湯煙の向こう側 |
国境かどうかはよくわからないけど、とにかく長いトンネルを抜けたら、そこは本当に雪国だった。幸か不幸か降ってはいなかったものの、どこもかしこもが真っ白で、こんなにすごい雪を見たのは初めてだった。思わず声をあげて窓にかじりついたら、隣に座っていたおばさんに笑われてしまった。もう少し見ていたかったけど、そのおばさんや娘らしい女の子たちがこっちを見てくすくす笑っているので、しかたなくまた本に目を落とした。この風景はまた明日、帰りにゆっくり見ることにしよう。……明日見る余裕があれば、だけど。 それから二十分もしないうちに、列車は目的の駅にすべりこんだ。かなりレトロっぽい ―― ただ古いだけともいう ―― 駅で、観光客らしいのは俺だけしか降りなかった。地元のおじさんやおばさんに混じって、俺も木製の階段を音をさせながらのぼる。跨線橋をわたって昨日届いたメールにあったとおり改札に向かうと、そこに七条さんが待っていてくれた。俺からのクリスマスプレゼントだった長い毛糸のマフラーに顔をうずめるようにして立っていた七条さんは、俺を見つけるとマフラーを少し下げて笑いかけてくれた。ちょうど十日ぶりにみる笑顔だった。あの不思議な色の髪がバックの雪景色にとけこんでいて、俺は一瞬、改札を通ることも忘れて、その姿に見とれていた。 「すみませんね。突然呼び出したりして」 「いえ。お正月なんてどうせテレビ見て寝てるだけですから」 七条さんはくすっと笑って俺の手を取ると、ふたりで手をつないでタクシー乗場までいった。そこに旅館からの迎えの車が停まっている。ちょっと人目が気になったけど、気にするほどの距離じゃなし。俺は十日ぶりの恋人気分を、ほんのちょっとだけ楽しんだ。 七条さんから突然電話が入ったのは、昨日の昼過ぎのことだった。メールではなく電話。それも携帯じゃなくて家の電話にかかってきたものだから、正直、ちょっと驚いた。 「突然で申し訳ないのですが、明日あさってと時間がありますか?」 「俺はかまいませんけど……?」 「実は郁が今、あさってまでの予定で家族と某温泉にいってるんですが、急用ができて明日中にこっちへ戻ってこなくてはならないのだそうです。この時季だとキャンセルしても宿泊費は返ってこないし、それならいっそ、僕と伊藤くんが泊まりにきたらどうか、といってきたんです」 「えーっ。ホントにいいんですかあっ」 「僕たちがいかなかったら、旅館の人を丸儲けさせるだけですから」 「あ。でも七条さん、おかあさんは?」 「母は今日、赴任地に戻りましたよ。あさってから仕事なので」 「じゃあ遠慮なくいかせていただきます」 「よかった。僕は一足先に行きますが、伊藤くんの着く時間に駅まで迎えに行きますよ」 「すみません。お願いします」 そして詳しいことが書かれたメールを受け取った俺は、添付されていた旅館の案内と一緒にプリントアウトして居間にいた家族に見せた。家族の反応は俺の予想を越えていた。 「えーっ。この某温泉の相模屋っていう旅館、こないだテレビでやってたとこよ。ねえ、おかあさん」 「どれどれ……。ああ、そうそう。高級なのよね、ここ。こんなところ、お正月なんかに泊まったら、いったい一泊いくらくらいするんでしょうねえ」 「というより、よく予約ができたものだ。平日ならともかく正月なんて、よほどの常連でないと断わられるのがオチだろう」 「あーん。いいなあ、お兄ちゃんばっかり」 「本当にあんたって子は運のいい子なんだから」 そうして家族のやっかみを尻目に、俺は七条さんが予約してくれていた列車に乗って、こんな山の中までやってきたのだった。 車はいかにも鄙びた温泉街を抜け、山の方にしばらく走ったあと、女将さんたちが待ち構えている、とんでもない門の前で停まった。母さんや朋子が羨ましがったとおり、旅館相模屋はむちゃくちゃ高級なところだった。造り自体はむしろ地味な部類に入るだろうに、なんていうのかな、本物だけが持てる迫力みたいなのが、ひしひしと伝わってくるのだ。俺みたいな高校生にさえそれが伝わってくるくらいなのだから、きっと相当なのだと思う。あまりの威圧感に俺ひとりでは気後れしてしまって、門をくぐれなかったかもしれなかった。七条さんに駅まで迎えに来てもらって、ホントによかったと、心の底からそう思った。 「でも僕たちが泊まるのは、庭の向こうにある離れですからね。借り切りだからほかに客もいないし、本館から比べたら気楽なものですよ」 「ああ、よかったあ。俺なんかむちゃくちゃ緊張しちゃって」 「敷居が高く見えても、ここは旅館です。高級であればあるほど、きっと気持ちよくもてなしてもらえますよ」 いつも思うことだけど、七条さんはホントにいろんなことに場慣れしている。大きな身体がとても頼もしかった。俺なんか後ろから女将さんが荷物を持ってついてくる、って思っただけで緊張してしまうのに。そんな七条さんと並んで、いかにも「日本の正月」っていう風情の日本庭園をながめながら歩いていくと、別館みたいな建物の前へ出た。離れってホントに離れてるんだなあって思っていたら、その前で足を止めた七条さんがいった。 「ここですよ」 「えーっ。これのどこが『離れ』なんですかあっ!!」 「ほらほら。あんまり大声を出すと、女将さんに笑われますよ」 「だって」 まったく。西園寺さんてば一家三人だろ? それでなんでこんな広いとこに泊まる訳? ここは平屋だけど、総床面積は絶対うちの家より広いと思う。っていうか、俺のクラス全員くらい軽く泊まれそうだ。それをまるまる自分たち一家のためだけに借り切るとは……。西園寺家の財力より、その発想についていけない思いがした。 玄関を入ると三人の仲居さんが迎えてくれた。ひとりは女将さんから受け取った俺の荷物を持ってうしろからついてくる。もうひとりは俺たちの靴をそろえたあと玄関の戸を閉め……、あとは何をするのかわからない。 玄関から先は、まっすぐ通る廊下もあったけど、俺たちは女将さんの案内で回廊のようになっている、庭の見える広縁を進んだ。ここからだと一面ガラス張りの窓を通して、見事なまでの庭が堪能できた。外があれだけの雪なのに植木がかなり見えてるっていうのは、庭師さんが適度に雪を落としているからかもしれない。緑と白のコントラストがものすごく美しかった。日本庭園を見てこんなにすごいと思ったのは、中学のときに島根の足立美術館にいったとき以来だ。通されたのは、その庭の正面ともいえる場所に作られた、やたら広い『居間』だった。そのまん中に掘り炬燵があって、そこに座った俺たちは案内してきた女将さんの話を聞いている間に、荷物を持ってきた仲居さんにお茶を入れてもらった。 あんまり長々といられると疲れてしまいそうだったけど、七条さんのいったとおり、さすがというか、みんな用事を済ませるとさっさと出ていってくれた。でも女将さん以外はこの離れ専属の仲居さんで、電話で呼べばすぐに来てくれるとのことだった。おれたちふたりだけのために三人の専属仲居さん……。はああ。あまりにすごすぎて、家で話しても信じてもらえないかもしれないと思った。 「昨日もらったメールを家族に見せたら、テレビでやってたとこだって、すごく羨ましがったんです。その理由がだんだんわかってきました」 おいしいお茶をすすりながらそんなことをいうと、七条さんはなんとも意味深な笑いを返してきた。 「じつは僕はここが初めてじゃないので、泊まるのが離れだし、寝室だけでも五室あるのはわかっていたんです」 「えっ!? 五室もあるんですかっ。どうりで広いと思った……」 「そう。それに一棟利用だと五人までは同じ宿泊費だってことも知っていました。でも伊藤くんの家族が一緒だと、僕たちが楽しめないでしょう?」 言外に含まれた意味に、俺は顔が赤くなるのを感じた。 「正月早々、ちょっと意地悪だったですか?」 俺は黙って首を横に振った。本当はキスをしたいところだったけど、掘り炬燵が大きくて、キスをするには七条さんまでがちょっと遠かった。高級な調度がほんのちょっと恨めしかった。 少しおしゃべりをしてから、俺たちは全部の部屋を見て回った。どの部屋で寝るのか決めておいてくれといわれていたのだ。それを夕食のときにいうと、食べている間に布団を敷いておいてくれるのだそうだ。玄関を入ってすぐのところは三畳と四畳半の小さな部屋になっていて、これは今回、俺たちには関係ない。 「郁がまだ小さかった頃、ついてきたばあやさんがここで寝ていたそうです」 四畳半の部屋をのぞいていたら、うしろで七条さんがそんなことをいった。たった三人で一棟借りするような人たちだから、今更ばあやさんがついてきたってくらいでは驚かないけど。むしろ驚くべきは、こんな環境で育ちながら、寮で生活できている西園寺さんの方だろう。 あとの五室は十二畳の部屋ばかりで、二部屋がこの居間と同じ、庭に面した方にあった。このふたつにはお風呂がついていないので、廊下のつきあたりにある、すこし大きめのお風呂を使うことになる。そして反対側にある三部屋には、それぞれ露天風呂がついていた。どれもお湯が満々と湛えられ、外気温のせいか、かなりの湯煙がたっている。見ているだけで暖かそうだった。部屋はどれも同じようなものだったけど、お風呂のつくりは全部違っていたうえに、目隠しの塀までの風景がまた全然違っていた。 ひとつは檜造りで同じく檜のスノコが敷き詰めてあった。ひとつは岩風呂で、背の低い松や南天なんかが植えてあった。その上に積もっている雪が湯気で少し溶けているのが、とても綺麗だ。さいごのは黒くて丸い石を敷き詰めてあって、黒い石(ホウロウかもしれないけど)のお風呂が埋めこんであった。 「残念ですね」 「え? 何がですか」 「こんなに寒くなければ、この石の洗い場で伊藤くんを押し倒したのですが」 「え、えーっと……」 「黒い石の上に横たわった伊藤くん……。肌と石とのコントラストが、きっととてもきれいでしょうに」 そんなの嘘だ。そんな状態できれいなのは、俺ではなく七条さんの方だ。そう思って七条さんの方を振り向くと、七条さんが驚くくらい優しい顔で俺を見ていた。気がつくと、俺はいつのまにか七条さんの腕の中にいた。十日ぶりのキスは優しくて激しくて、そして信じられないくらいに甘かった。身体が足からとろけていって、気がついたら畳の上に重なり合っていた。俺たちはどちらからともなく、お互いのセーターに手をかけていた。 七条さんのことばを借りるなら「夕食前の軽い運動」のあと、一緒に黒い石のお風呂に入ることになった。いくら冬の日の暮れるのが早いといっても、空にはまだ明るさが残っている。そんなところに、それもしたすぐあとに一緒にお風呂に入るなんて。まるで新婚さんみたいで、とんでもなく恥ずかしかった。 「汗が冷えると風邪をひきますよ。さあ」 促されて先に湯船に身体を沈める。ねっとりした感触のお湯が身体を包みこむようだ。そのあまりの心地よさに、思わずため息がもれた。でもお湯の熱さに対して、この顔の冷たさはなんなんだろう。これが雪の積もる中で露天風呂に入る、っていうことなんだろうか。そんなことを考えているうちに、身体がお湯の熱さに慣れてきて、俺はゆっくりと身体をときほぐしていった。 少し遅れて七条さんが入ってきた。入ってすぐのところにもたれていた俺は、慌てて対角線上に移動した。温泉といってもプライベートな露天風呂だから、そう広いわけではない。それでもふたりだと充分すぎるくらいに広々としていた。湯船につかった七条さんは、黒い石の上に身体が浮いているように見えて、やっぱりとても綺麗だった。俺の視線に気づいたのか、七条さんは小さく微笑むと俺の方に両手をさしだした。来いっていうことなのかな、やっぱり……。しばらくためらった後、俺は首までお湯につかったまま、ゆっくりと七条さんに近づいていった。 七条さんに腕を掴まれたかと思うと、俺は背中からやわらかく抱き取られていた。 「……平和ですね」 七条さんが俺の耳元で囁きかける。 「もし父と母が離婚していなければ、僕は今日、ここにいなかったでしょう。当然、伊藤くんと出逢うこともなかった。それはそれなりにきっと幸せだったろうと思いますが……」 俺を抱く七条さんの腕に力が入った。密着したお尻に七条さんがあたって、それがすごく気になったけど、七条さんはそんなことに気がついてもいないようだった。俺の首筋に顔をうずめた七条さんは、まるで独り言のように話しつづけた。 「それでも今のように、魂が満ち足りた幸せは感じられなかったと思います。伊藤くんが側にいてくれてよかった。僕のものになってくれて、本当によかった……」 静かで、それでいて激しいことばだった。こんな告白を聞いて、いったいどんな口を挟めるだろう。俺もです。俺も七条さんに逢えてよかったと思ってます。なんてそんな薄っぺらいこと、いえるはずがない。だから俺はただ、俺を抱く七条さんの手に俺の手を重ねることしかできなかった。 目を空に向けると湯煙の向こうに、まだかろうじて青く見える空があった。もうあとほんのわずかで夜の闇に支配されるだろう、空。そこにはすでにいくつかの星が瞬き始めていた。俺にはそれが何故か、七条さんのいう「平和」のように思えた。 「……星が出てますよ」 「そうですね」 「来年のお正月も、こうやってふたりで、あの星を見られたらいいですね」 「有難う。幸せな一年にしましょうね」 そうして俺たちは湯煙の向こうに見える星を、しばらくの間見つめていたのだった。 時おりたてるお湯の音以外には何の音も聞こえない。静かな静かな、これが俺と七条さん、ふたりだけのお正月――。 |
いずみんから一言。 『春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂』 目指したのはこの世界だったのですが、見事玉砕しました……。 七条クンのしているマフラーは啓太の手編みかなあとも思うんですが 伊住は啓太が転校してきたのは10月という説を採っているので 時間的に間にあわないのが残念です(笑)。 |
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