玉手箱の楽しみ方




 新生活のスタートは、いつだってウキウキとワクワクとドキドキで構成される。違うのはブレンドの配合度合だけだ。ところが、ここアメリカはボストンのとある街角に建つマンションの一室では、啓太くんがそこにちょっぴりの不満を加えていた。
 不満と言ってもたいしたものではない。日本から別送した荷物に啓太のものがほとんど入っていなかった、というだけだ。啓太のものがほとんど入っていない。それは荷物のほとんどが中嶋のものだということを意味する。
 啓太だって持ってきたいものはいろいろあった。お気に入りのマグカップがあれば慣れない環境でもほっとしながらお茶を飲めただろうし、みんなからよく似合っていると言われたセーターも持ってきたかった。それ以外にもあれもこれも。だがスーツケースには思ったほども入らなかった。そこで一緒に別送しようとしたところ、荷造りをしていた中嶋は一瞥しただけでこう ―― それも冷たい口調で ―― こう言ったのだ。「それはアメリカまでの貨物便代を払ってでも持っていかないといけないものか」と。そう言われてまで別送しなければならないものはほとんどなかった。費用対効果を考えれば現地で買い求めた方がはるかに安くつくからだ。理解はした。……一応は。
 
 理解とはなんだろう。と意識を他所へ向けたくて、啓太は無理やりそんなことを考えた。だって目の前では日本から届いた別送貨物を中嶋が荷解きをしているのだから。箱の中から中嶋のものは次々に出てくるが、啓太のものは最初に出てきたかばんひとつ。中に文庫版の小説と漫画が数冊、英和と和英の中辞典各1冊が入ってはいたが、カタマリとしてはただひとつしかないそれを最初にぽいっと手渡されて、啓太の分はおしまいだった。荷造りをしていた時、どうしてもこのかばんは向こうで使うんだとがんばらなければ、これさえなかったかもしれない。そう思うと何だかこのかばんだけが自分の味方のような気がしてきて、啓太は胸の前で抱きしめながらかばんを自室に置きに行った。
 啓太の部屋は狭くはない。横浜のマンションの部屋の倍近くあるだろう。家具付きの部屋ではなかったのでデスクとベッドは自分たちで買ったものだが、作り付けの家具もいくつかある。書棚と兼用になっているみたいな壁の飾り棚と、同じ壁の残り半分を占めるドレッサー。ドアの脇に取り付けられた、花を思わせる優雅なアールの付いたダウンライト。そして窓の下に置かれた大きな木の箱である。中嶋が「ホーンブロワーの冒頭に出てくるシーチェストみたいだな」と言った大きな箱はともかく飾り棚などすかすかで、いっそ寒々しいほどだ。同じような造りの中嶋の部屋には、今頃着々とモノ ―― 大半が書籍と資料 ―― が収められていっているというのに。
 ほかにすることも思いつかなくて小説と漫画を飾り棚に飾った。買ったときに書店でかけた紙のカバーをはずし、表紙を見えるように置いてみたら、ちょっと雰囲気が出た。もちろん、ちょっとだけだが。それでもないよりはずっとよくて、啓太の気分は約8パーセント上を向いた。それから中辞典をデスクに置くか飾り棚に置くかと迷いかけたところで来客を知らせるベルが鳴った。
 アメリカとはいろいろ物騒な国である。マラソンコースを標的にしたテロは論外としても、他所からは学究の都にみえるボストンでさえ日本と同じレベルでは考えられない。そのリスクをひとつでも減らすため、中嶋が啓太に言い渡したことのひとつが『絶対にドアを開けるな』だった。相手を確認してドアを開けるのは中嶋の役目で、啓太が開けることは許されない。ひとりでいるときにベルが鳴れば居留守を使え、用があるなら向こうがまた出直してくる。幸いにもまだそんな機会はなかったが、啓太の性格からすると居留守を使うのはとても嫌で、そして居たたまれない時間になるに違いなかった。
 だが今日は中嶋がいるので居留守を使う後ろ暗さもない。誰が来たのかと、自室のドアから首だけ出した啓太が様子をうかがっていると、ほんの20分ばかり前に来た運送業者がまた同じような荷物を運びこんできた。
「荷物がもうひとつあるのを見落としてたんだと。日本の業者の仕事が懐かしいな」
「……もうひとつ? だって送ったのは全部……」
「おまえにだ。オニイチャンから」
 
 何が入っているものか、荷物はやたらと重かった。箱も少し大きい。だがそこに貼られた伝票にあるのは確かに自分の名前で、啓太は封を開ける前にしばらく伝票をながめた。いや。ただ眺めていたのではない。啓太だって荷物を開けようとはしている。でもつい伝票に戻ってしまうのだ。だってこれは『和希が』啓太に送ってくれた荷物だからだ。中嶋のように『自分で』送った荷物ではなく。その違いは大きい。月とスッポンどころではなく、月とアオウミガメくらいに違っている。
 思う存分箱と伝票を堪能した啓太が、さて、と封をしてあるガムテープに手をかけたところで、コーヒーを持った中嶋が顔を見せた。
 中嶋はコーヒーと煙草が欠かせない男である。留学を機会に煙草はやめたがコーヒーは違う。人生の必需品なら可能な限り美味しいものにしなければならない。ところが。海外に出ればわかるが、日本ほど多種多様のコーヒー豆は簡単に手に入らないのだ。ヒルスやMJB、ユーバンと言った日本でもおなじみのものならいくらでも売っているが、中嶋がそんなコーヒーを飲んでいるのを、啓太は見たことがなかった。思うような豆が手に入らなくても、合う水が見つからなくても、せめて淹れ方だけはいつもと同じでありたい。と、思ったのかどうか知らないが、中嶋は使い慣れたコーヒーメーカーを買って荷物に入れていた。中嶋にとってこれは、『貨物便代を払ってでも』持ってきたいものだったのだろう。
「コーヒー淹れてみたぞ」
「あ、有難うございます」
 礼を言ってミルクの入った方を受け取ったが、啓太にはそれが単なる口実のように思われた。和希から何が届いたのか気になって見に来たのだろうと思ったのだ。案の定というか、箱をちらりと見て「なんだ、まだ開けてないのか」などと皮肉っぽい口調で言ったりしているが、今の啓太は楽勝でスルーできた。それどころか「負け惜しみみたいなこと言ってるよ〜。かわいいなあ中嶋さんも♪」とまで思えてくるのだから現金なものだ。数分前までのしょんぼり感など、今や欠片さえ残っていない。
「箱を堪能してたんですよ」
「堪能するようなものか? これが」
「そうです」
「ただのフラミンゴ便の箱だが?」
「そうなんですけど。玉手箱と思えてきて」
「玉手箱? ……ま、何にしろもう十分堪能したろう」
 言うなり中嶋はガムテープを一気に引きはがした。それまでにへらにへらと中嶋のツッコミをかわしていた啓太は、驚きのあまり声も出せなかった。目の前ではがされてしまったガムテープの残骸に啓太は目も口も真ん丸で、マグカップを持っていなければ頬を両手で挟んで、ムンクの叫びになるところだった。
「……どうかしたか」
「……俺が……、俺が開けようと……」
「うん? 輸送用の箱なんか誰が開けても同じだろう」
「………………♯▼‖▼♭……!」
 プレゼントを開けるときの楽しみはいくつもある。まずはリボン。蝶結びにしてあるのをしゅるっとほどく。凝った結びを別に造って十文字のリボンにくくりつけてある場合はどこからほどけばいいのかわからないので、少々面倒だが少しずつずらしていって箱からリボンを抜く。時間がかかる分、蝶結びよりはわくわくする時間も長くなる。けっしてハサミでちょきっと切ってしまってはいけないのだ。
 包装紙も破いてはいけない。ドラマなんかでは一気にべりっと破ったりしているが、あれはいけない。たとえスーパーの包装紙であっても、あの「べりっ」という音は耳に障りすぎるというものだ。
 そうしてラッピングをはずしてしまえば、そこには箱が、啓太の手で開けられるのを待っている……。
「……ん? なんだこれは。青いクマのぬいぐるみか。あの男もあいかわらずだな」
 ほれ。と放り投げられたクマちゃんを反射的に抱き留めて、我に返った啓太が「うにゃあ〜!」っと声をあげた。自分でもたまらなく情けないと思ったが、声が出せただけ一歩前進には違いない。もっとも、目の前にいるのがそれの通用する相手であるとは限らない。
「それからこれは……、うにゃあ? おまえはネコか、カワウソか。おまえを人間男子と思っていたのは、俺の気の迷いだったか?」
「一応、人間男子ですっ」
「ほお? 『一応』、ねえ」
「人間男子かどうかなんて散々自分で確かめてるくせに、今更のように聞かないでくださいっ!」
「なるほど。それは失礼した」
「そんなことより中嶋さんっ!」
「まだあるのか」
「こっ……これはっ、俺に届いた荷物なんですっ。だから中嶋さんが開けたら駄目なんです〜っ!」
 もしこの場に和希、あるいは丹羽がいたら驚いたのに違いない。腰はかなり引けているものの、中嶋相手になんとか踏みとどまっている。顔を真っ赤にして手をぐーにして。さすがの中嶋もその必死さは認めたようだ。箱の中に突っ込んでいた手を止め、啓太の顔をまじまじと見る。
「言うのがちょっと遅かったな」
「だって勝手に開けるなんて思わなかったから……」
「開けるのもちょっと遅かった」
「開けようと思ったら中嶋さんがコーヒーもって入ってきたんじゃないですか……」
 確かに啓太は頑張った。頑張って中嶋に異議を申し立てた。だが……ここまでだった。力尽きたようにしょんぼりと片手に抱いたクマちゃんに顔を埋める姿が痛々しい。中嶋もさすがにまずいと思ったか、回り込んでくるとクマちゃんをそっと取り上げた。そしてそれを箱に戻してふたを閉めた。
「……中嶋さん?」
「悪かったな。これで仕切りなおしてくれないか。その方が良ければガムテープも貼りなおす」
 ガムテープなんてないくせに。だってまだ買ってないから。あっけにとられて中嶋の行動を目で追うことしかできなかった啓太のアタマの中に、ただその一言だけがぐるぐると駆け巡った。
 中嶋が謝ってくれている。これが中嶋ならではの謝罪であることは啓太にも簡単にわかったが、こんなところで謝ってくれるとは思ってもいなかったのだ。どうリアクションすればいいかわからなかった。だが。ひとつだけ、啓太にもわかっていることはあった。
 中嶋が啓太のアタマをくしゃっと撫でて部屋を出て行こうとした。そのシャツの背中を啓太が掴む。中嶋がゆっくりと振り返った。
「あの……中嶋さん」
「なんだ」
「えっとあの……。和希から荷物が届いたんです。何が入ってるのか、一緒に開けましょう?」
「…………ああ、そうだな。そうするとしようか」
 啓太がにっこりと笑い、中嶋は眼鏡を押し上げた。

「クマちゃんに手紙がついてます。えーっと……」

『やあ、啓太。そっちの生活はどうだい? 
 新居といえばクマだろ?
 ちょっとでも早く送りたかったので中嶋家の家政婦さんに住所を教えてもらいました。
 王様も啓太に送りたいものがあるって言ってたのを思い出して、
 だったらついでと声をかけたら、みんながいろいろ送ってきました。
 おまえ愛されてるぞ(笑)。
 そうそう。家出したくなったらクマちゃんを連れて行ってくれよな。
 必ずだぜ? よろしくな。
                 和希』

「だ、そうです」
「なんだそれは。クマに逃走資金でも仕込んであるのか?」
「あはは〜。この青い目が、じつはサファイアとか(笑)」
「まあ、そういうことなら、精々大事にしてやれ」
「そうします」

 クマちゃんと同じような大きさの包みはもうひとつあった。クマちゃんがリボン柄の透明ナイロン袋に入っていたのに対して、こっちはクラフト紙のような茶色い紙袋に入っている。中身はわからないが、触った感じではふんわりとしたものだった。
「またクマ?」
「まさか。こんな四角いクマはおらんだろう」
「ですよねえ」
 首をひねりながら開けてみると、中は着ぐるみの足のようなスリッパだった。本体が緑色で、黄色い爪がついたゴジラ(?)風のものと、アライグマの顔の付いたこげ茶のものの2足である。後者にはご丁寧にも短いしっぽがついていた。
『伊藤くんへ
 留学したんだってね。がんばったね。
 トノサマもすごいなーって言ってます。
 ボストンは学園島のあたりよりうんと寒くなるから気を付けて。
 足元が寒くて風邪をひいたら大変だから
 あったかいスリッパを見つけてきました。
 中嶋くんと使ってください
               海野』
 最後の1行に、啓太は思わず中嶋の足元を見た。アメリカの家屋なのでここはもちろん土足だが、家具などの搬入が一段落したら徹底的に床を掃除して靴を脱いで生活できるようにする予定だった。極寒気は別として、中嶋は素足で歩くことを好むからだ。しばらく暮らしてみた都合によっては寄木風のフローリングシートを敷き詰めることも検討されていた。そうなってもやはり、冬場には温かいスリッパが必要になるだろう。
「……この場合、やっぱりゴジラのが中嶋さんです……よね?」
「さすがの海野先生も、俺にしっぽ付きのアライグマを履けとは言わんだろう」
「……履きます? ゴジラ」
「冬になったら考慮する」
 何かすごいことを聞いてしまった気がしたが、啓太的に中嶋のゴジラスリッパは有りだった。それどころか似合うとさえ思う。海野がこんなスリッパを送ってきたのはおそらくいつもの天然だろうが、チョイスは拍手ものだ。
 もう少し寒くなったら。ベッドの脇にさりげなく置いてみようと啓太は思った。……さりげなく蹴飛ばされて終わりかもしれないけれど。

「次は……。これも紙袋だな。誰からだろう……」
 A4くらいの大きさの茶色い封筒に何かごつごつした感触のものが入っている。その上からリボンの代わりとも思えない緑色のひもで十文字にきっちりと縛ってある。ぐすぐす結びにした上にぎりぎりで裁ち落された結び目はまるで開封を拒んでいるかのようなものだったが啓太はこれっぽっちも頓着せず、挟んであったメモのようなものを取り上げた。

『申し訳ありませんが、これは伊藤くんには差し上げられません。
伊藤くんが幸いにもおひとりで暮しているなら、
これはそのまま保管しておいてください。
そして誰かと暮らそうと思ったときに、これを思い出してください。
これはその方のためにあります。
                    Omi Sichijo』

「……つまり、これって中嶋さんへのプレゼント、ってこと?」
「いらん」
「いらん、って……」
「いらんというのは不必要という意味だ。そのまま捨てとけ」
「だけど何か入ってるのに……。ちょっと開けてみようかな。中嶋さんの代理、ってことで」
「おい!」
「ちょっとだけです、ってば」
 リボンだったら極力ハサミを使わないようにする啓太だったが、さすがにこんな結び方をされてしまってはほどくことはできなかった。それにこれはどう見てもリボンではなくただのひもだった。まだハサミを買っていない啓太は、緑色のひもを爪切りでちょきっと切り離した。
 のぞくだけ〜。ちょっとだけ〜。と、でたらめな節をつけて鼻歌を歌いながら袋を開けて中をのぞきこんだ啓太は、だが次の瞬間、反射的に袋の口を閉じていた。
「うん? 何が入ってたんだ?」
「いっいえ(汗)」
「貸せ」
「あ〜っ!」
 中嶋がその気になれば、啓太に隠せるはずもない。あっという間もなく、七条からの包みは中嶋の手に渡っていた。そう。これは七条からのプレゼントだった。ほかの誰からのものでもなく。それを失念していたとは、啓太もまだまだ修行が足りない。
「……藁人形? 古典的だな。あとこっちは……、縁切り神社のお守りか」
「そ、そのようです……(焦)」
「焼却処分……、いや。オニイチャンに送り返しとけ」
「………………はい……」
 
 ちょっとアクシデントっぽい事態になりかけたがお仕置きになだれ込むこともなく、啓太は次の荷物を取り出した。外を緩衝材のぷちぷちクッションで包んだ、一辺30センチほどの箱である。持ち上げてみると少々重かった。ぷちぷちクッションを外しかけた手をふと止めて、啓太が中嶋を見上げた。
「中嶋さん」
「うん?」
「さっきは遅くなったから今度は先に言っときます」
「よし、聞いてやる。言ってみろ」
「このぷちぷちは俺のものです。中嶋さんは触らないでください」
 言われている意味が分からず中嶋は眼鏡を押し上げた。啓太の言動は中嶋の理解の範囲を超えることが多々あるが、これもまたそのひとつになりそうだった。こんな梱包材を触ると、いったいどういう不都合が生じるというのだろう。その様子を啓太はやけに真剣に、まるで睨みつけるように見つめている。非常にそそられる表情ではあったが、ここで押し倒すとあとあと面倒なことになりそうだという計算が先に働いた。
「それは梱包材の後始末をまかせろということか?」
「へ?」
「ちがうのか。じゃあどこかに何かの発送をするのに必要ということか」
 確かにまだ慣れない街でこんなものを取り扱っている店を探すのは面倒なことに違いない。だが。さしあたってどこかに何かを発送する予定はないはずだった。藁人形にももちろん必要ない。怪訝な思いが中嶋の眉を顰めさせる。なのに啓太はそんな中嶋をぽかんと見返していた。九州地方某K県の営業部長というふれこみの黒クマのキャラクターがいるが、東京で見かけたポスターで、ちょうど今の啓太のような表情をしていた。
「あのぅ……」
「なんだ」
「このぷちぷちはですねぇ」
 箱からはずした梱包材を手にした啓太は、そう言うとやおらぷちぷちの部分をつぶしはじめた。
「これはこうやって遊ぶものなんです。こどもの頃、クッキーの缶に入ってるやつで遊びませんでした?」
「いや」
 にべもないほど簡潔な答えは、だがとても中嶋らしかった。むしろこれをぷちぷちつぶして遊ぶ中嶋の方がよほど偽物っぽい。啓太は妙に納得した。

 緩衝材に包まれていた中身は、重いと思ったらなんと炊飯器だった。電圧やプラグの形が違う海外でも使えるよう、アタッチメントまでちゃんと同梱されている。箱のふたの部分に二つ折りにした紙がガムテープで張り付けられていて、開いてみるとそれはレポート用紙に書かれた丹羽からのメッセージだった。

『啓太。
 そっちでの生活はどうだ。ちゃんとメシ食ってるか。
 ちゃんと食ってちゃんと寝てれば人間は大丈夫だ。
 米の飯を食ってる限り、日本人は大丈夫だ。
 けどな、中嶋はそんなこと考えもしない男だからな。
 かわりに俺が炊飯器を買っておいた。
 俺がそっちに遊びに行ったときは、これで飯を食わせてくれ。
                   丹羽』

「すごいな〜。なんか読まれてますねえ」
 中嶋は外食もするが基本は自炊派である。ここに居を定めてまずベッドを買ったあと、台所用品を一気に揃えた。その中にポップアップ式のトースターはあったが、炊飯器は、購入品はもちろん今日届いた別送荷物の中にも入っていなかったのだった。中嶋の脳内における炊飯器の順位がわかりそうなものだ。
「日本の炊飯器は世界でいちばん美味く炊けるというからな。まあ、『肉には白飯がサイコーに合う!』などとほざいていたあいつらしい」
「あはは……。あれ? 2枚目がある……?」

『追伸!
 米を買うときは「国寶ローズ米』ってのが美味い。
 上手く炊けたらササニシキより美味い。
 キモは水加減だ。
 んじゃよろしく!』

 啓太は今の今まで、アメリカでご飯が炊けるなんて思ってもいなかった。迂闊と言えばそうなのかもしれないが、中嶋も言わなかったし、漠然とアメリカ=パン食と思い込んでいたのだ。食べたくなれば日本食レストランか中華料理を食べに行けばいい、と。ところが炊飯器がこうして届けられ、美味しいお米の情報も手に入った。すると……。
「ご飯が食べたくなっちゃいました。今夜はカレーにしましょう? この……国寶ローズってお米を買ってきて。きっとおいしいですよ」
「ふぅん? それはかまわんが……。こっちには日本のものみたいなカレールウは売ってないぞ?」
「……!!」
 中嶋家の今夜の夕食は、どうやらカレー以外のものになりそうだ。

 箱の中にはもうひとつ少々重めの箱が入っていた。炊飯器のようにぷちぷちの緩衝材で梱包されてはいないが、紺地に白で花模様と店名を抜いた包装紙で包まれている。上品な図柄はそれだけで中身の質の高さを思わせた。店の名前だけでは何が入っているのかはわからないが期待はできそうだ。包装紙は何かのテキストのカバーに使ってもよさそうだった。それを見て声をかけてくれる人がいたら、そこから友達だってできるかもしれない。
「これはちょっと……。あとの楽しみに置いておいて。これは何かな〜」
 A5サイズほどの段ボール箱の中は、今ではあまり見かけなくなった木製の救急箱だった。安っぽさしか感じさせないプラスティック製のものとは違い、温かみのあるフォルムは懐かしさと、どこか安心感も感じられる。しかもよくある木地のものではなく『救急箱』という文字を囲んで、緑と青を基調にしたペインティングまで施してある。何の図柄なのか抽象的すぎて啓太には判然としなかったが、とても美しい ―― 綺麗、ではなく―― と思った。
 開けてみると風邪薬、胃腸薬、鎮痛剤といった常備薬はもとより、消毒薬や湿布薬といったものまで、過不足なく収められていた。これはもう、手紙を開くまでもなく贈り主がわかろうというものだ。
「すごいなー。体温計に抗生剤まで入ってる」
「伸縮性の包帯とガーゼ、絆創膏各サイズ。篠宮の性格がそのまま詰まっているみたいな救急箱だな」
「俺も中嶋さんも基本、病気とは無縁ですもんねぇ。絆創膏は俺も持ってきたけど、救急箱は穴だったというか、こんなのはいつの間にか増えてるものだと思ってましたから」

『中嶋と伊藤へ
 おまえたちに荷物を送る便があると聞いて、何かを贈ろうと卓人と考えていたら
 救急箱がいいんじゃないかと卓人が言った。
 箱を買ってきて絵を描き加えたのも卓人だ。
 俺は中身を揃えてみた。適当に追加してくれ。
 こんなものは役に立たない方がいい。
 だがこの程度で治めてしまえるなら、それにこしたことはない。
 体は資本だ。大切にしろ。
              篠宮/岩井』

 啓太はそっと岩井のペインティングしてくれた部分を撫でてみた。美しいと思ったはずだ。かの岩井画伯が自ら筆を執ってのものなのだから。中の医薬品にも篠宮の想いがぎゅっと詰まっている。
「有難いな……」
 誰かが自分のことをこんなに思ってくれているなんて。小さくつぶやいた啓太は湧き上がる思いを宥めるように救急箱を炊飯器の隣に並べた。だがその思いに浸るのはもう少しだけがまんをする。だってまだ箱に荷物は残っているのだから。こんなところで感極まっていたら最後まで行き着けなくなってしまう。

 次の箱を出そうとして、隙間に挟まっていたナイロン袋を見つけた。上の方に置いてあったのが搬送中に滑り落ちたのかもしれないし、あるいは最初から隙間を詰めるためにここに入れられたのかもしれない。そう思っても不思議ではないくらいくたくたなそれは、2枚の白いTシャツだった。だが何気なく広げて、啓太は絶句した。
「何これ。『道頓堀』に『通天閣』? な……(汗)」
「ふむ。手紙が入ってるぞ」

『啓太? ついに出発やてな。
 あのな、外人さんには日本の漢字がむっちゃクールやねんて。
 つまりはかっこええ、っちゅうこっちゃ。
 喧嘩に勝つんはしょっぱなの一撃がいちばん大事や。
 おまえのために漢字を選び抜いたったで。
 せやから最初の授業にびしっと決めて行って、
 連中の度肝をぬきまくったれ!
 せや。
 Tシャツ代はツケとくから安心し。
 ほなな』

 どちらからともなく、深い深いため息が漏れた。たかだかTシャツ2枚。わずか10行の手紙である。なのにとんでもない疲労感に襲われた。
「……名前はないけど……(汗)」
「誰から届いたかは明確だな。で? どうするんだ」
「どう、って……。何がです?」
「これを着て最初の授業に出るのか?」
 からかわれている。と思ったが、中嶋はいたって真面目な顔をしていた。こういうときは要注意である。間違っても「はい」などと答えようものなら、どんな皮肉が飛んでくるか。考えるだけで逃げ出したくなる。ただ、こんなTシャツを着て歩くには啓太はちょっとばかり根性がなさすぎた。新品を雑巾にできるほどの根性はもっとない。だから外に着て行けないならパジャマにするしかないと思う。だが日本には同床異夢なる、じつに含蓄のある言葉があった。つまり肝心の中嶋も、啓太がこれを着て歩くはずがないと思ってくれているとは限らないのだ。なので啓太は否定しておくことにした。
「あ〜。それは無理です……。でもこれクールなんでしょ? 誰か日本趣味の友達ができたらあげることにします」
 人間、必死になれば何とかなるものだ。啓太の脳裏を亜高速で駆け巡った何かは、テレビか何かで見た風景を掴み出してきたのだ。そこでは『有名』とか『平和』とかいった日本語の書かれたTシャツを着た外国人が歩いていた。
「日本趣味の人でなくてもいいですよね? お近づきのしるしのプレゼントに」
「ああ、そうだな。パジャマにするとか言ったらベッドから叩き出してやろうかと思ったが」
「あはは……。こんなの着て寝たら夢の中が大阪弁でうるさくなりそうですよ」
 笑ってごまかしたが、啓太は背中を冷たい汗が流れていくのを感じていた。パジャマにするしかないと思ったのはほんの1分前だ。ぎりぎりで回避できるあたり、海を渡っても啓太の運の良さは健在らしい。

 脇にのけたものは別として、箱に残っているのはあとひとつだった。軽くはないが重いという程でもない長方形の箱である。取り上げた感触に啓太は覚えがあった。啓太はこの箱を、中身を、とてもよく知っている。既視感にも似たこの感覚に、啓太は彼に似合わず包装紙を破って開けた。中嶋は片眉を跳ね上げはしたがコメントは差し挟まなかった。
 びりびりになった包装紙の下から現れたのは、啓太がいつも履いている赤のスニーカーだった。持った感覚に覚えがあるはずだ。箱の中にはきちんと封筒に入ったカードが入っていた。

『ハニー。
 ついにやったね。
 うんとうんとがんばったんだよね。
 ハニーならハーバードでもちゃんとやれるよ。
 でもがんばるには体がしっかりしてないとね。
 ということで運動靴を選んだ。
 本当はジョギングシューズにすれば良かったんだけど
 見慣れたものの方がいいかと思って
 いつもハニーがはいてるスニーカーにしたよ。
 中嶋さんと一緒に走って街を楽しんでください。
                   成瀬由紀彦』

 ボストンは魅力的な街で、美しい公園がいくつもある。それは夏の夕方、冬の昼下がり、春や秋の休日に、中嶋とそぞろ歩いた森林公園と違うようでどこか似ていた。啓太はまだここへ来て日が浅いのでほんの二度ばかり、それも端の方を横切っただけだったが、驚くほど緑の濃い公園では芝生に寝転がる恋人たちの横を、のんびりとジョガーが走っていくのを見かけていた。羨ましいくらい自由に見えた。今の啓太にはまだそんな余裕はないけれど。あんなふうに走れるようになったら、『ボストン市民』になったと自分で思えるようになれるかもしれない。中嶋が傍にいてくれるのだからその日は遠くないに違いない。
 啓太はクローゼットを開けてスニーカーの箱をしまった。ひとりで公園をジョギングできるようになるのと、クローゼットに靴をしまうのに慣れることと。どっちが先にできるようになるのだろう。

 テキストのカバーにできるよう、最後の荷物の包装を丁寧にはがすと、中は日本茶の茶器のセットだった。急須のほかに湯呑み茶碗と茶托が2組。ちいさな缶3つとともに箱に収められている。茶器には淡いクリーム色の地に金で笹の葉が描かれていて、同系色でまとめられたそれは、啓太の手にさえ不似合いなくらい繊細で美しかった。

『啓太へ
 わたしは美味しいお茶は人生に不可欠だと思っている。
 美味しいお茶にはそれ相応の茶器が必要だとも。
 これはどうだろう。
 九谷のまだ無名の新進作家の作品だが、わたしは結構気に入っている。
 おまえも気に入ってくれるとうれしいのだが。
             西園寺』

「これが……九谷焼か。こんな色合いのものははじめて見た」
「そうなんですか?」
「ああ。俺の知っているものはどれももっと華やかで色が多かった。もっとも、焼き物は詳しくないから、そっちの方が例外だったという可能性はある」
「うーん。謎の九谷焼かあ……。でもきれいだから無問題です。有難く使わせて頂きましょう」
 啓太は2客とも茶托にセットして眺めたあと、箱に残った缶に手を伸ばした。高さが15センチ弱、金色・銀色・赤銅色のシンプルな円筒である。全面を覆った金づちで叩いたような跡が缶に豪華な陰影をつけていた。何のラベルも貼られていないのは、この美しさを損なわないためのものなのだろう。
「缶の中は……。上煎茶とぉ……、玉露でぇ……。こっちは……。わぁ……!」
 啓太が思わず声を上げる。缶から引き出した細長い袋の中は、白やピンクや淡いブルーの星が詰まっていた。
「金平糖だあ」
「ほう? 現代風なのか? 色合いがずいぶん淡いな」
「そういえばパステルカラーですね。味もミント味とかだったりして」
「そうかもな」
 実を言えば中嶋も啓太も金平糖などほとんど食べたことがない。この前、口にしたのが何時かなんて思い出せもしない。たしか砂糖の素朴な味がした記憶はあるのだが。だが今、金平糖の入った細長い袋を目より上に掲げて眺める啓太は、まるで舶来の高級なお菓子をもらったかのようだ。うれしそうに、というよりはむしろ、希望に満ち溢れた目をきらきらさせている。それはまるで自分たちの未来を見つめているかのようだった。

 その夜。
 啓太は絵葉書を買ってきて、荷物を送ってくれた全員にお礼を書いた。メールにすれば簡単なのはわかっているが、コピペで出来上がってしまうような方法は使いたくなかったのだ。みんなは自分に品物を選んでくれるのに時間を使ってくれたのだから、このくらいは礼儀というものだ。
 その中で啓太は『中嶋さんとふたりで』というフレーズを必ず入れた。『中嶋さんとふたりで使わせていただきます』や『中嶋さんとふたりで楽しませていただきました』と。
 今度のことで啓太はあらためて学んだのだった。どんなに素晴らしい贈り物をもらったとしても、ひとりだったらうれしくて、よろこんで、みんなに感謝して、そしてそれで終わりだったろう。でもそれを見せて語り合い、笑ったり驚いたりできる人が隣にいてくれたから、そこに『楽しみ』が加わった。ふたりで開ければ藁人形でさえ、玉手箱の重要なアイテムになりおおせるのだ。そんな誰かが傍にいてくれる幸せを、この贈り物があらためて教えてくれたのだった。








いずみんから一言。

さくさく書いてあっというまにおわるはずだったのに。
諸般の事情が重なったというのもあるんですが、何より思ったより
長くなったのが敗因です。
長くなった分だけ書きたいものがぼやけてしまったし。
本当はもうちょっとさわりたかったのですが、またもや
諸般の事情が持ち上がってきたのでここでUPしておきます。
そのうち落ち着いたら書き直すかも……。


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