啓太の守護聖人たち




 クリスマスの馬鹿騒ぎが終わっても、中嶋さんは家に帰ろうとしなかった。
 車の免許を取って、学校の駐車場に自分の車を置いてあるから、もしかして俺を乗せて帰ってくれるかも、って、心の片隅で期待してたんだけど、そんな気配はまるでない。
『俺……。クリスマスが終わったら、家に帰ろうかと思ってるんですけど』
『そうか。気をつけて帰れよ』
『え……っ?…………(拗)……』
『どうかしたのか?』
『いーえっ。べっつにぃ』
『なんだ? 変なやつだな』
『それより、中嶋さんは帰らないんですか?』
『ああ。28日にな。丹羽の野郎が転がりこんでくるから、それにあわせて帰る』
 はああ〜。王様と一緒かあ……。それを聞いて、俺はちょっと……っていうか、かなりがっかりしてしまった。だって王様と一緒じゃ俺の割りこむ隙はない。中嶋さんにとって、少しくらい俺は特別かなあって思ってたんだけど、甘い思いこみだったみたいだ。中嶋さんを挟む俺と王様との間には、2年半もの時間というとんでもなく広くて深い溝が横たわっている。
―― 王様が転がりこんでくるなら、俺も行っちゃだめですか?
 言えば嫌とは言わないかもしれない。でも結局、俺にはそんなことは言えなかった。だから俺は誘われるまま、和希と一緒にバスに乗って駅へ向かうしかなかった。
 和希がわざわざ俺に付き合ってくれてたのがわかったのは、東京駅に着いたときだった。ホームにすべりこんだ俺たちの列車がゆっくりとスピードを落としていく。そしてその動きを止める直前、和希の口から「あっちゃ〜」という声が洩れたのだ。和希の目線を追っていくと、ホームに背広を着たおっさんたちが並んでいた。
「会社の人?」
「ああ。たまんないよな。こんなとこまで迎えに来やがってさ」
「もしかして忙しかったんじゃないの?」
 いくら俺がお気楽でもこれを見れば分る。和希は本当は忙しいのに、俺が中嶋さんと帰れなくてしょんぼりしてたものだから、わざわざつきあって一緒に帰ってくれたのだ。
「……忙しかったからさ。啓太と帰ってくれば、列車の中だけでものんびりできるだろ?」
「……だけど……」
「だいたいさ、理不尽だと思わないか? 従業員には有給休暇があるのに、経営者にはないんだぜ?」
「あ……、そうなの?」
「それどころじゃないぞ。残業手当だってないし、休日出勤手当もくれないのに振替休日さえないんだ。これで過労死したって労災も下りないんだから、列車の中くらいのんびりさせてもらえなくちゃ、マジでやってらんないよ」
 俺に気を使わせないようにそう言ってくれたんだろうけど、そのときの和希の表情ときたらホントに悔しそうで……。思わず笑ってしまった俺は、さほどへこむことなく和希と別れることができたのだった。

 乗換えでホームを下りた俺は、一度改札を抜けて八重洲側から外へ出た。もうずっとずっと前から、ここのブックセンターに行きたかったのだ。今どき本なんてネットでも買えるし対岸の本屋さんでも取り寄せてもらえる。だけどそんなところで買うと中嶋さんに気づかれてしまうに違いない。中嶋さんの眼鏡ってじつはレーダーがついてるんじゃないかってくらい、学園内での俺の行動は把握されてしまっているからだ。この本だけは誰にも知られずに買いたかったし、どうせ買うなら家の近所のしょぼい本屋じゃなく、品揃えのしっかりしている店に行きたかった。
「すみません。あの……。大学の合格祈願に御利益のある神社とかのガイドブックってありますか?」
 自分でもおかしな本を探してると思った。そんなのありませんと言われるかもしれないとも思っていた。だけど俺が訊いたおねえさんは変な顔もせず場所を教えてくれた。よかった。どうやらあるらしい。ちょっとほっとしながら階段を上がっていくと、割と目立つ場所に何種類ものガイドブックが積み上げられていた。俺が知らなかっただけで、実は売れ筋だったようだ。
 たっぷり1時間迷ってその中の1冊を選んだ俺は、さらに何日も迷って悩んで考えて、ようやく4つの神社を選び出した。だって中嶋さんと王様と篠宮さんと岩井さんで、4人だから神社も4つ。神頼みなんて必要ない人ばかりだけど、だからこそ俺が代わりにお祈りしてこようと考えていたのだ。神様の気が散らないように、ひとつの神社ではひとりだけのお願いをした。



 ―― 2年後 ――

 ああ。よく眠れた。
 起きて最初に思ったのはそれだった。いつもより少し長く眠った所為もあるんだろうけど、小さい子供の頃みたいに、安心しきって眠れたからだと思う。受験当日の朝にこんなに気持ちよく起きられるなんて、これだけでも他の受験生より有利なんじゃないかな。
 ベッドは窓を向いていて、起きると向こうの方に低い山が見える。まだ明けきれていない冬の朝。ぴんと張り詰めたような空気の中で、山がとても綺麗に見えた。そろそろ起きて着替えなくちゃ、と思っていたら、ドアを開けて中嶋さんが入ってきた。
「起きたか」
「はいっ。おはようございます」
 昨夜、早く寝るようにいってくれたのは中嶋さんだ。試験の前日に遅くまで勉強したって身につくものじゃないし、試験会場でぼーっとしてしまったら何にもならないからだ。それはよく分ったけど、だからといって「じゃあ、おやすみなさい」と寝られるものでもない。入試の前日にとっとと寝られるほど自信があるわけでもないし、中嶋さんに勉強を見てもらうようになってからというもの、日付が変る前に寝られたためしがないからだ。身についた習慣はなかなか変えられるもんじゃない。ましてや明日は本命の試験だ。滑り止めには受かっているといったって、俺にとっては落ちたら最後。中嶋さんにこの家の鍵を返さなければならないのだ。緊張して寝られない方が普通だろう?
 早めに風呂に入ってゆっくり温まり、寝られないまましばらくごろごろしていると、中嶋さんが俺の隣にすべりこんできた。風呂に入ってきたのか石鹸の香りまでさせている。絶対こんな時間に寝る人じゃないのに、こんなところで何をしてるんだろう。なんて思ってしまううちにも中嶋さんは眼鏡を外し、すっかりお休みモードに入ってしまった。
「寝られないんだろう」
「……はい」
「そんなことだろうと思ったんだ」
 そう言うなり中嶋さんは俺の肩を抱くと、俺の顔を自分の胸に押しつけた。うわっとばかり、とたんに鼓動が跳ね上がる。だけど中嶋さんはそれ以上何もしようとはしなかった。
「……あの……」
「うるさい。寝ないんなら叩き出すぞ」
「ねっ、寝ます。寝ます」
 まだどきどきしちゃってるけど、ひとつ呼吸をするたびに入りこんでくる石鹸の香りで、心が落ち着いてくるのが分かる。それにつれて抱いてもらっている肩からほんの少しずつだけど力が抜けていく。頭を預けている中嶋さんの分厚い胸が、規則正しく上下しているのが分る。気がつくと俺は中嶋さんの鼓動に包まれていた。静かすぎるくらいの部屋で、唯一聞こえてくる中嶋さんの鼓動に身をゆだねていると、なんだかとても安心できた。そうだ。俺を落ち着かせるために、俺を眠らせるだけのために中嶋さんは一緒に寝てくれてるんだ。大丈夫。俺は絶対、ここに帰って来られる……。そんなことを考えているうちに、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。

 ごそごそと起きてリビングに入ると、いつもと同じコーヒーの香りがしていた。早めに起きたからゆっくりできる。厚めのトーストを焼いてマヨネーズを塗り、目玉焼きを乗せたものをかじりながら、いつもより少しだけ甘くしたカフェオレをすすった。
「受験票とかの準備はすんでるだろうな」
「はい。あとでもう一回確認しますけど」
「今のところ渋滞もないようだが、少し早めに出るぞ」
「はいっ」
 こんなとき、中嶋さんと一緒にいられて本当によかったと思う。これが埼玉の家だと、俺よりも父さんや母さんの方が緊張しちゃって、それが俺にまで感染してしまうからだ。高校入試のとき、よく通ったなと自分でも思うくらいだった。今日とは大違いだ。
 食器洗い機に使った食器を放りこんだ俺は、沸かしておいたお湯をステンレスボトルに入れた。俺の受験用に西園寺さんからティーバックが届いたのは先週のことだ。西園寺家で使っているお茶を特別にティーバックに作ったものらしい。お茶はポットに入れてしまうと香りも味も変ってしまうから、お湯を持っていって飲むたびに淹れろということなのだろう。
『わたしも同じものを試験会場に持っていった』と、添えられたメッセージに書いてあった。西園寺さんならどこの試験だって通るだろうけど、それでもやっぱり縁起のいいお茶には違いない。俺はありがたくそのティーバックを持って試験に行くことにしたのだった。
 俺はそのボトルを、コーヒーを入れた小さめのボトルと一緒にバッグに入れた。西園寺さんの気遣いもうれしいけど、やっぱり俺には中嶋さんがいちばんだから、落ち着きたいときとかにはコーヒーでないと駄目なんだ。この香りがするだけで中嶋さんが傍にいてくれるような気持ちになれるからだ。もっていきたいからコーヒーを多めに作っておいてくれるよう頼んだとき、馬鹿にしたように笑いながらも、中嶋さんはとても満足そうにしてくれたのだった。
 受験票オッケー。鉛筆オッケー。消しゴムオッケー。……中嶋さんのデスクからこっそり借りたシャーペンもオッケー。ティッシュにハンカチに財布。会場が寒かった場合にひざ掛け代わりになる大判のマフラーもオッケー。これは和希からクリスマスにもらったものだ。くまちゃんの編みこみがしてあるから広げるのはちょっと恥ずかしいんだけどね。あとは会場近くで売っているという『合格弁当』を買えば完璧だ。
 
 ところが合格弁当は買えなかった。売り切れていたわけでも店が見つけられなかったわけでもない。店はちゃんと見つけた。右側の座席って外が見難いんだけど、それでも気をつけていたおかげで、合格弁当の幟はちゃんと見つけていた。
「あっ!! 合格弁当だっ!! 止めてくださいっ」
「ふうん」
「ふうんじゃないですよぉ。あれ買っていこうって決めてたんですから……」
「どうせトンカツか何かが入っているだけだろう」
「そうですけど……。でも俺のごはんが……。ああ……、過ぎちゃった」
 でもまあ場所は分ったし、時間はたっぷりあるからあとで戻ればいいか。そんなことを考えているうちに、車は大学の構内に入り、少し先の邪魔にならない場所で停まった。
 いよいよだ。俺にとってはこれが最初で最後。後はないんだ。今更のようにわきあがってくるプレッシャーを押さえつけながら、後部座席に置いたバッグを取ろうとしたら、中嶋さんが「隣の紙袋もだ」と言った。確かに俺の荷物の隣に、小さめの手提げの紙袋が置いてあった。
「なんですか、これ」
「おまえの弁当だ」
「えっ!? 俺の!?」
 慌てて中をのぞくと手提げの中に紙袋があって、その中にはカツサンドと受験生に人気のスナック菓子が入っていた。
「篠宮がな。昨日から丹羽の部屋に泊まっていたんだ。おまえに手作りの弁当を持たせたかったらしい。そこまで甘やかすなと言ったんだがな」
「篠宮さんが……」
「顔を合わせると、おまえはつまらん遠慮をしたり緊張したりするだろう? だから俺たちが出発する前に、車に積んでおいてくれと言っておいた」
 篠宮さんがわざわざ、王様の部屋に泊まってまで、俺にお弁当を作ってくれた……。それにたぶんこのお菓子は王様からに違いない。和希にマフラーを編んでもらったり、西園寺さんに特製ティーバックを送ってもらったり、俺ってなんて幸せものなんだろうと思う。ちょっとうるっときかけたけど泣いてる場合じゃなかった。みんなの気持ちに応えるためにもがんばらなくちゃ。そしてバッグの中にサンドイッチの袋を移そうとした俺は、手提げの中にもうひとつ、薄い紙袋が入っているのを見つけた。
「あれっ? もうひとつある……」
 開けてみるとそこには……。学業成就のお守りがいくつも入っていた。掌の中に出してみると、あちこちの神社のお守りが4つ。ひとつは篠宮さんからだと分った。篠宮さんの実家の神社のお守りだったからだ。
「篠宮と丹羽と岩井からだ」
「でも4つありますけど……」
「じゃあ遠藤か成瀬かそのあたりだろう」
「……そうですね」
 口ではそう言ったけど、和希も成瀬さんも七条さんも、実はみんなセンター試験にあわせて寮の方に届けてくれていた。西園寺さんだったらお茶と一緒に贈ってくれるだろう。だからこの最後のひとつは中嶋さんからのものだ。知らん顔をしてフロントガラスの向こうを見つめる横顔に、俺はそう確信した。
 俺がこの試験に落ちたら家の鍵を返さなきゃいけないのは、王様も篠宮さんもよく知っている。もちろん言ってる本人の中嶋さんもだ。みんな俺が出て行かなくてもすむように、今日、届けてくれたのに違いない。
「帰ったら王様と篠宮さんにお礼を言っておいてもらえませんか」
 これは実はお願いじゃなかった。俺は中嶋さんにお礼を言いたかったのだ。だけど絶対に自分がお守りを買ったなんて認めないだろうから、王様や篠宮さんに言付けるかたちをとろうとした訳だ。でも中嶋さんはあっさりとそれを拒否した。
「それはおまえの仕事だろう。おまえが自分で言いに行くんだ。おかげさまで合格できました、とな」
「あっ。そっか……っ!!」
「それにお守りもいいがな、まずは自分を信じろ。合格できるだけのものは、丹羽も俺も身につけさせてやったつもりだ」
 まだ前を見たまま、しかもそっけなく中嶋さんが言った。それがあまりにもそっけなさすぎて……。俺はかえって、中嶋さんが本当に心配してくれているのを感じたのだった。
「はいっ。有難うございました。俺……、行ってきます」
「ああ。行ってこい」
「はいっ!!」
 車から降りた俺は、少し歩いたところで一度振り返ってみた。中嶋さんはまだそこにいて、俺の方を見てくれていた。俺が大きく手を振ると、ハンドルに置いたままだった左手を面倒くさそうに小さくあげてくれた。

 試験の間中、俺はひとりじゃなかった。答がわからなくなると中嶋さんや王様の声が聞こえてきて、俺に考え方を教えてくれた。それだけじゃない。和希も篠宮さんも岩井さんも成瀬さんも西園寺さんも七条さんも、みんなが一緒にいてくれた。一緒に問題を読んでくれて、一緒に答を考えてくれた。俺はまるで、お守りから抜け出してきた守護聖人たちに護られているかのようだった。
 有難う。皆さん。合格発表が終わったら、必ずお礼を言いに行きます ――





いずみんから一言。

今月前半の七啓で啓太くんを遊んだら、反動が出たのか甘やかしてしまいました(笑)。
啓太くんの受験のとき、いちばん心配していちばん落ち着かないのは、絶対に中嶋氏だと
思っているのは、私だけではないですよね?
それで「俺もヤキが回ったな」とか言いながらお守りを買ったんでしょう。
お祓いを受けたかもしれませんし、絵馬も奉納したかもしれません。
こっそり可愛い中嶋氏です(笑)。


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