その年のはじめに |
温かいぬくもりと心からの安心感をもたらしてくれる中嶋の匂いの中。啓太はゆっくりと意識を浮上させた。遮光カーテンのひかれた室内は薄暗かったが、カーテンの合わせ目にできたわずかなすき間が、壁にひとすじだけの縞模様を作っている。外は静寂といっていいほどの静けさで、異国で迎える正月であることを忘れさせていた。 正月をふたりだけで迎えるのははじめてだった。高校を卒業してからというもの、実家とは疎遠になってしまった啓太だったが、去年の年越しには丹羽や和希がきたりして、結構にぎやかに過ごした。だが今年はそれもない。たまたま予定が合わなかっただけのことだが、どうせ数年もたてばみんな自分の道を歩きはじめている。それぞれがそれぞれの場所で新年を迎えているのに違いない。啓太にとってみれば、おそらくは中嶋と生きていく限り、華やかな静けさや厳粛ななかでの賑かさにあふれた正月など、もう望むべくもないのだろう。こういうふたりきりの年越しが、きっとこれからも続くのだ。 寂しくないと言えば嘘になる。それでなくても人懐っこい啓太にとって、それはたまらなく寂しいもののはずだ。だが啓太は自分の意思で選んだのだ。両親や妹よりも中嶋英明という男の方を。今日のこの静けさは、ふたりで生きていくその覚悟を、あらためて啓太に問いかけているようでもあった。 目が覚めてもしばらくの間、密着した背中から伝わってくる中嶋の体温や呼吸に身を委ねていた啓太だったが、やがてうしろから抱きしめている腕をそっとほどいた。そのまま手を伸ばして、ベッドの下に脱ぎ落としたままの下着やパジャマを拾おうとする。だが床に手が届く前に引き戻されてしまっていた。 「こら。正月早々、どこへ行こうというんだ」 「お正月だからじゃないですか」 そう言った啓太の声は、明け方まで啼かされていたうえに寝起きまでが加わって、随分とかすれたものになっていた。熱に浮かされたように自分の名を呼び続ける甘く上擦った声も好きだったが、このすっかりかすれてしまった声も気に入っている中嶋は、自分の許しも得ずに腕の中から抜け出そうとした啓太を、もう一度しっかりと閉じこめた。 まだまだ英語が不得手な啓太はもちろんのこと、ほとんどネイティブ並の中嶋でさえ、アメリカの大学の膨大なレポートには手を焼いていた。話にはよく聞くので覚悟はしていたものの、それは分量 ・ 内容ともに想像以上のシロモノだったのだ。合格率は低くても入りさえすれば、少々遊んでいても何とかなってしまう日本の大学とは、こういうところが大きく違っていた。新学期がはじまって以降、啓太も中嶋も、違いに途惑っていられる暇もなく、ただひたすら机の前に座りつづけたきた数ヶ月だった。 もちろんクリスマス休暇も例外ではない。中嶋以上に勉強に時間のかかる啓太などは、教授主催のパーティに出席する時間を確保するために、炊事と掃除の当番を何度か中嶋が代わってくれていたことさえ気づいていない体たらくであった。 それがようやく落ち着いたのが一昨日のことである。何日ぶりかののんびりした気分で、中嶋が買ってきてくれた日本の新聞を読もうとした啓太は、その日の日付が12月30であることに気がついた。渡米以来すっかり忘れてしまっていた「自称・中嶋家の主婦」という自分で勝手に設定した立場に引き戻された啓太は、律儀にも大慌てで大掃除をはじめたのだった。 実家や寮にいるときは誰かに言われないと大掃除なんかしなかったし、中嶋のマンションは年末にハウス・クリーニングを頼んでいた。だからこの「年末=大掃除」という発想は、もともと啓太のもっていたものではなかったかもしれない。それでもこの部屋では自分が「主婦だ」という思いを思い出した啓太は、邪魔だといって中嶋を部屋から追い出した。そして何もできなかった頃を知っている中嶋は、啓太の変容をなかば面白がりながら、近くの本屋に時間つぶしに出かけたのだった。 この部屋に引っ越してからまだ半年も経っていないし、勉強に忙しくて散らかすだけのモノも増えていなかった。さらにはこのところの掃除当番を中嶋がしてくれていたことが幸いして、啓太の大掃除は順調に捗った。もちろん手際の悪いことは自分でもしっかり分かっていたが、慣れない英語で専門的な講義を聞いてレポートを書くことに比べたら、それは面白いくらい簡単で気楽な作業だった。 そして中嶋が留守にしている間を利用して、啓太はもうひとつ、ナイショで正月の準備をはじめていた。何もなくてあたりまえの異国の正月だけど、ほんのちょっとだけでいいから中嶋を驚かせたかったのだ。それは啓太のレベルそのものを引き上げ、ここまで連れてきてくれた中嶋に対する感謝の気持ちの表れでもあった。おかげで大晦日の昨日、啓太は日中のほとんどをキッチンに立てこもることになってしまったのであるが。 部屋から追い出されはしなかったものの、さすがに二日つづけてでは中嶋も少々面白くない。しかし啓太が遊んでいるのでないことも自分のためにしているのであろうことも分かっているので、結局は好きにさせてしまった。もちろんその分は、ベッドの中でたっぷり返してもらった。啓太の今朝のかすれ声は、二日分のツケがいかに大きかったかの証明のようなものだった。 そうするうちにも中嶋のくちびるは啓太の耳の下にもぐりこみ、昨夜 ―― 正確には明け方だが ―― の残り火をかきたてようとうごめきはじめていた。啓太にしてもそれはけっして嫌なことではない。何ヵ月ぶりかでようやくできた、本当にゆったりした時間なのである。追いまくられた時間の隙間に、ちょっとしたコミュニケーション程度の触れあいしかしてこなかった啓太は、このまま身も心も中嶋の甘い腕に委ねてしまいたかった。 でも。と、啓太は思いなおす。今日のために昨日一日、キッチンに立てこもったのではなかったか。ことばや態度に出しはしなかったが、中嶋が面白くない思いをしていたのは明らかだった。啓太だって本当は中嶋と一緒にすごしたかったのだ。ふたりでのんびりお茶を飲んだり、買い物に行ったりしたかった。そんな思いをがまんしてまでしてキッチンにいつづけたのであれば、今はやはり起きなければならなかった。どうせふたりきり。邪魔をする何者もない。甘い時間はいくらでも作れるのだから。 「……英明さん」 「……どうした」 「あの……。1時間、だ……け」 「早く言え」 「1時間だけ……。待って……。あ……、だ……」 「……」 「……英明、さん……?」 「…………」 「……ひ、であ、きさん……、って、ば……」 「うるさい」 「う……んっ……」 結局、啓太が起きられたのは、それから1時間以上たってからのことだった。 「……英明さんの馬鹿……」 一緒にシャワーを浴びた啓太は上目遣いに中嶋をにらみつけた。「にらんだ」といってもそれは本人がそう思っているだけのことで、実は見慣れたはずの中嶋でさえ思わずそそられるような表情だったりする。そのあたりは二十歳になった今でも、高校生の頃とはさほど変りがなかった。 「1時間待てといったから待ってやっただけじゃないか」 「ぜんっぜん待ってくれてなんかないじゃないですかあっ」 「待ったさ。時間つぶしをしながらな」 啓太の髪を拭いてやりながらぬけぬけと言ってのけた中嶋を、啓太は力一杯押しのけた。 「もうっ。今からきっちり1時間。英明さんはキッチンに立ち入り禁止ですっ!」 「おい啓太」 「駄目です。聞く耳もちませんっ」 言うなり中嶋の腕をすり抜けた啓太は、かなりふらふらしながらもどうにかこうにか服を身に付け、キッチンの扉を閉ざした。 「啓太。何を拗ねてるのか知らんが、起きぬけで汗をかいた上にシャワーまで浴びたんだぞ。せめてコーヒーくらい飲ませろ」 だがキッチンの扉は開かれず、返事さえ返ってこなかった。いつもの啓太なら少しくらい拗ねたところで、中嶋がこんなふうに懇願する様子を見せると、「もうっ。しかたないんだからあ」などと言いながら折れてきたものなのだが。それがないというのは、よほど啓太を怒らせてしまったものらしい。ちょっといたずらが過ぎたかと反省をした中嶋は、小さく肩をすくめるとリビングのバーコーナーにあるミニ冷蔵庫へ足を向けた。 だが啓太は腹をたてて中嶋を無視したのではなかった。単にそれどころではなかっただけの話だ。そして1時間後、中嶋はその理由を知ることになる。 天の岩戸のごとくキッチンの扉が開いた。 エプロンをはずしながら出てきた啓太は、先刻までとはうって変わってにこにことした表情を見せている。どうやら機嫌は直ったようだ。ミネラルウォーターを飲みながら新聞を読んでいた中嶋が、やれやれと思いながら手を差し伸べてやると、啓太は素直にそれにからめとられた。 「英明さん。お待たせしました」 「どうした。もう気がすんだのか」 「はいっ。もう全部できましたから」 腰のあたりに絡みつく腕に、このままだと第2ラウンドになだれこみかねないと思った啓太は、中嶋の手を握って立ち上がらせた。せっかく用意したのに、早くしないと冷めてしまう。 「はい。そこまでです。あとは食後のお楽しみ」 「なんだ。おまえはデザートか」 「そういうことです」 「謙虚だな。メインディッシュでもかまわないのに」 「お正月ですから。おせち料理には勝てません」 「なるほど」 啓太に手を引かれるままにダイニングに入ると、そこは昨夜までとはすっかり変ってしまっていた。 ふたりでは広さをもてあましていた6人がけのテーブルの端には花器がわりの信楽焼きのとっくりが置かれ、紅白の水引で飾られた松と、さざんかのような薄紅色の花が入れられている。2段とはいえお重箱もあるし、お屠蘇を入れてあるのか塗りの酒器と杯が中央にある。そしてふたりがいつも座っている席の前には、それぞれ名前を書いた正月用の祝い箸が置かれていた。ささやかではあるが、十分すぎるくらいの正月のしつらえだった。 「すごいじゃないか」 「えへへへへ。お屠蘇はなかったから中は日本酒ですけど」 「上等だ」 そればっかりは用意できなかったのか、スープカップに入れたお雑煮を運んできた啓太がうれしそうに笑った。餅を焼いた香ばしい香りと醤油を使っただしの香りが食欲をそそる。カップをテーブルにセットし、自分も席についた啓太は、重箱のふたを開けて上の段を中嶋の前に置いた。料理を全部詰めて取り分けるのではなく、ひとり分ずつ盛り付けていたのだ。四角の角を小さく斜めに落として八角形にした重箱は、わざと刷け目を残した黒塗りに鈴を並べたような形に透かし模様が入っていて、それだけでも落ち着いた華やかさがあった。食材だけなら出所の予想もつくが、酒器だの重箱だのといった漆器は中嶋の記憶になかった。 「これは? 重箱じゃないな。……縁高 か?」 「すごいなあ。英明さんてばちゃんと縁高も知ってるんだあ」 「おまえな……。学園で日本文化の特別講義があったろう。茶道も何度かやったはずだ」 「そんなの、右から左に抜けてます」 「そのようだ」 苦笑しつつ中嶋は酒器を取り上げた。中身は違うとはいえ、元日の朝はやはりお屠蘇からはじめないといけない。促されて啓太は杯台にのった塗りの杯をひとつ取った。情けないくらいアルコールに弱い啓太のために、中嶋がかたちばかりの酒を入れる。すっきりした辛口の灘の酒だったが、啓太にそんなことは分るはずもない。ほんの少し口をつけただけの啓太から杯を取り、かわりに酒器を啓太に渡した。杯はちゃんとふたつあるのに。まるで三々九度みたいだと思いながら、啓太は酒を注いだ。 縁高の中に盛り込まれていたのは花型に切った人参と蕪を煮たもの。数の子。椎茸の含め煮と高野豆腐。エビを殻つきのまま塩焼きしたものや、だし巻き玉子と白身魚の味噌漬はまだ暖かく、啓太がこもっていた1時間のうちに作られたもののようだった。 「おまえにこんな芸当ができるとは思ってもいなかったな」 醤油の色がつかないよう、うまく煮えた蕪を食べながら中嶋が言った。 「うん。味もしっかり染みてる」 「縁高ともども、坂川さんの奥さんにすっかりお世話になりました」 「坂川さん?」 どうせ遠藤だの西園寺だのが送りつけてきたものだろうと思っていた中嶋は、突然出てきた知らない名前に眉をひそめた。 「知ってるでしょう? ときどきスーパーで会うおばさん。この向こうの公園の近くに住んでる人ですよ」 「そうだったか?」 「ご主人がMIT の助教授をしてて、奥さんはお茶やお花を教えてるんです」 「なるほど。それで縁高か」 「初釜は日曜だから、それまでに返せばいいそうです。あとこのお屠蘇いれてるやつなんかも」 縁高は濃茶のときの主菓子 を入れて出す器である。知らない人には意外なようだが、茶事などではよく酒も飲む。どうやら啓太は料理を教えてもらいにいって、それらもついでに借りてきたようだった。 「お花はもうくくってもらって、そのまま入れればいい状態でもらってきたんです。授業料に西園寺さんが送ってくれてた金沢の羊羹を1本もっていったら、すっごく喜んでくれて。お花と徳利はもう返さなくてもいいそうです。味噌漬のお味噌までもらっちゃいましたよ」 お酒は数の子やお米と一緒に和希がカナダから送ってくれて、祝い箸とお餅は篠宮さんからのおすそ分け。高野豆腐と干し椎茸が西園寺さんから……。 にこにこと種明かしをする啓太に相槌を打ってやりながら、中嶋は内心で驚いていた。授業とレポートに終われて、息抜きのドライブにさえ行けない日々が続いていたというのに、啓太はいつの間にか学外の人との付き合いをしていたようだ。少なくとも相手の家を知っていて、頼めば料理を教えてくれる程度の。中嶋のマンションで暮らしていたときも、啓太は奥さん連中に妙に受けがよかったから、付き合い自体は不思議でも何でもない。だがいつそんな時間を作っていたのかは、中嶋には見当もつかなかった。 だが。と、中嶋は思い直した。それでこそ啓太なのではないか。 あの個性の強い学園に中途で転校してきた啓太が、運のよさをのぞけば特筆すべき何ものをも持たないままにいつの間にか溶け込み、自分の居場所を作り上げていた。半ば強引ともいえるやり方で中嶋が関係を持ったときも、それを自然に受け入れるようになっていた。横浜のマンションでだって、奥さん連中のコミュニティにしっかり入り込み、どこかで誰かとすれ違ったとき、「こんにちは」と声をかけられるのは、いつも必ず啓太の方だった。 一見、頼りないように見えてもいつの間にかそっと根をおろし、そこに枝を広げては葉を茂らせていくのだ。啓太という存在は。それは中嶋や丹羽には、いや、西園寺や篠宮でもできない芸当だった。 「わかった。おまえがそれを返しに行くときは、俺も一緒に行こう」 「いいんですか?」 「おまえが世話になってるんだ。挨拶くらいしておかないとな」 「……はい」 はにかんだように啓太が笑った。自分のために中嶋が「挨拶に」行ってくれるというのが、うれしくてしかたがないのだろう。それは啓太にとってお年玉のようなものだった。 「そうと決まれば」 にやりと笑って中嶋が箸を置いた。あれこれと話をしていた啓太と違い、縁高もスープカップもすっかり空になっている。 「早く食べるんだな。借りてきた漆器なら片付けを後回しというわけにも行かない」 「それはもちろんですけど?」 縁高から人参をつまみあげながら不思議そうな顔をする啓太に、中嶋がそっと顔を寄せた。 「早く食後のデザートを楽しみたいからな」 「………………!!」 思わず人参を取り落とした啓太の顔は、人参と同じくらい赤くなっていた。 この年の初めに、啓太はとても幸せだった。 そしてその気持ちは、その年中つづいたのだった。 |
いずみんから一言 うーん。どうしても「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」 が入りませんでした。あちこち考えたんだけど、どうしてもつながりが悪くって。 啓太くんのことだから、どこかで言ってると思って下さい(汗)。 中嶋氏がちょっと「やりまくり大王」みたいになっていますが、彼もまだ22歳。 若いんですよ。ええ、きっと(笑)。 えーっと、これは留学先のボストンでの話になります。 人参と一緒に蕪を煮たのは、きっといい大根がなかったからなんでしょう。 カナダの方に行くと数の子はバケツに入れて売ってます。 うちの親父が現役時代によく買ってきてましたが、伊住は数の子が嫌いなので 食ったことはありません(笑)。 縁高に料理を盛った写真を見つけました。神戸Pホテルの披露宴で出たものです。 こんな感じになるんですけど。分かるかなあ……。 |
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