中嶋さんは意地悪です!




 中嶋はジャズが好きだ。
 主に聴く側であるが、機会があれば演奏もする。得物はピアノとサックスで、時と場合によって使い分けているらしい。どちらも玄人裸足とは言わないものの、素人の域は軽く超えている。
「何でもできすぎて可愛げがない」とは和希の言であるが、あながちやっかみとも言い切れないあたり、確かに嫌味ではある(苦笑)。
 中嶋にとって楽器の演奏、特にサックスを吹くのは、趣味というよりいいストレスの解消になるようだ。腹の底からサックスに音を吹きこんでいると、気がつけば頭の中が真っ白になり、驚くほどの汗とともに何もかもが流れ出ていくのが感じられる。
 傍若無人に生きているように見えても、そして手の届くところに啓太がいたとしても、中嶋だってやはり人間。ストレスがたまることだってあるのだ。

 ところで。ここ最近、中嶋はとても疲れていた。理由は簡単。司法修習生としての今度の研修先が、馬鹿で無能のくせにプライドだけは異常に高い輩の集団だったから、である。媚びへつらわなくては機嫌が悪く、媚びているように見せて適当にあしらっていると、それまた敏感に察して機嫌が悪い。何故こんな連中が三大難関試験といわれる司法試験に通ったのか不可解極まりないが、勉強しかできない馬鹿なら成績だけはよかったのだろう。実務の修習以上のエネルギーを人間関係に吸い取られ、内心で嘆息しつつ日々を過ごしていれば、中嶋でなくても疲れるというものだ。
 馬鹿野郎と怒鳴って殴り倒せればどんなにすっきりするだろう。これまでに行った研修先ではこんなつまらないことにエネルギーをそぎとられるなど、考えさえもしなかった。ここに比べれば前任地の茨城など、天国のロイヤルスイートで過ごしていたようなものだ。茨城はよかったと、中嶋には似つかわしくないことを考えている自分に気づいてしまったある日。ついに自分が疲れていると認識するに至った中嶋は、土日を利用して自宅マンションに戻ったのだった。啓太が喜んだのは言うまでもない。
「……何か急ぎの用事だったんですか?」
 まったりとした甘い空気に半分まどろみながら啓太が口を開いた。毎週のように中嶋のもとを訪れ、同じように肌を合わせていても、やはり自宅のベッドは違うのだろう。最近では珍しいくらいにあげつづけた声は、今はすっかり嗄れてしまっている。
「……いや」
「そう? でも、ほら」
 腹のあたりに抱きついていた啓太の指が、ゆっくりと伸ばされて中嶋の眉間をたどる。
「こんなにシワが寄っちゃってるから。何か難しい問題でも起きたのかな、って」
「……少し、向こうに持っていきたいものがあっただけだ」
「そうなんだ……」
 よかった……。と安心したようにつぶやいて、啓太は眠りに落ちたようだ。中途半端に伸ばされたままになった手をとって、そっと布団の中に入れてやる。啓太にもわかるほど疲れていたのかと自分に呆れながら、中嶋もまた目を閉じた。久しぶりに気持ちよく眠れそうな気がした。

 翌日。中嶋は啓太を連れてスタジオへ出かけた。高校時代から使っているそこは、啓太にとってもすでにおなじみの場所であった。最初のうちは退屈だろうと連れてこなかったのだが、啓太が喜ぶのを知って以来、こうして連れてきていた。行きつけの本屋やときどきコーヒーを飲む喫茶店など。店の規模や種類に関係なく、中嶋のプライベートにかかわれることを、啓太はとても喜ぶのだ。中嶋が自分の世界の中に入れてくれたと思っているからなのだろう。啓太にとってそれは、自分のことを多く語ろうとしない中嶋の内側に触れられる、数少ない貴重な機会なのだった。
 だからなのか、そういう場にいるときの啓太はとても控え目である。そこは自分の場所ではないとわきまえ、うまく背景に溶けこんでしまっている。中嶋が気づいて意識を向けるまで、きれいに気配を消してしまうのだ。一緒にいながら邪魔にならず、好きなことを好きなようにさせてもらえるのは、それまでの基本が単独行動だった中嶋にとって無理がなく、とても心地よかった。そうと分かれば連れ歩く機会も自然と増える。啓太は自分の力で、中嶋の傍という居場所を掴み取ったのだった。

 今日も啓太は何をするでもなく、部屋の隅の椅子で膝を抱えて、サックスを吹く中嶋を、ただ楽しそうに見ているだけだ。退屈そうな素振りさえ見せないのはいつものことだが、今日はピアノがある部屋だったので「好きに弾いていい」と言ったのにそれもしようとしなかった。邪魔になると思っているのかもしれないが、中嶋も気ままにサックスを吹き散らしているだけだ。適当にピアノの音が合った方が、セッションしているみたいでおもしろいのだが。
「えーっ? 駄目ですよ、そんなの。だって俺、どこがドでどれがレなんだか、それさえ分かってませんもん」
 再度促してみると、啓太は慌てたように顔の前で手を振った。
「ピアノなんて習ったことないし、音符だって読めません!」
「ピアノはサックスとは違う。鍵盤に触れば犬や猫だって音を出せる」
 ほら。と言って中嶋は、ふたを開けて鍵盤に触れた。少し重い低音が響き、余韻を弾いて消えていった。たしかにピアノは『音を出す』だけなら簡単な楽器だ。だがそれを簡単といえるのは、多少なりとも経験のある人間だけだ。たとえそれが幼少期のほんの数年、お稽古に通った程度であったとしても。
 そのあたりのためらいが理解できず、尚も動こうとしない啓太に中嶋は少々キレた。……ただし、変な方向に。中嶋はなんと、自分がピアノの前に座ったのだ。こんなふうになってしまうあたり、やはり相当疲れていたものと思われた。
「コンクールに出るわけじゃないんだ。ドやレなんて必要ない。ピアノなんて、聴こえたとおりに鍵盤おさえてやればいいだけだ」
 中嶋は指の感触を思い出すかのようにいくつか音を出していたかと思うと、いきなり何かの曲を弾きはじめた。啓太が毎週見ているドラマの主題歌だった。歌唱力に定評のある女性歌手の曲で、ヒットチャートは駆け上がっているものの、そんなものを中嶋が聴いているはずもない。啓太はただでさえ大きな眼を、さらにまん丸に見開いた。
「……すごい」
「そうか?」
「すごいですよ、中嶋さん。いつの間に練習したんですか?」
「毎週毎週、飽きもせずにテレビを見ていただろう。あれだけ聞いてれば誰だって覚える」
 覚えるのと弾けるのはまったく別物であるはずだが中嶋には同義語であるらしく、それからも何曲か、啓太の好きな曲を弾いた。啓太があまりに喜んだので、つい調子に乗ってしまったのだ。喜ぶ顔と尊敬のまなざし。そのふたつを同時に向けられて中嶋はすっかりいい気分になっていた。体中にしみこんでいた疲れも洗い流されたように消えているのがわかる。啓太の力ですっかり癒された自分を感じた中嶋は、啓太のくれる心からの拍手の中でその手を止めた。
「ホントに、ホンっトにすごかったです。もしかして絶対音感ってやつなんですか?」
「ああ。そんなようなものだな」
「すごーい!」
『絶対音感』という言葉は知っていてもそれはあくまで知識である。『国連の事務局長』や『ヤンバルクイナ』みたいなもので、存在は知っていても実物など見たこともない。ところがそれが、手の届くところに存在していたのだ。驚きと憧れで啓太の目がきらきら光っても不思議ではない。
「それっていろんな音が全部ドレミで聴こえるって聞きましたけど」
 ドレミというわけではないがと思いつつ、中嶋がちょっとした悪戯心をもってしまったのは、まだ少し変な方にキレてしまっていたからだろうか。もう一度ピアノの方に向き直った中嶋は、ふたつの音を短く弾いた。
「わかるか?」
「ほえ?」
 分かるかと言われてはいと言えるはずもない。曲のイントロでさえないそれは、ただのふたつの音に過ぎないのだ。眼を白黒させる啓太に、中嶋はくちびるの端を吊り上げた。
「昨夜、何度もおねだりしたろう。『もっと』とな」
「……………………!」
 もう一度音を出すまでもなく、それは確かに「もっと」であった。啓太の顔が、耳まで一気に赤くなった。面白くなってきた中嶋が、今度は音をみっつに増やす。とたんに啓太が、逃げ出したそうに目を泳がせた。答えがちゃんと分かったのだろう。それくらい聞かなくても分かるが、あえて質問をぶつけてやった。啓太は本当にからかい甲斐があるのだ。
「どうした? これは何と言ったんだ。うん?」
「……中嶋さんは意地悪です……っ!」
 手をグーにした啓太が赤い顔をさらに赤くしながら、振り絞るような声を出した。中嶋は機嫌よく笑いながら、『中嶋さんは意地悪です』とピアノで弾いた。



いずみんから一言

ちょっと壊れてしまってる(苦笑)中嶋氏です。
もともとは「CITRON」さまに婿入りした「真夜中の幽霊」のバックグラウンドの
話だったのですが、うちの和希さんが王様と恋人同士にならないためにそのまま
使うには無理があり、少々焼きなおしてみました。

さて。啓太くんはみっつの音で何と言ったんでしょうね?
正解はありませんので、皆様のご想像にお任せします(笑)。



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