ホントですよ。そういって七条はふふっと笑った。 「そんなことより。誕生日は5月5日でしたよね」 「あ、はい」 「僕からも何かプレゼントをしますよ。何がいいか、考えておいてくださいね」 「あのう。俺の誕生日のプレゼントのことなんですけど」 週末。七条の部屋で啓太はそう切り出した。ベッドの上で長々と身体を伸ばし、両手で頬を支えた啓太は、どこか悪戯っぽい表情で七条の顔をのぞきこんだ。 「ホントに何でもいいんですか?」 「はい。でも僕にあげられるものにしてくださいね」 「じゃあ今度、七条さんの横浜のマンションに行かせてください」 「横浜に? それはもちろんかまいませんけど……?」 「俺の欲しいもの、そこにあるんです」 「あんなところに伊藤くんの欲しがるようなものがありましたか」 「ええ」 「何でしょう? 母の冷蔵庫はお気に召したみたいでしたが……」 思い出すように言う七条に、啓太は大慌てで両手を振った。 「そんなもの、もらえませんよっ。だってあれはお母さんがわざわざ注文して買った、っていってたじゃありませんか」 「うーん。……そうだ。ふたりでエッチをしたソファ、とか」 「違いますっ。もう、七条さんてば何を言い出すんですか」 「だってあれは僕が始めて伊藤くんのことを『啓太くん』って呼んだ思い出のソファですから。欲しいって言われたら、ちょっとうれしかったんですが」 「もう !! それでも違うんですっ!!」 「じゃあ何でしょう。僕には想像がつかないですね」 とまどう七条に啓太は笑ってごまかした。いつも自分のことを見透かしているような七条が、真剣に首をひねって考えているのが、なんだかとても楽しかったのだ。やがて考えるのをやめた七条は、啓太の肩をつかむと仰向けにひきたおした。 「うわっ」 「意地悪な人にはこうです」 首をすくめるまもなく七条は、啓太のあごの下のくぼみにくちびるを押しあてていた。手はパジャマのすそから入りこみ、啓太の弱いところばかりを選んで責めつづける。それでも啓太は「ナイショです」といって譲らなかった。 「啓太くん……」 寝入りかけた啓太を揺すりながら、七条がほとんど懇願するようにいった。 「何が欲しいのか言ってくれないと、啓太くんの誕生日までにその『欲しいもの』を取って来れないじゃありませんか」 「いい……、んです……」 「どうして?」 「ここだと、意味が、な……」 七条の胸に頭をもたせかけるようにして、啓太は今度こそ眠ってしまった。残された七条は諦めたように大きなため息をつくと、自分も眠るためにかけ布団を引き上げた。 GWは長いようで短い。練習のある体育会系の部員ならともかく、寮でボーっとしている分には充分長いのだが、かといって家に帰ってのんびりするには少々短い。だから帰っていくのは、ホームシックにかかりかけた新入生がほとんどである。その中途半端な期間を、気の合った友人と旅行するのが、BL学園風であるといえるかもしれない。 5月4日。早めの昼食を寮でとった啓太と七条も、外泊届けを出して横浜に向かった。 「伊藤くん。たった一泊ですよ? なんだかすごい荷物のようですが……」 重そうなスポーツバッグを肩にかけた啓太を、呆れるように七条が見た。 「いいんです。たぶん帰りには減っちゃってると思いますし」 「そうなんですか?」 「はい。七条さんが俺にプレゼントをくれたら」 「気になりますね。じゃあ買い物なんかは後回しにして、先にマンションに行くことにしましょう」 耳元で囁きかける七条に、啓太が顔を赤くした。 新横浜から在来線に乗り換えたふたりは、さらにもう一度乗り換えて七条のマンションに着いた。まず窓を開けて回り、空気を入れ替えてから、七条は啓太を招きいれた。 「すみません。昨日から来ておけばよかったんですが、伊藤くんと一緒に来る誘惑に勝てなくて」 「俺だって……。ひとりで来るより、七条さんと一緒の方がいいです」 「よかった」 そういって七条は啓太とくちびるを触れあわせた。 「10時間くらい早いですけど……。誕生日おめでとう。伊藤くん」 「有難うございます」 「さあそれでは。伊藤くんの欲しいものはなんですか」 「えと。こっちだったかな」 啓太は七条の手をひいて、彼の部屋に入った。壁の片面は作りつけの収納庫。あとはベッドとパソコンののったデスクがあるだけの部屋である。その収納庫の前で啓太は足を止めた。 「この中に引き出しがあったと思うんですけど……」 「ええ。ありますよ」 七条が収納庫の扉を開けた。左側はコート類をかけられるようになっているが、右側は下が5段の引き出しで、上は物入れになっていた。そこには申し訳程度に英語の雑誌やCDが入っていた。 「その一番下の引き出しを、俺にください」 「伊藤くん……?」 「七条さんはここで、ふたりしか知らない場所で、思い出を作りましょう、って言ってくれましたよね。だから俺、ここに俺の着替えとか、そういうの置いておきたくて……」 「……」 「ここは七条さんのお母さんのマンションで、すごい厚かましいかなって思ったんですけど。でも俺が七条さんの家になって、ここを思い出の場所にするのなら、俺の場所も欲しいかなって思ったんです。それで引き出しをひとつもらって、俺のものを置いておけたら、なんとなく俺の場所もできるみたいな気がしたんです。だってそうすればもう、俺はお客さんじゃなくなるでしょう?」 そして啓太は黙ってしまった七条に気がつくと、不安そうに「駄目ですか」と訊いた。首を振った七条はふっと表情を緩めると、啓太を強く抱きしめた。 「伊藤くん。前にも言ったでしょう? 君はどこまで僕をつけ上がらせるつもりなのか、って。本当に君ときたら……」 「じゃあいいんですね。俺がその引き出し、もらっても」 「もちろんですとも。こんなうれしいプレゼントは、もう一生、誰にもあげられないと思いますよ」 そういうと七条は引き出しの中のものを出し始めた。それらは下着類で、たいした量がなかったので、すぐ上の引き出しの中に充分収まった。七条は空になった引き出しをベランダで逆さにしてはたき、絞ったタオルで中を拭いてから日のあたる場所に置いた。 「中がきれいに乾くまで、少し日に当てておきましょうね」 「はい」 「乾くまで何をしていましょうか」 「何を、って……」 口ごもってしまった啓太に、七条がくすっと笑いかけた。 「まず伊藤くんのバースディケーキを買いに行きましょう。ショートケーキじゃなくて、ちゃんと丸のままのをね。それから夕食はちょっと豪華なものにしましょう」 「はいっ」 「まあ……、せいぜいデパ地下のお惣菜売り場の品物になるでしょうけど」 「俺はいいです」 啓太は七条の顔を見つめたまま、彼の手を探した。気づいた七条がそっと握り返してくる。 「七条さんが俺のために用意してくれるんだったら、コンビニのおにぎりでも宅配のピザでも、俺にはごちそうですから」 そういって啓太は背伸びをすると七条のくちびるにキスをした。 「最高の誕生日を……、有難うございます」 「16歳最後のキスと17歳最初のキスは、僕にさせてくださいね」 「俺も……七条さんじゃないと嫌です……」 窓からさしこむ初夏の光が、フローリングされた床にふたり分の影を作っていた。影はひとつになり、やがて背景に溶けこんだ。啓太の16歳最後の日は、平和な光の中、終わりを告げようとしていた。 |
いずみんから一言。 今回、思いっきりCDドラマしてます〃 聴いてない方はごめんなさい、ということで。 ともあれ、啓太くんのバースデイディナーは宅配のピザになりそうです(苦笑)。 |
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