唯一無二の…… |
街路樹が茶色くなったと気づいたのは、落ちていた葉をクルマが巻きあげたからだ。かさかさと乾いたそれはタイヤと風圧に巻きこまれて浮きあがり、ドアを開けた中嶋の靴に踏まれて軽い音をたてた。中嶋の目の前にそびえるのは、彼が現在籍を置いているTOR法律事務所の最重要顧客のひとつである鈴菱マテリアルが入るビルである。事実、9月はじめまでは東洋テクニカルマシナリーなどという、社名だけでは何屋なのか判断のつかない会社の技術部門の買収のために、ほぼ毎日のように通ってきていた。あの頃は連日うだるような暑さで、コインパーキングからビル玄関までのわずか1〜2分の間に、腹がたつほどの汗をかいたものだった。そのままでクライアントの前に出ることもできず、トイレの個室に入ってワイシャツの内側にこもった汗を飛ばすのが日課となっていたのだった。当時はじめじめとまとわりついていた風が、今はひんやりとした寒気を含んで吹き抜けていく。先刻踏んだ落ち葉のあとを追うように、中嶋は目の前のビルを回りこんだ。今日の相手はここではなく、裏手の小さい喫茶店で待っているのだ。中嶋のついたため息は、次に吹いてきた風に乗って消え去った。 東洋テクニカルマシナリーの買収は、中嶋がメインで進めたはじめての案件だった。啓太の運の良さのおこぼれにあずかってでもいるのか、中嶋は留学時代から何度か大型案件のメンバーに入れてもらっていた。それはもう修習生時代に世話になった弁護士が呆れるほどだったのだが、まだ自分が中心となってプロジェクトを進めたことはなかった。理由は簡単だ。企業買収などそうそうあるものでもないし、あったとしてもちょうど手頃な大きさの案件がなかったのだ。10時間以上に及ぶ難手術の第3 ―― あるいは4か5 ―― 助手を何度つとめようと、外科の研修医は盲腸やヘルニアの手術から執刀をスタートさせる。それと同じようなものだ。 その最初のケース。途中経過は省くが、中嶋は東洋テクニカルマシナリーの買収をじつに手際よくまとめあげた。しかもただ突っ走るのではなく、使うべきところでは先輩や上司であろうとも躊躇わず、使うべき人を投入した。それだけではない。退くべきときは退き、かと思えば、強硬に出て退く素振りさえ見せないところもある。判断に迷えばタイミングを逃してしまう前に頭を下げて教えを乞うた。はじめて任されたとあれば誰もが気負ってしまうものなのに、中嶋はそのあたりじつに硬軟自在だった。 交渉事は水物である。一見同じように見えていても水面下で事態は常に動いている。今がこうでも10分後もそうだという保証はどこにもない。その、時々刻々と変化する状況把握の見事さに、関わった誰もが舌をまいた。中嶋のバックに鈴菱の御曹司がついていることは周知の事実である。だがうまく取り入って今のポジションを得たのではないことを、中嶋は実践で示したのである。 今日これから中嶋が会おうとしている相手も中嶋の手腕に驚いた人間のひとりである。中嶋を新進気鋭の弁護士と見込んだ鈴菱マテリアルの常務取締役は、中嶋に『ごく個人的な』依頼をしてきたのだ。……つまり、娘の離婚調停への同席依頼を。直接打診されたのなら「上司の許可が得られなかった」でも「重なった仕事をまだうまく捌けないから」でも何とでも言い繕って逃げただろう。だが正式に事務所に依頼があり、上司が中嶋にやれと言ってきたなら他にしようがない。企業の法務を専門にしている事務所に離婚担当などいるはずもない。だが最重要顧客である鈴菱グループの役員の機嫌を損ねる訳にもいかない。一方。今回の仕事がうまくいったからと言って、中嶋が駆け出しの弁護士であることに違いはないのだ。留学やマサチューセッツ州弁護士資格の取得など、経歴がどれほど華やかであろうとも、現実の評価とはそういうものだ。今回の依頼は天ぷらの専門店に入ってエビフライを出せと言っているようなものだ。エビに衣をつけた揚げ物というくくりでは同じでも、実態はまったく違う。そこらへんの食堂ならともかく、専門店であればあるほどエビフライは作れないのだ。 本来なら事務所として対応を考えなければならないところだったが、幸いにもマテリアルの役員は中嶋を指名してきている。1本ヒットを打った程度の新人ひとり、いなくなったところで大勢に影響はないのだから、この際、中嶋にやってもらえばいいではないか。役員は満足し、事務所も顧客にいい顔ができる。「君も若いうちにいろいろな経験をしておいた方がいい」そう言った上司の顔はおそらく忘れないだろうと、中嶋は思っている。 件の常務との会合はいつもこの喫茶店だった。娘の離婚調停という思いっきり個人的な用件に社内の応接室は使いにくいのかもしれないし、あるいはコーヒーなどを運んでくる事務員の目が煩わしいのかもしれなかった。昭和の時代に置き捨てられたような店内は常に薄暗く、中嶋の耳には雑音としか思えない音の連なりが、有線放送から垂れ流されている。そのいちばん隅の座席。決まったように隅の座席に親娘 ―― 必ず、両親と娘だ ―― は座って、中嶋を待っていた。思わず時計に視線を落としかけたが、約束にはまだ15分あることは、店のドアを開ける前に確認済みだった。 「お待たせしてしまいました」 「とんでもない。お忙しい中嶋先生のお時間を無駄にはできませんので」 本当に俺の時間を無駄にしたくないんだったら、こんな仕事させるな! そう叫べたらどんなに楽だろう。そう思いながら依頼人と会っている弁護士が、今この瞬間、世界中に何人くらいいるだろうか。その考えは決して中嶋の気を楽にはしなかったけれども、打ち合わせている間中ずっと、中嶋のアタマの片隅に引っかかったままでいた。 「……では、そのご意向でどのくらい進められるかは持ち帰って検討させて頂くとして」 別れたい男がいて別れたくない女がいる。「あの人を愛しているの」と言ってこんな人前でめそめそと泣く ―― ついでに言えばこれも毎回だ ―― くらいなら、毎朝朝食を作って送り出すくらいのことをしておけば良かったのだ。ヘタはヘタなりに精一杯の夕食を作って待てばいい。少なくとも啓太はそういう努力をしている。気持ちに結果がついていかなくて落ち込んだりもしているが、啓太が中嶋を思ってしているのだということは、概ね伝わってくる。『ちゃんと』ではなく『概ね』であるところは、まあご愛嬌といったところだ。それを、低血圧だからと朝は目を覚ましもせず、夕食は忙しいと言って大半が外食。それも夫とではなく友人とというのだから質が悪い。専業主婦の何が食事の支度もできないほど忙しいのかは、いまだに理解できずにいる。更には友人たちと年に3度は海外旅行に行き、合計で1ヵ月近く家を空ける。それで「愛している。別れたくない」と泣かれても白々しいだけだ。中嶋の心情としては、その状態で2年半も耐えた夫にこそ「この馬鹿が」と言ってやりたいくらいだった。そいつがとっととこんなつまらない女と別れてくれてさえいれば、少なくとも中嶋の時間は守られたのだから。 そう。時間だ。まずは時間を決めなければならない。これは解放されるための儀式のようなものだ。 「次回の予定ですが」 「ええと次回は調停を控えているので、直前の方がいいですかね」 「直前ですか」 「ええ。例えば……19日など先生のご都合は如何でしょう」 「19日、ですね」 手帳を出した中嶋は19日の週を開く。今年は月曜で、そしてその日には大きく斜線が引かれていた。 「申し訳ありません。19日はもう……」 何があるとまで言わなくても相手はあっさりと引き下がった。「さすが先生はお忙しくていらっしゃる」と、むしろ感心したように納得してくれている。 「では20日は如何ですか。午後からなら時間が取れます」 「20日午後ですね。了解しました」 「では20日、午後2時にお待ちしています」 どうやら苦行の時間は終わったようだ。だが中嶋にとってそれは、20日午後までの執行猶予のように思えた。 事務所に帰ってすぐ、中嶋は事務所のスケジュール用ホワイトボードの19日の欄に斜線を引いた。パソコンのスケジューラにはすでに「19日、5時で帰る」と入っている。こっちは「1年毎のこの日」という設定にしてあった。中嶋自身にとってほとんど意味を持たない日なので、つい忘れてしまいがちになるからだ。同じ理由で手帳を新しくするとまず、この日に斜線を引くようにしている。今日はそれがうまく働いてくれたのだった。 「おや? 中嶋くん、19日は休みかい?」 中嶋が定規を使ってきっちりと斜線を引いているのを見て、事務長が声をかけてきた。鈴菱本社法務部から独立した所長を支えて、二人三脚で現在の規模にまで大きくした功労者である。信楽焼きのタヌキのような風貌ではあるが、その目は机の向こうに落ちたクリップの1本さえ見落とさないと言われている。だが今回は、休みをみとがめたというよりも、そんなところに定規で線を引く行為が目に留まったようだった。 「いえ。5時であがりたいので……。昼からは事務所仕事を片付けようと思ってます」 「ああそう。気はつけてあげられないから、自分で適当に帰ってくださいね」 「はい。有難うございます」 しっぽがないのが不思議のような後ろ姿に、中嶋は軽く頭を下げた。 数日後。今度は母親くらいの歳の秦野弁護士に声をかけられた。この人は特許問題のエキスパートで中嶋は何度か時間の都合がついた時に、裁判の傍聴に出かけたことがあった。 「中嶋くん。19日斜線引いてるけど、お休みなの?」 中嶋が振り返ると、秦野は伸びてきた髪をまとめながらホワイトボードを眺めているところだった。普段はそのままにしているのだが仕事が乗ってくると邪魔に感じるらしく、鉛筆でもサインペンでもそのあたりにあるもので髪をまとめてしまうのだ。くるくると捻った髪をボールペン1本で留めてしまう技は、何度見てもすごいと思う。完成形だけを最初に見たときには、何故髪にボールペンが刺さっているのかと驚いたものだったが。 「いえ。5時で帰りたいので、余計な仕事を入れないようにしただけです」 「そう。じゃあ千葉に来ない?午後イチだからそう遅くならないと思う」 「公判ですか?」 「ゲーム屋さんだから中嶋くんの管轄外かもしれないけど」 とんでもない、と中嶋は両手を振った。埒外である離婚訴訟はともかく知的財産権の公判など、金を払ってでも見たいくらいなのだから。 「是非、行かせてください。じつは俺、今までに何度か秦野さんの公判、傍聴してました」 「うん、いたわね。だから声をかけたの」 それは……と、珍しくも中嶋が絶句した。傍聴しに行ったなどと、今まで誰にも言ったことがなかったからだ。いつも一般の傍聴人にまぎれて座っていたはずなのに。不思議そうというより間のぬけた顔をしていたようで、ふふっと秦野が笑いを洩らした。 「あんな噛みつくみたいな視線をまとわりつかされたら誰だって気づくわよ。あたしゃ殺気かと思ってびびったんだから」 「はあ……」 「公判資料、目を通しておきたかったら後でいらっしゃい。あたしの目の届くところでなら見せてあげる」 「はい、是非」 言うだけ言うと秦野は片手をひらひらさせながら出て行った。あの人はあんな黄色い軸のボールペンを髪に挿したまま外を歩くのだろうか。他人のことには無関心な中嶋だったが、それは妙に気になった。帰ったら啓太に話してみようか。 11月19日。5時を少し回ったその時間。TOR法律事務所では営業アシスタントや総務系の女性事務員全員が、終業時間の5時を回っても何故か仕事を続けていることに、誰も気づいていなかった。いつもなら5時になるのを待っていたように退社するアシスタントまでが残っているのだ。本来なら十分以上に目をひくはずのありえない行動は、だが全員が残ったことで目くらましになったようだった。急に仕事に目覚めた訳ではもちろんない。彼女たちは仕事をするフリをしつつ、じつはひとりの男の動向のみを注視する。 5時少し前にその男はどこかに電話をかけ、かかかってきた電話を何本かとった。さらに上司に呼ばれて何かを報告した。そして部屋から出てきたところでひとりの弁護士に話しかけられ、デスクに戻って引き出しからファイルを出して何事かをやりとりしはじめた。刻々と時間が経っていく。いらっとしながら彼女たちは仕事を続ける。彼女たちの思うとおりならその男は家路につかなければならない。それもすぐに。なのに何故、彼はまだ仕事をしているのだろう? 時間は3時間ばかり巻き戻る。 その日の午後。TOR法律事務所ではプチ女子会が行われていた。 テレビドラマやミステリー小説の中ならいざ知らず、弁護士の仕事は基本的に地味なものである。受けた依頼の関係資料を読むだけで1日の大半が過ぎていくことだってある。裁判所に提出する書面は作らないといけないし、逐一報告書を求める依頼人もいる。慣れたアシスタントなら簡単な指示で作成するが、できあがったものに目を通さなかればならないので、やはりそれなりの時間はかかる。次回公判の戦略を練るための会議だって重要だ。そしてそれはつまり、事務所内で過ごす時間が多いということを意味する。もちろん出入りはある。だがTORのように所属弁護士が何人もいる場合、全員が出てしまうことはまずないと言ってよかった。それがその日の午後、それぞれの留守の時間がぴたりと重なり、事務所内の弁護士がゼロになった。ついで事務長が経理の係長を連れて銀行廻りに出て行き、2時間ほどの間、事務所内には女ばかりが取り残されることとあいなったのである。年に1度あるかないかの貴重な巡りあわせである。相談はあっという間にまとまった。近所にあるちょっと高級なホテルのケーキショップにふたりが走り、残りは紅茶を用意した。頂き物のファーストフラッシュをお得意様用のヘレンドのティーセットに注げば、味も香りも倍増しようというものだ。こうしてプチ女子会がはじまったのだった。 「あーっ。何か生きかえるわ」 「ホント。月に1回とは言わないから、せめて半年に1回はやりたいわね」 「しかしまぁ見事にみんな出てったものよね」 誰からともなく、皆の視線がホワイトボードに向けられた。各自が外出先を書きこむそれには、隙間がないくらいびっちりと名前と行き先、そして帰社予定時間が並んでいる。最初の方に書いた人間がいつも通りの行間で書いたために余白がなくなったのだろう。すでに書かれたものを消して書き直したのが、同じ筆跡でふたり分並んだところから見てとれた。 「あれ?中嶋先生、千葉なの?」 素っ頓狂な声を出したのは、アシスタントの春海だった。 「斜線が引いてあったから休みかと思ってた」 「おお!さすが、オトコ探して入社したコはチェックしっかりしてるわねぇ」 「中嶋先生は別格よ。若いし顔はいいし」 「バックに鈴菱がついてるし。あんまり比べちゃほかの先生たちがかわいそうよ」 そう。若くてハンサムな弁護士や渋い素敵なおじさまタイプの弁護士など、それこそドラマの中にしか存在しない。程度の差こそあれ幻想を抱いて就職してきた彼女たちは、出社1日目にして現実を知らされることになるのだ。背が高くてロマンスグレーの髪をしていても、顔がかの有名なキツネ目の男そっくりだった、というのはまだましな方だ。膨大な資料から相手の主張を付き崩す穴を探してくるのが得意な弁護士は、資料を読んでいる間中スナック菓子を手放さない。もちろん飲み物はペットボトルの飲料だ。事務所にはコーヒーも日本茶も備えてあるのに、それでは調子が出ないそうだ。おかげで彼はまだ30半ばというのに完全な肥満体で、訴訟とは逆に見合いは連敗中らしい。彼ほどでないにしても、ハゲもいればデバラもいる。かと言って風が吹けば飛んで行ってしまいそうな薄っぺらい男も、それはそれでバツではないか。 そんなところに上背があり顔はとびきりという中嶋が入ってきた。二十歳で司法試験に合格しただけでなく、ハーバードに留学してマサチューセッツ州の弁護士資格まで取得してしまった。仕事のベースはアメリカに置きたいらしいが、まだまだ弁護士としては修行中の身。時々こうして日本に戻って研鑽を積む日を送っている。今のこの状態は、アメリカに進出した日本企業を取り込みたいアメリカ側と、アメリカに進出する顧客のニーズに合わせたい日本側との、それぞれの思惑が一致したものだった。間を取り持ったのが鈴菱本社総務部であり、バックには御曹司までいるというのだから、無名の駆け出し弁護士でも文句なしで雇い入れられたことだろう。今はまだどちらもが中途半端になっている感があるのは否めない。だが10年もすればそんなもの、きれいさっぱり払拭されているに違いない。残るのは堂々たる経歴だけだ。 それだけではない。実家の様子まではわからないが、彼の身につけているものやちょっとしたときの身のこなしなどから、育ちのいいことは容易に見てとれた。顔とアタマに育ちやバックまでついてくれば向かうところ敵なしである。ここまでのスペックが揃ってしまえば、いかな夢見る乙女といえどもカノジョにとも妻にとも思わなかった。だが浮気や不倫の相手なら……くらいは思わせてもらいたいではないか。たとえ自分たちが法律事務所の職員だとしても、夢見るくらいの自由はあるはずだ。少々冷たそうな性格だって、そこはそれ。自分にだけは微笑んでくれると思いこめれば問題はない。皆が同じように思っていたらしく、女子会は中嶋ネタで異様なほどに盛り上がった。 「あー、でも秦野女史には気をつけた方がいいかも。今日だってそうだもん。あれはほとんどナンパよ」 「逆ナン?あぁ。でも秦野女史ならありそう」 「ストライクゾーンど真ん中だもんね」 「好きだよねぇ、若い子釣るの」 「知的財産権の口頭弁論なんてニンジン、ぶら下げられたら走るでしょ」 「千葉まででもね」 きゃあっ!と笑い声があがった。中嶋が貪欲なまでに実務経験を積もうとしているのは事務所の誰もが知っていた。まだ鍵を持っていないので朝一番ということはないが早いうちに出社し、夜もそこそこ遅くまで仕事をしている。そんな彼を釣りあげるようと思えば餌は簡単だった。 「あれ?だけど。じゃあ中嶋先生はわざわざその為だけに出て来たの?」 「ううん。今日は休みなんじゃなくて、単に5時で帰りたかっただけみたいよ?斜線引いとくと余計な仕事が入らないでしょ?」 「なるほどね」 どんなに楽しくてもケーキを食べ終わり、紅茶を2杯飲めば俄か女子会は終わりだ。ホワイトボードに書かれた帰社予定時間にはまだ間があっても、誰がどんな理由で早く帰ってこないとも限らないのだから。後片付けをしながら、ひとりが思い出したように言った。 「ちょっと素朴な疑問です」 「はい。何でしょう」 「中嶋先生は何で今日、5時で帰りたかったの?いつもは7時過ぎまでいるじゃない」 あぁ……、と一斉に声が漏れた。5時で帰るにしても休むにしても中嶋には珍しいことなのに、誰もその理由には思い至らなかったらしい。言われてみればその通りだった。彼は何をするために、いつもより2時間も早く帰りたいのだろうか。 「歯医者か何かの予約とか?」 「いや、フツーに考えたらデートでしょ」 そうだよね……。と皆が納得しかけたとき。「えーっと、何だっけ」と声がした。総務の中でも給与関係全般を捌いている要子である。 「何かそれって聞いたことがあるような……」 「どこで」 「どこだったかなあ」 「誰に」 「うーんっと……」 思い出しかけてそれ以上わからないのは気持ちが悪いものだ。さわりだけ聞かされた周囲ももちろんだが、当の本人はもっとだろう。思い出す邪魔をしないようにとでも思ったか、皆が妙に押し黙ってしまった。水がはね、洗いあがった食器が洗い桶に重なる音だけがする。ほとんど上の空で洗った食器を、皆で拭いているときだった。 「思い出した!トップシークレットだわ」 すっきりして嬉しくなったのか、要子が思わず振り回すティーカップを、横から誰かが取り上げた。いくら円が高いとはいえ、ヘレンドのカップは1客1万円では買えないのだ。壊してしまいでもしたらフツーのOLの臨時出費には少々痛い。 「ほら、あたし中嶋先生の移籍でボストンの事務所とメールでやりとりしてたじゃない。で、結構仲が良くなったときに教えてもらったのよ。トップシークレットだ、って」 なんとなく広いところでは聞きにくかったのか、みんなが給湯室に入ってきた。狭い給湯室である。全員が入ると窮屈を通り越してぎゅうぎゅう詰になった。そこでさらに要子は声をひそめた。 『ヒデアキは自分の誕生日だけは早く帰る』 悲鳴とも何ともつかない声が給湯室に満ちた。 「もし恋人が誕生日を祝ってくれてるなら、相手の誕生日に早く帰るはずじゃない。でもそういうのはないの。同居してる男の子がいるんだけど、その子の誕生日にも早く帰る気配はないんだって」 中嶋ほど見た目のいい男なら相手に不自由することはないだろう。自分が誕生日を祝ってもらったところで別れてしまえば、相手の誕生日を祝う必要もない。そもそも誕生日なんて頼んで祝ってもらうものではない。だから 「向こうが勝手に祝っているから付き合ってやっている」くらいの感覚なのかもしれないが、それにしても。 「何か……。人でなしっていうよりはナルシスト?」 「自分だけよければいいってタイプ?」 「こだわってるのが自分の誕生日ってあたり、笑えるけどね」 「で? 今日がその誕生日なんだ?」 『中嶋英明』という人間の外見と経歴だけを見て、勝手に憧れ勝手に幻滅した女子たちは「確認しよう」と言って誰からともなく頷き合うと、要子を先頭に事務所に戻ったのだった。 仕事には必ずついてくるものがふたつある。 小学校に入ったとき、父親は中嶋にそう言った。責任と忍耐がその答えなのだそうだ。報酬は「あればラッキー」くらいに思っておけばちょうどいい程度のものらしい。おそらくその後には「小学生の仕事は勉強で……」と続いたはずなのだが、中嶋にそのあたりの記憶はない。ただ、その時に言われた「お給料の半分は我慢料なんだ。たくさんお給料をもらっている人はどんなに楽そうに見えても、見えないところでいろんな我慢をしているんだよ」ということばは、何故か今でも中嶋の心に残っている。今は大きな病院を経営する父親だが、遡って考えるとちょうど大学病院に戻った頃で、何か思うところがあったのに違いない。 本当に何年ぶりかで父親の顔を思い出した中嶋は、今の状態は我慢というほどのものではないと、自分で自分に確認を入れた。つまりはそう思ってしまう状態にあるということだ。どういう訳だか先刻から視線がまとわりついてくるのだ。今朝までは何もなく、それなりに快適に過ごしてきたオフィスが、突如として動物園の檻と化してしまったかのようだった。秦野弁護士とふたりして千葉から戻ってきたときも多少は感じていたのだが、今は『多少』どころではない。とにかく席を立とうとするたびに四方八方から痛いほどの視線が突き刺さり、思わず手で払いのけたくなるほどになっている。見ているのはどうやら事務所の女性職員たちで、上野動物園のパンダの気持ちもかくやと思われた。ゆるみきった人間と違い、野生動物の本性をそのまま残した彼らは、集中する視線をどうやって振り落としているのだろう? 中嶋は確かに目立つ男だ。今まででも、たとえば啓太と食事に入った店で。あるいは修習生時代の通勤途中で、こんな好奇心丸出しの視線を感じたものだ。振り向けば大抵は群れた若い女で、最初は「きゃあっ♪」と黄色い声で騒ぎたてるものの、見返す中嶋の目の冷たさにどこかへ逃げていく。しかしそれを事務所内でやられてしまっては、さすがの中嶋も絶対零度(の視線を投げつける訳にいかなかった。丹羽や篠宮が聞けば「おまえも社会人になったんだなあ」と感心するかもしれないが、それは違う。日常接する女どもを敵に回しては軋轢が生じ、ひいてはこれからの仕事がしにくくなるのを、中嶋は母親と姉からいやというほど学んでいたのだった。 これではもう仕事にならない。あと、ほんの5分もあればキリのいいところまで済ませられたのだが、仕方がないと思いきらざるをえなかった。思ってしまえばぐずぐずはしない。さっさと帰ろうと机の上を片付けかけた中嶋の脳裏に、ちらりと女の声がよぎった。何だろうと少し手を止めて考えてみる。 ―― もう帰るの? 少し笑いを含んだような女の声。やわらかい声は若い女のものではない。いかにもアメリカ人っぽいおばあちゃんの声だ。きれいな発音だが時折そこにフランス語の訛りが混じる。 ―― 貴方は自分の誕生日だけは早く帰るのね。 そして不意に、中嶋の中で何かがつながった。 中嶋は現在こうして日本で働いているが、ボストンの法律事務所を完全に退職してここに再就職した訳ではない。名前だけではあるが現在も籍は残っていて、数年後 ―― おそらく3年後くらい ―― にはまた向こうに戻ることになる。つまり向こうの事務所とこちらの事務所とはかなり綿密なやりとりを重ねてきていたのだ。ボストンでその仕事をしていたのがフレデリカだった。アメリカのホームドラマに出てくる元気で好奇心旺盛なおばあちゃんそのものみたいなフレデリカだが、軍人だった夫を湾岸戦争で亡くしている。こどもがいなかった所為か中嶋を本当にかわいがってくれているのだ。啓太などはもう、彼女に贈るクリスマスプレゼントに頭を悩ませているくらいだ。費用は惜しまなくていいと言っているので何かを見つけてくるだろうが、近いうちに相談にのってやらなくてはと思っている。 そのフレデリカに言われたのだ。ちょうど去年の今日。貴方は自分の誕生日だけは早く帰るのね、と。 おそらくはこっちの担当者と仲良くなったフレデリカが、さも重要事項のような顔をしてリークしたに違いない。理由がわかれば終息時期も知れる。1日か2日、せいぜいが3日もあれば誰もが何もなかったような顔をしているだろう。また来年、同じような視線に追いかけ回されるかもしれないが。 お先に失礼しますと声をかけて外に出た。相も変わらず追いかけてくる視線をドアで遮ったとたん、「きゃああ〜っ! ホントに帰ったわ〜っ♪」という声が耳に届く。中嶋はそれを憮然とした表情でやりすごした。 だって仕方がないではないか。今日は中嶋の誕生日。啓太がない知恵と腕を絞って作った料理が中嶋を待っているのだから。そして少しでも早く帰ってやると、本当に嬉しそうな顔をするのだから。ほかの日なら「悪いが遅くなる」の一言で済ませてしまえても今日だけはいけない。中嶋のために、ただ中嶋に喜んでもらうためだけに費やされた啓太の努力の時間を、ほんの少しでも損なうことがあってはいけないのだ。今日は中嶋英明の生きる世界において、今日は唯一にして無二の日なのだった。 それを思えば女共の無遠慮な視線もかんだかい嬌声も、まったく気にはならなかった。 ビルを出ると思ったより風が冷たくなっていた。周囲に合わせて歩くうちに自分でも気づかないうちに速足になった。だが中嶋の胸の内は温かかった。啓太を思うだけでいくらでも温かくなってくるのだ。本当に、ふんわりと、温かく。 沸き上がる温かい想いを押し留めようともせず、中嶋は彼を愛してくれる者の待つ場所への帰途についた。 |
いずみんから一言。 「だって仕方がないではないか。啓太が〜待っているのだから」 この部分を書きたいだけに、A4で7枚半を費やしました。 けいたんが出てきて甘えてくれなかった分、書くのが大変でした(笑)。 あー、そうそう。 中嶋氏が持て余してる離婚調停ですが、モデルがいます。 知人曰く「上司の娘なんかもらわなきゃよかったんだ」だそうです(爆)。 |
作品リストへはウインドウを閉じてお戻りください。 |