禁断の単語




 英作文を見てもらってて、中嶋さんに怒られた。単語を間違ってたらしい。解答例文をみると確かに間違ってた。L と R を取り違えてる。よくある ―― 受験生にはよくあっちゃいけないんだけど ―― ミスだ。なのに。中嶋さんときたら今日に限って怒るんだ。挙げ句の果てに「いやらしい子にはお仕置きが必要だな」と言って宿題を言い渡された。その単語を1000回書くまで中嶋さんに会いに行っちゃいけないなんて。お仕置き通り越して拷問だよ。そしてご丁寧に1〜1000の数字をふった枠を作った紙を持たされ俺は、「じゃあな。がんばれよ」という、じつにあっさりした言葉ひとつで部屋を追い出されてしまった。
 何でこの単語だけ。そうは思っても中嶋さんがああ言った以上、1000回書かなきゃ会いにいけないわけで。それはつまり1000書けたら会いにいけるってことでもある。1秒早くはじめれば1秒早く終る。自分で自分にそう言いきかせた俺は、部屋に駆け込むなり書き取りをはじめたのだった。

 最初こそ調子がよかったものの、アルファベットでたった8個の同じ単語ばかりだとだんだん飽きてくる。それでつい、漫画に手がのびてしまったから、100個を区切りにして図書館に行った。移動の時間がもったいないとは思ったものの、やっぱり図書館は勉強するための空間だった。邪魔をするものもなく、なんだかうれしくなるくらい捗った236個め。アタマの上の方から「おやおや。こんなところで書き取りですか?」という声がした。顔をあげると七条さんがパソコンを抱いて立っていた。
「伊藤くんは勉強熱心ですね」
「違うんです。俺、英作してて単語間違えちゃって。そしたら中嶋さんがお仕置きだ、って。1000個書くまで終わらないんです」
「1000個なんて大変ですね。あの人でなしさんの言いそうなことです」
「俺はちょっと L と R を間違えただけなんですけどね……」
「それはそれは災難でしたね」
 そう言って何気なく俺の書いてた紙を手に取った七条さんは、その瞬間に一気に凍りついた。心なしか「ピキッ」と亀裂の走る音さえ聞こえた気がする。さっきまでの温和な顔は何処へやら。七条さんは完全な無表情になっていた。
「……伊藤くん」
「はい?」
「L と R を間違えたのはこの単語ですか?」
「そうですけど……?」
「それでは不本意ではありますが、僕も誰かさんと同じ意見です。もう二度と間違ったらダメですよ?」
「……はい」
「それから、もし郁がきたらこれを隠してください。郁は何より下品なのが嫌いですから」
 下品? この単語のどこが下品なんだろう? 書き取りの紙を返してもらった俺は、不思議に思いつつも「はい」と返事をした。が、どうやらそれは遅かったようだ。七条さんの後ろで、西園寺さんが綺麗な眉をひそめていた。
「わたしに何を隠すというんだ?」
「おや? ずいぶん早かったんですね。スリランカ大使からのお電話はもう終ったんですか?」
「臣」
「はい?」
「話をそらすな」
 きつく西園寺さんに睨まれて、七条さんは困ったような顔でため息をついた。
「郁が将来、有能な外交官になる為には、聞かなかったフリというのも覚えなければいけません」
「状況判断は間違っていないと思うが?」
「『間違っていない』は『正しい』とは違う、とも思いますね」
「ふん」
 そう言って西園寺さんは、俺がまだ持ったままだった書き取りの紙を取り上げた。隠さなきゃと思いながらも、つい西園寺さんと七条さんのやりとりに目がいってしまい、馬鹿みたいに両手で掴んだままにしていたのだ。せっかく七条さんが時間を稼いでくれていたのに。俺ってホントに馬鹿だ(涙)。ところが馬鹿はそれで終らなかった。何のヘンテツもない書き取りの紙を見て不思議そうにした西園寺さんに、ご丁寧にも説明をしてしまったのだ。L と R を取り違えてしまったので、中嶋さんからお仕置きに1000回書かされているのだ、と。
「L と R を間違えた、だと?」
「そうなんです。受験生なのにこんなじゃだめですよね〜」
「ふん。それで1000回か。やはり啓太が絡むと中嶋も甘くなるな。わたしなら3000回は書かせるところだ」
「え、ええーっ!3000回、ですかあ?」
「当たり前だ。二度と間違うな」
 思わず涙目になってしまった俺に紙を突き返した西園寺さんは、不機嫌そうに七条さんを促して奥へ行ってしまった。七条さんの忠告をいかせなかった俺は、帰りにもう一度顔を合わせる根性がなくて、逃げるように図書館をあとにしたのだった。

 行き足が衰えたついでに足を停めた俺は、何処に行ったものかと考えた。飛び出してはきたものの行き先など考えてもいなかったのだ。迷子の子犬になった気分でうろうろきょろきょろしていたら、後ろから声をかけられた。クラブハウスへ向かおうとしているらしい成瀬さんだった。
「やあハニー!」
「あっ、成瀬さん」
「どうしたの、その顔は? もしかして僕を探してくれてたのかな?」
 成瀬さんはすごく不思議な目を持った人だ。試合の時にはあんなに鋭い目をするくせに、俺を見てくれる目はとても温かい。篠宮さんもそんなところがあるけど、成瀬さんのはとびきりだ。そんな柔らかく包みこんであやしてくれるような目につい安心しきってしまった俺は、コトの一部始終を話してしまっていた。
「じつは……」
 今から部活で忙しいだろうに、成瀬さんはうんうんと俺の話を聞いてくれた。そう言えば退学勧告をされたとき、俺の様子がおかしいことに最初に気づいてくれたのは成瀬さんだった。そんな油断があったんだろうか。
「ふうん。ちょっと見てもいい?」
 と促されて、何も考えずに書き取りの紙を渡してしまっていた。あとは……。そう。七条さんの時と同じ。まるで録画を再生したみたいだった。優しかった表情がみるみるうちに硬く険しいものに変わっていく。普段の印象がやわらかいだけに、ちょっとした変化が胸のうちに突き刺さるような気がした。
「……啓太」
「はっ、はいっ」
「僕はいつだって君の味方だよ?」
「はい……」
「でも、だからこそハニーにはこんなミスをして欲しくない。もう絶対間違えないって約束してくれる?」
 なんでそうなるのか全然分からなかったけど、俺がその単語の L と R を間違えたことで、みんなが困った顔をする。七条さんも、西園寺さんも。そして成瀬さんも。だから俺ははいと頷くことしかできなかった。
「もう二度と間違えません。約束します」
「うん。啓太はいい子だね」
 心の中で「ごめんなさい」と謝りながら、俺はようやく笑ってくれた成瀬さんを見送った。

 どうしていいのかわからなくなって、しょんぼりとぼとぼ、とにかく足だけを動かしていたら、向こうからチャリに乗った俊介がやってきた。
「よう。啓太やないか。何シケた顔してんねん」
 失敗はしまくったけど俊介なら大丈夫かもしれない。そう思った俺は、どうすればいいのかを相談してみた。こんなに気軽く話はしてても、俊介は2年生。歳は1年と1ヵ月も上なのだ。それにトライアルの国際試合で磨いたとっさの状況判断の的確さは、西園寺さんや和希も認めるところだった。だから今の俺に何か役立つことを言ってくれそうな気がしたのだ。ところがひととおり聞き終わった俊介もまた首をひねってしまった。
「不思議やなあ。副会長や女王様ならわからんでもないけど、由紀彦までが表情変えるやなんてな」
「だろ? 俺もう、どうしたらいいのかわからなくなっちゃって……」
「そいでそないしょんぼり歩いとったんやな」
「うん」
「よっしゃ!」
 俊介は愛車にまたがりなおすと、ぽんぽんとうしろを叩いてみせた。どうやら乗れと言っているらしい。ちょっと遠慮しながらうしろに乗った俺は、自分の足の間から見える荷台のはしを掴んだ。俊介は文字どおりすっ飛ばすからこれでは危ないんだけど、俊介の体にしがみついてるのを中嶋さんに見られたらもっと危ない。
「安全運転で頼むよ」
「まかしとき!」
 俊介はふたりも乗ってるとは思えないくらいのスピードでペダルをこぎはじめた。

 俺的には無茶だとしか思えないスピードで突っ走りながら、俊介はこれからの計画を説明してくれた。
「今、啓太がせなあかんのは、書き取りを仕上げることともうひとつ。L を R に変えた単語が何か調べることや」
 思わず「あっ!」と言いそうになった。そうだ。部屋に戻って最初に調べればよかったんだ。俺は単につづりを間違えただけだと思っていて、1字違うだけの単語があるなんて思ってもいなかったのだ。
「全然、思いついてなかった」
「うんまあ、当事者にはかえって盲点かもな」
 もし本当にそんな単語があったとしたら。意味が分かればみんなを怒らせたり困らせたりした理由も分かるに違いない。今日はじめての光明に、俺は思わず興奮しかけていた。そうと分かれば善は急げだ。思わずチャリから飛び下りかけた俺に、だが俊介は冷静だった。
「待て。さっきも言うたやろ? おまえが今やらなあかんのは、まず書き取りを仕上げることや、て」
「でも……」
「でもやあらへん。単語の意味が分かったかて書き取りがなくなる訳やない。調べよる時間に5個でも10個でも書けるやろ」
「それはそうだけど……」
「せやからそれは俺が調べたる。ちょっとな、デリバの仕事で4時に町までいかなあかんねんけど、5時前には帰れる。帰ったら真っ先に調べて教えたるから、今はここでノルマ減らしとき」
 そう言って俊介がチャリを停めたのは、学食の前だった。
「学食?」
「啓太に会う直前までおやつにおにぎり定食食べとったんやけど、ほかに誰もいてへんかったんや。邪魔も入れへんから書き取りは捗るし、何しとるんか説明せんでもええし。ええ環境やろ?」
 一方的にまくしたてた俊介は「ほな後でな」の声を残し、疾風のように走っていってしまった。

 誰もいないと俊介は言ってたけど、学食では和希がものすごい勢いでハンバーグ定食をかっこんでいた。そう言えば今日は4時間目から姿が見えなかったっけ。こんなに遅い時間に定食を食べている背中が、なんだかうちの父さんより疲れて見えて、俺は入り口脇の自販機でホットのココアをふたつ買った。
「海野先生のほど美味しくはないけど」
 そう言って、カップを和希のトレイに載せる。顔をあげた和希が、いたずらを見られたような表情でほっぺたをぽりぽりと掻いた f^_^; 。ココアをふたつ買ってここまで歩いてくる、そのわずかな時間に、半分くらいはあったハンバーグ定食はパセリさえ残さず空になっていた。確かに、あんなふうに脇目もふらずにかっこんでるのを見られたら、恥ずかしいかもしれないな。
「今頃、昼なのか?」
「兼夕食だな。ココアの甘味が身にしみるよ。サンキュ、啓太」
「60円じゃ、どういたしましてとも言えないけど」
 それからふたりでしばらくの ―― と言っても実際は2〜3分くらい ―― 間、黙ってココアをすすった。せっかく俊介が作ってくれた時間だけど、少しくらいはいいだろう? 単語が分かればみんながあんな顔をした理由も分かるんだから。それに和希がゆっくりできないことも分かっていた。ゆっくりできるならあんな勢いでハンバーグ定食をかっこむ必要もないのだから。そしてその予想通り、俺がまだ半分も飲めていないのに、最後の一口をがばっと飲んだ和希は、カップを握りつぶして席を立つ準備をはじめた。
「あ〜あ。啓太のおかげでほっとできた。お礼に今度、ケーキ買ってくるよ」
「無理はしなくていいからな」
 ついでのあるときでいい。そう続けるつもりだったのに、俺は思わず口をつぐんでいた。和希なら。そして理由が分かりかけたのだから。あんな失敗はしないですむかもしれない。だから俺はなるべくさりげない顔と声を作って、書き取りの紙を出した。
「ケーキよりもさ。これ教えてよ」
「どれどれ?……ああ、書き取りか」
「これさ。この L を R に変えただけの単語ってある?」
「L をR に……」
 その瞬間の和希の顔は、ほかの人たちと同じようでいてまったく違っていた。目が泳ぎ、口元には困ったような笑いが浮かんでいる。何かある。確信した俺はたたみかけた。
「あるんだな?」
「う、うん。あるある。あるよ」
「じゃあそれってどんな意味?」
 和希が思わず1歩逃げた。和希には非常に珍しいことだ。でも1歩で踏みとどまったのは、さすがということなんだろうか。
「いっ、意味?」
「そう、意味」
「それは……」
「それは?」
「こ、今度。そう! 今度だ。今度。なっ!?」
「今度じゃなくて!」
「じゃな。俺、石塚が待ってるから」
「おい! 和希!」
 止める間なんてありゃしない。経営が一流なら逃げ足も一流だったようだ。引き留める間もなく、和希は走って行ってしまった。

 あまりの素早さに思わず「早っ!」と口走ってしまった俺の耳に怒鳴り声が聞こえてきた。
「こら遠藤! 廊下を走るんじゃない!」
 あ〜あ。篠宮さんだよ。和希も運が悪い。ここんとこ門限までに帰れてなかったから、お小言も聞き甲斐があるだろう。でも運が悪いのは何も和希だけじゃない。俺も似たようなものだ。こんなところで書き取りなんかしてたら絶対、何か言われそうだ。でも大丈夫。分かっていさえすれば逆手に取ることだってできるはず。うまくいけば単語の意味だって教えてもらえるかもしれない。そして何もないフリをして書き取りを続け、新しく7つ書けたところで、篠宮さんが姿を現した。岩井さんと一緒だった。
「篠宮さん、岩井さん。こんにちは。今頃、学食ですか?」
「ああ……。篠宮に、捕まって……」
「何が『捕まった』だ。そんなセリフはきちんと食事をしてから言え」
「また食べてなかったんですかぁ?」
「昨日の昼からな。悪いが伊藤、雑炊を作ってくる間、卓人が逃げないように見張っていてもらえないか」
「いいですよ?」
「頼む」
 椅子を引いて岩井さんを座らせた篠宮さんは、カウンターで何かを注文するのではなく厨房の方に入って行った。いつも誰かのために作ってるから、篠宮さんはほとんどフリーパスみたいなものなんだろう。俺も一度作ってもらったけど、中華風に胡麻油で仕上げたシャケのお粥はホント、絶品だった。
「啓太……。それは、書き取りか?」
「そうなんです」
「そうか……。俺を気にせず、続けてくれ」
「はあい」
 俺が書き取りを再開すると、岩井さんはその様子をスケッチしはじめた。ちょっと恥ずかしいけど、でもモデルになってると思ったらよそ見とかできなくて、俺はひたすらシャーペンを動かしていた。もう忘れないように。二度と間違わないように。心に刻みながら。だけど岩井さんの手は本当に早い。俺が単語を3つ書くうちに1枚出来上がっている。半ば競争するみたいな気分と、モデルをしている適度な緊張感とが相乗効果をもたらしてくれて、書き取りのマス目はどんどん埋まった。
 篠宮さんが出来上がった雑炊を持ってきたのは、500をちょっと越えたところだった。土鍋の中で中身がぐつぐついっている音が聞こえる。篠宮さんがフタをとると、ふわっといい匂いがした。
「伊藤。勉強している横ですまないな」
「いえっ? 全然かまわないです」
 そう。テーブルを替わられるよりここにいてもらった方がいい。俺はしばらく書き取りを続け、計りに計ったタイミングで篠宮さんに声をかけた。
「すみません篠宮さん。ちょっといいですか」
「ああ」
 茶碗によそった雑炊に刻み海苔をかけていた篠宮さんは、それを岩井さんの手にもたせてからこっちを向いてくれた。
「何かあったのか?」
「俺、ちょっとスペル間違えちゃって、中嶋さんから書き取りしろって言われてるんです。でも何でこの単語に限ってそんなこと言われるのかわからなくて……」
「スペルを間違えた単語の書き取りをするのは、何も間違っていないとは思うが……」
「でもいつもならそんなことなんて言わないのに……」
「うむ……。ちょっと見てもいいか?」
「はい。岩井さんも一緒に考えてもらえたらうれしいです」
 篠宮さんは俺の渡した書き取りの紙を岩井さんにも見えるように傾けて、ふたりでそれをのぞきこんだ。第1段階は成功だ。がんばれ俺! ここからが本番だ。
「ここの L を R にしちゃってたんです。そうしたら……」
 そこから先のふたりの反応は、ある意味、さすがと唸っちゃうくらいだった。
「……ああ……」と言ってふわっとした笑みを浮かべたのは岩井さん。いつもみたいな儚げなものじゃなくて、いたずらの共犯者になったときみたいな、そんな笑みだ。そして「うむ。なるほどな」と納得したのが篠宮さんだった。
「俺には中嶋の気持ちが分かる気がする。伊藤にはこんなミスをして欲しくないんだろう」
「でもそれ、どんな意味なんですか? 受験用の単語集にはなかったと思うんですけど」
「まあな。さすがにこれは載っていないかもしれないな」
「どんな意味か、聞いてもいいですか?」
 受験用の単語集云々というのはじつはウソだ。なんとなくそんな気がしただけだ。でも載ってても載ってなくても、そう言えば真面目な篠宮さんなら答えてくれるはず。そう期待していたのに。ふたりで顔を見合わせて、返事をくれたのは岩井さんだった。
「……それは……。中嶋に聞けばいい。ある意味、とても中嶋的な単語と思うから……」
「そうだな。俺もそれがいいと思う」
「そうですか……」
 うまくはぐらかされてしまった。本当なら腕にでもしがみついて「えーっ、ずるい! 教えてくださいよぉっ!」とダダこねてみせるところだ。でもさすがにこのふたり相手にそれもできなくて。俺はそのまま引き下がることしかできなかった。

 なんだか気をつかわせるのが嫌で学食を出てしまった俺は、何処へ行こうかと考えながら、しばらくとぼとぼと歩いた。だって篠宮さんなんて、うめあわせだと言ってほかの間違えやすい単語の覚え方を教えてくれようとするんだよ。例えば 『砂漠』 と 『おやつのデザート』 はSがひとつかふたつあるかの違いでしかないらしい。
「食後のデザートはおかわりが欲しくなるだろう? だからSがふたつある方なんだ」
 単語を覚えるのに四苦八苦している俺には、確かにそれはそれでとっても有難い情報ではあるんだけど。でも今の俺が欲しいものではない。だから俺としては学食を出るしかなかったんだ。
 だけど。本当にこれは何なんだろう。受験用の単語ではないのにみんなが知っている。今のところ知らなかったのは俺と俊介だけだ。それなのに誰も意味を教えてくれないなんて。っていうより、口にするのが嫌なのかもしれない。七条さんや西園寺さんの顔がそうだった。時計に目を落とすと4時半になろうとしている。あと30分待てば俊介が帰ってくるだろう。気にはなるけどせっかく俊介が作ってくれた時間なんだから、もうちょっとノルマを減らしておかなきゃ申し訳ない。そう思ってあたりを見回して、そこが東屋の近くだったと気がついた。
 東屋。うん、なかなかいいチョイスかもしれない。西園寺さんがあのまま図書館にいるか会計室に行くかしてくれていれば顔を合わせる恐れもない。西園寺さんがあそこで昼寝をしたりするのは、あまり邪魔が入らないからだ。その西園寺さんがいなければほかには誰もいないはず。俺は迷わず東屋に足を向けた。

 予想は見事にはずれてしまった。西園寺さんのかわりに王様が昼寝をしていたのだ。俺の入って行った気配で目を覚ました王様は、起き上がってがしがしとアタマを掻いた。
「よう啓太。今日はヒデの野郎と一緒じゃなかったのか?」
「違うんです。俺、英作でスペル間違えて、中嶋さんに書き取りを言いつけられちゃったんです。1000回書くまで顔を見せるな、って……」
「はっはっは。あいつらしいぜ」
 今日何度目になるか分からない状況説明に、これまた何度目か分からない返事が返ってきた。王様はどうだろう。あの話をしたら、やっぱり嫌な顔をするんだろうか。意味を聞いたら教えてくれるだろうか。でも王様の口から中嶋さんにそれが漏れたりしたら困るし……。自分で調べたりするならともかく、王様に聞いたってバレたら中嶋さんはきっといい顔をしないに違いない。しかもこの単語に何かがありそうだとわかった上でのことだからなおさらだ。篠宮さんや岩井さんだったらさほどでもなかっただろうけれど。
 聞くことによって起きるプラスとマイナス。聞かないことによって起きるプラスとマイナス。王様と話をする一方で、あれやこれやいろんな思いがアタマの中をよぎっていく。人間のアタマってすごいよ。全然ちがうことを同時処理できるんだから。あれやこれやそれや。向こうの方まで考えて。そしてついに好奇心が勝ってしまった。
「単語なんてよお、とにかく書けばいいんだ。書いて書いて書いて、手が忘れられなくなるまで書く。俺は一度、郁ちゃんがそうやってるのをみたぞ」
「えっ、西園寺さんもそんな覚え方してるんですか!」
「ああ。あれはロシア語だったかな」
 なんだ。ロシア語か。アルファベットが英語とかのと違うから余計なんだろうけど。語学の天才みたいな西園寺さんでも、やっぱり努力してるんだと思えば、それはそれですごい感動があった。
「ところで俺が間違ったのってこれなんですけど」
「ああ?」
「これの L と R を間違えちゃったんです」
「……ははあ……。なるほどなあ」
 王様の顔に苦笑が広がった。王様も意味を知っている。それを確信した瞬間、心のあちこちに散らばっていた迷いが、きれいさっぱり消え失せた。
 聞くしかない! それも今だ! 前進あるのみ。撃ちてしやまん! いざ出撃!
 瞬時に臨戦態勢を整えた俺は、思いっきりの上目遣い。しかもおねだりバージョンで質問をぶつけた。
「それで、その……。単語の意味って何なんですか?」
「ぶっ!」
 ………………?
 大きな手で鼻を押さえてしまったのは何故だろう? まるで鼻血でも出たみたいな感じ。とでも言えばいちばん近いだろうか。これは今までにないパターンで、判断に困った。
「それって、知ってるってことですよね?」
「あ、あう……」
「だったら教えてくださいよ。誰も教えてくれないんです」
「そ、そりゃあおまえには言えねえだろ」
「岩井さんなんて『中嶋に聞け』って言うし。和希は和希で『今度なっ』とかって逃げてったし……。いったい何なんですか」
 なおも鼻を押さえながら後ずさりしかける王様を、東屋の壁が阻む。よし、今度こそ! と思ったそのとき。
「ぶにゃ〜お」
 トノサマの泣き声は加速装置のスイッチが入る音。たった1秒前までのたじたじとした動きはどこへやら。本来の俊敏さを取り戻した王様は、俺が思わず振り向いてしまったわずかな隙をついて、どこかへすっ飛んでいってしまった。トンビに油揚げというより、ネコにサンマを持ってかれた気分だった。

「ダメだろ、トノサマ! 王様が逃げちゃったじゃないかあっ!」
「ぶにゃん?」
「ぶにゃんじゃないよ。まったくもう……!」
 なんかもう、成功間近だったからむちゃくちゃがっかりだった。期待が大きかっただけに失望感も大きい。あまりにタイムリーすぎる邪魔に腹を立て、踏んづけてやろうかと書き取りをしながらテーブルの下で足を動かしたら、遊んでもらっていると思うのか、トノサマは無邪気に喜んでいる。嫌味も通じない相手に、俺はひっそりとため息をついた。
「あれ〜。トノサマ、伊藤くんに遊んでもらってたんだね〜」
「ぶにゃん♪」
 ……いえ。遊んでないです。むしろ怒ってるんです、俺は。
 ネコが無邪気なら、どこからともなく現れた飼い主は天然だった。トノサマを抱き上げた海野先生は、俺が怒ってることなど気づきもせずに、俺の向かいに腰をおろした。
「伊藤くん、書き取りしてたの? ごめんね。邪魔しちゃって」
「……いーえ。別に」
 俺ってガキか? と思いつつも、つい拗ねた態度を表に出してしまった。顔も上げずにそっけない返事をし、ただシャーペンを走らせる。自分でやっておきながら自己嫌悪に落ちかけたけど、当の海野先生が気にした風でないのでほっとした。
「なになに……? あ、『選挙』かあ。これって書いてるときはいいけど喋る時が大変なんだよね〜」
「え? そうなんですか?」
 これはちょっとフェイントだった。だって今の今までLとRの書き間違えでアタマがいっぱいで、話すときのことなんて考えてもいなかったからだ。驚いて顔を上げた先で、海野先生は女子高生のように声に出して笑った。
「うん。そうだよ。日本人って L と R の発音が下手でしょ? 変に R に聞かれちゃったら……」
 ……その瞬間の衝撃を、俺は忘れることはないだろう。それは生物の教師である海野先生だからこそフツーに口に出せる類の単語だったのだ。逃げていくときの和希の顔、西園寺さんの眉間のしわ。七条さんの凍りついた表情。鼻を押さえた王様に、真顔の成瀬さん。顔を見合わせていた篠宮さんと岩井さん。すべての人の顔が交錯した。同時にみんな人の声が教会の鐘みたいにアタマの中でがんがんと鳴り響く。一気に体中の血が下がっていき、それが倍以上に増幅されて戻ってきた。顔が真っ赤になってるのが自分でもわかる。

 俺ってばなんて単語をみんなに言えって言って回ってたんだよ ―― !

 馬鹿にもほどがある。無知は罪だ。もうもうもう。すべての人にゴメンナサイと心の中で叫びつつ、俺は最後の礼儀として俊介にメールを送るため、携帯電話を取り出したのだった。






選挙



E ●ection



● = L or R ?




いずみんから一言。

あはは〜。あほやりました〜(笑)。しかもシモネタ系(汗)。
じつはこれ、ヘヴンをやりはじめた当初から持っていたネタだったりします。
オチの関係から短いものがいいだろうと、お題かオマケかで書きつづけていたものの
どれも気に入らず。書いちゃーボツ。書いちゃーボツを繰り返しておりました。
何枚もある原稿用フロッピーには、どれにも1つはこのネタが眠っています。
それが今回、突然、天啓のようにぺかっ! とつながりが思いつき、書きはじめていた
連載の原稿を急遽ストップ。
携帯電話も駆使して、わずか1週間で書き上げました。
手の遅い伊住には脅威のスピードです。
単語の意味は……。辞書を引くかやふー等の翻訳サイトからどうぞ。
ゆめゆめどなたかにはお尋ねなきように。
もしお尋ねになっても、以降のことには責任を持ちませんので。あしからず。


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