静 夜
 雪を踏む音が聞こえたのは、そこがとても静かだったからだ。
 内も外も、まるで振り積もった雪に封じこめられたかのように、音を見事に消し去ってしまっている。過ぎていく時間の存在を教えてくれるのは、ただ釜の中でたぎる湯の音だけだ。蓋のつまみになっているふくろうが、それを聴いているかのように小さく首を傾げている。
 かすかな音があるからこそ分かる静寂 ―― 。
 この静けさに満足して、西園寺はほうっと息を吐いた。最近ではカウントダウン・パーティーなどと言って夜通し騒ぐ輩も増えているようではあるが、西園寺にとっての年越しは、やはり静かな方が望ましい。旅先で迎えるならまだしも、気に入りの茶室で迎えるのだから。
 そして。待つほどもなくにじり口が開き、銀の髪が長身を折り曲げるようにして姿を見せた。
「ああ、寒い。よくこんなところに座っていられますね」
「炭に火が入り、釜で湯が煮えている。ここにいればそれなりに温かい」
「まあ……、遠赤外線ですからね」
 軽く肩をすくめた七条は無造作に炉の前に座ると、ダウンのジャケットを脱いでうしろに置いた。そこがあくまで炉のための場所であり、客の座るところでないのは七条にも分かっていた。七条が寒がるのを知っている西園寺が、少しでも火に近い場所に座れるよう、わざとそこに干菓子器を置いておいたのだ。寒い中をわざわざ足を運んで来てくれた客に、少しでも暖かさを感じてもらうのが亭主の気配りというもの。決められた作法というのはあくまでベースに過ぎず
「場」に応じた変化をさせるのもまた、亭主の器量なのだ。ましてや西園寺と七条との間柄である。躊躇すべき何物も、そこには存在しない。七条が自分の意図したとおりの場所に座るのを見て、西園寺は用意していた黒楽の茶碗にたっぷりの湯を注いだ。それなりに温かいといってもやはり冷えている所為か、茶碗の中が見えないほどの湯気が上がった。
「四畳半で良かった。日本の建築って寒いんですよ。部屋が広かったらやってられません」
 そう言いながら炉に手をかざす七条に、西園寺は軽く鼻を鳴らした。
「だったら茶道口の方から入ってくればいいだろう。場所を知らないお前ではあるまい」
「この向こうの水屋を通って、ですか? とんでもない。願い下げです。僕はここの水屋が苦手なんですよ。それこそ知らない郁ではないと思いますが」

―― 臣。こっちから抜けると茶室に出られるのを発見したぞ。ほら。水屋だ。やっぱり茶室は
    母屋とつながってたんだ。
―― 僕、ここ嫌い……。薄暗いし、古めかしいし、何かが居そうな気がする……。
―― うん。中国の古い茶器には精霊が宿るというからな。日本の茶道具にも何かいるかも
    しれない。
―― やだ……っ!
―― しっ! おじいさまがまだ露地を清めておられるんだ。大きな声を出すと勝手に入ったの
    がばれる。
―― ………………。
―― でもな、臣。何かいたとしても、それはけっして悪いものではないと思うぞ? だって100
    年も前からあって、たぶん100年あとにもある。どんなにがんばっても100年生きるのが
    やっとの人間なんかより、ずっとすごいものに違いないんだ……。

 シャッ、シャッと歯切れよく濃茶を練る茶筅の音が露地を清めていた竹箒の音と重なり、いとも簡単に意識を幼い日へと誘っていく。七条にはもぐりこんだ水屋の薄暗さを。西園寺には冒険と発見の興奮を。それぞれに違う想いを呼び起こしたそれは、西園寺が茶碗を出したことによって断ち切られた。
「……濃茶なのに干菓子なんですね。除夜釜には蕎麦饅頭が出ると理解していたのですが」
 前もって出されていた干菓子器には、千代結びにした紅白の有平糖と松を型取った落雁が形良く盛りつけられていた。問うまでもなく、それらは薄茶の菓子であり、和菓子を苦手とする七条への配慮であった。
「出しても食べないくせに」
「ええ。まあそうなんですけどね。でも聞いてみたいじゃないですか」
 干菓子器の端に添えられていた懐紙を無視した七条の長い指が千代結びの有平糖を口に入れ、返すその手で茶碗を取り上げた。艶やかな黒楽の肌が、七条の手に吸い付くように収まった。手元からでさえ、濃厚な茶の香りがふわりと立ち上ってくる。一口含むと、上質の茶だけがもてるなめらかな甘味と、有平糖の直接的な甘味とが、口の中でゆっくりと融和した。
「ああ……。僕にも飲みやすい練り加減ですね」
「お前の言う『アメリカン』だ」
「うふふ……。良く分かる説明でしょう? でもお茶そのものも美味しいですよ」
「一保堂の『虎昔』を使ってみた」
「へえ? 限定品ですか? そういうのって買ってみたくなりますよね」
 口に有平糖を含んだまま濃茶を飲み終えた七条が、畳に戻した茶碗をゆっくりと鑑賞しはじめた。取り立てて眼にするほどの景色があるわけでもないし、形が凝っているわけでもない、ただの黒い楽茶碗である。だがそれだけにかえって形の美しさが際立って見えた。茶碗そのもののもつ迫力とでもいうべきものが、シンプルさゆえに誤魔化されず、観る者にストレートに伝わってくるのだ。
「これはいい茶碗ですね。すっきりとしたたたずまいで、黒が黒としてそこにあるみたいな。茶碗を宇宙だと言ったのを聞いたことがありますが、これはまさにそれですね」
「道具に興味のないお前にすれば上出来だな」
「とりあえず、数だけはたくさん見ていますからね」
「当代の作だが、古いものにひけは取らないと思う」
「何か銘でも?」
「『静夜』だ。静かな夜」
「なるほど」
「茶杓は見覚えがあるだろう。おじいさまの作で『歳月』だ」
「金婚式に削っておられたあれですね」
 もちろん七条はその茶杓を覚えていた。それを削っていた西園寺の祖父が、金婚式の意味などを話してくれたからだ。幼い頃に両親が離婚し、人間関係が希薄になってしまった七条には、結婚という誓約が50年も続いたことに、驚きを通り越して感動すら感じずにはいられなかった。なにしろ七条の両親はその5分の1でさえ共にいられなかったのだから。そのとき七条は身じろぐこととさえ忘れて、茶杓を削っていく皺だらけの手をじっと見つめていたのだった。
『静夜』も『歳月』も。なるほど。今夜のような席には相応しい。

「それにしても除夜釜とは珍しいですね。いつもなら温泉に行っている頃なのに」
 感傷にひたりかけた自分を引き戻すかのように、七条が話題をかえた。と言ってもとってつけたわけではなく、呼ばれたときから不思議に思っていたのだ。西園寺家では年末年始、温泉宿の離れを借り切って過ごしているからだ。昨年は急用で西園寺たちが引き上げたあと、啓太とふたりで泊まらせてもらったのだった。
「行かないわけじゃない。わたしは明日の昼に出かけることにしただけだ」
 あとに続く一瞬の間に、西園寺が笑ったように見えたのは七条の思い過ごしだったろうか。返ってきた茶碗を戻した西園寺はこちらを向いておらず、表情を伺うことさえできなかったが。
「ハルにな」
「……は?」
「孫が産まれた。女の子だそうだ」
 思いもかけない名前に、七条の反応がわずかに遅れた。名を思い出すより先に柔らかい笑みが脳裏に浮かび、その向こうにセーラー服のお姉さんが見える。学園に入ってから会わなくなってしまっていたが、西園寺のばあやには確かに娘がひとりいた。あのばあやの名が、確かハルではなかったか。そしてその娘が西園寺に出入りする業者のところに嫁いだというのも、どこかで聞いたような気がした。
「それはおめでたいですね。いつですか」
「昨日の夜だ。早産の気配があるとかで、先週から入院していたんだ。予定日より1ヵ月近く早くなったが、どちらも元気のようだ」
「それはそれは。親孝行な子供ですね」
 七条がくすっと笑ったのは、産まれたのが年末であっても所得税の控除は1年分受けられるからだ。いかにも会計部的な発想に、西園寺が苦笑をもらした。
「なるほど。それで除夜釜ですか」
「まあな」
 西園寺のばあやである以上、ハルは温泉に同行すると言うだろう。たとえ娘が死にかけていたとしてもそれは変わらないはずだ。そして露ほども気どらせず、いつものように西園寺の世話をするに違いない。心の中で、気が狂いそうなくらい心配していたとしても。だから西園寺は「除夜釜をかける」と言ったのだ。これで元日の午前中まで、ハルに時間を作ってやれたことになる。もしそれでハルの娘が落ち着かないようなら、また何か理由を作ったのに違いない。西園寺は自分にも他人にも厳しい人間ではあるが、そういう一面ももつ男だった。
「まあ……、ふたりで除夜釜というのも悪くないですね」
「そうか?」
「ええ。だって薄茶も飲ませてもらえるんでしょう?」
「そのつもりだ」
「じゃあ郁も一緒に。茶碗もこのままでいいですよ。せっかくの夜なんですから、ふたりで静夜を楽しみましょう」

 炉と釜の隙間からのぞく炭の赤さが、穏やかな安らぎをもたらしてくれる中。新しい年を迎えるために、ひそやかに時はその座を退いていく。
 静けさが運んでくる除夜の鐘に、西園寺と七条はただ黙って聴き入った。








いずみんより一言

去年、中啓でどたばたした年越しを書き。
11月には、中嶋と啓太に真夜中の道を歩かせました。
その少し前に七啓クリスマスを先送りしたこともあって、
七啓で静かな年越しを書きたくなりました。


イメージしたのはこんな感じ。

遺愛寺鐘欹枕聽 (遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き)
香爐峰雪撥簾看 (香爐峰の雪は簾をかかげてみる)

                   白居易の七言律詩


ま。玉砕はいつものことさ……(涙)。

えと。
除夜釜をこんなふうに書いてますが、かなり崩してます。
こんなんだと思っちゃだめよ〜(汗)。
力量のある西園寺さんだからこその席だと理解して下さい。
本来は手燭みたいので灯りを取るので、むちゃ暗いです。
背景に使ってるみたいなライトは使いません。
でも今回は電気がついてて明るい気がするな(笑)。
日記にも書いたのですが、一保堂の虎昔は20グラムで1890円もしました。
買ってないのでどんな味かは分かりません(笑)。

夜噺というスタイルのお茶事は待合に火鉢が置いてあったり、蹲に湯桶がおいて
あったり、なかなかいい風情なのですよ。
今回はホントにお茶を飲むだけでお茶事にはしてないんですけどね。
このあとは炭に灰をかぶせて埋め火にして初詣にいってもらいます。
帰ってきたら待合で「大福茶」ってのを飲みます。
席に戻ると席中がころっと変わって……。
っていうのが除夜釜の基本パターンです。

ほかの話の背景に使った写真ですが、炉はこんな感じで切ってあります。
流派が何流なのかは不明だけどまあいいや。
向こう側の襖の前に西園寺さんが、こっちから見て炉の右上角を狙って斜めに座り
七条クンは炉の手前の縁に向かって、つまり写真が切れたくらいのところに両膝が
あるくらいの場所に座っています。(ホントはもう1枚うしろの畳)
右手にすこんと開いている畳は「貴人畳」といって、下々は座れない(笑)畳です。

               




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