海野先生の失恋


                          
       
 1月も半ばを過ぎると、静かなざわめきが学内を流れはじめる。お正月ののんびりした気分がすっかり抜けて、受験が本格化してきた三年生の慌しさがそれに取って代るからだ。受験生は人それぞれで、寮の部屋から一歩も出ない人もいれば終日図書館にこもりきりの人もいる。手の空いた先生に補習してもらっている人もいるかと思えば、王様や中嶋さん、篠宮さんたちみたいに通常の授業を受けている人達だっているのだ。十把ひとからげ式に「三年生は出席に及ばず」なんてしないのがBL学園風なのだろう。
 もうあと数日で2月という土曜の放課後。俺はそんな慌しさとは全く別の世界にいた。
 海野先生の「失踪事件」の元になった実験は、あれから西園寺さんの助言による追加データの作成などを経て、ようやくひとつの形になろうとしていた。今日はその成果をまとめるために西園寺さんと七条さん、それに俺までもが生物室に集まったのだった。
 西園寺さんは海野先生とデータを見ながら論文の中身をつめていく。七条さんはもちろん入力担当だ。そして何の役にも立たない俺は、お茶くみ兼西園寺さんと七条さんとの連絡係みたいなものを仰せつかっていた。役立たずは役立たずなりに充実した時間となるはずだったのだが……。

「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ。どうしよう〜っっ」
 完全にパニック状態になった海野先生が、頭を抱えてその場にへたりこんだ。西園寺さんは形のいい眉を跳ね上げ、急遽呼び出された和希は叫びこそしていないものの、呆れと怒りが絶妙のブレンド状態になっているのがわかる。いつもだったらなだめ役に回るはずの七条さんまでが憮然として黙りこんでいるし、トノサマに至っては飼い主をとっとと見捨ててどこかへ行ってしまっていた。当然、俺が口をはさめる訳もなく……。生物室は不気味な沈黙と狂気の叫び声が同居するという恐ろしい状態になっていた。
「ねぇ、どうしよう。どうしたらいいと思う !?」
 膝にすがりついた海野先生を蹴り飛ばすわけにもいかず、和希が苦虫を噛み潰したような顔で見下ろした。蹴り飛ばして事態が好転するのならいくらでも蹴り飛ばしていただろうけれど。
「なんだ、この騒ぎは。人を『至急かつ内密に』と呼びつけておきながら、自分たちは廊下の向こうにまで聞こえる声で『密談』か」
 突然、うしろから凍りつくような声がした。いつの間にドアが開いたのか、それさえ気づいていたものはいなかった。
「おことばを返すようですが、叫んでおられるのは海野先生おひとりです。僕たちの誰ひとりとして口を開いていた者はおりませんよ」
「ふん」
 部屋の中は突如としてブリザードの嵐が吹き荒れる空間に変化した。効いているはずの暖房はどこへやら。肌寒ささえ感じられる。全開状態で撒き散らされる不機嫌のオーラに呑まれたのか、海野先生までが和希の膝を離して黙りこんだ。振り返ってみると、不機嫌を絵に描いたような中嶋さんがそこに立っていた。開け放たれた戸口がちょうど額縁のようだった。
 両手をズボンのポケットに突っこんで生物室の真ん中まで入ってきた中嶋さんは、ほんの少し細めた目で部屋中を見回していたかと思うと、肩越しに声をかけた。
「いいぞ丹羽。入って来い。アレはいないようだ」
 ドアの向こうから、恐る恐るといった感じで王様の顔がのぞくのが見えた。

「さあ説明してもらおうか。俺たちは受験生なんだ。センター試験が終わったばかりのな。それがわかっていて呼び出したんだ。それなりの理由があるんだろうな」
「おやおや。東大をすべり止めにするような方の言葉とは思えませんが」
「気が向いたら在籍くらいするさ。東大に受からなくてハーバードに行けると思うのか」
「ごっ、ごめんなさい。そんな大事な時期に」
「それは何度も聞いた。何を謝っているのか聞きたいといっているんだ」
「待ってください。俺から説明しますよ。海野先生はパニックになっているようですから」
 片手を挙げて不毛な応酬を止めた和希が、大きなため息をついてから、ゆっくりと説明しはじめた。
「去年のことです。下りていた橋を渡って、真夜中にトノサマが助けを求めに来ました。七条さんの通訳によると『聡が帰ってこない』と言っていたようです。生物室を確認しても姿はなく、電話を入れてみましたが誰も出ませんでした」
「って海野ちゃん。ケータイ持ってないのかよ」
「うん。僕そそっかしいから落としちゃうような気がして持ってないんだ。だって通話記録をたどられたら困るでしょう?」
「なるほどね。……おっと、中断してすまなかった。つづけてくれ」
「誘拐の可能性が考えられたので先生のマンションへ行ってみました。やはり留守だったのでそのまま待機していると、朝の7時前になって戻ってこられました」
「それがどうしたというんだ」
「ブルガリの香りをまとって帰られたんですよ」
「ヒューッ」
 口笛を吹いたのは王様だった。中嶋さんは何も言わなかったけど、かなり驚いているようだ。あの人のこんな顔を見たのは初めてで、俺は「中嶋さんでもこんな顔できるんだ」と、半ば感動しながらその様子を眺めていた。
「そのときは大丈夫だっていうお話だったんですけどね……」
「ふふん。おおかた『妊娠した。ばらされたくなかったらデータを渡せ』とか言ってきたんだろう」
「いい線ですね。でもいまどきそんなことは言いませんよ。DNA鑑定に持ち込まれたらおしまいです」
「ふん。新しいパターンか」
「そうです。流産をして入院した、ということになっています。妊娠も流産もあやしいものですけどね」
「あーあ。馬鹿くせぇ。海野ちゃんよう、携帯電話に気ぃつけるくらいだったらなあ、成瀬の爪の垢でも煎じて飲んどけや」
 王様が仰々しくため息をついた。それはここにいる全員の思いを代表しているかのようだった。西園寺さんにしても七条さんにしても和希にしても、みんな同じことを考えているのに違いなかった。成瀬さんが口をすっぱくして言っているみたいに、ほんの少し気をつければいいことだったからだ。
「海野先生は『やればできる』ということわざをお忘れだったようですね」
 何人かがくすっと笑った。使い方は間違っているが、あまりにもこの場にぴったりだった。
「で? 俺たちに何をしろってんだよ」
「王様と中嶋さんには裏で糸をひいているのが誰かをつきとめてもらいたいんです。その女の単独犯行とは思えない。絶対に誰かがいるはずなんです。個人か組織かはまだわかりませんが、それによって動き方は変ってきます。二次試験前に申し訳ないとは思ったんですが、俺たちはこれから向こうに渡す偽データをでっちあげないといけないので、動くに動けないんです。いつ届けに来いと言ってこられるかわかりませんから、一秒だって無駄にはできません。今までにわかっていることはこの中に入れておきました」
 王様がめんどくさそうに立ち上がった。
「へーへ。了解しましたよ。おうヒデ。こんなこと、とっとと終わらせちまおうぜ」
「まったくだ。時間の無駄は最小限にとどめたい」
 データの入ったC Dを受け取った中嶋さんが、ふと思いついたように部屋を出て行きかけた足を止めた。そして足早に戻ってくると海野先生の手を取って、ズボンのポケットから出した何かを握らせた。
「中嶋くん?」
「おそらくサイズは違うだろうが、ないよりはましだろう」
 中嶋さんが生物室を出て行ってしまってから、海野先生は手を開いてみた。俺が成瀬さんからもらったみたいなカラフルなものじゃなかったけど、見覚えのあるパッケージがのっていた。
「じゃあ俺も」
「そうですね、僕からも」
 和希と七条さんがそこに追加をした。せめてもの嫌味とでもいったところだろうか。俺も成瀬さんからもらっていたものを和希に言われて持ち歩いてたので、財布から出して同じように海野先生の掌にのせた。海野先生は表現しようのない顔でそれらを見つめていた。確かにこんなモノ、高校生からもらうものじゃない。これに懲りて「やればできる」っていう言葉を忘れないでくれたらいいのだけれど。

「さあ急ごう。王様たちに先を越されてしまう」
 たった今、部屋を出て行った人たちに先を越されるなんてことはないのに、和希はずいぶん気張っていた。だってあの人たちはこれからデータを見るわけだし。そんなことを思っていたら顔に出ていたらしい。西園寺さんがおもしろそうに言った。
「啓太。おまえは丹羽の本気をまだ知らない」
「えっ……?」
「丹羽は粗野でがさつにしか見えないが、あの中嶋が黙って下についている男だというのを忘れるな。ちょうどいい機会だ。手並みを見せてもらうといい」
「……はい」
 西園寺さんの言葉どおり、王様たちの仕事は着々と進んでいるようだった。時折、和希の携帯が鳴ったと思うと、どこかへ電話したりしていたからだ。きっと王様たちでは手を出せない範囲のところに『鈴菱和希』として協力依頼をしていたりしているのに違いない。
 ところが俺たちの方はそれほど進まなかった。七条さんはデータに仕掛ける(トラップ)を考えるのに夢中で、先の尖った尻尾が踊っているのを隠そうともしていない。こういう場合、罠の存在は相手も予測していることなので、相当うまくやらないといけないのだそうだ。ということで俺はお邪魔をしないように、西園寺さんさんたちの方にかかりきりになったのだが、こっちも進み方は似たり寄ったりだった。偽データといったって、いいかげんな数字の羅列はすぐにばれてしまうから、ということらしい。
「脅迫するからには、それが何の研究かくらい分っていないとね」
「じゃあ向こうは知ってて仕掛けてきたわけ? でもどうやって……?」
「こういう研究って『やはり』はあっても『まさか』というのは少ないものなんだよ。ベル研がどんな機材を購入したか、どんな試薬を頻繁に使っているか、それを知るだけでもかなりの予測はつくだろう? もちろん、ベル研からそんなデータは得られない。納入している会社の顧客情報もガードは固い。だけど配送伝票ってやつは、案外簡単にたどれてしまうんだ」
 はあ……。配送伝票、かあ。大人っていうのはなんてことを考えつく生き物なんだろうか。俺の退学勧告といい、大人の陰険さにはマジで呆れてしまう。それに比べると七条さんと中嶋さんの応酬なんて可愛いもんだ。せいぜいが学内中の電源を落としたり、生物室にブリザードを吹き荒らさせるくらいなのだから。
「この際だから試薬の会社を買収するかな」
「ああ。視野には入れておく方がいいだろうな」
 ぼそぼそと聞こえてくる和希と西園寺さんの会話は、何気ないものであるがゆえに妙なリアリティを持っていた。こういう時の和希と西園寺さんは、思わずぞくっとするくらいの凄みがあった。俺はそれにあてられないよう、和希たちからも七条さんからも少し離れた場所にパソコンを置いた。和希が組んでくれたエクセルの数式に、西園寺さんから渡された数字を入力していくのだ。七条さんが罠にかかりきりなので、俺がこんな重要なことをしないといけなくなってしまったのだった。
「啓太。さっき渡したW−C の6だが、8を12に変えたら結果はどうなる?」
「あ、はい。えーっと……。21.83です」
「ああ……。じゃあその方がいいな」
「そうだな。W−Bの2とのつじつまも合う」
「よし啓太。W−C の6はそっちに替えてくれ」
「はい」
 この気の抜けない時間から解放されたのは、3時を回ったくらいのことだった。七条さんが気分転換に淹れてくれたお茶をすすっていると、王様からの呼び出しがかかったのだ。海野先生にちょっとした資料を確認してもらいたいから、取りにきて欲しいということだった。何があるかわからないということで、みんなメールは使わないようにしていた。学内の有線電話には和希が「これでもか」ってくらい盗聴防止システムをはりめぐらせているのだ。昔からあるものの方がセキュリティ的に信頼できるなんて、なんて皮肉なんだろう。
 学生会室の前まで行くと、ドアのど真ん前にトノサマがいた。王様が資料を取りに来いと言った理由がこれで分った。トノサマが見張っているから外に出られなかったのだ。それに人間には聞き取れない音でも猫の耳には届くから、ここで王様と中嶋さんとの会話を聞いているのだろう。見捨てたように生物室を出て行ってしまっていたけど、やっぱり海野先生のことが気になるらしい。ドアを開ける前に頭を撫でて、偉いぞと囁いてやると、トノサマは俺の手の先をぺろっと舐めた。

 王様から手渡された封筒に入っていたのは、何枚かの写真をプリントアウトしたものだった。開けてみるなり海野先生が「あっ、この人だよ!!」と言った。思わずといった感じで、俺や和希ばかりでなく、西園寺さんや七条さんまでが海野先生の手元をのぞきこんだ。それはエレベーター内で撮られたもので、防犯カメラの映像のようだった。鮮明ではないが明らかに海野先生のものだとわかる後姿と、肩までの髪を流行の巻き髪にした女が写っていた。
「これはひどいプライバシーの問題だな」
「ホテルという性格を考えるとしてはいけないことなんですけどね。でも不特定多数の人間も利用するわけだから、結構トラブルなんかも多いだろうし。その防止と考えれば……。今回も『脅迫された』ということで提供を受けたわけですし、うーん。難しいな」
「この際、プライバシーの問題を考えるのはよしましょう。僕たちはそれを問題にしているのではありません。何よりそのカメラがあったおかげで相手の顔が確認できるわけですからね」
「そうだな。それを言い始めると、なぜ臣がその日付けをすぐに答えられたかという問題まで突付きたくなる」
「ああ郁。ぜひ突付いてください。僕にとっては記念日なのですから」
 記念日と言われて思わず赤くなってしまった。確かにあの日は記念日だったかもしれない。七条さんが俺の部屋に初めて泊まった日なのだから。でも俺はその日に失踪事件があったのは覚えていても、それが何月何日のことかとなるといまいち自信がない。俺って薄情なんだろうか。七条さん、ごめんなさい……。
 ちゃんと海野先生の確認が取れたので、和希が電話でそのことを王様に伝えた。ここまではっきり写ってしまえば、それはいってみればあくまで「手続き」みたいなもので、王様と中嶋さんはすでに次の作業に入っているとのことだった。王様たちはわずか2時間足らずで相手の顔写真をゲットした。七条さんが日にちをしっかり覚えていたのと、ある程度時間が限られているから探しやすいと言えば探しやすかったんだろうけど。でもこっちの作業と比べたら進み具合は雲泥の差だ。西園寺さんの「おまえは丹羽の本気を知らない」という言葉を思い出して、ちょっとぞくっとした。調査はまだ始まったばかり。この後もまだ何かあるのだろうか。

 罠を組み終えた七条さんが合流してくれたので、夕方以降の作業はぐっと捗った。それを見定めた和希は、スーツに着替えて警察署に出かけて行った。被害届を出しに行ったのだ。こういう類の脅迫は、被害者が内々にすまそうとするから成り立つ犯罪なのであって、おおっぴらにしてしまえばそれでおしまいになるからだ。もちろんレイプだったとかストーカーされていたとか、相手もいろんなことを言うだろうし、裁判に訴えてくるかもしれない。でもそれではお金は取れてもデータは奪えないのだ。和希は相手の要求があくまでデータにあると踏んだのだった。
 この頃になると海野先生もすっかり落ち着きを取り戻していて、偽データを作る合間に、七条さんとの雑談に応じられるようになっていた。ところが七条さんの雑談というのが曲者(?)だった。七条さんは無造作に話題を選んでいるようでいて、実は見事なまでの誘導尋問をしていたのだ。海野先生は雑談の途中で何度か「あっ、そういえば……」とか言って相手の女性について思い出したことを、王様たちに伝えていた。そのあまりに上手な話の聞きだし方に舌をまいた俺は、七条さんって将来はインタビューアとか警察で目撃者から話を聞き取る人とかになればいいのにと思った。どっちも絶対にやりそうにないものだけどね。
 そうやって作業はゆっくりと、でも確実に進んでいった。被害届を出した和希が戻ってきた頃には、偽データも大枠が出来上がっていた。海野先生はそのデータに添った内容に論文を書き換え始めている。ようやく王様たちに追いついてきた感じだった。
「ああ、いい感じだね。これなら今夜中になんとかなるかもしれないな」
「無理をすると矛盾が出る。仕上がりは明日の午前中くらいにしておいた方がいいだろう」
「しかし相手はいつ受渡しをすると言ってくるかわからないんだ。のんびりしていると総チェックの時間がなくなってしまう」
「たしかに僕の仕掛けた罠は、木田先生のときのようなタイプのものと違いますからね。最初のをわざと気づかせて解除させたら、あとの罠は中に潜るように作ってあるんです。だから最初のはできるだけ早めに解除してもらった方がいいんですよ。ただそうしてしまうとデータの矛盾に気づかれてしまう恐れがあります」
「今回は開けたとたんにドカン、という訳にはいかないからな。……よし。今日は一応、午前零時まで、ということにしておこう。できてもできなくてもそれで終わりだ。効率が落ちてミスが多くなるから、みんな適当に休憩を取ること。まずは交代で夕食を取りに行かないか? このままだと食堂が閉ってしまいそうだ」
 時計を見るともう7時を過ぎていた。全員で留守にするのは怖いので、まずは海野先生が和希や西園寺さんと一緒に先に行った。おかげで、ほんの少しの間だけだけど、七条さんとふたりきりになれた。
「伊藤くん、疲れたでしょう」
「そんなこと……。だったら七条さんも同じじゃないですか」
「でも僕は海野先生のお手伝いは慣れていますから。もっとも……。こんな切羽詰ったお手伝いは初めてですけどね」
 ふたりで顔を見合わせて、くすっと笑いあった。七条さんは俺のくちびるに小さなキスをしてくれた。そのまま俺を膝の上に座らせて、七条さんが耳元でそっと囁いた。
「続きは今夜。僕の部屋でいいですか」
「俺の部屋でもいいですよ」
「それはいけません。またトノサマが降ってきたらどうするんです?」
 七条さんの首に抱きついて、俺は声に出して笑った。

 責任を感じているらしい海野先生は ―― 感じてもらわなくちゃ困るんだけど ―― 真っ先に戻ってきた。先生ひとりだと、向こうが待ち伏せしたりしてたら危ないからってみんながついていったのに。何事もなくてホントによかったけど、やっぱり自覚は足りないみたいだ。まあ、それでこそ海野先生なんだろうけど。その先生は食事をかっこんできたみたいで、口の周りはもちろん、白衣もソースで汚していた。数分後、ふうふう言いながら和希が帰ってきた。
「海野先生! 単独行動したら駄目ですってあれほど言ったでしょう !? 相手がわからない以上、学内といえども危ないんですよ」
「ごめんね。でもちょっとでも早く、って思っちゃって……」
「とにかく、もう単独行動は絶対に駄目です。今夜は俺の部屋のソファで寝てもらいますからね」
「えーっ。家に帰れないの?」
「あたりまえですっ !!」
 最後の部分は三人でハモってしまった。海野先生は一瞬驚いたような顔をして、それから肩をすくめて舌を出した。どんなチョンボをしても、やっぱり先生は憎めない、と思った。
 
 海野先生と和希が作業に戻ったので、俺は七条さんと食堂に行った。西園寺さんはどこですれ違ったのか、食堂に姿はなかった。
「今日は白身魚のムニエルとミートボールのトマトソース煮かあ……。どっちも捨てがたいですね」
「じゃあ僕がムニエルにしますから、伊藤くんはミートボールにしてください。それでふたりで半分こしましょう」
「はいっ !!」
 料理を受け取るとき、七条さんは食堂のおばさんと二言三言、何かを話していた。七条さんはどういうわけか、食堂のおばさんたちとみょーに仲がいいのだ。
「わかったよ。帰りに寄りなさい。用意しといてあげる」
「すみません。お願いします」
 もう遅いからテーブルは結構すいていたけど、俺たちはいつものとおり、窓際の席に座った。ここからみえる風景が西園寺さんのお気に入りで、七条さんと一緒の俺も、いつの間にかここに座るようになっていたのだった。外は暗くなっていて、もう西園寺さんの好きな風景を見ることはできない。鏡のようになった窓ガラスに、俺たちの姿が映っているだけだ。西園寺さんも今日は和希たちと一緒だったから、ここには座らなかったに違いない。
「どうかしましたか、伊藤くん」
 半分に切った白身魚を俺の皿に入れながら、七条さんが心配そうに言った。
「あ、いえ。西園寺さんはここに座らなかったんだなあって思って。いつもこの窓を見てるのに。……って、もう外は見えませんけどね」
「郁は確かにこの席が好きですが、空いていないときにはこだわりませんよ。だから今日も、大丈夫」
 七条さんが慰めるようにそう言ってくれたのを聞いて、ほんの少し気が楽になった。俺が和希たちと一緒に食事に来れば良かったと、食堂に足を踏み入れたときからずっと思っていたからだ。ほっとしたような俺の顔を見て、七条さんが「伊藤くんは優しいですね」と微笑ってくれた。
 トレイを返しに行った七条さんは、カウンター越しにおばさんから紙袋を受け取っていた。もうひとつ小さいものを渡されて、それはジャケットのポケットにすべりこませている。なんだろうと思って近寄ったら紙袋からいい匂いがした。
「あ、唐揚げ……?」
「そう。トノサマにもごはんとご褒美を、ね」
 そうだ。トノサマのことをすっかり忘れていた。きっとまだ学生会室の前で王様を見張っているに違いない。
「うわぁ。トノサマきっと待ってますよ。早く行ってあげなくちゃ!!」
 俺と七条さんは篠宮さんが見当たらないのを幸い、食堂前の廊下を駆け出した。

 トノサマはやっぱり学生会室の前にいて、俺たちの姿を見るとしっぽをパタパタさせた。俺がトノサマの頭を撫でている間に、七条さんが唐揚げを出してやった。紙袋の中の唐揚げは二重になったペーパートレイの上に乗っていた。七条さんはその下の方のを外すと、まず唐揚げをトノサマの方に押しやり、はずした方のトレイにはポケットから出してきたミルクを注いだ。トノサマはぶにぶに言いながらものすごい勢いで唐揚げをたいらげ始めた。
「こらこら。そんなに急いで食べなくても大丈夫ですよ」
「食堂のおばさんが特別に作ってくれたんだぞ。今度お礼を言っとけよ」
 俺たちが脅迫のことをしばらく忘れてトノサマと和んでいると、廊下の向こうから和希が走ってくるのが見えた。サボってるのがバレたかと一瞬焦ったけど、どうやらそうではないらしかった。
「なんだ。啓太たちは先に来てたんだな。ごめん、待たせた」
「いいえ。ついさっき来たところですよ」
 いつものことながら、七条さんはその場に話をあわせるのが上手い。何事が起こったのかわからないまま、俺たちは当然のような顔をして和希と一緒に学生会室に入った。そこでは空腹で凶暴化しつつある王様が、いまだかつて見たこともないくらい真剣な顔をし、なおかつ七条さんに負けないくらいのスピードで、パソコンのキーボードを叩いていた。その向こうに顔だけ見えている中嶋さんはぞっとするくらい冷たい微笑を口元に浮かべている。和希から何も聞かなくてもわかる。王様たちは黒幕を追い詰めつつあるのだ。
「おう。啓太も来たのか。ちょうどいい。そこのプリンタに吐き出されてる紙、取ってきて、中身を分けてくれねえか。クリップはそこらあたりから勝手に探してくれ」
「はいっ」
 学生会室には生物室とでは比べ物にならないくらいの緊張感にあふれていた。3時過ぎに相手の写真を取りに来た時には緊張感の「き」の字もなかったから、きっとその後で何かが起こったのだ。プリントアウトされた紙の束を掴んだ俺は、和希が手招きする隣の会議室に走って行ってそれを広げた。クリップ類を探してきた七条さんが俺のあとから会議室に入り、ドアを閉めた。これって王様たちの作業の邪魔にならないように、じゃなく、中嶋さんの顔が見えないように、なんだろうな。やっぱり。
「えーっとこれは……。ここまでがひとつの文書、かな」
「こっちは銀行関係です。遠藤くんに見てもらった方がよさそうですね」
「わかった。それはこっちにもらうよ。そのかわりにこの防犯カメラの映像は頼むよ。って、なんだこの写真? 警備会社のシステムから入ったな。もう……、危ない橋を……」
 言いかけた和希の手が止まった。黙りこんだまま椅子を引き、どさっと腰をおろす。その間も眼だけはプリントアウトされた写真にくぎ付けになったままだ。俺と七条さんは顔を見合わせると、和希が手にしていた写真をのぞきこんだ。
 場所は全部同じ。どこかのロビーかラウンジのような所だった。座っている席もその都度違うし、相手もあの巻き髪の女の人や見覚えのない男の人とかいろいろ違う。だけど必ず写っている人物がいた。忘れもしないその顔。和希を失脚させる為だけに俺を退学に追いやろうとした前副理事長 ・久我沼だった。

「可能性は排除していなかったけど驚いた。……これが正直な所です」
 そういった和希の表情には苦いものがにじみ出ていた。それはそうだろう。これは俺のときや木田先生の件とまるで違う、明らかな犯罪だったからだ。和希にしても叔母の夫がここまで馬鹿だとは思わなかったのに違いない。
「一番最初はこの男だ」
 王様はそう言って1枚の写真を選び出した。久我沼の前に銀縁眼鏡の男が座っていた。
「テーブルの上に名刺があるだろう? これを拡大して回転させたのがこれだ。粒子が粗くて見づらいが、何とか読み取れた文字と電話番号の一部から、身元は割り出した。親父の言うには、表向きは興信所だが台所は火の車。金になるなら人殺しでもやりかねない男だそうだ。このとき何を依頼したのかはわからないが、二日後に女連れで久我沼と会っている。……これだ」
 王様が何枚かの写真を置いた。それぞれに違う女の人が写っていた。
「どうも最初の女が気に入らなかったらしいんだ。それでこうやって何度も連れてきたんだろう。海野ちゃんが確認した女と会ったのを最後に、この面接らしきものは終わっている」
「でもどうしてこの女性でなくてはならなかったのでしょうね? 僕の眼には特にこの人が海野先生の好みのようにも見えませんが」
「ああ、その件ならおもしろい結果が出てるぞ」
 言葉とは裏腹に、王様の表情はつまらなさそうだった。王様はお父さんの手を借りてしまったことが、きっと不本意で仕方ないのだろうと思った。
「親父のケツを叩いて久我沼の通話記録を調べさせたんだ。で、わかったんだが、この女、東京に山ほどある弱小劇団所属の女優だった。ところがヒデが探りをかけてみたところ、市内の病院で産婦人科を受診してた。年末ちょっと前のことだ」
 えっ !? じゃあやっぱり海野先生の……? 少なくとも俺はそう思った。だけど七条さんや和希の顔を窺ってみても、そんな様子は毛ほども感じられなかった。ここで一息入れた王様はペットボトルの緑茶を一気飲みした。学生会室って、コーヒーはきちんとコーヒーメーカーで淹れるのに、緑茶はいつもペットボトルなのだ。
「でも東京の劇団員ということは、自宅もそちらでしょう? わざわざこちらの病院に来たというのは、事実を残すためですか?」
「たぶんな。つまり久我沼は中絶したい女を探してた、ってことさ。でっちあげだといわれないためにな。事実遠藤だって、妊娠も流産も怪しいと言ってただろう? 面接みたいにしてたのは、自分のいうことを聞きそうな女を捜してたんだろう。何かの拍子に相手が鈴菱とわかれば、寝返ることだってあるからな。それに年齢や容姿なんかも入れてこの女に白羽の矢が立った、ってとこだろう。で、ここがミソなんだが、カルテによると『妊娠11週』だとよ」
「なるほど。そういうことか」
 和希がふっと笑った。大人の男の笑い方だった。
「まあな。この件、ヒデに任せて正解だったぜ。俺だったらこんなこと調べるなんて思いもつかねえ」
「でしょうね」
 もうひとつ意味がわからなくてぼうっとしていたら、七条さんが説明してくれた。
「しっかりして下さい、啓太くん。年末で11週ってことは、海野先生の子供のはずないでしょう?」
「あ、そっか」
 納得はできたものの、和希だったらまだしも、七条さんに説明されたというのが、俺的にちょっとフクザツだった。なーんかちょっと、おもしろくない。
「ついでに流産したって診断書書いてきたのは、歌舞伎町にあるお姐さん御用達の医院だった。こっちは手が込んでるぞ。めんどくさいから端折るが、つっこまれたときに説明ができるよう、ちゃんとストーリーまでついてる。……ああ、これだ。暇なときにでも読んでくれ。嘘臭さの極地とでもいうかな。結構笑えるぞ。一応、親父から手を回させたから、両方ともカルテはもう押えてあるはずだ」
「さすが、と言いたいところですが、これは中嶋さんに言わないといけませんね」
「けっ。ヒデに割り振ったのは俺だぜ? 俺は金の流れの方を追ってたからな。その資料も混じってっから、あとで眼を通しといてくれや」
 もちろん。和希は実に満足そうにそう言った。王様が和希からC Dを受け取ってから約7時間。和希が満足したのも当然だろう。
 そうは言っても王様ひとりでは無理だった。お父さんや中嶋さんがいなければ、到底成し得なかったに違いない。だけど王様が言ったように適材に適所を割り振ったのは王様で、そこから上がってきたデータをひとつの結論にまとめあげたのも王様だ。それもまったくゼロの状態から。驚くべきスピードで。
 ええ、西園寺さん。王様の実力というのを、俺も思い知りました。貴方ほどの人が認め、中嶋さんほどの人が黙って下についている男。そして鈴菱の次期総帥である和希が、一切を預けてしまえる男。王様というのは、ただ頼りがいのある兄貴ではなく、こういう人だったんだ。
「要するに久我沼って男は中途半端なんだよ。ちょこっと悪知恵が働いたかと思えば、足跡残しまくりで行動してる。こんな面接、東京でやりゃあ見つけるのは無理だったろうし、病院なんかに行かせるから海野ちゃんの子供じゃないってバレるんだ。しかも大病院だからカルテもデータ化されてるときた」
「本人に言っておきますよ。……裁判の後でね」
「探偵屋と女優の身柄は押えたそうだ。今夜中に吐かせて、久我沼の確保は明朝ってとこだろうよ」
 ここで立ち上がった王様は、「あーあ」と言いながら大きな伸びをした。
「まだ晩メシには間にあうよな? なんか食ってくるから、廊下にいるアレをどかしてくれねえか。二次関数と不定詞ちゃんが俺の帰りを待ちわびてんだ」
 アレというのはトノサマのことに違いない。俺は王様の作業を迅速化させた最大の功労者を連れ出すべく廊下に走った。が、廊下のどこにも姿はなかった。空になったペーパープレートが、きちんと重ねておいてあるだけだった。そしてトノサマの姿は翌日の午後になるまで、どこにも見えなかったのである。
 ただ、翌朝のニュースを見た和希にはトノサマが何をしにどこへ行ったのかがわかったようだ。和希は食堂のすみっこに小さな箱を置くと、その中にトノサマ専用の「唐揚げ券」を入れた。トノサマは唐揚げが食べたくなるたびに、自分でそれをくわえてカウンターにもっていけばいいのだ。この唐揚げ券は残り少なくなると学生会長が責任持って補充することが決められ、そしてそれはBL学園の新たな伝統として、代々引き継がれていくことになったのだった。

「今日未明。脅迫容疑で元会社役員・久我沼啓二容疑者が自宅で逮捕されました。その際、玄関を出たところで久我沼容疑者が突然転倒。腰を強打して病院に運びこまれました。玄関前にあった犬か猫の糞を誤って踏んだために滑ったものと思われます。同行していた捜査員によりますと、容疑者宅に入ったときにはそのようなものはなかったということで……」





いずみんから一言。

「海野先生の初恋」の続編です。っていうか、このラストを書きたかったために「初恋」を書いたようなものなんだけど。シリーズ最強のキャラであるトノサマを主役にしてみたかったのです。
どうしても本文中に入れられなかったのですが、海野先生はまた襟のよれたワイシャツを着るようになったことでしょう。ちょっとかわいそうだったかも……(汗)

作品リストへはウインドウを閉じてお戻りください。