窓の向こうの海 |
いくら今年の残暑が厳しいといっても、9月の終わりともなればさすがに落ち着いてくる。 日中に外を歩けばアイスが食べたくなるくらいには暑いものの、流れる汗を拭うことはもうないし、寝苦しい夜もなくなった。まだ強い日差しにも、もはやぎらつくようなエネルギーは感じられなくなっている。 そんな少し暑いけれど空気はからっとしたある日。啓太は七条とともに西園寺のお供で出かけることになっていた。橋向こうのホテルにある西園寺お気に入りの和食レストランで食事をしようというのだ。 この店は鼻薬をかがされていた不届きな従業員のために、西園寺を取り込みたいオヤジの娘と啓太が見合いをさせられるという、当人にとっては寝耳に水のような話の発端となったところでもある。事件後、西園寺のもらした「不愉快だ」の一言で支配人以下、関係した従業員全員の首が飛び、今ではまた落ち着いて食事が楽しめるようになっていた。 それはさておき。啓太が待ち合わせの時刻に下りて行くと、玄関前のリムジンにはもう西園寺が乗り込んでいて、白い手袋をはめた運転手がドアのところに立っていた。窓ガラス越しに、西園寺の白い顔が見えた。 「すみません。お待たせしました」 「いや。約束の時間にはまだ間がある。わたしが早く来すぎただけだ」 運転手は啓太を乗せてドアを閉めると、そのまま運転席に座り、車を発進させた。 「あの……。七条さんは?」 「ああ。臣なら買い物を頼んだんだ。小さめの花束とマリアンヌのチョコレートだ。わたしやおまえが行くより品選びは安心できる」 そうですね、と笑った啓太は、何だか女の人へのプレゼントみたいだなと思った。食事のあとでまたどこかのサロンにでも顔を出すつもりなのだろう。 ごくたまに啓太もお供をすることがあるのだが、そういうときの西園寺はいつも、女主人に花とお菓子を、ほんの少しだけもっていく。そしてその小さなプレゼントは、大きな花束などの中でかえって洗練された上品さをみせるのだった。 啓太にとってもすでに馴染みとなったホテルの車寄せにふたりを乗せた車がすべりこんだ。すぐ駆け寄ってきたドアマンが車のドアを開けてくれる。西園寺のようにスマートではないけれど、それでも啓太も「有難う」といって車を降りた。 正面には回転ドアがゆったりした動きで客を迎えていたが、それを嫌う西園寺と共に、啓太もその隣の普通の自動ドアから中に入った。土曜の昼はホテルとしては中途半端な時間帯になるのかもしれない。チェックアウトする客や観光客はもう出かけてしまった後だろうし、新しい客がチェックインしてくるにはまだ少し間がある。さほど混雑もしていないロビーでは、さっと見渡しただけでも七条の姿がないのがすぐにわかった。 そのままロビーで待ちたかった啓太だったが、「臣には上に来いと言ってある」と西園寺に言われてしまってはどうすることもできない。促されるままにエレベーターに乗り込むと、啓太はいつものように23階のボタンを押した。 ドアマンから連絡を受けていたのだろう。扉が開くと女将が出迎えていた。先の事件で支配人以下の首が飛んだとき、店を立て直すのは自分しかいないと、銀座の本店から単身乗り込んできたという女丈夫だ。今日もすっきりとした淡いブルーグレーの着物に身を包み、腹筋と背筋の強さを思わせるおじぎをした。作り物でない柔和な表情と、きびきびとしながらもやわらかい立居ふるまいは、すべてにおいて辛口の西園寺でさえ文句のつけようのないものだった。 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」 「手間をかけたな」 「ほほ。若さまにそうおっしゃって頂けるほどの手間など、どこを探せば見つかりますことやら」 土曜の昼ということもあってか、店の中は適度なこみ具合をしていた。前の支配人のときはこれほどではなかったのだから、やはり女将の人柄によるところも大きいのだろう。案内されて窓ぎわの席についたとき、人待ち顔で向かいの席にいた女性がさりげない視線を流してきた。目立つ西園寺と一緒にいると良くあることなので、啓太は気にも留めなかった。 西園寺の前の席は七条が座ると決まっている。だから啓太はそこを避けて、西園寺の斜め向かいに座った。着物を着たウエイトレスが熱いお茶とおしぼりをすぐに運んできたが、全員が揃っていないのが分かっているのか、注文を聞こうともせずにその場を去った。 窓の向こう側には大きすぎない街並みと、そして明るく穏やかな表情を見せる海とが広がっている。日本海側で育った西園寺には、これはいくら眺めていても飽きない光景であるらしい。しばらく海に目を向けていた西園寺は、やがて満足したようにお茶を口に運んだ。 「いつ飲んでもここの茶は美味いな」 「そうですね」 七条が気になる啓太は、なかば上の空で返事を返し、茶碗に手を伸ばした。啓太の向こうのテーブルの女性も、やはりお茶を飲んでは茶碗を茶托に戻している。先刻、視線を流してきたときには気にも留めなかった啓太だったが、自分と同じようなことをしていた所為か、意識のほんの一部がそちらに向いた。 ―― どこかで会ったかな。 顔かたちというより、その女性のまとう雰囲気から、啓太はそんなことを思った。別に見ようと思っている訳でもないのだが、向かい合って座っているようなものなので、七条を気にして入り口に向けた視線を戻すたびに眼があってしまう。そしてその女性はそのたびに、やわらかい微笑で啓太をくるみこむのだった。つややかな髪をすっきりとしたショートヘアにした、なかなかの美人である。年の頃は30代の半ばだろうか。どこかの奥様というよりは、できるキャリアウーマンといった風情である。落ち着いたベージュのスーツに組み合わされた華やかなスカーフが、豊かな胸元をVの字に飾っていた。 「どうかしたのか?」 啓太の視線を訝しむように西園寺が聞いた。 「いえ。なんか向こうに座ってる女の人、どこかで見たことあるような気がして」 「ここはそう大きくない街だ。どこかで顔を合わせていても不思議ではない」 「そっか。そうですよね」 西園寺の表情に、いたずらっぽいものが浮かんでいるのにも気づかずに、啓太は簡単に納得した。どこかで会っていたとしても、あるいは人違いだったとしても、あの女性は向こうのテーブルにいる人にすぎないのだ。たまたまこの場所で時間軸が交差しただけの存在 ―― やがて啓太の手元の茶碗が空になった頃、入り口に背の高い影が見えた。間をおかずに女将が出ていって、啓太たちのいるテーブルに案内してくる。ところが七条は啓太たちの座るテーブルではなく、向かいの女性の前に立った。 当惑したような表情を浮かべるふたりとは対照的に、西園寺とその女性はくすくす笑っていた。特に西園寺などはイタズラを成功させた子供のような表情を隠そうともしていない。しばらく女性の顔をながめていた七条が、苦笑を交えた複雑な顔を西園寺に向けた。 「……諮りましたね、郁」 「ぐずぐず言わずに花とプレゼントを渡さないか。こちらのテーブルに来てもらわないと食事もできない」 振り向こうともせずに西園寺が言った。ひとりだけ輪に入れなかった啓太がもの問いたげにしているのに気づいたのか、女性がすっと席を立った。そして七条の手に軽く触れると、耳元で 「臣……」と促した。ふたりの影が絡みあい、ひとつに溶けあった。そしてその瞬間、啓太はその女性が誰なのか分かった気がしたのだった。 「ごめんなさい、伊藤くん。ひとりで放っておいてしまいました」 「いえ……」 我に返って謝罪を口にする七条に、だが啓太はゆっくりと首を左右に振った。 「だって、あの……。そのひと、七条さんのお母さんなんじゃないんですか? あっ、あの、間違ってたらごめんなさいなんですけどっ」 思いもかけない啓太の言葉に、七条は片眉を跳ね上げ、女性の口元には花がほころんだような笑みが浮かんだ。 「啓太」 自分の背後で繰り広げられているであろう光景など知らぬげに、西園寺が声をかけた。 「あ? えと、はい……?」 「彼女は 『 灯子さん 』 だ。お母さんなんて言うんじゃない」 「あ……」 ―― 貴方みたいな大きな子から「お母さん」なんて呼ばれたら、年をとった気がするわ ―― そういえば七条とともに年を越したとき、七条がそんなようなことを言っていたのではなかったか。失言したかと、啓太は思わずうつむいてしまっていた。 「……ごめんなさい……」 自分でも赤くなっているのがわかるくらい耳が熱かった。が、あれこれと思い惑う暇もなく、気がつくと目の前に白い手が差し出されていた。 「はじめまして。灯子です。いつも臣と仲良くしてくれて有難う」 「いっ、いえっ。俺の方こそ七条さんにはお世話になりっぱなしでっ」 慌てて立ち上がった啓太は、差し出されていた手を両手で握った。少しひんやりとした灯子の手は、手触りも形も違うのに、それでもどこかに「七条の手」を思わせた。自分は名乗らなかったことに啓太が気づいたのは、もうずっとあとのことだった。 挨拶や紹介が一段落するまで、ただひとり座りつづけていた西園寺が立ち上がったかと思うと自分の隣のイスを引いた。啓太の正面の席である。当然のように腰をおろした灯子に、啓太は慌てて七条と席を替わろうとした。が、灯子の白い手がそれを拒んだ。 「見飽きた息子の顔を見るより、啓太くんの顔を見ている方がずっと楽しいわ」 「でも……。随分久しぶりじゃないんですか?」 「臣との時間はまた作れるでしょう? そう。今夜にでもね。でも、隣に郁くん。正面に啓太くんなんて贅沢は、一生に何度もないんじゃない?」 そう言って笑う灯子の表情に、啓太は上げかけていた腰を下したのだった。 「伊藤くん。この人の笑顔に惑わされてはいけませんよ。なにしろ君に会いたくてわざわざ帰国してきたんですからね」 「あらあ。ばれちゃったかしら」 「郁を巻きこんだ時点でバレバレでしょうに」 七条が苦笑と共に小さな息を吐き出した。 そう言えば店に着いたとき、西園寺は女将に手間をかけたと言っていた。それはこのことだったのかと、おぼろげながらようやく啓太も理解した。 そうだ。まさしく灯子は啓太に会うだけのために帰国していたのだ。七条が夏休みに、どこか含んだような電話をしていたので、母親としては気になっていたのだろう。だがストレートに帰国すると言ってしまえば、いくら七条が隠したつもりでも、何かいつもと違う部分のようなものが、啓太にも伝わってしまう。それではありのままの啓太に会えなくなってしまうに違いない。それで灯子は西園寺に協力を頼んだのだった。 快く、というよりはむしろおもしろがった西園寺は、土曜の昼という客の多い時間帯を承知で窓際のテーブルをふたつ押さえたのだった。女将に「世話をかけた」と言ったのは、何も社交辞令ではなかったのだった。 おかげで灯子は七条が現れるまでの間に、ゆっくりと啓太を観察することができた。最初のうちは、見られていることに気づかなさすぎるのはどうかと思っていたのだが、やがてそれが、まだ姿を見せない七条に気をとられているからだと分かってからは、電話で話を聞いたとき以上に啓太という人間に興味を持っていた。 そうして目の前に自分の息子が立った頃には、灯子はすでに「息子の恋人としての伊藤啓太」を認めるようになっていた。 聞き上手で、そして話上手の灯子がいると、いつもは気づまりに感じる高級料理店の懐石料理 ―― しかもいつものランチでなく、西園寺は最高級のコースを予約していた ―― でさえ、とても楽しく、そして気楽な食事会となった。 デザートが終わっても楽しい時間は続いた。灯子は啓太の話を聞きたがり、啓太がうまく話せるよう西園寺がさりげなく誘導するのを、七条は苦笑に近い笑みを浮かべながら見守っていた。 母がいて西園寺がいて啓太がいて。 生まれてはじめて感じる、このゆったりとした温かい時間をなんと表現すればいいのか。七条はこんな場合に使える語彙をもっていなかった。日本語だけでなく、英語でもフランス語でも。 そうだ。七条は今の状況に戸惑い、そして自分の感情を持て余していたのだった。 この不思議な感情はどこからくるのだろう。と、七条は考えた。母ではない、と思う。少なくとも 「それは違う」と、自分の内にいる誰かがそう告げていた。 離婚したあと、自分を連れて帰国した母を恨んだことは何度もある。そのまま日本にとどまったのならともかく、日本語もろくに喋れない息子をあんな田舎に置いて自分だけまた渡米してしまったのだ。それなら離婚してもそのままシスコに残れば良かったのだ。シングルマザーなど珍しくもない国だ。バックアップするシステムはちゃんとある。そうしてくれていれば、あんな小さな猿のような連中と、顔をつきあわせなくても良かったのだから。 だがそう思う一方で、七条は自分に対する母の愛情が薄いと思ったことはなかった。母は母なりに、できうる限りの愛情を注いでくれていた。今日こうして、七条のかけたたった1本の電話のために、わざわざ帰国してきたことからでもそれは分かる。彼女は息子のことばの裏にひそむ、かすかな感情のざわめきと畏れのようなものを敏感に感じとり、その原因ともいえる啓太という人間を見極めるために帰国してきたのだ。いくら西園寺が認めているとはいえ、彼もまだ10代の子供にすぎないのだから。 だがそれは今に始まったことではなかった。他所の母親ほどべったりではないにしても、母は母なりに息子を気づかい愛してきた。祖父母がどれだけの愛情を注ごうと、七条は母といる以上の温かさやくつろぎを感じたことはなかった。であるからこそ離れていった母を恨んだりしたのだと、今ではよく分かる。 つまり七条は七条なりに、母親というものがもたらしてくれる、包みこむような温かさはよく知っていたのだ。思い出すだけで幸せになれる、あの時間を。それは窓の向こうに広がる海のようなもので、あまりに当たり前すぎて、見ようとしなければそこにあることさえ気づかずに終ってしまうのだ。 だが今は、それともまた全然違っていた。温かさの度合いが違う、とでもいうのだろうか。作り物でない、本物だけがもてる安心感と安定感。いつまでもそこに浸っていたい、動きたくない心地よさ。そう思わせる何かが、そこには確かにあった。 ―― やっぱり伊藤くん、ですね……。 七条はやわらかい視線を啓太に向けた。啓太本人は気づいてもいないのだろうが、今のこの宝石のような時間は啓太が作り上げたものだった。母とふたりでいるときより、そして西園寺を加えた3人でいるときより、はるかに今の方が温かいのである。 啓太は七条が母と一緒にいることを喜んでくれていたのだ。おそらくは七条本人の何倍も喜んでいるのに違いない。何の見返りもないのに惜しげもなく与えてくれるそれは、これ以上にないくらい確かな愛情であった。 「いい子ね、啓太くんって」 明日の昼食での再会を約して、寮へ戻るふたりの後姿を見送りながら灯子が言った。 「郁くんといい啓太くんといい、あなたって子は本当に趣味がいいわね」 「そうですか?」 「ええ。そうよ。『 いい意味で裏切られる 』 って言ってたけど本当ね」 啓太の姿が見えなくなってなおそこに立ちつづける息子の腕に、灯子は自分の腕をからめた。そしてそれが思ったより高い位置にあったのに少なからず驚いた。成長したのは分かっていたつもりでも、こうして実感してみればどれほどの時間を離れて暮らしていたのか思い知らされるようだった。そしてその時間の一部を、あの伊藤啓太という少年が寄り添ってくれていたのだろう。去年のクリスマスも数週間前の誕生日も、息子の隣にいたのは自分ではなく啓太なのだ。息子を残して海外での仕事を選んだことを、灯子は後悔もしていないし、ましてや息子に謝ろうとも思わない。それをすると自分だけでなく息子の人生まで否定することになりかねないからだ。だが啓太には心の底からじんわりと感謝の気持ちが湧き上がってくるのを感じていた。 「さあ。部屋へ行きましょう。そして話してちょうだい。電話で話せなかったことがいろいろあるでしょう?」 「いろいろ……、ですか?」 「無いとは言わせないわよ?」 「トウコさんにはかないませんね」 うふふ……と灯子は目元を細めた。 「あすの昼食まで、時間はたっぷりあるわよ。全部話してくれるまで寝かさないから」 七条は軽く肩をすくめると促されるままに歩き出した。そんな息子を見上げた灯子は、今度はにっこりと笑って見せた。そして今夜、七条が何を決意し何を話したとしても、笑って受け止めようとあらためて思ったのだった。 |
いずみんから一言 |
作品リストへはウインドウを閉じてお戻りください。 |