天使たちの祝福 |
たとえば連休の前日。そしてよくあるのは土曜日の午後。授業を終えて寮に戻るBL学園の学生たちは、校門前に停めた車に長身の男が寄りかかって煙草を吸っているのを、何度も眼にしていることだろう。 最初は4月の半ばだった。次は5月の連休の前日。梅雨のさなかにも夏の蝉時雨の中にも男は待っていた。車の中ではなく、想い人が遠くからでも見つけられるよう必ず外で。 そして11月も終わりに近づいたある土曜日。BL学園生には見慣れた風景になった車に学生会長が駆け寄っていった。彼は上気した顔で、待っていた男と一言二言ことばを交わすと車に乗りこんだ。 「驚きましたよ。突然メールくれるんだもの」 「そうか?」 「だって今週は無理だって聞いてたから……」 仔犬がまとわりつくように啓太は中嶋の隣を歩いていた。中嶋が車を停めた橋向こうのホテルには、ふたりでよくランチに来るレストランがある。土曜の昼はまず、このあたりで腹ごしらえをしてからマンションに向かうのだ。啓太はいつもと同じようなつもりで、海を見下ろす窓際の席についた。 「なんだか今日は得したみたいな気分です」 「得した……か?」 「得したでなければ、オマケをもらった、でもいいです」 食後のカフェオレをすすりながら啓太が言った。先刻から啓太が今日会えた喜びを口にするたび、中嶋は皮肉な表情を浮かべているのだが、幸せいっぱいの啓太の眼には、そんなものは入っていなかった。 「だって月曜から研修で北大って言ってたじゃないですか。だから俺、俺の方からマンション帰るのも諦めてたんです。あの研修、キャンセルになったんですか?」 「いいや。予定通り明日札幌に発つ」 「えっ!? じゃあどうして……」 「これが出来上がってきたんでな。一刻も早くおまえに見せたくて、少々無理をした」 そう言うと中嶋は内ポケットから小さな箱を出して啓太の手元に置いた。中嶋の大きな掌だと隠れてしまうくらいのその箱は、綺麗に包装されてリボンまでかかっていた。 「何ですか? これ」 「俺の誕生日プレゼントだ」 「中嶋さんの誕生日……って、誰にもらったんですか?」 無邪気に問いかける啓太に、中嶋はますます皮肉な、それでいて楽しげな表情を作った。 「おまえからもらうんだ」 「俺から……って、俺は先週ちゃんとネクタイとブランデーをプレゼントしたじゃないですか」 「それとは別に『何かひとつだけなら買ってもいい』と言っただろう。忘れたのか? 先月の今頃のことだが」 「……あ」 「思い出したようだな」 啓太は顔を赤くして頷いた。カップをソーサーに戻す手が、わずかに震えていた。 先月末。マンションに戻った啓太を管理人が呼び止めた。メールボックスに入らなかったメール便を預かっているのだという。礼を言った啓太は、中嶋宛のずっしりと重い封筒を受け取った。 「なんだろう? 電話帳でも入ってるみたいだ」 だが何を送ってきたのかと聞くこともせず、啓太は黙って夕刊や他の郵便と一緒に、そのメール便も手渡したのだった。 中身がわかったのは日付が変わった頃のことである。 啓太が土曜用の課題を終えたとき、中嶋はリビングのオーディオ・コーナーでジャズバラードを聴いていた。啓太の勉強の邪魔にならないよう低く絞った音量は、それ自体が身体を優しくくるみこむようだ。啓太はその音楽の間を泳ぐように歩いて、中嶋の後ろから近づいた。ゆったりとソファに腰を下ろした中嶋は、美術館で売っている図録のようなものをめくっていた。 「中嶋さん。全部終わりました」 「そうか。ずいぶん早くなったな」 「中嶋さんと王様と、ダブルで鍛えられてますから」 4月以降、啓太のパソコンには中嶋と丹羽から、毎日A4用紙1枚分ずつ計2枚の問題が送られてきていた。科目は英語だったり数学だったり古文だったりと、メールを開けるまでその日に何が送られてくるかわからない。そこに啓太が解答を書きこんで返信すると、正解したものを削除し不正解だったものには解説を加えて再び送られてくる。全部が正解になるまで何度でも同じことが繰り返されるのだった。通常の勉強や宿題のほかにこれをやらなければならないのは大変だったが、何時になろうと根気よく啓太に付き合ってくれている中嶋や丹羽のことを考えると、絶対に音をあげることはできなかった。 「ふうん。じゃあ次回からもう少し量を増やしても大丈夫だな」 「え〜っ」 最近、甘えることを覚えてきた啓太がくちびるを尖らせて、ソファの背越しに中嶋の首に抱きついた。そのまま何気なく中嶋の手元に眼を落とす。瞬間。啓太の頭はフリーズしていた。銀の箔押しで『Erbus』とだけ入ったつや消しの黒い表紙。だがその中身は……。 「うん? どうかしたのか?」 「★◎▲□◆!!」 「おい……。せめて人間の言葉を喋ってくれないか」 「なっ、……なんですか。それっ!!」 「見てわからんか。SMグッズのカタログだ」 平然と言い放ったばかりでなく、中嶋は「ほら」と啓太にもよく見えるようにカタログをもちあげた。そこは所謂「猿ぐつわ」といわれるものを集めたページで、顔の半分を覆ってしまうような革製のものや穴のあいたピンポン球に紐がついたようなものなど、あたりまえだが啓太には初めて眼にするものばかりが何種類も並んでいた。さらにそれらを装着したモデルの表情があまりにもリアルで、啓太は眼のやり場を無くしてしまっていた。それならこの場を離れればいいようなものだが、硬直しきっている啓太はそれさえできずにいた。 「……それはわかってます」 「では何が言いたい」 「……だから、どうしてそんなもの……」 「誕生日が近くなるとクラブから送って来るんだ。表紙に店の名前が入ってるだろう」 中嶋の嗜好がS傾向であることは、例のショーに連れて行かれて以来、啓太が一番よくわかっていた。中嶋はそこの上客であるらしく、顔を出す度にマダムらしきゴージャスなおばさんが挨拶にきていた。 「ええええもう。英明さまにはたいそうお世話になってるんでございますのよ。以前は本店の方によくいらして頂いていて。それがこちらの寮にお入りになるとおっしゃったものですから、わたくしどもも支店を出させて頂いたという訳なんですの」 ―― 高校に入る前に通ってた、って。中嶋さん、中学の時からこんな店の常連だったのか? それも追いかけて支店まで出してくれるような。 あのときのマダムとの会話を思い出すと、誕生日にカタログを送ってくるくらい当たり前なのかもしれない。しかしコトが自分に及ぶかもしれないとなると話はまったく別だった。今のところ中嶋が啓太に対してこのようなグッズを持ち出してきたことはなかったが、ふたりの関係もすでに1年を超えている。ましてや休暇中だけとはいえ一緒に暮らしてさえいるのだ。そろそろ次のステップに……と、中嶋が考えたとしても不思議ではなかった。ごくりと生唾を飲み、乾いてしまったくちびるをなめてから、啓太はやっとの思いでことばを口にした。 「あの。それ……。買うん、です、か?」 「なんだ? 買って欲しいのか?」 「ちっ、違いますっ!! こんな……」 「これで試しておいて、そのうち舞台に立ちたいというなら俺が仕込んでやってもいい」 「だから違います、ってば!!」 からかわれているのがわかっていても啓太は泣きそうになっていた。ヘタなスイッチを押してしまったら、中嶋は本気でやりかねない。 「なら何故そんなことを言った」 「……だって、中嶋さん。お誕生日だ、って……」 突然の論理の飛躍に中嶋が黙りこんだ。まじまじと啓太を見つめているようでいて、実は頭の中はフル回転で啓太のことばを解析しようとしているのだ。他の人間相手なら即座に意味不明と切って捨てていたに違いない。こうやって理解しようとしているところが中嶋にとっては最高の愛情表現のはずなのだが、残念ながら啓太にそれは伝わっていないようだ。もっとも中嶋本人が気づいていないのだからしかたないのかもしれないが。数秒後、中嶋の頭脳はひとつの解を導き出した。 「それはもしかして……。俺が誕生日にこのカタログの製品を買おうとしている、と、そういうことか?」 「細かいニュアンスは違いますけど」 啓太は小さく頷いた。 「もし中嶋さんが、その……。誕生日だからこれを使わせろ、って言ってきたら……」 「もし俺がそう言ったら、おまえはどうするつもりだ」 穏やかな口調で中嶋が問い返してきた。いつもの皮肉さは微塵も感じられなかった。 「わかりません。でも中嶋さんが本気で使うつもりなら、ひとつくらいはしかたないのかなあ、って……」 そこまで言ってしまってから、啓太は慌ててつけ加えた。 「あっ。でっ、でも。痛いのと恥ずかしいのは駄目です。それとそんなふうに喋れなくなるのも嫌だし、動けなくなるのも嫌です」 「おまえな……」 呆れきった口調で中嶋が言った。 「痛くも恥ずかしくもないならSMグッズを使う必要なかろう?」 「……だって」 「もういい。無理をするな」 「俺、でも本気なんですっ。こうやって一緒に居させてもらってるお礼がしたいんです!!」 「わかったわかった。じゃあ痛くも恥ずかしくもないのをひとつだけ、だな」 確かにそんなことを言い出したのは啓太だった。だがそのあとで「おまえひとり恥ずかしがらせるのにいちいちグッズなどいるか」と中嶋が言い始め ―― ついでに言えばそれを身体で納得させられてしまったため ―― きれいさっぱり忘れてしまっていたのだった。 「開けてみないのか」 「……こんなところで開けても大丈夫なんですか?」 「その箱に低温ロウソクだのギャグだのが入ると思うのなら開けないほうが賢明だな」 少々意味不明な単語は混じっていたが、確かにこの小さな箱に物騒なものは入らなさそうだった。啓太は震える手で包みを開けた。 ふたを開けると、仰々しい内張りの中に時計のベルトを長くしたようなものが入っていた。表が赤に近い明るい茶の革。裏には毛皮が貼ってあって、表の中央部分に5センチくらいのメタリックのプレートが取り付けられている。箱を持ち上げてプレートの刻印を読んだ啓太は、全身の血が引いていく思いがした。 KEITA NAKAJIMA 自分の名につづけて刻みこまれた中嶋の名。間違いない。それは首輪だった。 「どうだ。痛くも恥ずかしくもなかろう」 「こんなの、充分恥ずかしすぎますっ!!」 「そうか? 去年もらったドッグタグと同じじゃないか。形が違うだけだ」 「それはそうかもしれませんけど……」 「どうだ。おまえのために最高級の革を発注したんだぞ。それで充分だとは思ったんだが、万が一にも跡が残らないよう、裏にはブルー・フォックスの毛皮を貼っておいた。ついでにいえばプレートは純度1000のプラチナだ」 「そんなこと言われても、何の慰めにもならないです……」 「言い出したのはおまえだ。諦めろ。……さあ、行くぞ」 中嶋が会計用のプレートを掴んで席を立った。啓太は箱にふたをすると、包装紙やリボンもまとめてジャケットのポケットに突っこみ、慌てて中嶋の後を追った。マンションに着くまでに何とか心の準備をしないといけない。真っ白になってしまった頭の中で、啓太はそれだけを考え続けていた。 ところがエレベーターに乗った中嶋は、内ポケットからホテルのルームキィを取り出した。 「マ……、マンション、戻んないんです、か……」 「おまえを送ってくる時間がない」 「でっ、でも。あの……」 「なんだ」 「俺、着替えを持ってきてないんですけど」 すがりつくように言う啓太に、中嶋はくちびるの端をつり上げた。 「だったら汚す前に脱いでしまうんだな」 言葉を無くしてしまった啓太の前で、無情にもエレベーターがドアを開けた。 そこは中庭に面した大きな窓がある部屋だった。惜しみなく差しこんでくる午後の陽が、初冬とは思えないくらい部屋全体を明るく照らし出している。啓太が光を浴びられるよう窓際に立った中嶋は、啓太の制服を一枚ずつ剥ぎ落としていった。ゆっくりと時間をかけて楽しみながら。そして最後の一枚が床に落ちたとき、中嶋はテーブルの上に置いてあった箱を取ってこさせた。 「つけてください、と言え」 一瞬、息を飲んだ啓太だったが、従わなければいつまでも終わらないことはわかっていた。啓太は視線を落とすと箱を差し出した。 「………………つけて……、ください……」 「よし。よく言えたな」 満足そうな笑みをもらして箱を受け取った中嶋は啓太を抱き寄せた。箱の中身を出して啓太の首に巻きつける。中嶋の肩口に頭を預けた啓太は、ジャケットの襟を掴んで、じっと試練に耐えていた。つけ終わった中嶋は啓太にベッドの上で座って待つよう命じた。 言われたとおりベッドの上に上がった啓太は、ぺたんと座りこんで中嶋を待っていた。中嶋は煙草を燻らせながら眼で楽しんでいる。まとわりつく視線が痛いほどだった。 俺は何をしているんだろうと啓太は思った。首輪をつけられた一糸まとわぬ姿を、あふれるばかりの陽光の中に晒している。それも真っ白いシーツを敷いたベッドの上で。巻かれた首輪は恥ずかしいのを通り越して、まるで焼けつくようだった。そしてその熱は次第に下に下りていき、中嶋の視線と相俟って啓太自身の熱をも煽り立てている。こんな状態で感じてしまっている自分が情けなくて、肩を落とした啓太は涙混じりのため息をついた。 その瞬間を待っていたかのように、中嶋は煙草を灰皿に押しつけた。ゆっくりと歩み寄って片膝をベッドにかける。思わず顔をそらせた啓太ごと、ベッドが深くたわんだ。中嶋の大きな掌が啓太の頬を包みこみ、尚もそらせようとする啓太の顔を自分の方に向けさせた。 「毎年だ。いいか、啓太」 中嶋は囁くように掠れた声で啓太に告げた。 「毎年、俺の誕生日にはこれを身につけろ。おまえは俺のものだと誓いを立てるんだ」 それが命令ではなく懇願であることに気づいて、啓太は愕然となった。今年の春の丹羽のことばが蘇ってくる。 ―― ヒデの野郎はおまえと離れてるのが、不安で寂しくてしかたないんだよ ―― もう迷いはなかった。ゆっくりと中嶋の眼を捕らえた啓太は、透きとおるような微笑を浮かべた。 「誓います。貴方がその手でこれをつけてくれる限り……。俺は、貴方の。貴方だけのものです」 啓太の顎があがり、隠れていたプレートのプラチナが、陽の光を浴びて煌めきを放った。そしてそれは誓いを祝福する天使たちの乱舞のようだった。 |
いずみんから一言。 これを全部会社で書いた私を誉めて(爆) それはさておき。ヒデって実はものすごく不器用なんじゃないかと密かに思っております。 啓太はある意味とてもフレキシブルな子なので、きっとお似合いなんでしょうね。 ってヘヴンのキャラはほとんど不器用か(汗) |
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