Un coucher de soleil |
「暑い」 と、最初にぼやいたのは誰だったか。駅前のバス停は、明日からの2学期に備えてBL学園に戻る学生であふれていた。どの顔もみな同じようにうんざりとしていて、誰がそれを言ったとしても不思議ではなかった。夏休み最後の日だというのに最初の日と同じくらい暑く、彼らのちょうど斜めうしろくらいの位置に立つ巨大寒暖計のモニュメントを見るまでもなく、気温が30度を軽く超えていることは分かっていた。そしてそれをセミの声があおりたてている。セミの種類が夏の終わりを告げるツクツクボウシになったからといって、いったい何の慰めになるだろうか。 しかも時間が悪かったのかバス停を覆う屋根の作る影は車道側にあり、気休めにさえならない始末だ。あったからといってどれほどの効果もないと分かっている程度の日陰でも、ないとなれば腹立たしくなるのが人間というものだ。だがその「暑い」に賛同する声は上がらなかった。そこにいた何人かの3年生たちから、鬱陶しいものを見るような目で見られていたからだった。今の時季はまだ暑いのがあたりまえ。そんなわかりきったことをわざわざ口に出せば、周りのものまでうんざりした気分になってしまうではないか。口にして涼しくなるならともかくとして。 その空気を敏感に察知してた啓太は、「ホント、あっつい」と言いかけたことばを慌てて飲み込んだ。ぎりぎりのタイミングでにらまれずにすんだあたり、やはり啓太の運はいいらしい。バスが来るまであと11分。永遠にも等しいような責め苦の時間をしのぐために、地元の駅前で配っていたうちわを取り出そうとしたとき。ズボンのポケットに入れていた携帯電話が鳴った。パープル・レインのイントロ部分が流れてくる。七条からだった。 「はいっ。もしもし」 「おやおや。こんなに暑いのに、伊藤くんは元気一杯ですね」 「だって七条さんからの電話だと思ったら、暑いのなんて吹き飛んじゃいます」 「それはそれは……。ところで伊藤くん?」 「はい?」 「君は今、どこにいますか?」 「俺ですか? 駅前のバス停ですけど……?」 「ああ……。じゃあ僕たちの車に乗りませんか? あと5分くらいで着くと思いますので」 「いいんですかっ?」 「もちろん」 「お願いします!」 そうして啓太はバス停にすべりこんできた西園寺のクラウンに駆け寄るまで、いちゃいちゃと喋りつづけた。あとに残された連中は誰からともなく「暑っつ!」とぼやき、手にした下敷きだの雑誌だのでばたばたと扇ぎはじめた。今度は鬱陶しいとにらみつける者はいなかった。 「あ〜っ。涼しい……!」 バス停の気温を上昇させた張本人は、座り心地のいいシートの上で、天国のような涼しさを堪能していた。 「拾ってもらえて、ほんっとラッキーでした。あのままいたら茹ってたかも」 「よほど暑かったようだな」 西園寺が笑いを含んだ声で言った。 「日なたの匂いがしている」 「あ……。汗臭かったですか?」 「いや? 健康な匂いだ。わたしや臣ではそんな匂いはしない」 「え? そう……、ですか?」 「そうですよ。それは伊藤くんが元気な証拠です」 すくいあげた陽だまりの中から生まれたような啓太は、夏の容赦ない日差しさえ彩りに変えてしまうようだ。人間は自分にないものを求める生き物なのだろう。思わず腕を上げてくんくんと自分の匂いをかぐ啓太に、西園寺と七条はやわらかいまなざしを向けていた。 ゆるやかに流れていく窓の外では、建物と建物の間から海が見え隠れしている。路線バスと違って学園に直行する西園寺の車は、啓太を拾ってからいくらもしないうちに橋の近くまで来ていたようだ。ここからならもうあといくらもしないうちに学園に着くだろう。 「ところで伊藤くん」 「はい?」 「宿題は全部終わりましたか?」 「はい……。一応」 「おやおや。それは残念」 「へっ?」 終わっていないならともかく、終わったのが残念だなんて、いったいどういうことなのか。きょとんとした顔で大きな目をさらに大きくした啓太と、大仰にため息をつく七条と。ふたりの顔を見比べていた西園寺がふっと笑った。 「啓太。臣はな、おまえの分の宿題もやっていたんだ」 「俺の宿題、ですか?」 何のことか分からず、ますます目を大きくした啓太に、七条は困った顔をして見せた。 「だって終わっていなければ、今夜楽しめないでしょう?」 「だからといってハッキングしてまでどんな宿題が出ているのか調べるのはやりすぎだ」 「でも調べないと、前もってやっておけないじゃないですか」 要するに七条は学園のシステムに侵入して2年生レギュラークラスの宿題を調べ、全部仕上げていたというのだ。今夜の、啓太との時間を確保するために。自分が宿題をするのにかかった時間を顧みて、啓太はおそるおそる口を開いた。 「あのぉ……。それってすごく大変だったんじゃ?」 「伊藤くんのお役に立てるかと思うと、楽しいだけでしたよ」 「だけど七条さんだって宿題はたっぷりあっただろうに……」 全科目レギュラークラスの啓太と違い、ハードクラスが基本になっている七条は宿題の量も内容も桁違いにハードだったはず。それをすべて終わらせた上で、さらに啓太の宿題までやっていたとは。 「僕の宿題は8月に入るまでに終わりましたから」 「それにしたって、俺がやっちゃってたら無駄になるし……」 「それは違う」 なおも口ごもる啓太に、明確に否定して見せたのは西園寺だった。 「勉強に無駄なことなど何ひとつない。臣もそれを知っていておまえの分もやったんだ」 「そうですよ、伊藤くん。たまには2年生の勉強もしておかないと忘れてしまうでしょう? ちょうどいい復習の機会でした。それに伊藤くんのお手伝いになるかもしれないと思うと、むしろ楽しくできたのでよかったですよ?」 そんなふうに言われても大変でないはずがない。だが西園寺も七条も、こういうところでは絶対に「大変さ」を悟らせもしないのだ。彼らと知り合って間もなく1年になろうとしているが、このあたり、まだまだ敵わないと思うところだった。 「伊藤くんの宿題がちゃんとできていると分かれば」 角を曲がったとたん、いきなり車の量が減ってしまっていた。ここからは橋へ向かう道になるので、学園に用のない車が入ってこないからだろう。彼ら以外には2ブロックほど先にメタリックグレーのワゴン車が見えているだけだ。見覚えのあるその車に目をやっていた啓太は、七条の声に慌てて振り向いた。満面の笑みを浮かべた七条の顔が、驚くくらい近くにあった。 「今夜は安心してふたりで過ごせますね」 「はい。もちろん」 自分に向けられた七条の笑顔につりこまれるように、思わず「はい」と答えてしまった啓太だったが、ここには彼らだけではないのに気づいて、思わず運転席の方を伺った。きちんとお仕着せを着て帽子をかぶり、白い手袋をはめてハンドルを握る姿勢正しい姿からは、何かを聞いた様子など微塵も感じられない。「でも聞こえたよな」と啓太は思った。西園寺家の運転手は皆、西園寺の小さなつぶやくような声にさえ返事を返すからだ。西園寺の声のみに反応するセンサーがついているのならいいのだが、もちろんそんなことはないだろう。 『何を話しても彼らが外で漏らす心配はない。影のようなものなのだから、何も気にするな』 以前、同じように気にしていて西園寺にそう言われたことがある。それはもちろんそのとおりなのだろうが、どうしても慣れることができないのだった。 それでもずっと学園にいるときなら今のようには気にならない。見事なまでの個人主義者が集まったあの学園では、男と付き合おうが50歳年上のおばあちゃんと付き合おうが、それが自分に関係ない限り、気にもかけないからだ。そんなところでは啓太も周囲を気にせず七条と付き合えた。だが、こうして実家で過ごしてきたあとは違っていた。前の学校の友人たちと出会い、他愛のない話をするうちに、どうしても「カノジョ」の話題が出てくるからだ。この学園に来て七条と出会えたこと、彼と恋人同士になれたこと。それは啓太にとって、それ以外の現状など想像したくもないくらい幸せなことである。それなのに友人たちには話せないのだ。……七条が同性だというだけで。 あれもこれも気にしてしまう自分がいちばん嫌だった。 「じゃあ街で夕食にしませんか? 久しぶりのロックスでスペシャル・バーガーにオニオンリング・フライをつけて。デザートは店を換えてケーキパフェなんてどうでしょう」 「……わたしが留守だと思うと好き放題だな、臣」 「田舎に引っ込んでたのでジャンクフードに飢えてるんですよ。伊藤くんとふたりでないとこんなメニューは選べません」 「あたりまえだ。わたしの目の前にそんなものを並べて欲しくない」 西園寺も七条も、啓太の微妙な心の動きに気がついていたのに違いない。だからこそこんな話題を持ち出したのだろう。こうして話してしまえば先刻の「安心してふたりで過ごせる」は「安心してジャンクフードが食べられる」にすりかえられるからだ。今日2度目の彼らの大きさを。そして彼らに護られている自分を感じながら、啓太は明るい声を出した。 「あ。じゃあ俺、ナッツ入りブラウニーのストロベリーパフェにします。あれ、苺のソースが絶品なんです」 「……聞いただけで胸焼けがしそうだ」 心底嫌そうな西園寺の声に、啓太は迷いのない笑いをはじけさせていた。窓の外に広がるまぶしい海が、その笑顔を彩っていた。 夕方。6時を少し過ぎたくらいの時間。 啓太は部屋まで迎えにきた七条と外へ出た。本当はもう少し早く会いたかったのだが、「いろいろと準備もありますから」と言われていたのだ。何の準備なのかを聞いても「もちろんナイショです」とかわされてしまっていたが。 「でも今からだとバスの時間が半端じゃないですか?」 「ええ。今日はちょっと歩いていこうかと思って」 「ああ、なるほど〜」 久しぶりにふたりで歩けるのがうれしくて。というよりはふたりで歩けるならその他のことはどうだってよかった啓太は、いとも軽く返事をして、そしてきっちり5歩歩いたところで足を止めた。 「ええーっ! 歩いて行くんですかぁっ?」 「はい。ちょうどいいお散歩コースだと思いますよ。それに伊藤くんに、ぜひ見てもらいたいものもありますしね」 さあ、遅くなるといけませんから。そう促されて歩き出したものの、街まで歩けるなんて啓太は思っていなかった。学園は島にあり、街との間には海が横たわっている。両者をつなぐ橋は時間が来ると上がってしまうのだから。 だが七条は悠然としたものだった。啓太がちょこちょこと歩く隣で、長い脚をのんびりと運んでいる。こういうとき啓太は、不公平だと思わずにいられなかった。脚は長いし顔はいいし頭はいいし、何でもできるし。 ―― 何でもできる? そうだ。七条は何でもできるのだ。いつもポケットに入れてある、あの小さなパソコンで。 「あのう……。七条さん?」 「はい。なんでしょう」 「もしかして、橋を下ろしっぱなしに……なんてしてます?」 「もちろん。していますよ」 いっそ清々しいくらいの笑顔を向けられて、啓太は「あははは〜」とあいまいに笑った。 何事にもそつのない七条は、門の脇にいる警備員まで連絡を行き届かせていたらしい。橋へ向かう啓太たちを見ても制止もせず、黙って見送ったからだ。一般の学生が電話を入れて彼らが信じるはずもない。どういう方法を使ったのかと不思議に思った啓太だったが、次の瞬間には考えるのをやめた。世の中には知らなくていいことだってたくさんある。それは啓太がこの学園に来て学んだことのひとつでもあった。 陽は落ちかかっていたが、橋の上のアスファルトは、日中たっぷりとためこんだ熱を吐き出そうとしているのか、まだ呆れるくらいに暑かった。それでも島の陰から離れ、完全に海の上に踏み出すと、陸へ向かって吹く海風が心地よかった。 「伊藤くん。ちょっと目を瞑ってくれますか?」 「目、ですか?」 「ええ。橋はまっすぐですから、僕が手を引いただけでも歩けると思いますよ?」 先刻、七条は啓太に「見せたいものもある」と言った。ここで目を瞑れというのは、きっとそこに近づいたということなのだろう。そう理解した啓太は、「じゃあ……、はい」と言って左手を預けたのだった。 目を閉じているといろんなものが感じられた。まとわりつく熱気。追い越していく風の感触。潮の香り。波の音。遠くを過ぎる船のエンジン音。同じように橋の上を歩いていたのに、数瞬前までは感じられなかったものばかりだ。それはまるで情事の最中のようだった。あの時と同じように感覚が研ぎ澄まされているのがわかる。それは目を閉じているから、なのだろうか。それとも七条の大きな手に自分を委ねているから、だろうか。啓太にはわからなかった。ただ、こうして七条とふたり、黙って歩くだけでも楽しかった。 「さあ。もういいですよ」 しばらく歩いたときだった。全身で風を感じていた啓太が足を止めた。そして七条の声のした方に目を向ける。 「うわ……!」 思わず漏れたことばは、だが長くは続かなかった。左手に広がる遮るもののない海。そこに沈みつつある太陽が、海と空とを真っ赤に染めていた。 「すご…………」 ここの海に沈む夕陽は何度も見た。七条の好きな屋上からも。そして海岸からも。だがいつもどこか一部が遮られていた。学園島の中でこの風景を見ようと思ったら、研究所の敷地まで足を運ばなければならない。つまり、ただの学生である啓太には見られない風景であったのだ。 赤であり。オレンジであり。緋色であり。紅色であり。それらの色が複雑に混ざり合った何万色もの色が刻々と表情を変え、雲がそれにアクセントを添える。人の手では決して作り出すことのできない、完璧なまでのこの美しさを、何と言って表現すればいいのだろう? ことばを見つけることさえ忘れて、啓太は呆然と立ち尽くした。 「……どうですか?」 「綺麗です。すごく。本当に」 「ああ、よかった。ぜひ君に見てもらいたかったんです」 自分でもよく分からない衝動にかられて、啓太は七条に抱きついた。 「伊藤くん?」 「……有難うございます。七条さん。俺、こんな綺麗なものが見られるなんて、思ってもみませんでした」 「お礼を言うなら、それはきっと僕の方ですね」 やわらかい声でそう言いながら、七条がそっと抱き返してくる。銀の髪が夕陽に染まっていた。 「僕が綺麗と思ったものを、同じように綺麗と思ってくれる伊藤くんがとてもうれしい。僕の心をちゃんと受け止めてくれて……」 有難う。ということばは、お互いのくちびるの中で行き場を失った。今年の夏を締めくくる儀式であるかのようなそれは、陽が完全に燃え落ちるまで続けられ、やがて闇の中に溶けこんだ。 |
いずみんから一言 |
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