雨の日の訪問者


 今年の梅雨はどうも陰性らしい。決して強く降ったりはしないのだが、しとしとしとしと、ただ何日も降りつづけている。強くないとは言っても傘が必要なくらいには降っているし、たまにやんだとしても丸一日晴れたということもない。うれしそうにしているのは青々とした葉を茂らせている植物くらいなもので、人間をはじめとする動物たちは、じめじめした空気にいいかげんうんざりとしていた。
「はあ……、やまないなあ」
 マンションへ向かうバスの中で、啓太は雨に洗われる窓を見ながらつぶやいた。今週は中嶋の都合が悪く、帰ってくる予定ではなかったのだが、昨日の夜にかかってきた電話で呼び戻されたのだった。
 会えないはずが急に帰って来られることになったのだから、本当はもっと喜んでいいはずである。それなのに啓太の心は、今日の空のように鉛色に沈んでいた。
「帰って来いって言うくせに迎えにも来てくれないし……」
 啓太には珍しく、少々重いため息がくちびるをついて出た。中嶋が迎えに来てくれなかったことは、今までにもあるにはあった。「迎えに行けなくなった」と言われて、啓太の方から帰ってきたことがあったし、ゴールデンウイークにはこの少し先の駅で待ち合わせた。だから啓太の表情にらしくない憂いが浮かんでいるのは、何も中嶋が迎えに来てくれなかった所為ではなかった。
 啓太は中嶋の口調に含まれた、微妙な色の違いを感じ取ってしまっていたのだ。それは中嶋の心に寄添いはじめた啓太だからこそ感じられるわずかな違いではあったが、中嶋は明らかにいつもとは違っていた。
「どうしたのかな……。何の用事なんだろう。なんか様子がおかしかったし」
 啓太の目の前で、雨は窓にぶつかっては下へ流れ落ちていく。周囲の水滴とつながって次第に大きくなりながら。それが自分の内でふくらむ不安のように思えて、啓太は曇ってしまったガラスを拭くと、外の風景に眼をやった。バスは森林公園の隣を走っているようだ。啓太が下りるバス停は、もうすぐそこであった。

「うわ……っ。強くなってきた」
 バス停を下りた啓太は、強くなった雨に追い立てられるように、マンションのポーチに駆けこんだ。軽くしずくをふるった傘をたたみ、リュックの中の鍵を探っていると、雨を避けてポーチの隅にたたずむ女性と目が合った。歳の頃は二十歳を少し超えたくらい。すらっとしたプロポーションを上品なスーツに包んだなかなかの美人である。思わず見惚れてしまった啓太にその女性は、やわらかい微笑をそのまま音にしたような声で、「もしかして……。伊藤、啓太……くん?」と聞いてきた。
「えっ!? はっ、はい……。そうですけど、あの……」
「そう。貴方が啓太くんなのね。すぐにわかったわ。英明さんから聞いていたとおりの子ね」
 突然、名前を呼ばれて驚くのも驚いたが、中嶋のことを「英明さん」と呼んだのにも驚いた。そして最後に、中嶋が自分のことを話していたというのに驚いた。
「あっ、あの……。中嶋さんのお客様ですか? だったら一緒に……」
「有難う。でも今ちょっと車を置きに行ってるのよ。戻ってきたら彼と一緒にお邪魔するから、先に上がってそう言っておいてくれる?」
「はい……。わかりました。じゃああとで……」
 軽く頭を下げて鍵を開けた啓太は、首をひねりながらマンションに入った。
 あの人は誰なんだろう。わきあがる疑問のすべてはその一点に集約されていた。中嶋が啓太のことを話すくらいに親しく、中嶋のことを「英明さん」と呼ぶくらいに親しい女の人。予定がなかったのに帰って来いと電話があったのは、あの人と何か関係があるのだろうか ―― ?
 ともすれば、先刻バスの中で感じた不安がふくれあがってきそうになって、啓太は足を止めると大きく息をついた。廊下の端にある玄関までが、やたら遠く感じられた。

 とりあえずカラ元気をかき集めて家の中に入ったもののリビングに中嶋の姿は見えなかった。どんな顔をして中嶋に会えばいいのかと考えていた啓太は、拍子抜けする想いで手前にあるベッドルームのドアを開けた。書斎にいるのかと思ったのだが、そこから覗いた限りではどうもそうでもないようだ。「おっかしいなぁ」とつぶやきながら荷物を置きに、自分の部屋に向かってだだっ広いリビングを横切っていると、キッチンからコーヒーの香りがしているのに気がついた。リュックをその場に落とした啓太の足が自然と小走りになっていた。つまらないわだかまりより、やはり中嶋に会いたい気持ちの方がはるかに大きかったのだ。キッチンでは流し台に寄りかかった中嶋が煙草をふかしながら、テーブルの上のコーヒーメーカーを不機嫌そうに眺めていた。
「中嶋さん!」
「ああ。帰ったか」
 中嶋は啓太が帰ってきたのにも気づいていなかったようだ。こんなことは本当に珍しい。中嶋は不機嫌な表情はそのまま、目元だけをやわらげて啓太を迎えた。
「……ただいま」
「悪かったな。迎えに行ってやれなくて」
 不機嫌ではあっても、ここにいるのはいつもの中嶋だった。そしてその不機嫌さが自分に向けられたものでないことも、啓太は瞬時に理解していた。ということは、不機嫌なのはあの女性が原因なのかもしれなかった。
「いえ。いいんです。それより女の人が、すぐに上がっていきますって」
「そうか……」
「あの、俺……。邪魔にならないよう部屋にいますから」
 せっかくやわらいだ中嶋の眼がすっと細められるのを見て、啓太は思わず唾を飲みこんだ。中嶋の不機嫌レベルは啓太が思ったより以上だったようだ。だが中嶋は思いのほか優しい手で啓太を引き寄せると、自分の腕の中に包みこんだ。
「いや。向こうが会わせろと言うからおまえを呼んだんだ。一緒にいてくれ」
「……はい……?」
「……少し驚かせるかもしれないが、俺を信じられるな?」
「……はい」
 こんなふうに抱きしめられて、どうして他の答を返せるだろう? それに中嶋は「一緒にいてくれ」と言ってくれたのだ。啓太が何度も頷くと、中嶋は啓太の耳元で「すまない」と囁いた。

 インターフォンが鳴ったとき、啓太はコーヒーカップの準備をしているところだった。話をしながらその場でロックを外した中嶋に、啓太は「あれ?」と思わずにいられなかった。確かあの人は
「いま車を置きに行っている」と言って玄関のポーチのところに立っていた。だが啓太の両親が中嶋に挨拶に来たとき、中嶋は来客用の駐車場まで降りてきたのではなかったか。今度も中嶋がそうしていれば、あの人の同行者は強くなった雨の中を玄関まで回らずにすんだはずだし、あの人もあんなところでじっと待たなくてもよかったはずだ。少し迷ってから疑問を口にした啓太に、少しくちびるをつり上げた中嶋は「俺はそこまで親切な男じゃないんでな」と言った。
 意味を図りかねた啓太だったがそれを聞くことはできなかった。玄関のチャイムが訪問者の到着を告げたのである。
不機嫌さをパワーアップさせてキッチンを出て行った中嶋は、やがて先刻の女性ともうひとり、緊張しきった顔つきの男を伴って戻ってきた。中嶋よりはかなり年上で、30前後くらいに見えるその男は、銀行員か証券マンといった感じのスーツに身を包んでいた。コーヒーの準備を後回しにしてリビングで彼らを出迎えた啓太を、中嶋が彼らに紹介した。
「怜佳はさっき会ったそうだが……。こいつが伊藤啓太だ」
「はじめまして。伊藤啓太です」
 頭を下げようとした啓太に、客のふたりは軽く手を差し出した。お辞儀ではなく握手をしようとしているのだ。彼らはつまり啓太を対等の存在と見ているようだ。驚いた顔をしながらも啓太はその手を取った。
「啓太、こちらは武本怜佳と婚約者の長尾史朗さんだ。そして怜佳は……」
 一度ことばを切った中嶋は、続くことばを苦しそうに吐き出した。
「俺の許婚でもある」
「……………… !! 」
 何を言われたのか分らなかった。いや。分りたくなくて頭が自動的にシャットダウンしたのかもしれない。真っ白になった頭の中で、握られている手の暖かさだけがやけにリアルだった。

 訳がわからないまま啓太はソファに座らされた。客が来たらコーヒーを出してくれと中嶋に言われていたのに、気がつくと自分の前にコーヒーが置かれていて、それはすでにミルクが入った色をしていた。中嶋の足元にトレイが立てかけられているので、コーヒーは中嶋が運んできたのだと分ったが、自分の前のコーヒーに砂糖とミルクを入れたのが自分なのか中嶋なのか、今の啓太にはその判断さえつかなかった。
「ごめんなさい啓太くん。驚かせてしまったみたいね」
 怜佳にそう言われても首さえ振れずにいる啓太の肩を、隣に座った中嶋の腕が抱いた。その腕の力強さが、先刻、中嶋に言われたことばを啓太に思い出させた。
―― 少し驚かせることになるかもしれないが、俺を信じられるな? ――
 そうだ。信じなきゃ。と啓太は思った。それに中嶋は「一緒にいてくれ」と頼んでくれたのだ。いつまでも呆然としているわけにはいかなかった。
「……ごめんなさい。もう大丈夫です。続けてください」
 まだ蒼ざめてはいるがようやく顔をあげた啓太に、中嶋が小さく頷きを返した。
「……俺と怜佳は確かに許婚同士だが、さっきも言ったように怜佳は長尾さんとの結婚を望んでいる」
「……だったらどうして……」
「じいさん同士が親友でな。孫を結婚させようと、馬鹿な考えを思いついたって訳だ」
 吐き捨てるように言う中嶋に、怜佳があとを継いだ。
「だけどお互い生まれた孫は女ばかり。諦めかけたところに英明さんが生まれたの。だから英明さんは生まれながらに私の許婚ってことね。お正月とかクリスマスとかお互いの誕生日とか、ことあるごとに私たちは祖父に連れられてお互いの家を行き来していたわ。祖父たちは私と英明さんが結婚するって信じて疑わなかったみたいだけど、そんなの通用するのは小学校の低学年くらいまでよね? 中学に入ったくらいから、普通に男の子と付き合っていたわ。英明さんだってそうでしょう?」
「……ま、遊びでさえなかったがな」
 苦笑をもらす中嶋に、つられるように啓太も微笑った。それでようやく肩の力が抜けた啓太は、からからに乾いていたくちびるを湿らせるためにコーヒーを手に取った。いつもより少し甘めの砂糖の量は、やはり中嶋が入れてくれたような気がした。
「俺も怜佳もじじいの戯言など、何の拘束力もないと思っていた。あたりまえだろう? 今は21世紀だ」
「ところがね、祖父たちは違っていた」
 怜佳は本当に悔しそうな表情を見せた。きれいな人はこんなときでもきれいなんだと、啓太は自分でも場違いに思いながら見惚れていた。そしてそんな怜佳を常に気遣う長尾に、啓太は好感と親近感を抱かずにいられなかった。長尾も怜佳も、相手のことを本当に愛し合っているのが痛いくらいに伝わってくるのだ。啓太自身は自分も同じように見られていることにまるで気づいていなかったが。
「よくあるでしょう? 結婚を前提のお付き合いをしてるって、彼氏が家に来るっていうの」
「あ……、はい。ドラマとかで見ます」
「史朗さんもご挨拶に来てくれたんだけど、祖父が追い返してしまったの。……酷すぎることばでね」
「怜佳……!!」
 体の痛みならいつかは忘れることができるかもしれない。だが心の痛みは、いとも容易くそのときの痛みを思い出させてしまう。その辛さに耐えるかのように、眉をひそめた怜佳はしばらく眼を閉じた。誰も先を急がせようとしなかったし、彼女抜きで話を進めようともしなかった。誰も口を開くものはなく、無言のコミュニケーションとでも言える不思議な沈黙だけが場を満たしていた。やがて、力づけるように重ねていた長尾の手を握りかえした怜佳は、二度三度と大きく息をついてから眼を開けた。
「それで祖父たちは、私たちの結婚を早めようとしたのだけど、でもそのときは英明さんが断わってくれたの。まだ入学式が終わったばかりじゃないか、って」
 啓太は「あっ」と小さな声をもらした。そういえば英国旅行から帰ったあと、三週間近く会えなかったのだ。入学直後で何かと忙しいと言われ、そんなものかと納得もしていたのだが、まさか自分の知らない間にそんな大きな問題が持ち上がっていたなんて思いもしなかった。ゴールデンウィークもそのあとも、中嶋はいつものように啓太に接してくれていたのだ。
「大学を卒業するまで結婚はしないと言った。それに俺は、啓太が大学に入れば留学する。帰国するまでには状況も変わるだろう」
「駄目! そんなに待てないの !! 」
 それまでは抑制のきいた話しかたをしていた怜佳が、突然、大声をあげた。興奮している所為か頬には赤味がさしていたが、膝の上で握り締めた手は紙のように白くなっていた。
「それだと何年かかるの? 5年? 6年? 私はいくつになってるの!? 」
「怜佳?」
 突然の激昂に啓太は驚いてしまった。中嶋でさえ思わず声を出してしまったくらいなのだから、それがどれほど意外なことだったのかが分る。そして中嶋に許婚がいると知ったときの自分より、当事者である怜佳の方が何倍も傷ついていることを、啓太はようやく悟ったのだった。自分だけが被害者ではないのだ。
「……怜佳。落ち着こう。な? 君は立派な大人なんだから、啓太くんを驚かせちゃいけない」
 諭すように言い聞かせる長尾のことばに怜佳の目尻から涙があふれ出た。それはまるで先刻のバスの中で見た雨粒のように、ゆっくりと下へ流れ落ちていった。

「啓太くんは確か高校2年になったんだったよね」
 一時的に話し合いを中断した4人は、冷めてしまったコーヒーを飲みながら雑談をしていた。とはいっても怜佳はまだ雑談できるような状態ではないし、中嶋は中嶋で端から雑談などするつもりもない。だからもっぱら長尾に話しかけられた啓太がそれに答えるというパターンでのみ会話が成立していた。
「はい。そうです」
「受験勉強はどう? 進んでる?」
「中嶋さんに鍛えてもらってるんですけど、なかなか……」
「そうなの? でも中嶋くんがみてるんだったら大丈夫だよ。彼は勝算のない闘いには手を出さない男だからね」
 それでもカップが空になる頃にはすっかり場が和んでいた。それは啓太の性格に負うところが大きかっただろう。突然こんな状況に置かれたのにもかかわらず、啓太はまるで春の陽だまりのようにそこにいた。ただ座っているだけなのに、その場にいる人間の心を解かしていってくれるのだ。それは啓太の芯の強さによるものだっただろう。決して折れることのないしなやかさを持つ啓太の芯は、中嶋という世間一般からは祝福してもらえない男との人生を踏み出したことによって、退学勧告を受けた頃よりもさらに強くなっていた。口には出さなかったが、怜佳も長尾も中嶋ほどの男が何故こんなごくごく普通に見える男の子を傍におこうとしているのか、理解しはじめていた。

 怜佳のきれいな指がコーヒーカップをソーサーに戻した。それを合図に中嶋が、冷たいとさえ言える眼を怜佳に向けた。
「それで? 今日はいったい何だ? 啓太まで呼びつけたんだ。半端な話ではあるまい」
 今まで中嶋や怜佳の口から語られてきたのは、啓太に対して経過の説明をしていただけに過ぎない。今日まで啓太に何も知らせずに来たのだから、いつも通りの話し合いであれば啓太が加わることもなかったはずだ。現に啓太は今日、「中嶋の都合が悪かった」から帰ってくる予定ではなかったのだ。
「今日はお願いがあって来たの。私たちの将来にかかわる、とても大事なことよ。だから、もし貴方がこれからも啓太くんと生きていくつもりなら、もう彼を抜きにして話すわけにいかない。だから呼んでもらったの」
「……俺…………?」
「そう。知らないでいると、知ったときが怖いわ。そうでしょう?」
 思わず顔を強張らせて啓太が頷いた。怜佳が何を話すつもりか分らなかったが、中嶋から許婚だと聞かされたときより深刻な話であることは間違いなかった。
「……大丈夫です。さっきみたいなことにはなりません。話してください」
 少しの間、怜佳は啓太の顔を見つめた。まるで啓太の器の大きさを量っているようでさえある。啓太も決して視線をはずそうとはしなかった。ここで顔をそむけるようではこの場にいる資格はないのだ。怜佳はやがてマンションの玄関で見せたようなふわっとした微笑を浮かべると中嶋の方に向き直った。
「……最悪のケースを考えたの。本当に、いろいろと。私が待てるのはあと数年。状況が変わるのを待つだけの猶予はあまりないわ」
「何が言いたい」
「……最悪の場合、貴方と偽装結婚して、それで離婚する」
 失礼だと思いながらも、啓太は怜佳の顔をまじまじと見ずにいられなかった。あまりに馬鹿らしすぎて笑い出してしまいそうだ。かろうじて踏みとどまったのは、怜佳の隣にいる長尾が驚いていないのを見てしまったからだ。自分の恋人が他の男と、たとえ偽装にせよ結婚しようとしているのに、長尾は先刻までとまるで変らないたたずまいでそこにいた。きっとふたりの間で何度も何度も話し合われてきたからなのだろう。つまりそれだけ真剣な申し出だったことになる。好きな人と結婚するために、まず他の誰かと結婚しようとするなんて。それは啓太の理解の範囲を越えていたが、笑うことはできなかった。だが思わず笑いを飲みこんだ啓太とは裏腹に、静まり返った部屋の中に中嶋の低い笑い声が響き渡った。
「英明さん?」
「……いや。悪かった」
 批難の眼差しを向ける怜佳に、片手をあげて謝罪はしたものの、中嶋はしばらく笑いをおさめることができなかった。
「すまない。気を悪くしないでくれ。そんな方法は今まで考えたこともなかったんでな」
「……私は真剣よ」
「ああ。確かにじじいを殺す方法を考えるよりは、現実的で確実だ」
 こんな申し出などあっさりはねつけてくれると思っていたのに、中嶋は意外にも前向きに受けとめているようだ。どうしていつもみたいに「くだらん」と切り捨ててくれないんだろう。それが啓太には少し不満だった。
「貴方が留学している間だったら、一緒に暮らしていなくてもばれたりしないと思う。私もアメリカにいることにして史朗さんと暮らしていればいいもの」
「そうだな」
「僕もこのところ都内の勤務が続いているんです。そろそろ地方に転勤になってもおかしくない」
「なるほど。条件は揃っている……か」
 呟くように言って中嶋は、それまで姿勢よくのばしていた背をソファに預けると、隣で俯いていた啓太を抱き寄せた。先刻のように肩を抱くだけでなく、自分の胸に身体を預けさせるくらいに。啓太の方を見ていなくても、今の啓太がどれだけ情けない顔をしているのか、ちゃんと分っているようだった。
「それともうひとつ。本当に、本当に、考えたくもない最悪のときだけなんだけど」
「……俺の子供でも産むのか?」
 皮肉のかけらもなく、むしろ穏やかに中嶋が言った。
 その穏やかさが何を意味するのか、今の啓太にはもう見えていなかった。啓太にとって、中嶋に許婚がいるのも偽装結婚するのも信じたくなかったし、許されるものなら大声で泣き叫びたいくらい嫌だった。でも誰かが中嶋の子供を産むとなると、もう声も出せなくなっていた。泣き叫べるというのは、まだ心のどこかに自分を哀れむ余裕があるからこそできることなのだ。
―― この人が中嶋さんの子供を産む……。中嶋さんはこの人を抱くんだろうか……? 俺を抱いてくれるみたいに、この人を。
 思わずびくっとなった啓太の身体を中嶋の両腕ががっしりと封じこめた。この腕の力強さと胸の温かさを信じるしか啓太にできることはない。そっと視線を上げた先で、中嶋は哀れむような眼で怜佳を見返していた。
「別に俺の血を引く必要はないだろう。いくらあのじじいたちでも、DNA鑑定に持ちこんだりはするまい。遠慮なく長尾さんの子供を産めばいいんだ。いつでも俺の戸籍に入れると何度も言ったはずだ」
「駄目よ、そんなの。史朗さんの子供だもの。正々堂々と産んであげなくちゃ」
 怜佳はハンドバッグを引き寄せると中から名刺を取り出した。
「都合のいいときにこのドクターを訪ねてちょうだい。体外受精の話はつけてあるから」
「わかった」
「前もって電話しておけば時間外に対応してくれるわ。裏に自宅の電話番号も書いておいた」
 右腕は啓太の身体を抱いたまま、左手だけをのばして中嶋は名刺を受け取った。この右手がなかったら、啓太はとっくの昔に意識を手放していたかもしれない。だが中嶋の右手はそれを許さなかった。最後まで見届けろと、啓太に無言で命じていた。
「妊娠も結婚も、いつするかっていうタイミングは、私の方で決めさせてもらえるわね?」
「ああ。好きにしろ」
「ドクターのところへはできるだけ早く行ってちょうだいね。貴方の子供なんて産みたくもないけど、でもうやむやにされるのはもっと嫌なの」
「そうしよう。……啓太。啓太?」
 何度か身体を揺すられて、ようやく啓太は名前を呼ばれているのに気がついた。
「大丈夫か?」
「……あ、はい……」
「あのな。怜佳は最悪の場合、俺の子供を産むのだそうだ。じじいたちを納得させるためだ。ここまでは分るな」
「はい……」
「だから体外受精用の精子を採取しに病院へ行って欲しいと言っている。……リスクは女である怜佳ひとりが背負わなきゃならんのだから、それくらいのことは聞いてやらないといけない。……と思う」
 体外受精ということばのもつ生々しさに、啓太の頬が一気に紅潮した。子供を作るために中嶋が怜佳を抱くのは、「嫌」というレベルを超えてしまっていたが、だからといって体外受精なんて許されるものではないと思った。
「あっ、あの……」
「なあに?」
 思わず言ってしまった啓太に、怜佳が優しい眼を向けた。すべてを話してしまったら楽になれたのだろう。話し合いをしていたときの険しい表情はどこにも見えなくなっていた。
「そんな……方法しかないんですか? もっとほかに何かあるんじゃ……」
「駄目よ。私はね、史朗さん以外の人の血を受け入れるつもりはないの。それで子供を作ろうと思ったらこうするしかないわ」
「そうじゃなくて……。たとえば、その……。中嶋さんに男の恋人がいるってことにしたらどうですか? 俺と中嶋さんがしてるところに、貴女とおじいさんがたまたま入ってきちゃったら、それを理由に婚約破棄できませんか!?」
「駄目ね」
「無駄だな」
 即答だった。必死の啓太の提案も、いともあっさりと却下されてしまった。
「有難う啓太くん。気持ちはとってもうれしい。でも男の愛人なんてね、女と違って面倒がないし、結婚するのに何の障害にもならないのよ」
「そんな……」
「おまえにすれば、ない知恵を絞ったつもりだったろうが、うちのじじいはそういう人間なんだ。諦めろ。諦めて、月曜は俺と一緒に病院へ行くんだ」
「病院? 中嶋さんと一緒に……、って……?」
 きょとんとした啓太に、中嶋が苦笑をもらした。
「おまえな……。俺をひとりで産婦人科なんぞに行かせる気か?」
 意外と冷たいヤツだったんだな。冗談めかして言う中嶋に、啓太は思わず涙をあふれさせていた。怜佳がかわいそうだった。見ているしかない長尾が気の毒だった。ふたりが払わなければならない犠牲が哀しくて悔しくてしかたなかったのだ。自分のためには出なかった涙でも、彼らの心を思いやると、流れ出して止まらなかった。
「ごめんなさい、啓太くん」
 怜佳が啓太の手を握り、長尾は隣で頭を下げた。
「わたしたち、あなたには本当にひどいことをしてると思う。でもね、どっちも本当に最悪のときだけなの。これからもずっと史朗さんと結婚できるように努力する。約束するわ」
「まだ高校生の君には荷が重すぎるよね。理解してくれとは言わない。ひどい大人たちだと恨んでくれてかまわない」
「ち、違うんです」
 啓太は慌てて手を振った。泣いてしまったのが誤解されたのに気がついたのだ。
「あの……、俺、怜佳さんがかわいそうで……」
「啓太くん?」
「長尾さんも怜佳さんも、お互いのことをこんなに思いやってるのに、どうして幸せになれないんだろうって思ったら、つい……」
 言っている端から、またぽろぽろと涙が落ちてくるのを、長尾も怜佳も驚いたように見ていた。自分たちの都合で振り回した子供から、まさかこんなふうに思われるなんて思ってもみなかったのだろう。そんな彼らはもう眼に入っていないかのように、テーブルの下のティッシュを数枚引き抜いた中嶋は、啓太の涙を拭いてやっていた。そしてその顔には、今まで怜佳が見たこともないくらい、優しい微笑が浮かべられていた。
 
「あの……。今日は俺も同席させてもらって、本当に有難うございました」
 怜佳たちの帰り際に、啓太はそう言って頭を下げた。
「途中で取り乱しちゃったりしたけど、でも、お話が聞けてよかったです。だって今日みたいな話、あとで説明してもらっても信じられないと思うんです。俺を子供扱いせずに呼んで下さって、有難うございました」
「ううん。私たちの方こそ、貴方みたいな子が英明さんといてくれてよかったと思ってるのよ」
「……?」
「あのね、こういう話し合いをしていたとき、いつも英明さんには負い目を感じていたの。自分たちだけが幸せになるために、英明さんには無理ばっかり言ってるから。だから今日、貴方に会って、貴方と英明さんが本当に相手を必要としてるのがわかったら、なんだかとってもうれしくなっちゃった」
「君はいい子だね。中嶋くんが傍に置きたがる気持ちがよく分るよ」
 思わず中嶋の顔を見ようとした啓太の髪を中嶋の手がくしゃくしゃと撫でた。

 玄関のドアが閉まるのを待っていたかのように、啓太はその場に沈みこんだ。張りつめていた糸が切れてしまったのだ。啓太の身体を追って膝をついた中嶋は、苦しいくらいに啓太を抱きしめた。
「悪かったな。今まで黙っていて」
「……いいです。今日話してくれたから」
「あのふたりは、言ってみれば俺の戦友みたいなものだ。不思議なものだが丹羽や篠宮の次くらいには信頼できる」
 中嶋の胸に顔を埋めたまま、啓太が小さく頷いた。
「俺も……、いつかあの人たちからそう言ってもらえるようになれるかな……」
「ああ。おまえならきっとなれる。だからあのふたりにおまえの運を分けてやってくれ」
「運を?」
「そうだ。もしこれから先、俺の戸籍に新しい名前が増えていったとしても、俺とおまえの関係は何も変らない。今と同じ生活が続くだけだ。そんなものは書類の中だけの話なんだからな」
「……はい」
「だが怜佳は違う。俺の籍に入る。子供を産む。そのたびに長尾さんとの関係は確実に変ってしまうんだ」
「そんな……!!」
「だからそんなことをせずにすむように、おまえの運を分けてやって欲しいんだ」
 怜佳は先刻、「自分たちが幸せになるために英明さんに無理ばかり言っている」と言った。だが実際に無理をしなければならないのは他ならない怜佳自身ではないか。啓太は心の底から、怜佳たちの力になりたいと思った。
「……わかりました。俺にできること、何でもします」
「ああ。おまえならそう言ってくれるだろうと思っていた。……有難う、啓太」
「……うん」
 リビングに戻ると窓の外はより暗くなっていた。雨がさらにひどくなったらしい。締め切ったサッシの窓ガラスを通してさえうるさいくらいの雨音がしている。だがそっと寄り添いあうふたりの耳に、その雨音は届かなくなっていた。





いずみんから一言

すみません。驚きましたか?
実はこれ、一昨年の年末からずっと、書こう書こうとしていたお話なんです。
伊住的中啓世界を完結させるために、これはとても重要なエピソードなので。
とはいうものの最終話まで啓太と中嶋は、ラブラブの熱々(苦笑)。
怜佳も無事「長尾怜佳」として出てきますのでご安心を。
別の話の中で「背景」として組みこむにはちょっと複雑すぎるので独立させてみた、って感じです。
ついでに言えば、カフェは中啓同盟さんがある限り閉店しません(笑)ので、
これからもよろしくお願いします♪

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