終わりよければ


                          


 それは今年の最後の授業が終わった日のことだった。俺と和希は放課後の開放感の中、のんびりと寮に向かって歩いていた。世俗から離れた(?)こんな島の中にいると、師走の気忙しさとはどこか無縁になってしまうようだ。一歩学園島から外に出るとクリスマス・メドレーの洪水で、嫌でも何かに追い立てられるみたいな気分になってしまうのだろうけど。
「何か今日はあったかくていいよな」
 ふたりとも、朝着て出たコートを、今は手に持っていた。和希のことばどおり、今日は制服のジャケットだけで充分なくらい暖かい。部屋に戻ったら窓を全開にして、大掃除をしてみようと思った。
「部屋に戻ったらガラス磨こうかな」
「何だあ、それ」
「あったかいからさ。今日だと窓の外磨いてても寒くないし」
「まあ、確かにそうだけど」
「俺ってあまり掃除とか好きじゃないんだけど、思いついたら突然、狂ったみたいに掃除をし始めちゃうんだ」
「あはは……ん!?」
 機嫌よく笑っていた和希が、不意に笑うのをやめて足を止めた。さらに俺の腕を掴んで引き止める。驚いて振り返ると、和希がじっと向こうを見つめていた。俺もその視線の後を追うと、そこには……。顔一杯に満面の笑みを浮かべ、黒い翼をはためかせながら歩いている七条さんがいた。先の尖った尻尾が、いかにも楽しげに揺れていた。
「……見たか、今の」
「うん。なんか信じられないくらいご機嫌だった」
「手紙みたいなのもってたけど、あれが原因かな」
 俺たちふたりは顔を見合わせ、そして今見たもののあまりの恐ろしさに、「見なかったことにしよう」ということで意見の一致を見たのだった。

 ところが部屋に戻ってから、五分もしないうちに携帯電話が鳴った。七条さんからだった。七条さんには珍しく、先刻見かけたとおりのご機嫌な口調だった。俺は恐る恐る聞いてみることにした。
「ご機嫌ですね」
「ちょっと楽しいことがありましたから」
「何があったんですか?」
「ナイショです」
 俺は思わず携帯電話を遠ざけると、七条さんにはわからないように小さくため息をついた。
「ところで明日は終業式ですが、伊藤くんはいつ家に帰りますか?」
「あ。えーっと。一応、クリスマスパーティが終わったら、って考えてるんですけど。みんなもだいたいそうだ、っていってたし」
「僕と郁はいつも一日遅らせて、26日に帰ることにしてるんですよ。25日だと寮内がざわついたりして、郁が嫌がるので」
「あ。なんか西園寺さんらしい気が……」
「それで、もし伊藤くんの都合さえよければ一緒にどうですか。といっても途中の乗換駅までですけど。車の手配はしているので、少なくともバスに揺られなくても駅まではいけますよ」
 別に予定なんてあるわけでもなかった。俺は即刻、便乗させてもらうことに決めた。七条さんはこっちがとまどうくらいに喜んでくれた。
「しばらく伊藤くんに会えなくなってしまいますからね。一日でも長く一緒にいられるのは、とてもうれしいことです」
「あ、あはははは……」
「では25日の夜に伊藤くんの部屋にお邪魔しますよ。そのとき、さっきのナイショの話を教えてあげます」
 さらっといわれて聞き流してしまったけど、最後になんか意味深なことをいわれた気がする。俺はちょっとの間だけそのことについて考え、そして今度はそのことを忘れるために、せっせと窓ガラスを磨いたのだった。

 クリスマス・イヴはみんなで馬鹿みたいに騒いだ。終業式が終わっても誰も帰省しないのが納得できた。それくらい理事長主催のパーティは楽しかった。……まあ、オーナメントがくまのぬいぐるみだけっていうクリスマスツリーはご愛嬌だったけど。
 明け方まで騒ぎまくった翌日。みんな寝不足のぼーっとした顔で帰省していった。
 俺の部屋の前はちょうど談話コーナーみたいになっているので、部屋にいてもほかの連中の動きがよくわかった。みんな気の合った友人たちとそこで寄り合い、バスの時間がくると帰っていく。そしてまた次のバスの時間が近づいてくると、何人かが集まってくるのだ。それを何度も繰り返し、いつのまにか誰も集まってこないことに気づいた頃、外はすっかり夕闇に包まれていた。
 BL学園っていうところはもともと生徒数が少ないから、こんなふうにみんなが帰り始めると、一気にがらんとしてしまった。和希は仕事で一昨日からニューヨークだし、成瀬さんは学園を出たその足で空港にいった。今頃はロンドンに向かう機中だろう。王様と中嶋さんは昼過ぎに見送った。篠宮さんはどこかにいるはずだけど、弓道場にでもいるのか見当たらない。七条さんは西園寺さんと昼過ぎから出かけたままだ。チャリティコンサートとか言ってたから、帰るのは遅くなるだろう。俺はすっかり寂しくなってしまった食堂で、独りそそくさと夕食を取り、これまたそそくさと風呂に入ると、明日帰る準備を始めた。
 
 時計の針が11時を指す少し前。やわらかいノックの音とともに七条さんがやってきた。先日見かけたときほどでもなかったが、それでもいつもより上機嫌なことが見て取れた。
「こんばんは。もう帰省の準備はすみましたか」
「ええ。まあ何とか。でも初めてで何持って帰ったらいいのかよくわからなくて……」
「別に何を忘れても、たいしたことにはなりませんよ」
「そうですね」
 俺と七条さんはベッドの上に並んで腰をかけた。こうしていると足が長い七条さんと俺の座高はたいして違わないことがよくわかる。息がかかるほど、すぐ真横にある大好きな人の顔。俺たちはどちらからともなくくちびるを合わせた。これでもう二週間は会えない。そんな思いが俺の胸を熱くしていた。
 いつもならこのあたりでベッドに倒れこむことになるのだが、今日は違っていた。七条さんの方から身体を離したのだ。はぐらかされた気分になった俺は、お預けをくったワン公みたいな目で七条さんを見てしまった。七条さんは怒りもせず、というかむしろ楽しそうに、ポケットから白い封筒を出してきた。
「前にいっていたでしょう。これが伊藤くんに教えてあげるナイショの話です」
 七条さんに促され、何気なく中を見た俺は、目が飛び出るんじゃないかってくらいに驚いた。だって俺の手にしていたのは――。



                  HIV検査結果報告書
 
                                       ナカジマヒデアキ 殿

                  成績 H−1    陰性
                      H−2    陰性

               (検査方法:PA法、Western blot法)  

 平成**年12月17日

 ABC病院 院長 西桐洋介 印



 報告書だけでも驚いたけど、そんなのは問題じゃなかった。問題なのは、問題なのは、そこにある名前だ――。
 ナカジマヒデアキ殿……?
「って、何なんですかぁーっ、これ!!」
「見てのとおり。HIV(ハイファイブ) の検査結果です」
「そんなことは俺にだってわかりますよ。だけどこれ、中嶋さんのじゃないですか!? どこでいったいこんなものを――」
 俺は見てはいけないものを見てしまった驚きで、大慌てでその報告書を封筒に戻すと、七条さんの手に押しつけた。七条さんはなんともいえない笑みを浮かべながら、それを受け取った。
「あの副会長氏がHIVの検査を受けるなんて。そんな殊勝な人間ですか。あの人なら怪しいと思えば思うほど無防備にやりまくって、被害者を増やしていくでしょうよ」
「えっ!? じゃあそれは……?」
「僕が受けたものです」
「だって名前が」
「HIV検査に名前は必要ないんです。保健所や公的機関で受診したら受付番号制ですしね。番号制じゃないところでは『海野トノサマ』でも『学園ヘヴン』でも、なんでもかまわないんですよ」
「それってもしかして、番号制じゃないところは少数派、ってことですか」
「そうなりますね。いつのまにか番号制が大半になってしまっていたので、そうじゃないところを探すのに苦労したんです。やっと見つかったところも遠くって、行って帰ってくるだけで、ほとんど一日つぶれてしまいましたよ。しかも結果をもらいにいかなくちゃならないから、二日つぶしたことになりますね」
「どうしてそんな手間をかけたうえに、わざわざ遠くの病院にまで行って、中嶋さんの名前を書いたりしたんですか!!」
「もちろん嫌がらせです」
 七条さんがにっこりと ―― それも心の底から ―― 笑った。いつのまにか広がっていた黒い翼が、うるさいくらいにはためいた。

「ということで、あらためてこの検査結果を受け取ってもらえますか?」
 七条さんが先刻の封筒を俺の手に握らせた。
「でもどうしてこんな検査を……」
「そうですね。恋人への義務、でしょうか」
「だって七条さん、いつもつけてるじゃないですか。だったら何もこんな……」
「ちゃんとつけるのは恋人への最低限のマナーです。でもなしでも大丈夫なのにつけるのと、つけてなきゃいけないからつけるのとでは、伊藤くんの方の受け止め方が違ってくるでしょう?」
 そんなこと今まで考えてみたこともなかった……。七条さんはいつもの笑顔だったけど、目がとっても真剣だった。俺が単純に恋愛の気分を楽しんでいる間、この人は恋人である俺に対して、こんなに真摯に考えてくれていたのだった。七条さんのことを、胡散臭くて何を考えてるのか解らない人だって思っていた俺は、ちょっと、いや、かなりうしろめたい気分になった。
「えっと俺、そんなこと考えてもなかったから……」
「でも今では安心でしょう?」
「よくわかりません。でもそういわれたらそうなのかな、って思いました」
 俺は七条さんに身体を預けると、キスをねだった。七条さんはとても優しいキスをしてくれた。
「有難うございます。俺、正直いって病気のこととか、まだちょっとピンと来ないんですけど、でも七条さんが俺のことをどんなに大切に思ってくれているか、どんなに真面目に真剣に考えてくれているか、それだけはすごくよくわかりました」
「ああ。うれしいですね。伊藤くんがちゃんと理解してくれて」
「うれしいのは俺の方です。えっと、あの、その……、七条さんに愛されて、よかったな、って……」
 言ってしまってから、自分がどんなに恥ずかしいことを口にしたのか気がついた。微笑みながらのぞきこんできた七条さんの瞳に、耳まで赤くなった俺が映っていた。七条さんの大きな手が俺の両肩を掴むと、ゆっくりと俺をベッドに押し倒した。
「二週間。僕のことを忘れては駄目ですよ」
「じゃあ……。忘れないようにしてください」
「ええ。お望みのままに」
 七条さんの長い指が俺のボタンを外していく。俺も七条さんのボタンを外す。ちょっと緊張するふたりの共同作業も、もう何度目になっただろう。去年の今頃は受験の直前で、こんな未来が待っているなんて思いもしなかった。
「どうかしましたか?」
 俺は小さく笑うと首を振った。
「今年一年、いろんなことがあったなあって、そう思っただけです」
「そうですね。伊藤くんは……、本当に大変な一年になってしまいましたね」
「でも七条さんに会えたおかげで、こうして無事、学園に残れました。有難うございました」
「僕は伊藤くんの役に立てましたか?」
「はいっ」
「じゃあ今日は最高の夜にしましょう。大変だった伊藤くんの一年の締めくくりですから」
「終わりよければすべてよし。ですね?」
「ああ! 僕の責任は重大だ」
 俺たちはくすくす笑いながら身体を重ねた。そしてこの夜はいつまでも忘れられないくらい、本当に最高の夜になったのだった。





いずみんから一言。

なんか書きかけですっかり忘れてたのを見つけてきました(汗)。
遅くなりついでに年末にUPすることにしました。
HIVをハイ・ファイブと読むのは某病院ドラマでやってました。
医者の方はわからなくて聞き返していたので、たぶん若者(?)が使う隠語なのでしょう。
では来年もよろしくお願いします。

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