春 雪 




 名前を呼ばれたような気がして、中嶋はふと目を開けた。
 寝室の中はまだ暗い。闇に慣れた目にはカーテンの向こうが明るい感じがするが、おそらくそれは月明かりで、空が白んでくるにはまだまだ時間がかかりそうだ。室内にぬくもりは残っておらず、痛いくらいに冷えきった空気が顔を包んでいる。
 3月は春のイメージと裏腹に、存外寒い日が多いものだ。ただ、このところの寒さは度を越していた。この冬一番という大寒波が季節はずれとでも言えそうな時季に押し寄せてきて、『ホワイトデー寒波』と命名されたのはつい先日のことだ。関東から九州までの広い範囲の交通網を寸断した大雪は、幹線道路や線路の上こそ除雪されたものの、ちょっと路地に入ると道の両側に積みあがったままになっている。バルコニーに啓太が作った大きな雪だるまもほとんど形を変えていない。
 あれから幾分かは寒さもゆるんだようだが、あくまでそれは寒さの底と比べてのこと。天気図は依然として日本列島の上に縦縞模様を描き出し、暖房を落とした部屋の温度はおもしろいくらい一気に下がった。だが中嶋はこんな寒さが嫌いではない。冴えざえとする空気の中に身をおいていると、何故かほっとしてしまうのだ。少なくとも暑いよりは頭がすっきりする。
 耳を澄ませてみたが冷えきった部屋に音はなかった。空気と一緒に音まで凍りついてしまったかのようだ。『しじま』 とは 『静寂』 と書くのだったかと覚めきらぬ頭の片隅で思い、それからあらためて、静かなのだと思いなおした。名前を呼ばれた気がしたのは、どうやら夢の中でのことだったようだ。
 納得と安堵がやんわりと中嶋のまぶたを閉じさせる。だが寝返りをしかけた身体は温かい戒めに絡めとられ、わずかに身じろぐことしかできなかった。啓太がまた中嶋の腹のあたりに抱きついて眠っているのだ。よく窒息しないものだと感心するくらい、啓太は布団の奥で眠る。まるでそこが、世界でいちばん安心できる場所であるかのように。
 自分でもどうかと思わないでもないが、中嶋はたまに ―― 本当にごくたまに、だ ―― この存在を忘れてしまうことがあった。忘れてしまうというよりは、いて当然だからつい失念しているだけだ、と中嶋は思っている。外出しているとき、いちいち 『服を着ている』 と認識しないのと同じようなものだ。今もちょうどそんな感じで、中嶋は啓太の存在を忘れていた。啓太の温もりと重さはすでに中嶋の身体に馴染んでしまっていて、わざわざ 『ここに啓太がいる』 と認識しなくなってしまっているのだ。
 そっと布団を上げて中をのぞいてみる。冷たい空気が入ったか、中嶋の腹の上に腕を回して丸くなっていた啓太が、もぞもぞと中嶋の方にすり寄ってくるのが見えた。布団を直してやりながら、中嶋の目許がやわらかく緩む。そう。中嶋は満足しているのだ。寒さを感じた啓太が毛布を引き寄せようとしたのではなく、自分の身体にすり寄ってきたことに。そして。不意にそれが耳に届いた。

―― 中嶋さん……。

 そうか。先刻のあれは夢でも空耳でもなかったのか。そう思いながら中嶋は「うん?」と返事をしてやる。続いて布団の奥からかすかに聞こえたそれは、どちらかといえば赤ん坊のしゃべる喃語のようなもので、意味などあったかどうかもわからない。だが中嶋は満足気にひとつ息を吐くと啓太の身体を抱き寄せた。


 外は氷のように寒い。だが互いがいればこんなにも温かく満ち足りることができるのだ。ならば寒い夜もそう悪いものではない ―― 。







いずみんから一言。

う〜ん。やっとUPできましたー。
書くのは書けていたのに、ネットにつながったパソコンの前に
座る時間がどうしても取れなかったのです。
ま、4月にならなかっただけでもよしとしよう。うん。

以前どこかで「中嶋はいつも上を向いて寝ている」みたいな
ことを書いたのですが、これが答えです。
啓太くんがしがみついていて身動きが取れない、のでした(笑)。


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