約束の地 |
泥のように疲れきった一日だった。 伊藤啓太が学生会を手伝い始めて、すでに二ヶ月が過ぎていた。学生会室の配置にも慣れ、ようやくどこに何がファイルされているか分かってきたところだ。それにつれて、会長の丹羽哲也にどなられたり、副会長の中嶋英明に嫌味をいわれたりする回数も少しずつ少なくなってきたような気がする。もっともそれはあくまで「以前と比較して」の話で、毎日数回はいまだにどなられたりしているのだが。 彼が来年度から学生会を引き継ぐことは、対立している会計部からも、そして理事会からもすでに承認されている。どころか、ここ数年では考えられなかったくらいの協力体制と、それでいて決して馴れ合わない緊張感をはらんだ三者の関係は、テニス部を中心とする各部関係者からも、賛同の声がすでにあがっていた。 「今日から俺たちは何もしない。おまえひとりで思うようにやってみろ」 学生会室に入るなり王様こと丹羽哲也から突然そんな風にいわれて、啓太は最初、どうせいつものおサボりだとたかをくくっていた。しかたないなと思いつつ、昨日やりのこした書類の山の前に座り、ひとつひとつ眼を通していく。いつものことながら内容が多岐にわたりすぎて、よほど頭の切替えをうまくしないと、ぜんぜん先に進まなくなってしまう。これは箱を作ってジャンル別に分けたほうがいいかもしれない。 そこまで考えて、啓太は昨日より書類が増えているのに気がついた。丹羽や中嶋に回したはずの書類がいくつも混じっているのだ。 え、何、これ。いったい……。 ふと顔を上げると、部屋の向こうの応接セットで、丹羽と中嶋がコーヒーを飲んでいるのに気がついた。ふたりとも仕事のことなど忘れたようで、すっかりくつろいだ雰囲気だ。 啓太はちょっと裏切られた気分になった。王様が部屋からトンずらしないのも珍しいが、啓太の仕事中に中嶋がくつろいでしまうことも珍しい。何の事はない。ふたりで啓太に仕事をさせて、自分たちはコーヒータイムを楽しんでいるのだ。おまけに、よく見ると格安航空券のパンフレットまでテーブルに広げられている。してみると、先刻からふたりが何やら打ち合わせをしているようにみえたのは、旅行のスケジュールをたてていたのかもしれなかった。 「王様! それに中嶋さんまで!」 「どうした。コーヒーなら入ってるぞ」 「コーヒーじゃなくて、ですねえ。いったいふたりで何やってんですか!!」 「何って、海外旅行の計画をたててんだよ」 「旅行……?」 「俺としてはバリかグアムがいいんだがな。ヒデと篠宮がヨーロッパがいいとかぬかしやがってよ」 「まとまって時間が取れるときに、遠いところへいっておこうといっているだけだ。バリやグアムならゴールデン・ウィークにでもいけるだろう」 「そりゃそうだがよう。ヨーロッパはまだ寒いぞ。ぜってー寒いぞ。クルマでうろうろ移動するんだろ?あったかいとこの方がいいに決まってるって」 「ちょっと待ってください!!」 たまりかねたように啓太が叫んだ。 「ひどいですよ、ふたりとも。俺ひとりに仕事押しつけて旅行の計画なんかたてて……」 「おう。心配すんな。お前もちゃーんと連れてってやっからよ。パスポートだけはとっとけよ」 「パスポートなら持ってます。って、そういう意味じゃなくって、ですねえ」 しかたないなとでもいう顔を作って、中嶋が拗ねはじめた啓太のところへいった。啓太の横の、書類を山積にした机によりかかり、腕を組んで啓太を見下ろす。 「今日からお前ひとりでやってみろと、丹羽はそういったろう」 「それはそうですけど、でも……」 「でもも何もない。俺たちはあと数えるほどで卒業するんだ。そうすればお前は嫌でもひとりでここの仕事に責任を負わなくてはならなくなる。誰にも頼れない。お前が考えてお前が判断を下すんだ。……わかるな」 中嶋のことばが啓太の胸に染みとおっていく。それにつれて啓太の表情が、まるで親がいなくなったことに気づいた迷子の子どものような、不安に彩られていった。 「卒業……です、か……」 「俺や丹羽が留年するとでも思ったか」 「……いえ…」 「ならわかっていたはずだ。三月に入ればすぐ卒業式だ」 啓太はもう顔を上げられなくなっていた。下を向いたまま次の書類に伸ばした手が小刻みにふるえ、涙をこらえているのが中嶋に伝わってしまっているだろうと思う。 たった今まで。ここを天国のような場所だと思っていた。啓太にとってBL学園は王様であり中嶋であり女王様であり和希であった。そのどれかひとつでも欠けるなんて思ってもいなかったのに。 ―― 中嶋さんがいなくなるんだ……。 目の前が暗くなっていく気がした。たったひとり取り残される、たまらない喪失感。中嶋が何かいったようだったが、もう何も耳に入っては来なかった。ここが約束の地でないのなら、どこへ向かって、いつまで彷徨いつづけなければならないのだろう? それから後の記憶がまったくない。何かを振り払うかのように書類に眼を通し、決済をしつづけた。そして見回りに来た守衛さんに声をかけられ、気がつくとあと数分で日付が変わる時間になっていた。食事もとらずに八時間以上も働いたことになる。おかげで書類の山は少し低くなっていたが、達成感などどこを探しても見つからなかった。代わりにあるのは拭いきれない精神的な疲労だけだった。 それでもまだ帰りたくない気分だったので、遅くなりついでに宿題をした。ほかの宿題は学生会室にいく前に図書館で済ませていたのだが、それだけでかなりの時間を取ってしまったので、来週までにすればいいものを残していたのだ。 それをやり終えてもまだ一時を回った程度だったが、これ以上はいくらなんでもいられなかった。守衛さんの二度目の見回りを機に、啓太は重い足を引きずって寮へ向かったのだった。 部屋に戻るなりベッドに倒れこんだ。制服がしわになるとは思ったが、もう動く気力はなかった。腕どころか指の一本さえ動かせそうにない。 学生会室にいた間中、頭に上っていた血が、夜道を歩いて戻る間にすっかり冷やされていた。そうなると中嶋との会話が思い出されて、自己嫌悪に陥ってしまう。あんなのは子供じみたわがまま。ただの八つ当たりだというのは、啓太自身が一番よくわかっているのだ。彼らが受験のときに、神社までもらいにいったお守りをこっそりかばんの中に入れたのは、他ならない啓太自身なのだから。それがわかっていてなお、いわずにいられなかったのは―― 中嶋さんがあんまり楽しそうに卒業旅行の話なんかしてたからだ。俺が卒業のことなんて考えないように、忘れたふりをしてるっていうのに。なのにあんな……。 涙がでてきて止まらなくなった。中嶋とつきあい始めてから、よく泣くようになった気がしたが、中嶋が卒業してしまえばそれも終わりかとも思う。だが今は別に止めなければならない理由があるわけでなし。啓太は流れるままに涙をシーツに吸わせていた。 泣き疲れた啓太がうとうととしはじめた頃。部屋のドアがノックされた。中嶋かもしれないとちらっと思った啓太だったが、それはないと思い直した。中嶋は部屋に自分を呼びつけることはあっても、彼が啓太の部屋に来ることはない。中嶋に抱かれて意識を飛ばした啓太を連れて帰ってくることならあるが、それは啓太の部屋を訪れるのとは違う。MVP戦の最終日に啓太を起こしに来て以降、この部屋に来たことのない中嶋を除外してしまったのは、ある意味、仕方のないことかもしれなかった。 だからしつこくつづけられるノックの主を、啓太は勝手に和希だと決めつけていた。食事にも出てこなかった自分を心配して来てくれたのだろう、と。 ごめん和希。俺、今、起きられそうにないんだ。明日ちゃんと謝るから。だから今はお願いだからほうって置いて……。 そんなささやかな願いでさえも、聞き届けてはもらえなかったようだ。音を殺してあるとはいえ、あまりにつづけられるノックに、これでは周りの迷惑になると判断した啓太は、泥でできたように重い身体を起こした。 「和希。今開けるからちょっと待って」 啓太が鍵をはずした瞬間。強い力でドアが押し開けられた。思わずよろめきかけた啓太を、入ってきた背の高い影が押しこむようにしながら抱きすくめる。顔を見なくても、啓太には自分を抱くその手が誰のものか、すぐにわかった。 「中嶋さん……?」 後ろ手にドアを閉めて鍵をかけた中嶋は、呆然と立ちつくす啓太のくちびるを自らのくちびるでふさいだ。あっと思う間もなく舌でくちびるを割りこまれる。こんな激しいくちづけを受けたのは初めてだった。中嶋の舌が激しく荒々しく啓太の口中を蹂躙していく。啓太は指が白くなるくらい強い力で、中嶋のナイトガウンを掴みしめていた。 「ん、あ……。中嶋……さん……」 「……待ち人でなくて悪かったな」 「え……? な、に……?」 「遠藤を待っていたんだろう? 俺が卒業すると聞いて、さっそく遠藤に乗り換えたか?」 「しま……せん。そん、なこと」 「じゃあどうして遠藤だといった」 「だって中嶋さん……、この部屋、来たことないもの……」 「ふ……ん。まあ俺はこの部屋ではお前を抱かないと決めていたからな」 ひきはがすようにジャケットを脱がせ、ベッドの上に投げ落とした啓太にのしかかろうとした中嶋は、手をついたあたりがぐっしょりと濡れているのに気がついた。その手と啓太とを、言葉もなく見比べる。 「……泣いていたのか」 それまでされるままになっていた啓太が、いきなり中嶋の首に抱きついた。 「たった、四ヶ月じゃないですか……っ!!」 「何が四ヶ月なんだ。うん?」 中嶋が身体を入れ替え、啓太を胸に抱き寄せながら囁いた。 「いってみろ。学生会室にいたときから、何かいいたそうにしていたじゃないか。それを聞いてやるために、わざわざこんな時間に出てきてやったんだ。いいたいことは全部いってしまえ」 啓太はすぐには話しだせなかった。しかしそれを催促するでもなく、ときおり啓太の髪を撫でながら中嶋は、らしくもない気の長さでじっと待った。腕に伝わってくる細かい震えから、パジャマに染みとおってくる暖かいものから、啓太が泣いていることを感じ取っていたからかもしれなかった。 「……卒業までいれたって、全部でたった四ヶ月しかないのに。それがわかってるのに。どうして……。どうして俺に手を出したりしたんですか!? 俺をこんなにしておいて……。中嶋さんなしでは生きていけないようにしておいて……!! それなのに卒業なんて一言で、俺を残していってしまうんだ……」 「啓太……」 「ひどい。ひどいよ中嶋さん。ひどい……」 「……俺はそんなにひどいか? 啓太」 中嶋が低く、それでいて優しい声で啓太に語りかけた。 「じゃあおまえはなかった方がいいというのか? 俺のキスも俺の愛撫も、俺の腕の中で泣いて身悶えた夜のすべてがなかった方がよかったと、おまえはいうのか?」 「あ……、だ、って……」 「俺は後悔なんかしてないぞ。おまえとこうなれて、俺の学園生活の最後は忘れられないものとなった」 「それは俺もです……っ。だけど。だけど……。残された俺は、これからどうやって生きていけばいいんですか!? もう中嶋さんはいないのに……!!」 「それは俺も同じだろう。おまえが俺を失うのと同じように、俺もおまえのいない二年を過ごさなきゃならんのだぞ?」 「中嶋さんなんかここから出たらまたすぐ誰かを見つけるに決まってるんだ。……そうだ。俺だって浮気してやるんだ。その気になったら中嶋さんの代わりくらいすぐに見つかるんだから……」 「……抱いてもらえばいい」 中嶋が啓太を組み敷いた。涙で濡れた啓太の耳を甘噛みしながら囁きかける。 「成瀬でも遠藤でも、好きに抱いてもらえばいい。……おまえがそれで、満足できるのならな」 「中嶋さん……っ!!」 啓太の拳が力なく中嶋の胸を打った。 「そんなのわかってるくせに……っ。俺が中嶋さん以外誰にも、指一本だって触れさせないってことくらい、中嶋さんが一番よく知ってるくせに……っ!!」 「……おい。いったのはおまえの方だろう。……ったく。啓太。おまえ、いってることが支離滅裂になってきてるぞ」 「どうせ俺は中嶋さんみたいに冷徹な人間じゃないですから」 「……それで頭に血が上って、俺のいったことを聞き落としたか」 「俺が……?」 啓太はこの夜はじめて中嶋の顔を見あげた。カーテンを開け放したままの窓から差しこんで来る常夜灯の明かりに、中嶋の顔が浮かび上がっている。啓太をのぞきこんでいる中嶋のくちびるは、自嘲気味につり上げられていた。 「聞き落とした、って。俺が……。何を……?」 「『おまえのいない二年を過ごさないと』といったろう。恨み言をいいたいんだったら、ひとのいうこともちゃんと聞いていろ」 「……えと。あの……。それ、って?」 「ことばどおりだ。二年待ってやる。だから同じ大学に来い」 「中嶋さん……」 「四月から俺が住むマンションは、不本意ながらまたしても丹羽の野郎と同じ建物だが、奴はワンルームで俺は2LDKだ。この意味がわかるか」 啓太の表情がゆっくりと驚きに変わっていった。涙で濡れていた顔を大慌てでこすると、もう一度、中嶋の顔を見直してみる。 「あの、俺、その……。自惚れてみても、いいん、ですか……?」 「まずは引越を手伝いに来てもらおうか。そうしたらご褒美に合鍵をやるぞ」 「あ、いきます。俺、絶対いきますから」 「卒業に二年以上かかったり、別の大学にしかいけなかった時は合鍵を返してもらうが、それでいいか」 「はい。俺がんばります……!!」 啓太は中嶋の背中に腕を回すと、思いっきり抱きしめてキスをした。 「……それでもやっぱり、二年は寂しいです……」 「……ああ。俺もだ」 そうしてふたりはただ抱き合ったまま朝を迎えた。まるでこれから過ごす二年間の、予行演習でもあるかのように―― 中嶋の重みを全身で受けとめながら、啓太は、中嶋のいるところが自分に約束された地であることを知ったのだった。 |
いずみんから一言。 痴話喧嘩が書いてみたかったんですぅ。みみずくがよくやってるような。 なのになんでこんなになっちまうんだよう。おうおう。 読み方によってはほとんどプロポーズになっちまうし。 ところで「学園ヘヴン」というタイトルが「約束の地」と置き換えられると 思っているのは、私だけなんでしょうか? |
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