銀狐の夜
『濃密な』とか『濃厚な』とか。恋人と過ごす時間を表現することばがある。俺と中嶋さんはそんな時間を過ごしている。……と、思う。他の人とそんな関係になったことがないから、どれくらいそれが濃いのかは分からないけれど。
 中嶋さんがただただ俺を欲しがってくれる。何度も何度も、ほんの少しでも離したくないみたいに抱いてくれる。本当にそれは圧倒的なまでに幸福な時間で。気持ちがいいとか好きだと思ったりとか。そんなことよりもまず「有難う」って言いたくなるくらい幸せな瞬間なんだけど。でも時々思っちゃうんだよ。なんかちょっと違うんじゃないかな、ってさ。そう。まさに今、そう思ってるみたいに。
 それは今朝、5時前に叩き起こされたところからはじまる。
「起きろ。出かけるぞ」
「う……ん?」
「クルマの中で寝てていいから、とにかく起きろ」
 いくら暖かくなったと言ったって、布団をはがされたらすっぽんぽんにはまだまだ寒い。だってまだやっと4月に入ったばかり。裸で過ごしたい季節では絶対にない。昨夜の後遺症(行為症だよな。正確には)でまだ重い身体を思わず起こした俺に、中嶋さんが下着や服を投げてきた。煌々と光る蛍光灯が、ぼんやりとしか開かない目にまぶしくしみた。
 中嶋さんとやったあと、起きていられることはめったにない。中嶋さんがよほど手加減くれない限り、終わったという満足感とともに意識はどこかに飛んでいってしまうからだ。そんなとき中嶋さんは、俺にシャワーを浴びさせてきれいにはしてくれるんだけど、でもパジャマとかは着せてくれないのだ。理由は簡単で、「面倒なわりに楽しくない」からだったりする。だからいつもすっぽんぽんのままでベッドに転がされてしまっている。それを俺がこっそり喜んでいるのはナイショの話だ。だって寒いと無意識のうちに中嶋さんに抱きついていられるから。シラフじゃできない行為です。……って、酔ってるわけじゃないけどね。
「ふん。脱がなくていい分、時間が省けるな」
 まだアタマが目覚めてなくて、そのときにはただ聞き流していたその言葉を思い出したのが、ついさっき。2時間近くクルマの中で寝た後だった。鼻の下までかけていた上掛けをごそごそと引き下ろして外を見たけれど、窓の外は高速道路によくある高い遮音壁で遮られていて、どのあたりを走っているのかは見当もつかない。痛くなった腰を伸ばそうとして、かけられていたのが中嶋さんのコートだと気がついた。ほんわりと心の中が温かくなった。
 だけど目が覚めたのは寝足りたからじゃなくて、さんざん弄ばれた身体に振動がひびいたからだ。高速道路の継ぎ目は規則的に、しかもずっと続いている。車のタイヤはそれを律儀に拾い続ける。普段なら気にならないようなわずかな段差が、身体の弱った部分にはダイレクトに伝わってしまうのだ。俺の内側の、いちばん深い部分が、継ぎ目を乗り越えるたびにずきりと疼く。こんな日に長距離の移動は本当につらい。何もあんなにやりまくった朝に出かけなくてもいいのにと思った。
「ようやく起きたか」
「……………………まだ眠いです……」
「どれだけ寝れば気がすむんだか」
 笑いを含んだその声は馬鹿にしているようなものではなく、どちらかというととても楽しげだ。こういう時って中嶋さんとの距離がすごく近く感じるんだ。俺と中嶋さんの間を隔てているシフトレバーが気にならなくなるくらいに。
「まあいいさ。昼食をとったら俺も少し仮眠する。それまではおまえも付き合え」
 それまでは付き合え。つまり昼食をとったら一緒に仮眠できる。そう思ったらなんか……。一気に目が覚めた気がした。そうか。中嶋さんも眠いのか。まあそうだよな。俺が解放されたのが3時頃。ぶっかけられたシャワーのお湯が思ったより熱くて、ほんの一瞬だけどアタマがはっきりした。そのときにバスルームの操作盤に出てた時間を見たから、たぶん間違いない。つまり俺が寝られたのが2時間なら、中嶋さんはもっと寝てないってことになる。
 中嶋さんは本当に夜更かしで、それでいて早起きだ。俺より遅くまで勉強していて、俺が起きた頃にはすでにコーヒーを飲んでいる。いったいいつ寝てるんだろうと思うと心配になるくらいだ。だからこんなふうに中嶋さんが眠いっていうのがわかると、なんだかとても安心した。

 朝早くの出発は渋滞を避けるためだった。サービスエリアで2時間ほど仮眠をとった後、目覚ましのコーヒーを飲みながら道路情報を聞いていたら、自分たちが通ってきたあたりがえぐえぐの渋滞になっていた。出るのが1時間遅かったら、おそらくまだここに着けていなかったと思う。やっぱ観光シーズンはすごい。
「かなり渋滞してるようだな。そろそろ下に降りた方がいいか」
「降りても行けるんですか?」
「うん? 道はどこかにつながっているものさ」
 軽く言うものだからそうかと思っていたら、そのあとが長かった。のろのろのろのろのろのろのろのろ。いったいどこが『高速』道路なんだと暴れたくなるくらいの時間をかけて、次の出口が見えたときには、いっそ快哉を叫びたくなるくらいの開放感があった。だからそのあと、たとえ何時間も田舎道を走ることになっても、気分はうんとよかった。
 田舎の道は面白い。舗装はされてて、ちゃんと2車線あるのに、走っても走ってもほかのクルマに出会わなかったり。道の両側の雑草がふさふさで、小さな黄色い花がぽつぽつとまじっているのが見えたりもした。向こうの方には山があり、こっちは畑だ。どっちもまだ緑というよりは黄緑で、しかも茶色が多くまじっている。でもその茶色が黄緑をひきたてているみたいで、とても目に鮮やかだった。
 畑もまたいろいろだ。キャベツらしき丸い葉っぱの畑があると思ったら、なんかほったらかされてるみたいな畑もある。ネギっぽいつんつんした葉もあったけど、それがただのネギなのかタマネギなのか、はたまた第三の何かなのかの見分けはつかなかった。
 何年ぶりかに見たちょうちょはやけにへろへろした飛び方をして、つられてへろへろと笑ってしまった。その笑い方が自分でもおかしくって照れ隠しに窓を少し下げてみると、まだ冷たい風が都会とは違う匂いを運んできた。
「寒いですか?」
「いや。かまわん。寒くはないからな」
「はぁい」
 そう。寒くないんだよ、もう。だって春だから。わずか一文字で心を浮き立たせてくれる『春』。何か知らない鳥が鋭く鳴く声が聞こえた。
 畑がひとつ過ぎるたびに山が少しずつ近づき、いつしかその山の向こうに次の山が見えてくる。山の形は正直、あんまり見分けはつかないけれど、でも畑の葉は長かったり丸かったり疎らだったりしている。単調なようで違っているこんな風景を、俺は以前にも見たことを思い出した。
「なんだかこの風景って、カーディフから出たときに似てませんか?」
「うん?」
「あっちは牛とかヤギとか羊とか犬とかだったし、こっちは葉っぱで、動物は人間さえほとんど見えないけど、でも」
「ああ……。そうだな。風景というより、空気が似てるんじゃないのか」
 自分でも支離滅裂だと思った説明なのに、中嶋さんはちゃんとわかってくれたみたいだ。こういう瞬間の幸福感は、中嶋さんと濃厚すぎる一夜を過ごしたとき以上のものだ。俺の理性を甘くとろけさせるキスよりも、中嶋さんと俺を結びつける熱い熱い楔を穿たれたときよりも、心で結びついていられると実感できる瞬間は何物にも変えられないほど幸せだ。
 でもこんなこと、中嶋さんには言ったことないんだよ。ヘタに言って「じゃあもっと励まねば」とかって一晩やられまくったら、マジで身の危険を感じちゃうから。だから、これは本当に本当にナイショの話なんだ。

 一般道に下りてから、中嶋さんがゆったりと車を走らせた所為でもないのだろうが、目的地への到着は夕方遅くになった。高速道路を通っているならまだしも、下に降りて、しかも田舎道ばかりを通っていたから、そこがどこかなんて俺にはわからない。と言うより、『山田東』だの『下細川』だのといった道路標示だけでよく着けたもんだと、そっちの方に感心した。それくらいそこはどうしようもないくらいの山の中で、今抜けてきた山とは別の山のすぐ下に、茅葺きの民家が数軒、ひっそりと寄り添うように建っていた。
「ここってよく来るんですか?」
 俺たちを迎えてくれたおじいさんの様子が気になった俺は、ふたりきりになった瞬間をとらえて、そんなことを聞いてみた。中嶋さんとおじいさんは挨拶を交わすわけでもなく、おじいさんはちらっと俺たちを見ただけで奥へ引っ込んでしまったのだ。中嶋さんは中嶋さんで、おじいさんに軽く頷いたと思ったらさっさと2階にあがってしまうし。たとえここが中嶋さんの別荘 ―― 限りなくありえないけど ―― だとしても、挨拶くらいはするだろう? 現に、前に行った伊豆の別荘ではちゃんと管理人さんと話をしていた。
「毎年じゃないがな」
「へえ?」
 毎年ではない。つまり数年に一度は来ているということだ。ここがどこか教えてもらっていなくても、中嶋さんのお気に入りの場所なのはわかった。だって中嶋さんがリピートするなんてよほどのことなんだから。
「この前来たのは……。3年の今頃か。丹羽とふたりだったな」
「…………王様も……。来た、んだ……」
 ちりっと胸の奥が痛んだ気がした。分かってる。これは嫉妬だ。中嶋さんは基本が単独行動の人だから、ここにも独りで来てると勝手に思ってしまっていたのだ。だってここは不便だし。……ってまあ、そんなことはあんまり関係ないけど。中嶋さんが何度もリピートするほど特別な場所に連れてきてもらえるのは俺だけ。ほんのちょっと、そんなふうに思いたかっただけなのに。そうか……。王様も来たんだ……。
「ひとりで来ようとしたら、勝手について来たんだ。おかげでペースが狂ってずいぶん迷惑した」
 俺の気持ちを知ってか知らずか、そんなふうに言って中嶋さんは「ふん」と鼻を鳴らした。

 それにしても不思議な家だった。冬から比べれば確かに暖かくなってはいるけれど、外に出るには上着が必要だ。薄手のセーターが欲しい日だってある。ましてやここは山の中だ。高速下りた頃からクルマの中はずっと暖房が入っていた。なのに。この家の中はほんわりと暖かかった。火の気らしきものは囲炉裏にしかなかったというのに。もしかしてこれがオンドル効果ってやつ? とか思ってみたものの、実際のオンドルを知らないから、これは単に思っただけだ。
 それだけじゃない。見かけたのはおじいさんひとりだった。それらしい気配もない。でも夕食には熱々揚げたての山菜てんぷらが添えられた香りのいいお蕎麦が出たし、食事をしている間に布団だってちゃんと敷いてあった。これがなんというか……。ダブルサイズの布団で。枕がふたつ並んでいるのを見た瞬間には心臓が口から飛び出しそうになった。それでなくても布団ってベッド以上のインパクトがあるのに、天井から下がった黄色っぽい灯りの元で、シーツが何故か淡いピンクとも紫ともつかない色合いに見えたからだ。なんともなまめかしく見えるこの布団を敷いたのがあのおじいさんだとは、俺にはどうしても思えなかった。
 お風呂だってそうだ。用意ができたとも何とも言われていないのに、中嶋さんに連れられて降りていくと、気持ちよさそうな湯気がお風呂場いっぱいにあがっていた。お風呂も洗面器も全部が檜でできているらしく、戸を開けただけで思わずため息が出るくらいにいい香りがした。お風呂に張られていたたっぷりのお湯は温泉なのか、さらさらしていながらちょっとまとわりつくような感じがある。檜のお風呂で温泉。贅沢だ、と思った。
 よく言えば不思議。悪く言えば胡散臭い家だったけど、こんな贅沢なお風呂に入っていたら、なんだかどうでもよくなってしまった。つい気持ちがよくて、気がついたら思ったより長湯をしていた。一緒に入っていた中嶋さんはとっくにあがってしまっている。それでも何故か慌てる気になれず、バスタオルで髪を拭きながら黒光りする階段をゆっくりと上がった。ここの2階は階段を上がると、意外なくらい長い廊下がまっすぐに伸びていて、両側に振り分けるように部屋がある。俺たちの部屋は突き当たりのひとつ手前の右手側だ。突き当りには古びたロングケースクロックがひっそりと立っていた。
 この時計が目についたのは、たぶんマンションのリビングにも同じような大きさのが置いてあるからだと思う。中嶋さんが何軒も店を回って買ったお気に入りの時計だ。もちろんここにあるのはあんなスタイリッシュなものじゃなくて、まさに「おじいさんの時計」みたいな時計だけどね。それの振り子が揺れているのがぼんやりとした灯りの下でも見て取れた。8時を少し回ったところだった。テレビもパソコンもないこの部屋では夜が長そうだ。まだ8時かぁ……。と思いながら部屋に入ろうとしたら、廊下をはさんだ向かいの部屋からいきなり声をかけられた。
「啓太。こっちだ」
 廊下からの薄暗い電気だけでは部屋の中まで灯りが届かない。暗い中で開けた窓に腰をかけて外を見ていたらしい中嶋さんは、顔だけをこっちに向けていた。長い腕に絡め取られるように近づくと、中嶋さんが「見てみろ」と言った。抱き取られたまま中嶋さんの身体越しに目を外に向ける。瞬間。俺は息をするのを忘れていた。

 窓の外一杯に広がっているのは。
 灯りもないのに白く。ほのかに。浮かび上がっているのは。
 
 長く長く枝を伸ばした枝垂れ桜の樹だった。

 満開の桜はそれだけでも美しい。それが視界一杯に枝を垂らし凛然とそこに佇む姿は、まるで異界の女王のようだ。花が花と重なりその隙間から花が見えているのは、まさに女王様のドレスのドレープだ。誰よりも豪奢で誰よりも艶やかで。そして唯一無二の存在だ。誘ってでもいるのか時折腕を揺らし、花びらを散らしてはまた、何事もなかったかのように冷たい顔を見せる。取り囲んで建っている民家はまるで近衛兵だ。こうやって長い長い時を越えて、宮殿の奥深くで守って来たのに違いない。
「……おい」
 夜目にも白い、ということばがある。もちろんことばは知っていたけれど。こんなに白く浮かび上がるなんて知らなかった。これは桜で、淡くピンクの色がついているはずなのに。これはまるで。
「おい。啓太」
 白い雲のようだ。
「啓太」
 いや。違う。グラスファイバーの……。
「啓太!」
「……………………え……?」
 何かが不意に途切れた。幕が落ちたような感じ、と言えば近いかもしれない。気がつくと俺は中嶋さんの腕の中にいて、桜に向かって身を乗り出そうとしているところだった。我に返ったとたん、めいっぱい伸ばしていた腕は行き場を失い、重力に引かれて下に落ちた。中嶋さんが抱きとめていてくれなかったら俺はまっ逆さまに落ちて、桜の栄養になっていたかもしれなかった。
「中嶋さん……?」
「……ったく。息くらいしろ」
 そうして大きな息を吐いたのは、俺ではなく中嶋さんの方だった。
「魅入られるなよ。こいつは桜の顔した銀狐だからな。おまえなど、あっという間に化かされる」
 そう言った中嶋さんは、窓枠に座りなおしても俺を放してはくれなかった。本気で『銀狐』と思ってるはずもないんだろうけれど。でも今なら俺にもわかる。あの枝垂桜はこの世のものではない。この家は異世界との間をつなぐ橋のようなものなのに違いない。
「銀狐……、なんですか?」
「うん? 見えないか?」
「うーん。俺には氷の女王に見えました……」
「なるほどな。おまえらしい。どうせ……。っ!」
「わあっ!」
 突然。顔に何かが叩きつけられた。花びらだった。風もないのに舞い上がった大量の花びらが襲い掛かってきたのだ。大げさなんかじゃない。これはけっして『吹きつける』なんて生易しいものではなく、絶対零度の棘をもった地吹雪のように俺と中嶋さんを巻き込んでいく。目にも鼻にも口にも花びらが叩きつけられて、思うように呼吸さえできやしない。中嶋さんの胸に顔をうずめて何とかやりすごしながら、『銀狐』だの『氷の女王』だのと好きなこと言ったから桜が腹を立てたんだと、そのときの俺は思ったのだった。

 どうして目が覚めたのか分からなかった。トイレに行きたかったわけでも、のどが乾いたからでも、寒かったわけでもない。ただ目が開いた。そうとしか言いようのない目覚めだった。だけど俺は見てしまったんだ。
 ぼんやりと目を開けたまま視線を向けた先で。何かが淡く光っている。
 閉めたはずの襖が開いていて。廊下の向こうの、これまた閉めたはずの襖が開いていて。
 畳の上に何か光るものが数枚。散らばっているのだ。
―― 行かなきゃ。
 何も考えることなく、ただ、そう思った。今すぐここから出てあの光るものを手にしなければならないと、意識のすべてがそっちに向く。
―― 早く。早く、早く……っ。
 ものすごい渇望感の中、気持ちばかり焦ってうまく動けない。何かが絡みついているようで、そして重い。手と足を総動員してなんとか布団からすり抜けようとした、まさにその瞬間。
「つう……っ……!」
 身体の奥に鋭い痛みが走った。あまりの痛さに思わずへたりこんでしまう。息をしようとするたびに傷口が切り開かれてでもいくような痛みに襲いかかられ、立つことも座ることも、もう一度横になることさえできなかった。痛かった。あの光るものはあんな近くにあるのに手が届かない。それが悔しくて悲しくて。まるでへちゃげたカエルのような姿でうなっていたら、いきなり「おい」と声をかけられた。暗闇の中から声だけが聞こえたような気がした。
「何をしている」
 振り向くことさえできないうちに、背後からの声は実体を持った手になり、俺の身体を裏返して布団の中に押し込んだ。
「いっ……。た……」
 こっちの痛みなどまるで無視してくれたけど、おかげで布団の中に戻ることができた。ついでに意識もはっきりしてきて、その手をもった人の顔が俺をのぞきこんでいるのが分かった。窓枠に座っていたときと一緒だ。まるで画面が切り替わったかのような、この感覚。
「…………中嶋さん?」
「もう一度聞くぞ。何をしていた」
「……取りに行かなきゃいけない、って、思って……」
「何をだ」
「えっと……。向こうの部屋で何か光ってるものが散らばってて……」
 中嶋さんがわざとらしいほど大きなため息をついた。安心してくれたのか馬鹿にされたのかは限りなくびみょーだ。まあ、二度も同じような手に引っかかったんだから、申し開きのしようもないんだけどさ。
「ったく。おまえは。魅入られるなと言っただろう」
 魅入られる……? それでようやく思い当たった。目が覚めてからずっと、中嶋さんの存在が感じられていなかったのだ。俺を抱いて眠ってくれていたのに。重いものが絡みついてて動けなかった、なんて。間違っても口にできない……。
 あのときの俺は桜の支配する世界に引き込まれかけていたのかもしれない。そうなることを見越した中嶋さんが昨夜、あれほどの「楔」を打ち込んでくれてなかったら……。腕の中にしっかりと閉じ込めていてくれてなかったら……。想像するだけでも恐ろしくなって思わず身震いをしたら、また、身体の奥に痛みが走った。向こうの部屋はもはやただの暗い部屋で、光るものなど何もありはしなかった。

「正直、おまえは連れてきたくなかったんだ。誘い込まれるのが眼に見えていたからな。だけどそれより以上に、ここの桜を見せたくなってしまった」
 悪かったな。危ない目にあわせてしまった。翌朝。向こうの部屋で、散らばる桜の花びらを見ながら中嶋さんがそんなことを言った。見たくなる気持ち。見せたくなる気持ち。でも俺が感化されやすいのがわかっているから連れて来たくなくて……。昨夜の不思議な体験をしてしまった俺には、そんな中嶋さんの心の動きが分かる気がした。だってそんな気持ちの一切合財を押しやってしまえるほど、ここの桜は特別なのだから。どんな理由があろうとも、ここに来るのを止めることなんてできないんだ……。たとえそれが中嶋さんだったとしても。
「……ふん。そう言えば俺の父親もそんなことを言っていたな」
「お父さん……、ですか……?」
「まだ小学校の頃にな。ふたりだけで何度かここに来た」
 驚いた。いろんな意味で。
 中嶋さんの口からお父さんのことを聞いたのは、チェスターに行ったとき以来だと思う。俺が育った家からは想像もできないくらい希薄な親子関係に見えるけど、こうしてお父さんの話をするときの中嶋さんは、すごく穏やかな顔をする。これこそは俺だけが知っている顔……だと思いたい。そして俺はあらためて思ったのだった。ここは中嶋さんにとって本当に本当に特別な場所なのだ、と。
「帰る前にもう一度……。見てもいいですか?」
 考えてみれば桜を見たのは、中嶋さんと一緒に見たあの一度きりだった。何時間もかけてクルマで走ってきて、たった30分にも満たない時間だけなんて。コスト・パフォーマンス悪すぎだろ? それに、あの氷の女王様が陽の光の下でどんな姿を見せるのか。ちょっと怖いもの見たさみたいなところもあった。下から見上げてみたいとも思ったし。だからそう言ってみたのだけれど。中嶋さんの答は『NO』だった。
「いや……。やめておけ」
 予想しないでもなかったから、がっかりとはしなかった。ほんのちょっと残念に思っただけだ。
「不満か?」
「うーん。残念は残念ですけど……。それほどでもない、かな?」
「あれは夜の世界の生き物だ。昼間に見てみろ。銀狐のかわりに白イタチが見つかるかもかもしれんぞ」
「それはそれで可愛い気もしますけど」
 このとき、不意に俺のアタマに広がったのはちんまりとうずくまる白イタチではなく、すっかり花を散らしてしまった桜の姿だった。まだ葉桜にもならない枝だけを枝垂れさせているのは、どこか物悲しくさえある。そんなものなら見ないほうがいい。いや。見せたくないからこんなイメージを送り込んできたのかもしれない。これだけ不思議な桜なんだから、その考えはとてもしっくりきた。
「でも、朝陽に融けてしまった氷の女王様は見たくないから」
 中嶋さんは何も言わず、ただ静かに笑っただけだった。










いずみんより一言

ちょいとそこのお嬢さん。
今日が何日か。なーんてこと、気にしちゃーいけませんぜ。
伊住的中啓世界では、こんなこと。日常茶飯事でさあ。

ま。冗談はさておき。
4月にUPできるはずだったのに、ずるずるずるずる長くなってしまって。
気がついたら予定の倍の長さになっていました。
これもまた銀狐めのしわざかもしれません。

ベースにしたのは、みのりさまの『五月の櫻』。
たぶん木は違うだろうけれど。どこかで繋がっているかもしれない、とも思います。
あんな雰囲気のあるものは伊住には書けないけれど。
伊住が書けば魔性桜もこんな程度になっちまう、ということで(汗)。

『五月の櫻』はみのりルームの和啓の部屋からどうぞ。





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