スノーマンな日 |
12月が近づくとすぐにわかる。街の中にいきなり色が増えるからだ。色だけではない。音も増える。ついでに人も増える所為か寒さもあまり感じなくなる。そして何より心の底から湧き上がってくるようなわくわく感がある。それらを全部ひっくるめて啓太は12月が好きだ。 ここ数年ではそこに中嶋に贈るプレゼントを選ぶ、という楽しみが加わった。プレゼントをもらうのはもちろんうれしい。だが誰かのためにプレゼントを選べる方が何倍もうれしいのだと、今の啓太は知っていた。 今年も12月がやってきた。中嶋はクリスマスが好きではなくて、クリスマスツリーは買わせてもらえない。あの広いリビングに大きなクリスマスツリーは似合うだろうに。それはちょっと残念なのだがあのマンションは中嶋のものなので、だめだと言われれば従うしかないのだ。そのかわり、中嶋は毎年、クッキーでできた小さなツリーを買ってくれる。啓太の理性はそれで十分だと思っているのに、アタマの片隅ではやっぱり残念という考えが巣くったままでいる。それこそが残念なのだけれど。 残念と言えば啓太が大学に入学したとたん、司法修習生になってしまった中嶋とあまり会えなくなってしまったのが最大の残念だろう。若干二十歳で司法試験に合格した中嶋のことはとても誇らしい。でもいつも中嶋は一歩先を行ってしまうのだ。一歩先に卒業してしまい、やっと大学に合格して並べると思ったら、中嶋は司法修習生になってしまった。今度は大学に合格するという明確な目標がない分、どうすればまた並べるのか。最近の啓太は中嶋と出かけるたび、そんなことを考える。隣で歩く中嶋の体温を感じるからよけいにそう思うのかもしれなかった。 ところで。今現在、啓太はとても迷っていた。スノーマン柄の大型マグカップに生地を流し込んで焼き、白のアイシングその他で飾った特製・クリスマスカップケーキか。動物型の各種クリップ詰め合わせか。トナカイ型の大型クリップが入っていることもあって啓太としてはクリップにしたいところなのだが、見た目が地味で華やかさが全くないので迷っているのだ。いくら交換用プレゼントだとはいえ華がないのはつまらない。せめて箱に派手な模様でもついていればよかったのだが。 「1000円以上1500円までなんて難しいですよぉ」 「条件は皆同じだ。金額が低めに設定されているからこそセンスが要求される」 「……中嶋さんは何にしたんですか」 「某有名紅茶メーカーのクリスマス限定パッケージ」 「えー。いいなあ」 「安心しろ。おまえの分も買ってある」 「有難うございます。でもそうじゃなくて。そんなのを見つけたのがいいなあ、って」 「昼のうちにネットで探して、おまえが来るまでに買った」 「……ずるい」 「何?」 「ずるい、って言ったんです。俺はついさっき聞かされて焦ってるのに」 そう。啓太はついさっき聞かされたのだ。今日の夜7時から事務所でクリスマスパーティ兼忘年会をするから、交換用のプレゼントを買え、と。中嶋は司法修習生として3か月だけの在籍にすぎないから欠席するつもりでいた。だから啓太に伝えていなかったのだが。 「俺だって昼に聞かされたんだ。今日のパーティが俺の送別会も兼ねてるから出席しろ、ってな。おまえをダシに辞退しようとしたら『啓太くんも是非一緒に』と先を越された。あそこではずいぶん世話になったから、それ以上断れなかった」 「ほえ〜。伊藤啓太くん、突然のご指名です〜!」 中嶋がここの弁護士事務所でどれほど充実した日を送っていたか、啓太は知っている。中嶋と知り合って丸3年。中嶋の顔は楽しい顔もうれしい顔も数えきれないくらい見てきたが、この3か月ほどいい顔をする中嶋を、啓太は見たことがなかった。男にこういう表現はどうかと思うが、非常に輝いていて、そしてきれいだった。啓太はそんな中嶋を見るのが好きだった。その日々がもう終わろうとしているのだ。 「じゃあしっかりプレゼントを選ばなくちゃ」 中嶋を指導してくれた人たち。包み、支えてくれた人たちに。感謝をこめて。 「俺はケーキでもクリップでもどっちでもいいと思うぞ。どっちもおまえらしくていい」 「そんなの言われるとかえって迷っちゃいます〜」 「じゃあ両方買っとけ」 「え〜? でもまあ、それもそっかぁ」 両手をぽんと合わせて啓太が言った。両方買って、その場の雰囲気でどっちを出すか決めればいい。そして通ってきた経路を逆にたどり、まずクリップを買い、ケーキをプレゼント用にラッピングしてもらっている時だった。お金を支払ってしまえばわずかだがぽっかりとした空白の時間ができる。それがちょっと手持無沙汰な感じがして中嶋に話しかけようとした啓太は、振り向いた先に見知った顔を見つけた。いくつか同じ講義をとっている女子学生だった。モデルをやっていたという華やかな顔立ちだが、今日はまるで別人だった。暗い。否、どす黒い。クリスマスセールに賑わう駅前のデパートで、うまくディスプレイの陰に紛れてはいる。だが横を通った客は思わず振り返り、次にその視線の先にあるものを追うのだった。もちろん啓太も追った。そこには夫婦だろうか若い男女がいて、大きなお腹を抱えた女性をいたわるように買い物をしていた。ふたりで笑いあいながら品物を選んでいるそれは、赤の他人の啓太でさえ微笑んでしまうくらい温かい情景であるのに、彼女は暗く昏く、まるで深い穴のような目で睨み据えているのだ。 「どうかしたのか?」 「……!」 気づかないうちに引き寄せられていた意識を断ち切られて、我に返った啓太の前に中嶋が立っていた。 「……中嶋さん……」 「うん……? あの女がどうかしたのか?」 スイッチの切り替わった啓太の行動は素早いというよりはむしろ唐突である。慣れているはずの中嶋もこの日の啓太には面食らったはずだ。ほんの一瞬だけ呆然とした啓太はきっと顔をあげると、中嶋に「俺たちって何時にここ出れば間に合うんでしたっけ?」と聞いたのだ。 「7時からだからな。6時15分には出たいところだが」 「ぎりぎり半くらいまでは大丈夫、ってとこですね」 「そうなるな」 「じゃ、ケーキをもらっといてくださいっ」 「おい!」 言い置いて啓太はその女のところへ走った。中嶋が呼び止める声が聞こえたが足は止まらなかった。 このときのことを後で聞かれて、啓太は「ひとりにしちゃいけない、って思ったのかな……」と言った。 「前川……彰子さん、でしたよね」 拍子抜けするほど素直についてきた彰子を前にして、啓太は軽く頭を下げた。場所は駅の裏手にある喫茶店である。全国チェーンの店ではあるが場所が悪いのかいくつか空席があった。 「俺、伊藤啓太と言います。前川さんと同じ講義とってます。この人は中嶋さんといって去年まで法学にいた人で、今は弁護士になる勉強中なんです。困ったことがあったら話してみてください。きっと何か力になってくれますから」 黙ってついて来はしたがそっぽを向いたままだった彰子は、その言葉で啓太たちの方に向き直った。まるでそこではじめて啓太や中嶋の存在に気づいたかのようだった。いきなり名前を出された中嶋も思わずといった感じで啓太を見たが、何も言わずにいてくれた。文句を言うならここへ来るまでに言っただろうし、それに啓太のおせっかいに巻き込まれるのははじめてではない。 「でも、どうしてこんな……」 「さっき暗い顔して誰かを見てたでしょう? クリスマスなのによくないですよ。ね?」 「そう……。よくないわよ、ね……」 女の目がゆらりと光った。獲物を見つけた豹のような目だ。青白かった頬にも一気に赤味がさす。表情がそれについてくると、モデルだったという話もなるほどと思える顔立ちである。先刻の昏さとは打って変わったように見えるが、啓太の目には裏と表のように同じものに見えた。なぜなら少しもきれいと思えなかったからである。その理由はすぐにわかった 「誰かを見てた……ってね、あれはわたしの婚約者。一緒にいたのは奥さんよ」 「はい?」 「その奥さんがね、妊娠してしまったの」 「えーっ、と」 このとき啓太は単純に、自分の理解が足りていないのだと考えた。休学していたのが復学してきていくらか年上だったりモデルをしていたりと、とにかく目立つ存在だったので顔と名前くらいは知っていた。だが知っているのはたったのそれだけだった。噂話はいくらか流れていたようだったが、興味がなかった所為か思い出せるものはなにもない。 「つまり、その……。離婚した後で奥さんのおめでたがわか……」 「違う!」 小さいが鋭く否定をして、彰子がふっと口元に微笑をのせた。 「まだ離婚はしてないのよ。話は進んでるんだけど、向こうがうんって言わないから。それで妊娠するなんてね。本当にタチの悪い女だわ。彼もひどい女にひっかかっちゃって……」 啓太と中嶋は思わず顔を見合わせた。婚約者の奥さんも何も、それは単なる不倫である。どうせ「妻とは冷え切っている」とか「離婚の話し合いの最中だ」とかいう不倫男の常套句を真に受けたのだろうが、被害者は間違いなく奥さんである。少なくとも目の前にいるこの女ではないはずだ。 「タチが悪い」だの「悪い女にひっかかった」だの、彼女のセリフはそのまま奥さんのセリフに他ならない。なのに被害者のような顔をして悪びれもせずに座っていたら、それはきれいになど見えるはずもないのだ。 「ひどいでしょ? よくないでしょ? 彼の奥さんって役員のお嬢さんだか取引先の娘だとかで、エラソーにしてるのよ。彼がスリナムに転勤になった時なんて、南米で治安が悪いとかって日本に残ったのよ? だから私がモデルのキャリア捨てて、あと少しで卒業だったのに休学もして、3年間彼を支えてきたの。帰ってきてすぐに結婚する予定だったんだけど、せっかくの学歴がもったいないって彼が言ってくれて。卒業するために復学したら、その間に奥さんが妊娠してしまったの。ありえないでしょ? きっと離婚って言われて彼が惜しくなって、それで妊娠したんだわ。ひどい女。サイテーよ!」 「いや……。でもそれってただの不倫、なんじゃ……」 「普通はね。でもこれは特別なケースなの。ちゃんと婚約してるんだもの」 おそるおそる啓太が投げかけた『不倫』という単語を、女は見事に正面から受け止めた。よほど自分の立場に自信があるのだろう。『ふてぶてしい』でも『盗人猛々しい』でもない、あまりに堂々とした態度に戸惑った啓太が、しどろもどろになりながら言葉を継いだ。 「でもあの、その。役員とか取引先とかって、そんな人の子供が奥さんなんだったら、離婚したら立場が悪くならないですか? 出世の道が断たれちゃうとか」 「大丈夫。私が支えるから」 今までだってそうだったんだもの。スリナムでは本当に苦労したのよ。気候も食事もあわなくて彼が体調崩した時なんて、わたし自身もふらふらになってたのに日本人会の人のお宅を訪ねて、薬や日本食をわけてもらったりとか。大変だったけど彼にはちゃんと仕事して欲しかったから、彼の前では体調の悪さなんて絶対に見せなかったのよ。契約できそうな人を呼んでホームパーティした時は、どんなに暑くても着物着て出迎えて。そうそう。スリナムの日本大使館でね……。 おせっかいといわれようと余計なお世話といわれようと、その人が困っているように見えたら手を差し伸べる。けっして助けてやってるとは思わせない。にっこり笑って、手伝わせてもらえてうれしいという顔をするのだ。それが『伊藤啓太』という生き方である。丹羽にからかわれようと中嶋から皮肉を投げつけられようと、変わることはなかった。 ところが。啓太は自分のそういうところを呪いたくなっていた。不用意に声をかけてしまったばっかりに、中嶋に無駄に時間を使わせている。いかに自分と婚約者が愛し合っているか。彼のためにつくしてきたかを1時間以上にわたって滔々とまくしたてる紅いくちびるを眺めながら、啓太は気づかれないよう、そっと息を吐いた。自分は本気で彰子の手助けをしたいと思っているからいい。だが中嶋は違う。中嶋はただ、啓太がここにいるという、それだけの理由で付き合ってくれているのだ。何か対処の方法でも話し合っているならともかく、中嶋なら「戯れ言を」と切って捨てるような言葉を聞いていないといけないのは不毛すぎた。なんとかして中嶋だけでも先に返ってもらおうとした啓太は、トイレから中嶋に電話してみようかとまで考えた。他所から電話がかかってきて先に帰るというのは自然な流れだからだ。よし!とばかりに腰を浮かせかけたとき。彰子の話をさえぎったのは、その中嶋だった。 「婚約をされている、ということですが。口約束でなく、何か証拠のようなものはありますか。結納をしたとかご両親に挨拶をされたとか、そういったようなものですが」 「……結納はしてないけど……」 啓太が圧倒されそうな勢いで自分の正当性を訴えていた声が、ここではじめて口ごもった。形のいい唇をかんで彰子が視線を少し下に落とす。それはそうだろう。自分がどれほどあやふやな立場にいるのか。いちばんわかっているのが彰子本人なのだろうから。途切れもなくまくしたてるのが不安の裏返しであることは、別に心理学を勉強しているわけでもない啓太の目にも容易に見てとれた。 「でも婚約指輪はもらったわ。これよ」 顔をあげた彰子が左手をあげて見せた。葉をかたどった台座の上に透明の石が載った指輪が薬指にはまっていた。 「見せていただいてよろしいですか?」 「どうぞ?」 中嶋は受け取った指輪をほんの少し細めた目でじっと見つめた。邪魔にならないよう気を付けながら、啓太もその手元をのぞきこむ。啓太はもちろん女性の装飾品とは無縁の人間だが、コマーシャルなどで見る婚約指輪とはデザインが違いすぎるように思った。いや。デザインだけではない。何かが違う気がするのだ。何がどう違うのか、違和感を形にすることはできなかったけれど。 「石は0.3カラットのダイヤ。枠はプラチナよ。私の芸名が『若葉』だったから葉をモチーフにした指輪を選んでくれたんじゃないかと思うの」 「思う、ということは一緒に買いに行ったわけではないんですね」 「でも婚約指輪ってそういうものじゃない?」 「しかしこれは本当に婚約指輪だろうか」 「どういうことよ」 「失礼ながら、俺の目にはずいぶんつまらないものに見える」 「……本当に失礼ね」 「失礼ついでに言わせてもらえば、枠のつくりがずいぶんちゃちなようだ。こんな枠についているなら、石の方もたいしたものではないだろう。あくまで『俺なら』という話だが、俺なら仮にも結婚を考えている女にこんな安物を贈ろうとは思わないな」 ああ……。中嶋さん怒ってるよ。と啓太は思った。啓太が余計なことに首を突っ込んだために、中嶋まで巻き込んでしまった。失礼ついでといっても『ちゃち』だの『安物』だの、そこまで言うことはなかろうに。高校時代はともかく司法修習生になってからの中嶋は、ずいぶんと言動にオブラートがかかるようになっていた。皮肉なことばを投げつけるにしろ、とげをコーティングするくらいの芸当を見せるようにはなっていたのである。それが。 しかし一方で啓太は納得もしていた。あるいは腑に落ちた、だろうか。先刻感じた違和感の正体がわかった気がしたのだ。すっかり忘れていたが、結婚式に出席する母親がダイヤの指輪をつけていたことがあった。無意識のうちにあれとこの指輪とを比べていたようだ。母親の指輪はたぶん婚約の時にもらったもので、若いころの父親がたいしたものを買えたはずはないが、それでも彰子の指輪よりはきれいだった。そう。確かにこの指輪はつまらなかった。役員の娘を嫁にもらえるほどのエリート社員が、婚約者に贈るには不似合いなほどに。 「何それ。貴方に宝石の何がわかるっていうのよ」 「では聞くが、この石のグレードは? 当然、鑑定書くらいはついていたはずだが」 「……ここにはないけど、でも彼が持ったままなんだと思う……」 「買った店は? ケースに名前が入っていなくても、サイズ直し用にカードか何かが添えられていなかったか」 「……わからない。その指輪、朝起きたらぬいぐるみの尻尾にはめられてたの。プレゼントだよ、って。おしゃれな演出だと思ったから、細かいことなんて気にもしてなかった……」 「知りたいか」 呆然としてしまった彰子に、中嶋が静かに言葉を継いだ。今までの皮肉な響きが微塵も感じられない、穏やかで真摯な口調だった。 「別に指輪の値段で何が決まるわけでもないだろうが、見えてくるものもあるんじゃないか」 青い顔はしていたものの、女はしっかりと頷いた。 その店を出た一行が向かったのは、中嶋が事務所で紹介してもらった宝飾店だった。何度か宝石の鑑別に使った店だそうだ。事務所から連絡してもらっていたそこの鑑定士は、ルーペをつけて彰子の指輪を見るなり「保存が悪いですねぇ」と苦言を口にした。 「傷だらけですよ。共擦れをおこしたんですね。ほかのダイヤと一緒くたにトレイか何かに放りこんでいたでしょう」 「でもそれ……」 「いくらグレードが低くたってダイヤはダイヤなんですから。もうちょっと丁寧に扱ってあげて欲しいですね」 「グレードが低い。それはつまりどういう品物と考えれば」 「うーん。印象としては百貨店の通販ですかね。何年か前まで百貨店のカードで買い物したら、請求書にアクセサリーの広告が同封されてたんですよ。あれがこんな感じだったですね。石とか造りとか。3万9800円くらいで気軽に買えるものが多かったように思います。まあ少なくともちゃんとした宝石店で扱う品物ではないです」 ソファに深く座った彰子が一回り小さくなったような気がした。彰子はもう何も言わない。言いたいことが山ほどあったとしても何も言えなかったろう。本当は彼女にだってわかっていたのだ。あの幸せそうに買い物をするふたりの姿を見たのだから尚更に。それでも信じたかった。何かにすがりつきたかった。愛されているのは自分だけと思いたかった。そして。その思いは啓太にも痛いほどにわかった。同じ立場になればきっと同じように思ったに違いないからだ。真剣に誰かを好きになってしまったら、理性が駄目だと叫んでも心はそれをはねつける。そもそも理性が勝つのなら最初からこんな相手を選ばなかったはずではないか。妻のある男を選んでしまった彰子も。同性である中嶋を選んでしまった啓太も。だがそこまでの彰子の思いは見事に打ち砕かれてしまった。……たった1個の指輪が見せた真実の欠片によって。 「この指輪……。奥さんのジュエリーボックスから持ってきたのかしら……」 「あるいは」 「共擦れでしたっけ? そんなのさせちゃうくらいだったら、きっとたくさん持ってるんでしょうね。だったらもっと高いものを持ってきてくれたらよかったのに。3万9800円じゃあね……」 何故かそこで笑いが漏れた。驚く啓太の目の前で彰子がくすくすと笑っていた。あの場の鑑定では傷だらけなだけでなく色も悪く、大きさは彼女の言った0.3カラットよりも小さかったのだ。 「そんな指輪じゃ売り払うこともできないから奥さんに返すわ」 「前川さん……」 「あーあ。せっかく指輪をもらって喜んでたのに。とんでもない安物で、しかも奥さんのお古よ? それくらい買え、ってのよね」 口調はぼやいていたが表情はすごくさっぱりしていた。ただ、笑おうという努力は失敗していた。自分のために指輪を買う金を惜しんだ男でも、愛した人との突然の別れがつらくないはずはないのだ。目の端に浮かんだ涙を落とさないのは、彼女に最後の矜持だったのだろう。 「…………こんな指輪ならくれなければよかったのに……」 つぶやいた声は本当に寂しそうだったが、啓太の目には今の彰子はとてもきれいに見えた。こんなきれいな人にはきっと、遠からず相応しい男性が現れるに違いない。 外へ出ると陽はすっかり落ちていた。暗くなった空に、街路樹に取り付けられたイルミネーションが冷たい輝きを放っていた。昼間に比べて気温がかなり下がっていて、中嶋が着込んだコートの襟を立てた。 「おい。6時をまわってる。車まで走るぞ!」 「あ、はいっ」 車は駅前デパートの契約駐車場に置いたままだった。最初に駅裏の喫茶店に行ってから宝石店に行ったので気づかなかったが、駐車場からずいぶん離れてしまっていた。あわてて振り返った啓太は、まだ店の戸口のところにいた彰子に向かってぺこりと頭を下げた。 「すみません、あの、時間が迫っちゃってるんで送っていけません。ごめんなさいっ」 「そんな。私の方こそごめんなさい。私ならもう大丈夫。急いでください」 もう一度頭を下げてから走り出した啓太は、だがいくらも走らないうちに彰子のところに駆け戻ってきた。そして彰子の手に紙袋をひとつ握らせた。 「これ、スノーマンのマグカップケーキなんです。俺からのクリスマスプレゼントです。じゃっ」 言うだけ言った啓太はもう振り返らなかった。まっすぐに中嶋の後を追って走る。彰子の「有難う」という声は近くの店から流れてくるクリスマスソングに紛れ、啓太の耳には届かなかった。 * おまけ * 「中嶋さん」 「どうした」 「……やっぱり中嶋さんって優しいんだなあ、と思って」 「……何だそれは」 「だから、中嶋さんは優しいなあ、って」 だってそうではないか。啓太のおせっかいに黙って何時間もつきあってくれて、それで啓太よりうんとうまくコトをおさめてしまった。好きな男の嫌な面を見せつけられた彰子が、最終的には事実を受け入れただけでなくあんなさっぱりした顔を見せたのは、中嶋の言動の向こうにある何か優しさのようなものに気づいたからなのだ。少なくとも啓太はそう思っている。 「おまえに任せてたら一晩かかっても終わらんだろう。そんな訳のわからんことを言ってる余裕があったら、もっと早く走れ!」 「はいっ!」 やっぱり中嶋さんは優しいんだと啓太は思った。スノーマンのように外見は冷たいけれど、中身は本当に本当に温かくて優しいのだ。 現在18時12分。駐車場はまだ見えていない。 |
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いずみんから一言。 や。今日は何日だ? っていうクリスマスの話です(滝冷汗)。 何か変なもん書いちゃいましたが、メインはこのあとの話です。 わたしに石の面白さを教えてくださったT教授が退官され、宝飾品について いろいろ教えてくださったS教授が音信不通になってしまったことから ちょっと強引にこんな話を作ってしまいました。 先生方には心からの感謝を申し上げます。 スリナムは南米の小国です。 うちの父親が現役時代に何回か行っていて、大使とアミーゴになって 辞書までもらってきてました。 あの人はいったい何をやらかしたのやら(汗)。 |
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