春 爛 漫 〜ふたりの第2章〜




 人間、生きていればいろんなことに出会うものだ。まったく未知のものに出会うこともあるだろうし、知識として知っていても無縁の存在と思っていたものが、突如として自分の生活に入りこんでくることだってある。これを「日々是発見」と思えばいいのか、それとも
「日々是修行」と悟ればいいのか ―― ?
 自分が押してやっているショッピングカートに啓太が入れていく食料品を見ながら、中嶋は自問をつづけていた。

 新婚旅行 ―― もとい、卒業旅行から帰った翌日。中嶋と啓太のふたりが最初にしたのは、食料品を買出しに行くことだった。マンションに引っ越して何日もしないうちにヨーロッパに出発するため、中嶋はわざと何も残らないようにしていた。だから冷蔵庫の中には朋子の飲み残したジュースくらいしか入っていなかったのだ。外食にも飽きていたし、さすがにこれはまずいと意見が一致したので、啓太の実家への挨拶を昼からにして、まずは車で10分ほどのところにある高級スーパーにやってきたのだった。
「えーっと。とにかく野菜はゼロだったから」
 そんなことを言いながら、啓太はトマトやレタスに始まって、たまねぎ、人参、ジャガイモなどをカートに放りこんだ。
 冬から春にかけてのヨーロッパは本当に野菜が少なく、野菜らしい野菜を食べたのは、チェスターのインド料理店でランチバイキングに入ったときだけだった。野菜があまり好きでない啓太でさえ、カレーやタンドリーチキンそっちのけで生野菜を食べていたのだから彼らがどれだけ野菜類に飢えていたのかが容易に知れるというものだ。
 だから中嶋にも啓太の気持ちはわかるのだが、何の脈絡もなく野菜というだけでカートに入れようとする啓太に、不安を感じずにはいられなかった。
「おい、何を作るか考えてるんだろうな?」
「え? 何を、って……」
 キャベツを手にしていた啓太は軽く首をかしげると、不思議そうに中嶋を見た。どうやら何を作るかなど、これっぽっちも考えていなかったようである。
「こういうのは、だって『家にはあるモノ』でしょう?」
 一事が万事、この調子である。中嶋に理解できたのは、朝食のハム・エッグにするであろうハムと玉子、それに主食であるお米までだった。以降は何故それが自分の家のキッチンに入らなければならないのか、すでに中嶋の解析能力の限界を軽く超えてしまっていた。そしてその原因である啓太は、今も何かを見つけて走っていったかと思うと、ホットケーキ・ミックスを抱いて戻ってきた。
「ホットケーキ・ミックスなんかどうするんだ?」
「日曜の朝食に食べるでしょう? あ。そうそう、メープルシロップも」
 中嶋にとってホットケーキを食べた記憶があるのは、幼稚園かせいぜい小学校の低学年までである。それでさえおやつであって朝食ではなかった。伊藤家の食生活はどうなっているのだ? 挨拶に行ったら母親にそれとなく聞いておかねばならないだろう。
「こら。シロップがいるんだったら本物にしろ。紛い物を使うんじゃない」
「え!? これってニセモノですか?」
「原材料を見てみるんだな」
 本物のメープルシロップがそんな安っぽいプラスチック容器になど入っているものか。慌ててラベルを読みはじめた啓太を見ながら、中嶋はそう思った。啓太がホットケーキを朝食に食べるくらい黙認する程度の度量はあるつもりでいるが、自分の視界に焦がした砂糖を煮詰めただけの紛い物が並ぶのは許せなかった。
「ほら。本物はこっちだ」
 中嶋はカナダ産メープルシロップのどっしりしたガラス瓶をカートに入れるとその場を離れた。啓太が慌てて追いかけてくる軽い足音が背後に聞こえた。

 次に入った通路は乳製品などの冷蔵食品が並んでいるコーナーだった。チーズを何種類かとバターを選んだだけでスルーするつもりだったのだが、啓太はデザート売り場の前で足を止めてしまった。そして何をやっているのかと訝しんだ中嶋に気がつくと、真剣な顔で「俺っていつ学園に戻るんでしたっけ」と聞いてきた。
「始業式も入学式もまだだが、明後日の夕方には戻っておく方がいいだろうな」
「明後日かぁ」
 なおも真剣な表情で何事かを考えながら、啓太はふたたび冷蔵ケースに向き直った。視線の先には、プリンの周囲にフルーツやクリームを絞ったカップデザートと小さな牛乳ビンに入ったコーヒープリンが並んでいる。たかだかプリンを選ぶだけに何をそんなに? と言いたくなるくらいの真剣さで両方を見比べていた啓太は、やがて意を決したようにコーヒープリンをカートに入れた。さらにオレンジゼリーも一緒に入れた啓太は満足そうな顔をしながらその場を離れた。
「それは?」
「お風呂上りのデザートですよ。明後日、寮に戻るんだから、今日と明日の2日分です」
「プリンが欲しければ、そんなものよりちゃんとしたケーキ屋で買え」
「やだなあ。お風呂上りにちゃんとしたデザートなんて食べませんよ?」
 思わず「知るか。そんなこと」と言いそうになったが、かろうじて中嶋は飲みこんだ。「食べませんよ?」と当然のように言われても、風呂上りにそんなものを食べようと思ったことがないのだからわからない。
「あっ、そうだ。これは俺のおやつだから、レジでは自分で払います」
「……いや。そのまま入れておけ」
「えっ!? いいんですか?」
「ああ」
「うわっ。有難うございます♪」
 2個を合計しても500円にならないようなデザート代を、中嶋英明ともあろうものが払えと言えるはずもない。ところがそれを聞いた啓太が向けたのは、まさに春の花が一気に開いたかのような笑顔であった。こんな笑顔が見られるのなら、プリンの10個や20個、安いものだ。

「お味噌とお醤油とサラダオイルと……」
 新しい通路に入るたび、中嶋の押すカートに食料品が積み上げられていった。たしかに新居で、何もないからっぽ状態であるのを否定するつもりはない。だが啓太が学園に戻ってしまえば、またしばらく一人暮らしがつづくのだ。パスタ類や乾燥ワカメはともかく、味噌だの小麦粉だのといった独りではおそらく使わないような食材は、カートに載った端から棚へ戻していった。必要になってから買いに来ても遅くはないからだ。
「えーっ。これもですかぁ?」
 マヨネーズをカートに入れ、ケチャップを手に取ったところで駄目出しをされた啓太が抗議の声を上げた。こんなものまで駄目だとは思っていなかったらしい。
「あたりまえだ。ひとりでは使いきれん。必要なものはいくらでも買えばいいが、無駄になるとわかっているものは駄目だ。どうしても欲しければ、夏休みに帰ってきてからにしろ」
「……はい」
 少し意外そうな顔をしたが、啓太は素直に手にしたケチャップを棚に戻した。啓太がケチャップ味が好きなのは知っていたが、中嶋はそんなものは使わない。シチューの隠し味に使う程度で、それもなければないで困るものでもない。だから啓太が学園に戻ったあとせいぜい1回程度しか使われないままに賞味期限が切れてしまうのは、予想される事態などではなく、すでに既定の事実だった。カビの生えたケチャップを捨てている図など、想像することさえ許せないではないか?
 中嶋が駄目と言ったのは消費しきれないものばかりではなかった。インスタント食品にも断固として拒否をした。
「インスタントラーメンなど食べるな。若年性生活習慣病になりたいか」
「出汁が取りたければ鰹節と出汁昆布を使え。手抜きをするな」
「化学調味料などもってのほかだ。舌が馬鹿になる」
「レトルト食品? 正気か、おまえは?」
「おい……。冷凍のエビフライを俺に食わせる気か?」
 ここまで言われれば普通は喧嘩になりかねない。だが相手は中嶋絶対主義であると同時に、みょーなところで生真面目な啓太である。何を言われても感心するばかりで、「そっか〜」とか「なるほど〜」とかを繰り返していた。中嶋の言うことはいちいちもっともであったし、それに大筋では啓太の選んだものを黙認してくれているのだから、啓太としては上々の買い物なのかもしれなかった。

「今晩、カレーでいいですか?」
「ああ」
 うろうろと食料品売り場を歩きまわった結果、啓太は昼食に塩鮭を、夕食はカレーに決めたようだった。中嶋から「何を作るか考えているのか」と言われたことで、自分なりに考えながら歩いていたらしい。
 まるで定番のようなメニューだが、啓太には啓太なりの理由があった。和食に飢えている啓太にとって、焼くだけでいい塩鮭はいちばん手軽な「和食」であったし、チェスターでほんの少し食べたカレーはさらさらでしゃぶしゃぶのインド料理だったので、日本のどろどろしたカレーが懐かしかったのだ。それにカレーは啓太が作れる数少ないメニューのひとつでもあった。
「中嶋さんは辛口ですよね。当然」
「ああ、そうだな」
「うーん。俺はあんまり辛いのは苦手だから……」
 あれこれとカレールゥを選びはじめた啓太に片眉を跳ね上げたものの、中嶋はこれに関しては駄目だとは言わなかった。小麦粉を却下してしまったので、ルゥから作れとは言えなかったのだ。いずれ啓太が帰ってきたときに、ちゃんと小麦粉を炒めるカレールゥの作り方を教えればならないが、今日のところはたまねぎを飴色になるまでじっくり炒めさせて、どれほど味が変わるかを教える程度で満足せざるを得ないだろう。煮込み時間の足りない分は、圧力鍋で補うとするか。啓太の様子を眺めながら、中嶋もまたあれこれと考えていた。
 しかしたかがカレーと言えど、まったくの他人同士が作るとなるとおもしろい。肉売り場で当然のように豚肉を選んだ啓太を中嶋が止めた。
「カレーは牛肉だ」
「え〜? 豚肉ですよぉ」
「駄目だ。うちでは牛肉を使うんだ」
「ホントですかぁ〜?」
 中嶋は啓太を連れて牛肉売り場へ移動した。ステーキ肉だの網焼き用肉だのと並んでちゃんところころに切ったカレー用の肉が並んでいた。
「ほら」
「あー? ホントだあ。あるんだぁ……」
「納得したら、今度からそれを使うんだぞ」
「はぁい」
 中嶋の祖父母は一時期関西で暮らしていたことがあり、それ以降、カレーには牛肉を使うようになった。その習慣は中嶋の両親に伝わり、今は中嶋がそれを踏襲している。豚肉に慣れた関東人の啓太には贅沢と映るかもしれないが、やがてはそれがあたりまえになっていくだろう。ふたりで暮らしていくということはそういうものの積み重ねなのだ。

 最後に啓太はジャム売り場の前で足を止めた。啓太にとって、朝のトーストにジャムは必需品である。中嶋もそれはよく知っていて、チェスターでの最初の朝、ルーム・サービスを頼んだときに、ちゃんとジャムも注文したくらいだ。さらにハロゲートで土産物用の紅茶を仕入れたとき、啓太が欲しがるだけジャムを買ってやった。
 だからもう十分すぎるくらいあるはずなのだが。そう思って見ると、啓太もそれはよくわかっているようだ。どこかうらやましさを感じさせる啓太の表情は、買えないとわかっているものを見つめる子供のものだった。
「……どれが欲しいんだ?」
「えっ……!?」
 突然声をかけられて啓太は文字通り飛び上がった。完全に足を止めて見入っていたくせに、自分ではこっそりと盗み見しているつもりだったらしい。慌てて口ごもる啓太を見ながら、だが中嶋も驚いていた。すでにあるジャムなど無視して、さっさとレジへ行ってしまうつもりだったからだ。
 啓太の表情に負けた自分に気づいて、中嶋は思わず憮然としてしまった。そしてそんな中嶋を見た啓太は叱られていると勘違いをした。あれほど「無駄なものは買うな」と言われつづけてきたのだ。そう思ってもしかたがない。
「ごっ。ごめんなさい。俺……」
「謝らなくていい。どれが欲しかったんだ?」
「えっと、あの……。これ、なんです」
 肩をすくめながら、おずおずと手をのばした啓太が取ったのは、桜の花びらを蜂蜜で漬けこんださくらジャムだった。桜色とも淡い茶色とも取れるほとんど透明に近いジャムの中に浮く花びらは、子供の頃、友人の家で見た水中花を思わせた。
「なるほど。これはハロゲートには売ってないな」
 ため息混じりにそう言った中嶋は、啓太の手から瓶を取り上げるとカートに乗せた。
「え……?」
「家にはたくさんあるからな。これは寮で使え」
「はいっ」
 叱られていると思ってしょんぼりしていた啓太の表情が一転した。それを見て中嶋は、買ってやった自分の判断は間違っていなかったと、自分自身を慰めた。大見得を切って啓太を預かった以上、あまり甘やかしてはいけないと中嶋は考えていた。だが、なんだかんだ言っても中嶋は結局、啓太に甘いのだ。自覚はしていないが、啓太を甘やかすことが愉しくてしかたがない。啓太が言いたくても口に出せずにいる些細なわがままを、無理に言わせ聞いてやることに、たまらない悦びを感じてしまうのだ。今まで誰に対しても抱いたことがないその感情を、中嶋は少々もてあましていた。

「しかしあんなジャムを欲しがるとはな。桜が好きか?」
 駐車場を歩きながら中嶋が訊いた。スーパーの敷地内に植えられている桜が五分咲きくらいになっていて、それが中嶋の眼を惹いたのだった。
「香りが好きなんです。すごく。羊羹や桜餅なんかも好きですし。学食の定食に桜の葉っぱが入ったアイスクリームがついたときがあったんですけど、ずーっとお昼はそればっかり食べてました」
 あのジャムは花が漬けてあっただけで葉は入っていなかったが。
 桜のあの独特の香りは塩漬けにした葉の香りである。だから花しか漬けられていないジャムで香りがするのかどうか、中嶋にはわからない。
「苦手なのは関西風の桜餅だけですね。あれは……、道明寺って言うのかな。ごはん粒が残ったみたいのは駄目なんです」
「ふうん」
「あのつぶつぶした舌触りが駄目なんです。だからおはぎは絶対駄目だし、数の子もちょっと苦手かな……」
「じゃあオートミールは駄目だな」
「オートミール、ですか? 食べたことないから分らないです」
「麦の粒が残った牛乳粥みたいなものだ」
「……聞いただけで駄目です……」
 いくらきちんと舗装されていても、やはり屋外の通路はカートを押すにはがたがたしている。買ったものを満載したカートを押す啓太の歩調に合わせてゆっくりと足を運びながら、中嶋と啓太は他愛もない会話を交わしていた。まだ出会ってからわずか半年しか経っていない彼らは、こんな会話さえ交わすことはほとんどなかったといっていい。だから中嶋は啓太が桜風味が好きなことも知らなかったし、つぶつぶした食感が嫌いなのも今はじめて知った。それだけではない。日曜の朝にホットケーキを食べるのも、風呂上りに冷たいデザートが欲しくなるのも初耳だった。そういう意味で言うなら、中嶋にとって日々は
「是発見」となるのかもしれない。
 これからも中嶋と啓太は、こうやって歩きながらいろんなことを話すだろう。そしてそのたびにふたりの距離は少しずつ、だが確実に縮まっていくのだ。
 外はまさに春爛漫。何もかもが新しくなる季節である。
 中嶋と啓太もまた、ふたりの「第2章」とも言うべき新しい生活をスタートさせようとしていた。





いずみんから一言。

うーん。ぬるいです(汗)。まあしかし新婚さんですから、ということで(滝汗)。
このあと家に帰ったふたりは、お昼のごはんを炊いている間にカレーの仕込をします。
お手軽にできると思っていた啓太くんはきっと驚くことでしょう(笑)。
しかし当然のように圧力鍋を出してくる中嶋氏。ちょっと笑えます。
エプロンなんかも似合ったりして(← モーソー中……)
関西ではカレーは牛肉です。
ってか、肉といえば牛肉を指すわけです。
だから中華まんは豚まんであって肉まんではありません。
そういえば豚肉のカレーって食ったことないなあ。

お昼を食ったら啓太くんの実家へ帰国の挨拶に行きます。
カーディフから送ったおみやげが届いているかどうかは、日数的にちょっとびみょー。
せっかくカレーの準備をしていったのに、夕食はみんなで天ぷらを食べに行くことになって
しまいました。
翌日はおじいちゃんの家に行きます。帰りに家具屋に寄って、啓太くんの部屋のアクセント
ラグとローテーブルを買いました。
あとはもう勉強するだけの啓太くんです(笑)。

NMちゃん。桜のジャムを有難う!

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