タイやヒラメの舞い踊り

〜 あるいは 1ナノグラムの自己満足 〜




 日本に帰ろう。
 ニューヨークで弁護士資格を取ってからもしばらくアメリカに居残っていた俺がそう思ったのは、空があまりにも青かったからだ。ひたすら弁護士になるべく突っ走ってきたヒデと違い、国連で働くのに有利かと思って弁護士資格を取っただけの俺は、資格取得後もどこかの事務所に席を探すことはせず、日本政府がこっちで立ち上げる小規模プロジェクトの現地スタッフなんかをして経験を積んでいた。ぶっちゃけ、国連には日本人の採用枠があるから、それに応募することも考えた。けど。それでいいなら留学までする必要はなかったんじゃないか。そんなふうに思っちまったんだな。損な性格だと自分でも思った。
 最初はILO関連で約8か月。次がジャパンウィーク関連の『日本の現代美術』ってやつで、これには岩井の存在が大きかった。ニューヨークで個展を開く準備をしていた岩井とルームシェアしていたおかげでそっち方面の関係者とも多少の面識があった上に岩井サイドから代理人を依頼されたからだ。このときはじめて「ああ、弁護士資格取っててよかった」と思ったね。それがすべて終わった翌日。今日は1日骨休めとばかり、すっかり馴染んだ大学の、気に入りの場所で寝転んだ。
 そこはLibraryの裏で、芝生の真ん中にソメイヨシノとは違う感じのあまり背の高くない桜が、枝をゆったりと伸ばしている。その横で見上げた空が馬鹿みたいに青一色で。幼稚園児のお絵かきでも雲くらい描くぞ! とかってツッコミを入れてるうちに「この空って日本にもつながってんだよな」なんてガラにもないことを考えちまったわけだ。そうしたら何か無性に日本に帰りたくなっちまってよ。ホント柄でもねえんだが、思っちまったらあとは早かった。
 もとより一人暮らしだ。仕事も終わった。つまりは調整しなきゃならないものは何もない。部屋にあったわずかな私物をガレージセールで売っぱらい、売り上げをユニセフに寄付したその足で空港に向かったのだった。しまった。いつものスタンドで最後にもう1回ホットドックとコーヒーを食っときゃよかったと後悔したのは、空港の出発ロビーでクソ高いくせに不味すぎるホットドックを、黒い湯にしか思えないコーヒーで流し込んだ時だった。

 鈴菱の卒業生支援は至れり尽くせりだ。留学には無利子の奨学金が出るし、一時帰国時には学園で抑えてある物件を利用することもできる。じつは俺が住んでいたヒデと同じマンションの部屋も、俺が渡米したときに学園に借り上げてもらっていた。帰国すると決めたときにダメ元で問い合わせてみたら、ちょうど部屋は空いていた。ここ数年は横浜国大に進学した後輩が住んでいたそうだが、この3月に卒業して以降は空いていたらしい。これはラッキーだった。
 しばらく海外に出て放浪の旅をしつついろんなものを見てこようと思ってるから、もとより日本に長居をするつもりはない。けど効率よく資金を稼ぐのはやっぱり日本がいい。1万円持ってたら向こうでは何日も食えるからな。だからできるだけ家賃は抑えたかったのだ。このトシで実家に帰るのも願い下げだしな。
 今はタイミングよく、中嶋も篠宮も岩井も日本にいる。1か月や2か月転がり込んだところで誰も何も言わないと思う。しかし口うるさいであろう篠宮と何日も同じ部屋で寝起きするのは疲れるし、じゃあニューヨークで一緒に住んでた岩井はというと、ルームシェアを前提にしてない部屋であいつの邪魔をしてしまうのが怖かった。寮にいたときにはわからなかったが、岩井の創作活動は思ったより繊細だったのだ。スケッチはすごい勢いでがーっと描いていってるが、キャンパスを前にしたとたんにそれが一変する。描きたいものを表現するのに、どこにどう線を引くのがいいのか。どんな色を使えばいいのか。描きはじめる前の岩井は俺なんかが想像することもできないくらい悩み、苦しんでいた。それを知っていて「しばらく住まわせてくれ」なんて言えるものじゃない。たとえがさつな俺でもな。
 え? まだヒデが残ってるって? あのなあ……。あの万年新婚さんの家に住めなんて、そんな恐ろしいこと言わないでくれよ。そりゃ啓太の部屋はほとんど空き部屋みたいなもんだぜ? 飲み会の後で泊めてもらうのはあの部屋だ。半年やそこらならヒデも啓太も何も言わずに住まわせてくれるだろうさ。けど断固として言わせてもらう。自分がかわいけりゃヤツらの部屋に12時間以上いちゃいけない! わかったな? じゃあこの話題は終了だ。

成田からまっすぐ新橋にある鈴菱本社に行って部屋の鍵を受け取った。
「鈴菱理事長より、『部屋代は気にせず好きなだけ使ってほしい』と託っております」
 どこをどう話が回ったもんだか。ま、啓太あたりだと想像はつくが、これはこれで有難い。
 その啓太とは横浜駅のバス停で偶然出会った。ベンチに座ってタブレットをのぞきこんでいるのを見つけたのだ。それがあまりにも真剣だったもんだから声をかけそびれてしまった。日本で大学に復学していたと言ってから、きっと何か課題が出てたのだろうと容易に想像はついた。が、真剣すぎたのか、バスが来たのに気づきもせず、タブレットに指を走らせている。周囲の人がちらちらと啓太を見ながらバスに乗り込み、やがて出発してしまったのを見て、俺はレンタカーを借りにバス停を離れた。あの様子だとレンタしてきてもまだ座ってると思ったからだ。というよりむしろ、このあと何台バスが来ても気づかない可能性だってある。どうせクルマは借りるつもりだったんだ。何日かバスに乗って左側通行の感覚を戻してからの予定だったが、まあ駅前さえ抜けりゃ大丈夫だろう。ってか、バスが来てるって教えたら良かったのか? 今頃気づいてどうするよ、自分……。
「おーい、啓太!」
 2度目にようやく顔をあげた啓太は、俺の顔を見るなり駆け寄ってきた。こういうときの啓太は本当にうれしそうな顔をしてくれる。シートベルトを締めながら、ちょっと大人っぽくなった顔であらためて笑いかけてきた。
「お帰りなさい、王様! いつ日本に?」
「あ? 4時間ほど前か? 鍵もらいに新橋で降りたところで思いついて、銀座でコーヒー飲んでた」
「銀座のって、あの画廊の隣の?」
「そうそう。岩井たちと行ってた店な」
「そっかー。まだあったんだ」
「代替わりくらいしてるかと思ってたがマスターは健在だったぜ。眉毛まで白くなってたけどな」
「へ〜え」
 日本は変化の激しい国だ。今走っている道だって、ナビの指示があったから走れているが、俺らが住んでいたころにはなかった道だ。改札からバス停までのわずかな距離でさえ店や建物が変わってしまっている。ましてや、いくら裏手とはいえ銀座なんていう場所で古びた喫茶店が生き残っているのは、しばらく留守にしていた人間にとってはちょっとうれしい情報なのかもしれない。
「あの店、岩井さんの素描画展があったときに大学の友達たちと行ったんですよ。そしたら中の1人が女の子と初デートするときには絶対つれていくようになったんです」
「ああ……。確かにちゃらくなく、地味じゃなく、古臭くなく、でもあか抜けてるって感じがするな」
「そうなんです。業界人ぽい人が出入りしてるのがが女の子に受けるらしいんですけど、いつも2度目のデートでダメになっちゃう」
「そりゃむしろ呪いの喫茶店じゃないか」
 ひとしきり笑いあったあと「みんなどうしてるかなあ」と小さくつぶやいた啓太の声は、懐かしいというより寂しいといった感情の方が強く感じられた。大学に戻ってみたら親しかった連中は卒業した後。まわりは年下ばっかり。浦島太郎状態というのは確かにしんどいかもな。
「そうだ。お前さっきタブレット見てただろ。すげー真剣な顔してたから、声かけるのちょっとためらったんだぜ」
 微妙にしんみりした空気に居たたまれなくなって話題を変えた。これがヒデなら肩なんて抱き寄せて『お前には俺がいるからいいだろう』とか『ほかの男に会えなくて寂しい? 今夜はお仕置きだな』くらい言うんだろうがな。俺にはこの程度が精いっぱいだ。
 思えば高校時代から俺はこんな役回りだった。中嶋から辛く当たられて、泣くことも忘れて呆然とたたずむ啓太に何度声をかけただろう。気の利いたことのひとつも言えたことはなかったが、今も啓太がこうして中嶋と一緒にいることの、ほんの1ナノグラムほどでも役に立ってればいいんだが。
「大学の課題でも調べてたんだろ? 俺は気にせず続きをやってていいぜ」
「あー、そうじゃないんです。課題じゃなくて調べてたのはレシピです」
「へ? レシピ?」
 レシピってあれだよな。料理を作るのに何が何グラムだのどれが何ccかだの書いてるめんどくさいやつ。
「もうすぐ中嶋さんの誕生日なのに料理が決まらないんです。もう困っちゃって」
 ああ……と思う。そう言えばコーヒー飲みながら読んだ新聞に、今年のサンマがどうたらこうたら書いてあった。あれが新聞に載ったらヒデの誕生日が近いということだ。啓太の誕生日はヒデがレストランを予約しているが、ヒデの誕生日は啓太の手料理と聞いたことがある。それは少ない小遣いを啓太が減らさないようにというヒデなりの心遣いだったようだが、それはそれで困ることがある。ということのようだ。
「中嶋さんは魚が好きなんで魚料理を考えるんですけど、レパートリーがなくって。いくら美味しいからって、さわらの味噌漬けやほっけの開きなんかを誕生日のごはんにできないでしょう? かといってあんまりおしゃれだと俺の手には負えない感じがするし。現に1回ブイヤベースをためしに作ったことがあったんですけど、なんかもうひとつというか。ブイヤベースのスープは売ってるんですけど、中嶋さんはそういうの使うのNGなんですよねー」
「なるほどなあ」
「比較的簡単で見た目のいいパエリヤやアクアパッツァは中嶋さんが時々作ってくれるんで、真っ先に除外リスト入りだし。鯛の尾頭付きとお刺身はヘビロテで出してるから、ちょっと間を置きたいし」
 ホントにもう、何を作ったらいいんだろう……
 思わず笑ってしまいそうになったのを慌てて呑みこんだ。啓大の悩みは、本人にとってはとんでもなく深刻なものだったんだろうが、啓大以外の人間 ―― 啓大には悪いがヒデの野郎でさえここに含まれる ―― にはどうでもいいことだった。思わずぷっと吹き出すか、相変わらずの馬鹿ップルぶりにリアクションが取れず、困りきった微笑を浮かべた顔で頷いているかのどっちかだろう。そもそも中嶋は食にはこだわらない。自分ひとりならいい食材をうまく料理し上品に盛り付けたものを好むが、誘われれば大学近くの安さしか取り柄のない大衆食堂で油ギトギトの揚げ物定食を食べていた。しかも俺でさえ「勘弁してくれ!」と心で叫んだ定食を、平然とした顔で完食した。そんな中嶋だぞ? 啓大の作った料理ならなんだってよろこばないはずがないんだ。そりゃあカップ麺を目の前にどん!って置いて「勝手にお湯注いで食べてください!」って言やあ、さすがのヒデもちっとは驚くかもしれねえが。
 中嶋とのことで悩む啓太にはいくらでも手助けしてやりたかったが、残念ながらこと料理に関しては技術も知識も、ましてやセンスなぞハナからない。つまりこの件で俺にできることは何もなかった。

 せっかく借りた部屋だったが1週間もいずに旅に出た。レンタした車を返しに行ってつい1か月延長してしまい、そのままぶらりと出かけてしまったのだ。行先は決めない。とりあえず鼻先が西を向いていたから西へ行く。窓を一杯に開けて風に吹かれながら走っていて、ふと思いついてルールを決めた。角を曲がったとき、最初に俺の前を走っているクルマのナンバーでいくつ目の角をどっちに曲がるのか決めるってやつだ。最初の数字が奇数なら左で偶数なら右。最後の数字の数だけ角を進んでから曲がる。たとえば『12−34』なら4つめの角を左へ。『43−21』なら1つ目の角を右だ。
 こんな感じでぶらぶら走っていたら長野県から出られなくなった。4日目に群馬から長野に入って以来、県内をぐるぐる走っている。県境まで行くには行くのだが前を走るお車様のご託宣でまた戻ってしまうのだ。長野県は好きだぜ? 思わぬところにいい温泉がいくつもあるし食べ物も美味い。特にニューヨークなんて大都会に住んでたから、この山に囲まれた清冽な空気を吸い込むだけで体が喜んでいるのがわかる。でもどこかで飽きてきていたのかもしれない。昼飯を食おうと、一昨日にも休憩に使ったショッピングセンターにクルマを入れた俺は、前回は何も思わなかった出店のたこ焼き屋を見て、思わずあっと声をあげていた。そうだ。この手がある!
 慌てて日付を確認すると今日は11月18日だ。我ながらなんてすごいタイミングだ!
 電話番号はすっかり忘れていたとしても今はスマホという便利なものがある。それを見ながら何か所かで問い合わせ、目的の人物とつながるのにはさほどの時間はかからなかった。そこでちょっとした頼みごとをしてみる。断られることはないだろうと思っていたものの、やっぱり快諾してもらえるとほっとした。
 そして次が啓太だ。いや。いやいやいや。まずはヒデだ。あの狭量な亭主は自分を飛び越えたら絶対にうんとは言わねえからな。公判中ならまずいなと思いはしたが2度のコールで奴は出た。
「悪いな。ちょっと啓太を貸してくれ」
「あれはモノじゃない」
「いいじゃねえか。モノじゃねえんだったら減りもしねえだろ? 人助けだ。啓太の力がいるんだよ」
 強引に中嶋の了解を取り付けた俺は、食料品を買い込んでから啓太に電話をした。中嶋から連絡する時間を空けたわけだが、大掃除の最中だったという啓太は意外にもちょっと不満そうだった。
「手伝うのは全然かまわないんですけど明日は中嶋さんの誕生日なんですよ?」
「おう、それそれ。メニューが決まんねえって言ってたろ? もう決まったのか?」
「一応、鯛しゃぶにしようかなと思ってます。ちょっと見た目が違うし、鯛のお刺身だったら行きつけの魚屋さんに頼めば30分で作ってくれるんで」
「ってことは予約とかはしてないんだな?」
「はい」
「じゃあな、俺がその鯛しゃぶに、思いっきりの付加価値をつけてやる」
「ほえ?」
 電話の向こうから、アタマの上に?マークをつけたような啓太の声がした。

 今となっては長野県内をうろうろしていてよかったと思う。これが東北だったり山陰だったりした日にゃ、ヘタすりゃ企画倒れになるところだった。だけど長野は思った以上に東京と近い。ましてやうちは東京より長野に近い場所にある。来たときと違って高速に乗り入れた俺は、一気に自宅までクルマを走らせた。高速出口から近いことも幸いし、ちょっとばかり家で仮眠をとる時間も確保できたのだった。
 そして夜8時。時間通りに駐車場に現れた啓太は、先刻のちょっと不満そうだった口調そのまま、口をとがらせている。へへっ。かわいい。なーんて思ったのはナイショだ、内緒。
「来たな」
「ホントに今日中に帰れます?」
「今日中?」
「だから、明日は中嶋さんの誕生日なんです、って」
「そりゃ知ってるが……。明日の夕食までには余裕で帰れるぞ?」
「…………!」
 ちょうどマンションの敷地から道路へ出ようとするタイミングだった。夜とは言っても人通りはぽつぽつある時間帯で、どこから人や無灯火の自転車が出てこないとも限らない。ちょっと身を乗り出すようにして前方の確認をしていた俺の耳にも、啓太が息をのんだのが分かった。思わず振り向くと、愕然とも呆然ともいえない表情をしていた。
「どうした」
「あのですね、零時を、過ぎたら、もう、お誕生日、なんです」
 この時になってようやく俺は『誕生日』に対する認識のずれがあったと悟ったのだった。そうだった。こいつらは万年新婚さんだった。俺としたことがすっかり失念してしまっていた。つまり午前零時にはじまるふたりのお楽しみの時間を奪っちまったわけだ。あちゃー!と思ったがもう遅い。啓太が不満そうなのも頷ける話だ。啓太はもちろん、しばらくは中嶋からの嫌味攻撃にさらされることになりそうだった。こりゃもうほとぼりが冷めるまでどこかに身を隠すしかねぇかもしれん。
「ま、とりあえずそこの毛布かぶって寝ててくれ。寝不足だとあとでエグイことになるから」
 啓太はしばらくスマホをぽちぽちやっていたが「中嶋さんがゆっくりして来いって言ってくれてるから、明日はフルでお手伝いできますよ」と言い、こっちが返事をした時にはもう軽い寝息を立てていた。

「おい、啓太。そろそろ起きろ」
「う……ん。まだ暗いじゃないですか……」
「もう遅いくらいだ。起きて今のうちにメシ食っとけ。空腹すぎるとかえって酔う」
 寝心地は悪かっただろうが寝は足りているはずだ。なにしろ昨夜は9時前に寝息を立てはじめて以降、何度か休憩に入ったSAやコンビニでも、ついに目を覚まさなかったからだ。少なくとも7時間以上は寝たはずだ。あまりぐずぐずする時間がないので、ドアを思いっきり開けて夜明けの冷たい空気を入れてやったら目が覚めたのか、もごもごと毛布から抜け出た啓太はクルマから降りて伸びをした。
「うーん、さ、むっ。え? まだ4時半? わー。寒いわけだー」
 クルマの屋根に手をかけて啓太が夜空を見上げる。その視線につられるように目を上にやると、長野よりはるかに少ないものの冴え冴えとした星がいくつか見えた。あれは何だったか。記憶の底を探って地学の時間にやった星座のかたちをたどろうとしてみる。だが見極める前に、吐いた息がほやほやと邪魔をした。
「さっき、あったかいお茶は仕入れといた。食わなかった夜食のおにぎりがあるから朝飯はそれだ。トイレに行きたかったらコンビニがそこ出たとこにあるぞ。ついでに顔も洗ってこいや。その間に熱いコーヒーも用意するから」
「了解でーす!」
 中嶋がいいと言ったからか、昨夜とは裏腹に啓太の機嫌がいい。後部座席に上半身を突っ込んでレジ袋を引っ張り出すと、ツナマヨと鮭わかめを手に取った。
「あれ? 海の匂いがする」
「お、さすがはBL学園生。潮の匂いには敏感だな」
「そういえばお手伝いの中身を聞いてないんですけど。っていうか、ここどこなんだろう?」
「ここは明石だ。日本標準時の子午線が通ってる街な。人助けの中身は……、お楽しみだ」
「なんですか。それー」
 あの中嶋と何年も暮らしていて、どうしていつまでもこんな素直さを保っていられるのか。顔を合わせるたびにそう思う。そして中嶋が手放したがらない気持ちもまた、わかる気がするのだ。
 そして。手早く朝食とトイレを済ませてコンビニから帰ってくる途中、近づいてくるヘッドライトが見えた。
「お、来た来た」
 急いで駐車場まで戻る俺らを見てクルマから降りてきたのは小柄な男。俺より少し年上だから30は超えているはずだ。いつのまにか太って顔と腹が丸くなっている。
「むっちゃ久しぶりやん。連絡ありがとう」
「いやー。山ばっかりの長野を走ってたらたこ焼き屋の看板が目に入ってよ。タコだ、海だ。って思ったらオヤジさんの顔が目に浮かんだんだ」
「いやマジ困ってたんで助かるわー」
「で、これが今回の助っ人。魚が釣られに来る奇跡のミラクルボーイ伊藤啓太だ。啓太、こっちは後藤拓也さん。俺が高校時代ちょくちょくバイトさせてもらってた漁師の息子さん。オヤジさんに怒られながらふたりで釣竿振ってたんだよなあ」
 思わず遠い目をしちまった俺をほっぽらかして拓也さんと啓太は自己紹介をし、さっさとクルマに乗り込んでいた。この寒さの中だ。ちゃっちゃと避難したようだ。俺も大急ぎで荷物を拓也さんのクルマに移し、無事出発と相成ったのだった。

 長野のたこ焼き屋でここを思い出したのにはもうひとつ理由があった。後藤のオヤジさんは主に鯛を釣っていたのだ。中嶋の誕生日の食卓に『啓太自身が釣った鯛』を出せたら、それは単なる鯛の刺身や尾頭付きではなくなるだろ?
「もうわかったろ? 今日のミッションは拓也さんを手伝って魚を取る。バイト料はもちろん高級魚の明石鯛だ。ただしそれなりの数を釣れないとバイト料は出ない」
「王様の言ってた『付加価値』ってこういうことだったんですね」
 救命胴衣をつけながら啓太が納得したように言った。海流が早いこともあるのか、まだ着岸しているというのに船は結構揺れた。
「じつは鯛釣り名人のオヤジさんが来てくれると思ってたんだ」
「あー。悪いなあ。うちの娘の幼稚園の運動会で、張り切りすぎて腰を痛めてしもたんや。仕方がないから俺が漁に出ることになってんけど。って、あ、俺な、今は工務店で図面書いてるねんけど、結婚するまで漁師やっとったから。そやのに片手間漁師なんがバレてもたんか、魚がさっぱり来やがらへん。オヤジの生活かかっとうし、どないしよかと思ってたとこに哲也くんから連絡もらったんや」
「まかせとけって。この啓太の運は半端じゃねえからな。鯛が欲しいと思ったら、鯛の方から寄ってくる!」
「そりゃ頼もしいわ」
 大きなうねりに揺られながら第五鳳栄丸は港を出た。同じように出航していく船がいくつも見えた。先刻、啓太と見上げた時には真っ暗だった空が、今はわずかに群青色が混じりはじめている。何か所かで網を仕掛け、あたりが早朝特有の白っぽい光に変わりはじめた頃。船が西から東へと向きを変えた瞬間、すごいものが目に入った。
「……わ……! すごい……」
 啓太が驚くのも無理はない。視界の端から端まで。本州から淡路島まで、優美な吊り橋がかかっている。橋だけなら学園で見慣れている俺たちだったがこれはスケールが違った。それはそうだろう。これは世界最長を誇る吊り橋、明石海峡大橋だからだ。このどえらいものを国家事業でなく地方の一都市の市長が思いつき、その後の市長が実現させたというから驚く。たとえ最後は公団という形になったとしても、だ。しかも、橋を架ける調査費を計上したいと市議会にかけたのが、なんと昭和32年だというのだ。そんな時代によくもこんなすげーもんを思いついたもんだ。学園島の橋向こうのカフェのオーナーは明石海峡大橋のふもとの出身で、小学校の社会科の副読本の裏表紙には『夢の懸け橋を実現させよう』と書いてあったらしい。こういうの聞くと『国連で働きたい』なんて、俺ってちっぽけだと思い知らされる。最初に思いついた市長は、今は橋の見える墓地で眠っているということだ。
 啓太とふたりして橋を見上げつづけた。橋はぐんぐん近づいてきて、やがて視界に納まらなくなり、頭上を越えてうしろに去った。拓也さんはそのあたりで船を止めた。
「さあ。このあたりが鯛の漁場や。というても俺は昨日一昨日とボウズやってんけどな。啓太くんにはがんばって釣ってもらわんと」
「もう……、あんな話、真に受けないでください。学園島で何度かアジを釣ったことがある、って程度なんですから」
 啓太が釣り糸を垂れたらアジが釣れすぎて、学食のメニューがアジのフライに急きょ変更されたことは、当時の学園生なら誰でも知っていることだ。それも一度じゃない。でもまあ初心者なのは間違いない。もたもたしている啓太の竿に鯛用のルアーつけてやり、拓也さんとこの後のことを話しておくのにちょっと操舵室の方に行こうとしたとき。
「あーっ! 何か釣れましたー」
「って、早っ!」
「重いです〜」
「啓太くん、ちょっとだけがんばって!」
 拓也さんが網をこっちに差し出した。受け取って獲物をすくいあげてやると、それは立派な鯛だった。ほんのり赤みを帯びた体が朝日の中でぴちぴち跳ねている。
「60センチはあるなあ。ええ紅葉鯛や」
 それにしても早い。竿を渡してから何秒だ? 拓也さんなんか「ありえへんわー」とか言いながら針を外している。するとまた「王様〜。網お願いします〜」という悲鳴が聞こえてきた。どうやら俺用に置いていた竿を使ったらしい。俺と拓也さんは思わず顔を見合わせ、どちらからともなくそっと息を吐いたのだった。

 バイト代は鯛を1匹。啓太にはそう言ったが、じつは正しくはない。俺は啓太に鯛を釣らせてやりたかっただけで、バイトとかボランティアとかいうつもりが全くなかったからだ。だったら釣り船に乗ってもよかったんだが、ここまで来てボウズでした、なんて訳にいかないからな。今日の啓太は。
 だから以前にバイトしてた鯛釣り名人のオヤジさんの船に便乗させてもらおうと思ったわけだ。とはいっても多少の経験がある俺はともかく、啓太はおそらく手を取るばかりで、オヤジさんの仕事の邪魔をしてしまう可能性だってあった。船代を取ってくれたら簡単なんだが、オヤジさんが受け取らないのもわかっていた。
 じゃあせめてその分を働かせてもらおうと思ったら、なんとオヤジさんは腰を痛めていて、代打の拓也さんはボウズ続きで困っているという。それでボランティアみたいなところに話が落ち着いてしまった。まあ俺ががんばって釣りまくれば鯛の1匹くらい、もらったってバチは当たらないだろう。
 そう思っていたはず。なのに。鯛が2匹にブリとヒラメが1匹ずつ。さらには新幹線の切符までもらってしまった。要するに啓太がいちいち数えるのも面倒なくらい馬鹿みたいに釣っちまった、ってわけだ。恐るべし。啓太の運。明石海峡を大きな生簀にしやがった。70センチもある鯛をたてつづけに2匹釣り上げたときにはさすがにうれしかったのか、拓也さんとの2ショット写真を撮って中嶋に送っていた。そればかりじゃない。仕掛けた網には高級魚ばかりがかかっていた。
 あ。なんか新幹線の切符もらってもいいか、って気になってきた。
 なんだかんだ言っても俺の方はクルマで帰らなきゃいけないんで、切符はちょうどよかったんだが。連れてきたんだから送っていくのが当然なのは分かってる。けど昨夜ほとんど寝てないからな。啓太を事故に巻き込むわけにいかないだろ? それに啓太にはタイムリミットってもんがある。
 あとのことは篠宮に任せた。ここまできたんだ。魚屋に頼むより啓太が料理する方がいいに決まってる。篠宮ならきっと懇切丁寧に魚のさばき方を教えてやれることだろう。活けじめにしてもらった魚を入れたクーラーボックスを抱えた啓太を駅まで送り、俺はオヤジさんちでちょこっと寝かせてもらうことにした。俺が寝てる間に拓也さんから話を聞いたオヤジさんは啓太に会って見たかっただの、俺の後を継ぐ気はないか聞いてくれないかだのと、どこまで本気かわからないことを、だけど機嫌がよさそうに何度も繰り返していた。
「まあ帰ってしもたんはしゃーないわ。哲、おまえは今日、泊まっていけ」
「そうさせてもらうよ。久しぶりにカレイの煮つけが食べたいし」
 そんなことをしてるうちに幼稚園から帰ってきたお嬢ちゃんを連れて拓也さんがやってきた。すぐ近くに住んでるんだが、嫁さんがパートに出てて留守だからこっちに来たそうだ。子供なんてただでさえ接点がないのに女の子なんてどう扱ったらいいものやらわからなくて、とりあえずそうっと振り回してやったら、これがすごく受けた。俺が何をしてても10分に1回は「おじちゃん、ぐるぐるして」とまとわりついてくるのだ。篠宮から電話があったのはそんな時だった。
「おじちゃん」
「ごめんな。おじちゃんはちょっとだけお電話」
「おじちゃぁん」
 しかたがないので抱き寄せてスマホを取ったら、いきなり篠宮のお怒り声が聞こえてきた。
『丹羽! どこにいる!』
「ふえ〜ん」
 スマホからもれた篠宮の声が聞こえたらしい。可哀そうに驚いたお嬢ちゃんは泣きべそをかきながらおじいちゃんのところに走って行ってしまった。
「こらこら。幼稚園女児を泣かせてどうする」
『さっさと帰って来ないおまえが悪い。どこにいるか知らんが今すぐ帰ってこい』
「帰るって言われてもなあ。俺はレンタカーだし」
『そんなもの、そっちの営業所で返すなり、どこかに預けてあとで取りに行くなりすればいいだろう』
「無理。乗り捨てできないとこまで来てる」
『……おまえまさか、まだ明石にいるんじゃないだろうな』
「それがどうした。カレイの煮つけが俺を待って……」
「丹羽!」
 困ったことに篠宮は本気で怒っているらしい。仕方なく俺はオヤジさんや拓也さんにぺこぺこアタマを下げまくり、クルマを庭先に置かせてもらって、新幹線に飛び乗ったのだった。

 啓太にスペアキーを借りて部屋で待ってる。篠宮はそう言ったが、待っていたのは篠宮だけではなかった。岩井がキッチンで氷を砕いている。部屋で一升瓶を抱いているのは成瀬だ。
「やあ会長。和希は都合がつかなかったんで酒だけもらってきましたよ。日本酒だけどロックで飲むといけるんです」
「なんだ。とんだ同窓会だな」
「そうなったのはお前の責任だ」
 お。出たな。諸悪の根源。お前のおかげで俺はまた明石まで行かなきゃならなくなったんだぞ。
その篠宮は俺が帰ったのを見て冷蔵庫から皿を出しはじめた。それほどでかくない冷蔵庫に入る大きさの皿に並べられたそれは、鯛とヒラメとブリの刺身。鯛とブリの皿が2枚ずつ。ヒラメの皿が1枚。どれも美しさの欠片もないほどぎっしり皿に盛り込まれている。切り損ないみたいなものは啓太の失敗作だと分かるが、それにしても量が半端じゃなかった。しかもそれとは別に、すでにテーブルには鯛の切り身の塩焼きとブリの照り焼きがてんこ盛り状態である。
「こりゃあいったい……」
「伊藤からだ。『中嶋さんとふたりでは食べきれないから皆さんでどうぞ』と言ってたぞ」
「いや。それはわかるんだけどよ。こんなにもらっちまったら、あっちの分がなくなるだろう」
「向こうにはこれ以上あるんだが?」
 篠宮は俺を睨みつけつつため息を吐くという器用なことをやってのけた。
「おまえが節操もなくほいほいもらってくるからこんなことになったんだろう。数も数だが少しは大きさも考えろ。これだけ捌くのにいったいどれだけかかったと思うんだ。責任もって食べてもらうぞ」
 そういえばブリはちびっと太ってるなあと思いはしたんだが。じつは『ちびっと』じゃなかったというわけか。
「啓太が釣り上げた中では小ぶりのやつばっかりもらったんだけどなあ。だってほら。クーラーボックスに入るサイズだったろ?」
「『業務用の』クーラーボックスにな」
 ここで成瀬がこらえきれなくなったように笑い出した。岩井までが口元を緩めている。
「つまり啓太はこれ以上の大物ばかり釣ってた、っていうことだね?」
「……大きいだけじゃなく……、美しい紅葉鯛だった……」
「……まあ確かに、伊藤らしいといえば伊藤らしいか」
 そうだとも。啓太に常識をあてはめるからいけない。俺は声を大にして言うぞ。魚は啓太に釣られるために泳いでんだ!
「しかし、よほど楽しかったらしいな」
 皆のグラスに酒を注ぎながら篠宮が言う。日本酒にふれた氷が踊って、小さいけど澄んだいい音をたてた。
「伊藤が何度も話してたぞ。あんな楽しそうな伊藤は久しぶりに見た」
 久しぶりかもしれないが、啓太を知るものなら誰でも簡単に思い描ける顔だ。ほかでもない。中嶋の誕生日のための食材を自分の手でつかみ取ってたのだ。それはそれはいい顔をしたことだろう。あれ。だけど……?
「楽しかったんだったらいいけどよ、同じ調子で中嶋に話したら、あいつヘソをまげないか?」
 中嶋はこと啓太に関しては本当に狭量になる。啓太を取られるとまでは考えていないかもしれないが、自分以外の人間のことを話したりなんかすると、途端に機嫌が悪くなる場合があるのだ。下手すると歯止めがきかなくなり、啓太にすべてをぶつけてしまう。せっかく中嶋の誕生日にとがんばったのに、そんなことになってしまったら啓太が哀れだ。啓太の笑顔はいつでも簡単に思い出せる。だけど同じくらい、中嶋につらく当たられたときの啓太の姿も思い浮かんでしまうのだ。けどほかの連中はまったく心配していないようだった。
「……それは……ない、んじゃないか……」
「俺もそう思う」
「え? だけど」
「中嶋さんは啓太が笑ってたらそれでいいんじゃないかなあ」
「それに本当の意味での『ご馳走』だろう。有難いと思いこそすれ、啓太を苛める理由がない」
 それならいいんだが。啓太を連れ出した俺としては、心配でしかたがない。
「心配性もいい加減にしろ。あのふたりを俺たちでどうこうできるはずがないだろう」
「いやでもさ。学園時代に泣いてる啓太を気にかけてやったりしただろ? あの頃みたいにちょっと手を貸して、啓太にとっていい方にいくなら……」
 ふと気がつくと、みんながグラスを止めてこっちを見ている。岩井と成瀬はぽかんとした顔で。篠宮はあきれ返ったような顔で。
「それって啓太と中嶋さんが一緒にいるのは僕たちのおかげってこと?」
「ないない。何を血迷ってる。誰の助けがなくても、あのふたりならちゃんとおさまるところにおさまっている」
「俺だって基本はそうと思うぜ? けどほんの少しくらいは役に立ってねえか?」
「丹羽は……意外に、自意識過剰なんだ、な……」
「自分で勝手に思って、自分で勝手に自己満足してろ。それより成瀬、酒はどれだけもらってきた」
「ん? まだあと一升瓶が1本ありますよ」
「よし。じゃあ今からは丹羽の自己満足のために飲み明かすぞ。伊藤が助けを求めてくるかもしれないからな」

 夜が明けるまで起きていたが啓太は逃げてこなかった。ちょっとだけ仮眠をとって、篠宮たちが帰るのに合わせて、俺もクルマを取りに出かけることにした。これだけ飲んでれば今日の運転はできないだろうけど、後藤のオヤジさんとゆっくり喋ることはできるからな。新幹線の中で爆睡してたらスマホがふるふる震えた。開けてみればメッセージが1通。
―― 啓太が世話になった ――
 意味は違うが啓太の役には立ったらしい。窓の外では大井川の表示が見えてきている。1ナノグラムの自己満足が満たされた俺は、もう一度目を閉じたのだった。
 


 
 
いずみんから一言。
むっちゃくちゃ苦労しました。
第三者の視点で、と思っただけなのにこんなに手間取るとは……!
明石海峡大橋を推進した神戸の原口市長(注意! 明石市じゃないよ!)が最初に
計画を口にしたのは、なんと戦前の話だったということです。
王様じゃないけどスケールのでかい方だったんですねえ。
 




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