海野先生の初恋


                          

 あれは七条さんが初めて俺の部屋に泊まったときのことだった。その頃にはもう何度か七条さんとはしていたのに、やっぱり男の腕に抱かれて眠るというのが頭の片隅にひっかかりでもしていたらしく、俺は少しまどろんでは目を覚ますというのを何度も繰り返していた。それに対して七条さんは、しっかりと俺を腕の中に閉じこめ、規則正しい寝息を立てていた。寝息が髪にかかるたび、上下する胸が感じられた。俺は何もそれが嫌だったわけではない。本当に嫌なのだったら、まどろむことさえできなかったのに違いないのだ。だからこのときの俺は、ただ、ちょっと途惑っていただけなのだろうと思う。女の子を抱いて眠る自分の姿を思い描いたことは何度もあるが、男に抱かれて眠る自分なんてただの一度もない。超エリート校に転校したとたんに退学勧告をされ、挙句の果てに男の恋人を持つことになるなんて、いったい誰が想像できると言うんだ?
 まあでも、そんなわけで日にちが特定できるのだから世の中っておもしろい。そう。俺は別に七条さんと初めて迎えた朝の印象を語ろうとしているのではないのだ。予言者風、あるいはテレビのナレーション風にいえば、この怠惰な平和はまもなく破られることになる。それも一匹のネコによって。ネコの鳴き声は、すなわち幕開けのファンファーレでもあるのだった。

 眠る前に七条さんが少し開けておいた窓から、ひんやりとした夜気が部屋に流れこんでいた。部屋中にこもっていた熱気が抜けてしまえば、肌寒ささえ感じられる。だからといって窓を閉めにいくのも億劫で、無意識のうちに七条さんに擦り寄った俺は、惰眠の続きをむさぼろうとしていた。窓のところで何かコリコリと、引っ掻くような小さな音がしていたが、気にもしていなかった。夜明けはまだ遠い。もう一度寝なおそう。今度はちゃんと朝まで眠るんだ。ぐっすり眠って。ぐっすり……。
「ぶにゃあああああああああーっ!!」
 突然。凄まじい声とともにベッドの上に何かが降ってきた。思わず飛び起きようとしたら、顔をふかふかしたものでひっぱたかれた。それで完全に眼が覚めた。隣で七条さんがスタンドをつける。光に眼が慣れてみると、七条さんの胸の上にトノサマがいた。
「おやおやトノサマ。どうしたんですか。こんな時間に」
「……脅かすなよ、おい」
「ぶにぃ。ぶにぶにっ!!」
「僕がここにいるって、よくわかりましたね」
「ぶにゃにゃにゃにゃ。ぶにゃあっ!!」
 まっすぐに七条さんを見上げたトノサマは、布団を噛んでしきりに引っ張っていた。まるでどこかに来いと言っているようだ。
「七条さん。トノサマの様子がおかしいですよ」
「そうなんですけど、言っていることが要領を得なくて……」
「な、なんて言ってるんですか?」
 俺のアタマもかなりBL学園的になっていたようだ。ネコの言葉(・・・・・)が「要領を得ない」と言っているのに、不思議ともなんとも思わなくなっているのだから。
「聡がいないとか何とか……。いや。帰ってこない、でしょうか。どうも細かいニュアンスになると海野先生のようにはいきません」
「帰ってこないって……。トノサマ、おまえマンションにいたのか?」
「ぶにゃあっ」
「いたようですね。じゃあ、そのときには当然のことですが海野先生は一緒だった」
「トノサマ独りじゃマンションには帰れませんものね」
 何気なく言ってしまってから、七条さんとふたり、顔を見合わせた。トノサマは一度マンションに戻っている。でも今、海野先生がいないと言っているのは、陸から離れた学園島の、そこからさらに車で五分はかかる寮にいる七条さんの胸の上だ。一体どうやって……?
「トノサマ。おまえマンションから走ってきたのか?」
「……ぶにゃぁっ」
「伊藤くん。何かトノサマの飲めるようなお皿か何かがあれば、水をあげてください」
「はっ、はいっ」
 言われて裸のまま飛び出したけど、寮の部屋に食器らしいものがあるわけじゃない。お茶飲み用のマグカップに上までいっぱい水を入れて床に置いてやると、トノサマはベッドから飛び降りてきてがぶがぶと水を飲み始めた。
「やっぱり。かなり疲れているようですね」
 七条さんはそう言いながら服を拾って身につけ始めた。
「とりあえず僕はトノサマと一緒に生物室に行ってみます。トノサマが確認しているといっても、窓の外からな訳ですからね」
「あ、じゃあ俺もいきます」
「でも伊藤くんは疲れているでしょう?」
 確かに動くと身体の奥が痛いけど、でも七条さんをひとりで行かせるのはなんだか嫌だった。
「大丈夫です。俺もいきます」
 七条さんが汗 ―― 夜露かもしれない ―― に濡れたトノサマを拭いてやっている間に、俺も脱ぎ散らした服を拾い集めた。そうしてふたりとも身支度を済ませると、七条さんはトノサマを抱き上げた。
「警備員さんの巡回まで20分です。急ぎましょう」
 別に怪しいことをしているわけじゃないけど、捕まると説明が厄介だった。それにしても七条さんはこういう情報に異常に詳しい。ポケットの中の小さなパソコンは頼もしい俺たちの味方だった。

 夜中とはいえ常夜灯が照らしているので、道に困ることはない。念のために部屋に備え付けの懐中電池を持って出たけど全然必要なかった。七条さんに抱かれていたトノサマは、今では襟巻きと化していた。寮から十分はなれた頃を見計らって、小声で七条さんに聞いてみた。
「トノサマ重くないですか?」
「ええ少し。でも抱いているよりはこの方がよほどいいですよ。ふかふかして気持ちがいいし」
「いつもだったら先に走っていくのに、きっとすごく疲れてるんでしょうね」
「たぶん家から駆け通しだったんだと思いますよ。身体がずいぶん濡れていましたから」
「ホントに海野先生どこ行っちゃったんだろう」
 返事はなかったけど七条さんも同じ思いなのは伝わってきていた。それからしばらく、俺たちは黙って歩いた。ふたり分の足音だけが校舎の作る黒い影に消えていった。と、トノサマがぴくっと動いた。全身を緊張させ、耳を立てている。何が起こったのかと息を飲んで見守ったが、やがてもとの襟巻きに戻ってしまった。七条さんも俺も示し合わせたかのようにほうっと息を吐いた。まさにその瞬間だった。
「あれぇ。啓太? 七条さんも。何してるんだ、こんな時間に」
 突然かけられた声にマジで飛び上がった。叫ばなかったのは驚きすぎて声も出なかったからだ。七条さんが抱きとめてくれなかったら腰を抜かしていたかもしれなかった。
「あ、ごめん。驚かしたみたいだな」
 声の主は移動して常夜灯の光の中に身をさらした。和希だった。
「なんだよこんな時間にぃ。驚いたじゃないか」
「それは俺も同じだよ。地元の商工会の連中と親睦会があってさ。帰ってきたのが1時間くらい前。酒臭い息で寮に戻るわけにいかないだろ? だから理事長室でしばらく仕事をしてたんだ」
「はぁぁ〜っ」
 ようやく、ホントにほっとして、俺は思いっきり脱力した。トノサマが小さくぶにゃあと鳴いた。
「1時間前に帰ってきたということは、橋は下りていたんですか?」
「ええ」
「ずっと?」
「何時に戻るか分らなかったですからね。下ろしっぱなしにしてもらってました。それが何か?」
「立ち話もなんですから、歩きながら話しましょうか」
 そう言って先に立って歩きながら七条さんは説明しはじめた。窓を開けていた俺の部屋にトノサマが飛びこんできたので、驚いた俺がまず和希に助けを求め、留守だったので七条さんを頼った、というふうに脚色されていたけれど。まあ俺的にはそっちの方がいい。
 教室棟は真っ暗で、人のいる気配はなかった。だけど帰ろうとして電気を消したところで倒れていることだってある。和希が持っていたマスターキィで教室棟の鍵を開けてくれたとたん、七条さんの肩から滑り降りたトノサマが生物室へ走っていった。そして後を追った和希が鍵を開けるのももどかしく中に飛びこんだ。が、やはりというか海野先生はいなかった。準備室や教官室などを駆け回っていたトノサマも、やがてしょんぼりと戻ってきた。
「かわいそうに。本当にどこへ行ってしまったんでしょう」
「うーん。案外、トノサマと入れ替わりに帰ってる、ってことはないのかなあ」
 何気なく言った和希の一言で、俺たちはその可能性を失念していたことに気づいた。慌てて七条さんが携帯電話を取り出す。でも電話の向こうではコール音が虚しく響いているだけだった。
「やっぱりおかしいな。行ってみよう」
 決断したとたん、和希の表情が理事長のそれに一変した。
「俺は一度理事長室に戻って、職員から預かっている家の合鍵を取ってくる。不法侵入になるけど非常事態だ。ついでに橋も下ろさせておこう。その間に君たちは寮の冷蔵庫からアイスノンを出して、啓太の頬に貼り付けておいてくれ」
「アイスノン?」
「啓太おまえ、健康診断で指摘された虫歯、まだほったらかしてるだろう」
 思わず左頬を押えてしまった。虫歯は忘れた頃に冷たいものがしみる程度だけど、治療していないのは事実だった。
「こんな時間だろう? 君たちを連れて橋を渡るのに大義名分がいるんだ。啓太の虫歯が痛くてしかたがなくなったから、俺が車で歯医者に連れて行くことになった。七条くんはその付き添いだ。痛そうなフリをしろよ、元演劇部。集合は寮の前で15分後だ。OK?」
「OK!」
 俺たちは夜の闇に散らばった。

 橋からさほど離れていないワンルームマンションが海野先生の部屋だった。合鍵でドアを開けた和希につづいて、俺と七条さんも中に入った。いかにも先生の部屋らしく、パソコンデスクの周辺には堆く専門書が積み上げられ、隙間を埋めるように書き散らかした化学式や数式のメモが落ちていた。バルコニーへ出る掃出しの窓が少し空いていたが、これは拉致された形跡というよりトノサマが脱出した経路だろう。部屋の中に荒らされた跡はなく、海野先生の姿はもちろん、どこへ行ったかの手がかりさえ残されてはいなかった。
「……他の職員だったらこんなに心配しないんだけどな」
 拾い上げたメモを見ながら和希が言った。
「海野先生の頭脳は誘拐の対象にも脅迫の対象にもなる」
「そんな……!!」
「いえ。ありえない話ではないですよ。海野先生から、データの整理を頼みたいから来週くらいに生物室に来てくれと言われていました。何かの実験がひと区切りついたのかもしれません。ライバル会社にとって新しいデータは喉から手が出るほど欲しいでしょう」
 ここまで説明してもらって、俺はようやく事態の深刻さを理解したのだった。トノサマが何時間も走って助けを求めに来た理由。甘いはずの眠りを妨げられても怒りもせず、七条さんが先生を探しに出た理由。そして和希が不法侵入してまで海野先生の存在を確認しに来た理由。みんなにちゃんとした理由があったのに、わからなかったのは俺だけだった。己の不明を恥じた俺は何かみんなの役に立ちたくて、そっと部屋を出ると来る途中にあったコンビニに行き、缶コーヒーやミルクとサンドイッチを買った。

「伊藤くん。僕に寄りかかって眠ってもいいですよ。何かあったら起こしてあげますから」
 そうは言われても寝れるはずなんてない。2本目になる熱い缶コーヒーを片手に七条さんの肩に寄りかかった俺は、あちこちに電話をしている和希の姿をぼんやりと眺めていた。
 学校を出る前に和希は秘書たちを呼び戻していた。そしてひとりを理事長室に、もうひとりをベル製薬研究所に待機させていたのだ。もちろん海野先生が誘拐されていたときの対応要員だ。だが今のところ幸いにも脅迫電話の類はかかってきていないようだった。
 窓の外では牛乳配達の車がカチャカチャいう音をさせながら通り過ぎていた。それが聞こえなくなった頃、新聞配達のバイクの音がそれにとって代わった。早朝のランニングやジョギングらしい軽快な足音が時折そこに混じる。今まで気にしたこともなかったけど、夜明け前って案外うるさいものだった。
「7時になっても先生が帰ってこなかったら、君たちは先に学校に帰った方がいいな」
 外が白々してきはじめた頃、和希がそんなことを言った。
「だけど……」
「気持ちはわかるけど待つだけだから。俺ひとりでも大丈夫だ」
 七条さんが手を伸ばしてやるとトノサマが寄ってきて舐めはじめた。それは行ってくれと言っているようでもあり、行かないでくれと言っているようでもある、トノサマの不安な気持ちが伝わってくるようなしぐさだった。七条さんも気づいたのか、トノサマを膝の上に抱き上げると背中を撫でた。
「7時にはまだ少し間があります。誘拐でないのだったらそれまでには帰って来るでしょう。海野先生は遅刻はしても欠勤はしない人ですから」
 だからもう少し待ちましょう。その言葉が聞こえたのかどうか。息詰るような時間が過ぎ、もうあとほんの数分で7時になろうとする頃。七条さんの膝の上にいたトノサマが突然、飛び降りたかと思うと玄関へ猛ダッシュした。一瞬、顔を見合わせた俺たちも、慌ててそのあとを追う。精一杯身体を伸ばしたトノサマが、ぶにゃぶにゃ鳴きながらカリカリとドアの内側に爪を立てていた。
「待て。開けてやるから」
 和希がドアを開けようと手を伸ばす。が、手が届く直前にかちゃっと音がして鍵が外れた。「ぶにっ」と鳴いたトノサマが跳び上がるのとドアが開けられるのとが同時だった。
「あれぇ? どうしたの? みんな」
 トノサマを抱きとめた海野先生が、いつも以上にぽやんとした顔で立っていた。ブルガリの香りですね。七条さんが小さくつぶやいた。

「ごめんね〜。2時間くらいで帰るつもりだったんだよね」
 ようやく研究結果が出揃った海野先生は、とてもいい気分でホテルのバーに行ったのだそうだ。研究所の人達と一緒に行って以来、24階からの見晴らしがすっかり気に入ってしまって、ときどき出かけていたらしい。昨日は何年もかかった研究に区切りがついたお祝いをしに、ひとりで夜景を見ながらミモザを楽しんでいた。
「そしたらね、隣の席に来てた女の人ふたりが喧嘩っていうか、言い争いを始めちゃったんだよね。せっかくのいい気分をぶち壊しにされた気がして、やめて下さいって言いに行ったんだよ。ひとりの人は怒ってぷいっと出て行っちゃったんだけど、もうひとりの人はごめんなさいって言ってくれたんだ。僕のほうこそせっかくふたりで来てたのを邪魔しちゃったみたいなものだから、お互いにお詫びの意味で一杯ずつご馳走しあって、それでいつの間にか……」
「移り香の香りのするようなことをしてきた、という訳ですね」
 不機嫌極まりない表情で和希が言った。海野先生は指摘されてはじめて移り香に気づいたようだ。袖に近づけた鼻をくんくん言わせていた。
「それでその女は? 紐付きだったんじゃないでしょうね」
「えっ!? それはないと思うよ。すごくいいひとだったし、僕がベル研の人間だってことは一言だって言ってないから」
「だったらいいですけど……。それにしても無用心が過ぎますよ」
「……ごめんなさい」
 しょんぼりする先生がかわいそうになったのかもしれない。七条さんが助け舟を出した。
「まあまあ。海野先生も大人の男性なんですから、女性とホテルに泊まることだってありますよ。ね」
 最後の「ね」は明らかに和希に向けられていた。和希の無断外泊は、全部が全部仕事じゃないって言ってるんだろう。図星を指されたらしい和希は指先で頬を掻いていた。
「今回は何事もなかったようだからいいにしますが……。以後、本当に気をつけてくださいよ」
「うん。今度から出かけるときは、七条くんに連絡を入れておくようにするよ」
 やれやれ。これにて一件落着。そう思った俺は、ふと時計に眼をやったとたん叫んでいた。
「やばいぞ和希。もうすぐ8時だ! 遅刻しちゃう!!」
「うわっ。本当だっ!!」
 ……こうして「海野先生失踪事件」はあっけない幕切れを迎えた。変化といえば先生がワイシャツをクリーニングに出すようになったくらいだ。海野先生はもう襟のよれていないシャツを着て、あのバーに出かけているようだ。七条さんが俺にだけもらしてくれる、これはトップ・シークレットなのだった。





いずみんから一言。

海野先生は大人の男性です。と、ゲーム中に何度も出てくる割にいちばん子供っぽかったりしますよね。
で、まあちょっと大人の男性なら誰でもするようなことを書いてみました。
和希やヒデとホテルでばったり、っていうのもおもしろいかなあと思ったんですが、今後の展開からそれはボツになりました。
タイトルはトーンの関係から「初恋」にしちゃいましたけど、どうなんでしょう?

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