Do You Know  有能 ?




 差し出された書類に鈴菱和希と書いてはハンコを押す。左側で待機していた秘書の岡田がそれを退けると、右側から同じく秘書の石塚が次の書類を差し出してくる。岡田は受け取った書類に朱肉が移らないよう紙をはさんでは、カテゴリ別に積み上げていく。和希が次の署名をしている間に石塚が、すでに次の書類を準備している。
 なんと見事な連携プレイだろう! 和希を完璧に署名捺印マシンとして扱っているではないか。だが彼らを人非人扱いしてはいけない。ただでさえ多忙な会社役員が、何の粋狂か高校生なぞをやってくれているのだ。授業に取られる週30時間を取り戻そうと思ったら、このくらいやってもまだ間に合わないくらいなのに違いない。この連携プレイは必要に迫られた秘書たちが作りあげたもので、作らせた張本人である和希は不平を言える立場にはないのだ。それがどんなに疲れる作業であったとしても。
 役員会の議事録やら決済書類やら。はては学園スポンサーに対する礼状に至るまで、如何に時代が変わろうと人が手で名前を書いて印鑑を押さなければならない書類は多い。超巨大家電メーカーの創始者に、彼に代わって署名をする専門の祐筆がいたのは有名な話だ。が、どんなに忙しく思えてもその創始者の半分にも満たないであろう仕事量の和希にそんなものをつけてもらえるはずもない。株式総会とその直後に予定されていたスイスへの出張に期末テストまでが重なってたまりにたまり、今日はこうして理事長室で缶詰になっている、という訳だ。
 ただの一瞬さえ手を休めさせてもらえない和希は、書類に目を通す時間を微妙に増やして、わずか1分にも満たない時間に手を休ませてやっていた。自分程度でこれなのだ。6千人のユダヤ人を救ったとされる杉原千畝の腕は、きっと服のボタンさえはずせない状態になっていたのに違いない。自分自身が招いた事態とはいえ、そうでも思って自分をなぐさめてやらないと、こんな仕事はやってられないのだ。
「まだあるのかよ……」
 運動部の遠征で世話になった関係各方面への礼状に署名を入れながら、和希は思わず泣き言をもらした。
「『まだ』ではございません。『まだまだ』です」
 柔和な表情を崩しもせずに、冷静なツッコミを入れてたのは石塚だ。
「言ってどうなるものでもございません。そのようなつまらないことを考える時間で、ひとつでも進められた方が賢明かと存じますが」
 この物言いは岡田である。まだ若いだけあって直截的だ。それが効果的な場合ももちろんあるのだが、彼は秘書として上司を巧く転がすことばを身につけなければならないだろう。そう。年長の秘書のように。おもむろに手帳を取り出した石塚は、一通り確認するように何枚かページをめくったあとでこう言ったのだ。
「今日のスケジュールは先程申し上げました通り、このあと会議と経団連の懇親会です」
「……ああ」
「明日は会長と朝食のあと役員会議。工場の視察、現地商工会の会食。戻られてからは研究所にて打ち合わせ。その後厚労省への助成金嘆願書の作成となっております。が」
「が、何」
 半ばふてくされてしまっている和希は、らしくもなく投げやりな様子で問い返した。
「会議までのあと3時間ですべての署名が終わりますと、日曜には7時間程度のお休みを作れるかと」
「7時間、ねぇ……」
 1日じゃないんだと、再びふてくされかけた上司に、石塚がやんわりと決定打をふりおろす。
「でも、伊藤くんとドライブに行って食事をして帰ってくるには、十分な時間ではありませんでしょうか」
 思わず顔をあげてしまったのは、和希一生の不覚だったろう。それは相手の術中にはまってしまったことを自分から白状したようなものだからだ。しかし上司を働かせるのが仕事の秘書は、その程度で手を弛めたりはしなかった。
「S市の海を見下ろす崖の上に、今評判のシーフードレストランがございます」
「ああ、知ってる。西園寺くんが予約を取ろうとして駄目だったとぼやいていた」
「遠藤和希の名前で、2席押さえてあります」
 食えないニンジンだと思いつつ、和希は黙って筆を取りなおした。

 人間の脳というのは実に良くできていると思う。幼稚園児でさえテレビを見ながら食事をし、面白いと笑いつつも、舌は刻んで混ぜこんでしまっているピーマンを感知して、口から出すように指令を出す。ご家庭のパソコン程度では無理な同時並行高速演算処理を、こんな小さなアタマひとつでやってのけてしまうのだから。目の前のニンジンに飛び付いてしまってからの和希は、ちょうどそういう状態にいた。会議をしていようが新規導入を検討している実験機材の説明を聞いていようが、アタマの一部では常に啓太とドライブに行くクルマのことで占められていたのだ。
 しかし一方でテンションがあがってしまっているからか、仕事の進み具合はいつもの数割増し。会議中には誰も気づかなかった古参役員のミスを指摘し、さすがは御曹司と称賛までされる始末だ。和希のクルマ選びを止められる者などどこにもいなかった。……少なくとも和希だけはそう思っていた。
 和希が普段乗っている白のベンツは、和希専用ではあるものの、実は社有車である。所有しているのは同じく白のベンツで、こちらはスポーツタイプのカブリオレ1台だけだ。和希の年齢や収入を考えると高級外車を複数台所有していても不思議ではないが、寮にいる以外すべての時間を学業と仕事に費やしている現在、自分でクルマを転がす機会そのものがまずないのだ。それを今まで不満にも不都合にも思っていなかったが、若い啓太を乗せて走るとしたら話は別だ。カブリオレであろうとなかろうと、白のベンツは白のベンツ。高校生一般の感覚では、それはただのオヤジ車だった。かっこいいオニイチャンでありたい和希にとって、啓太に「オヤジ?」と思われる事態だけは避けなければならないのだ。
「BMWは中嶋くんが乗ってるからパスとして。ポルシェは好きじゃないし、ローバーもちょっとなあ……。かと言ってフェラーリはいかにも過ぎるし。プジョーならそこそこオシャレ感もあるけど。ちょい安っぽいか。いっそサーブくらいなら……と思わないでもないけど、ちょっとマニアックすぎて啓太に通じなかったら、それはそれで意味ないし……」
 会議中アタマの片隅で考え続けていた車種の選定の続きをするべく、空港のラウンジに腰を落ち着けた途端、和希は携帯端末を取り出していた。たった一言「このクルマが欲しい」と言えば、ディーラーは喜んで即刻納車しにくるだろう。それこそ他人の注文していたクルマを横取りするかたちになったとしても、だ。それを心苦しく思うような感情を和希は持ち合わせていなかった。どうせそれには何らかの見返りがついていると知っているからだ。それもまた、経済というものの一部なのに違いない。
 少し前の話になるが、『日本製』で『新品』のタグボードを『今すぐ』欲しがったアラブの金持ちが、竣工してわずか数週間の物件を、建造船価の3倍で買い取ったと話題になったことがある。もちろん元の持ち主は再発注しないといけないし、造船所だって他の仕事があるからすぐにかかれる訳ではない。当然、運航計画に支障も出たはずだ。しかしそれで新たに発生した費用や税金を差し引いても、その船会社には1億以上 ―― おそらくは数億 ―― の現金が残り、累積債務を一気に減らせたことによって、新たな事業展開が可能となったという。青臭い正義感も大事なことは確かにある。札束で顔をはたくような真似がスマートじゃないのもわかっている。だが経営者なら。従業員の向こうに家族が見えている経営者なら、そういう方法を取るというのも選択肢のひとつに入れておかなければならないのだ。少なくともアラブの金持ちの気まぐれで多くの日本人が、割増になったボーナスを手にすることができたのだから。だが高級とは言え、和希が買おうとしているのは自家用車である。ゴテゴテにオプションをつけまくったところで、2千万も出せばたいていはお釣りがでる。つまり無理をさせたところで経済を云々できるほどの金額ではなく、販売員のノルマ達成の、ほんの一部+アルファ程度にしかならないだろうが。
 せわしないくらい指を動かしていた和希が、不意に顔をあげた。それが目の端にでも入ったか、斜め向かいの席で次の目的地との最終連絡をしていた岡田が、電話を切りあげるなり「何か」と聞いてきた。石塚の下とは言え、若くして御曹司の秘書に抜擢されるだけの実力をもったこの男は、だがまだ石塚ほどの大きさがない。
 自分の掌の中で上司を遊ばせてやっているというくらいの余裕をもてるようになればいいのだが、岡田という男は良く言えば生真面目。悪く言えば融通のきかないガチガチの石頭なのだ。今もそうで、そんな遊びのためのクルマ選びなどよりも次の移動先の資料に目を通せといらついているのが、あからさまなくらいに伝わってきていた。やみくもに仕事をさせることだけが秘書の役割ではない。遠回りにしか見えない方法が、じつは役員に仕事をさせるための最短ルートということだってあるのだ。啓太が久我沼に拉致されたとき、石塚が独断で大前チーフ以下のメンバーを集めたように。もし今、岡田を手放せば、三代目は人を育てるつもりがないのかと呆れられるに違いない。そのあたりを理解させるのも仕事である和希は、わざと無邪気な顔を作った。
「今の若い子ってさ」
「……は?」
「だから若い子だよ。うちの学生くらいの」
「はい」
「どんなクルマが好きだと思う?」
「どんな、と申されましても」
「デート用のクルマ買おうと思ってるんだけどね、これがなかなか決まらなくてさ。仕事が手につかないんだよ」
 岡田の眉がびくりと動いた。獲物がかかった浮きみたいなものだ。『それで仕事が手につかない』とちらつかせてやるだけで、ものの見事に食いついてきてくれる。デートの小物ごときで仕事をおろそかにするな! と言いたいのが、むっとした感じで引き結ばれた口元にありありと見て取れた。その様子に内心でほくそえみながら、和希は「性格かな」と続けた。
「すっきりしないと次に集中できないんだ。アタマの片隅でずっと考え続けてしまう、っていうかね」
 さて。岡田はどう出るか。答えを待とうと、和希はゆったりと座りなおした。この空港のVIP専用のラウンジは、とてもいい椅子が用意されているようだ。硬すぎず柔らかすぎず、必要以上に身体が沈みこまない。飛行機の搭乗準備ができるまでしか使えないのが、ちょっと残念なくらいだ。おまけにここのコーヒーは、和希のリストのトップ5にランクインするくらい見事なものだった。壁にかかっている時計に目を走らせた和希は、ポットを持って歩いていた係員に軽く合図をして、コーヒーのおかわりをもらった。カップに注ぎこまれる黒い液体から、艶やかな香りが立ちのぼった。
「私見ではありますが」
「うん。聞こう」
「デートというのは『誰と』がいちばん重要だと考えます。本当に好きな相手となら、徒歩で行ったコンビニの車止めにへたりこんで、1本のコーラを交互に飲みあっても楽しいのではないか、と」
「それは……!」
 幼い頃から経営者となるための教育を受けてきた和希は、未来予測はできても、ただの情景を思い浮かべるのは、じつは苦手だ。国語の授業で俳句の鑑賞と言われると文字通りのものしか思い浮かべられず、泣くより先に情けなくなってしまうほどだ。そんな和希が、その光景だけは容易に思い浮かべられた。

 暮れていく空。ひとつの車止めにくっつきあって座る若い恋人たち。ふたりを隔てている、地面に直に置かれた1本のコーラ。何を話すでもなく、ただクルマの出入りを眺めている。何度目かに伸ばした手が重なりあい、思わず引いてしまったとたんにコーラの缶が倒れる。慌てて起こすものの、甘ったるい香りが、足元に小さな水たまりを広げていく。
「大丈夫? かからなかった?」
「うん。平気。それよりごめんね。こぼしちゃって」
「いいよ、そんなの」

 今どき、そんなしょぼいデートをしようものなら、小学生でさえ即刻バイバイだろう。だが幼少の頃から帝王学を叩きこまれ、小学生以降で遊んだ経験といえば幼い啓太とのこと程度しか思いつけない和希にとって、それは真実以上の光景となって、脳裏に繰り広げられたのだった。
「…岡田……」
「はい」
「そうだよ。本当にそうだ」
 絞りだすようにしながら和希は声を出した。我にもなく感動してしまって、うまく声が出せなかったのだ。物質だけが幸福の目安ではない。現に自分がそうだったではないか。
 本物の金持ちがそうであるように、和希の家はモノにあふれてはいなかった。だが和希に与えられたすべてのものが、選び抜かれたものばかりだった。幼稚園のおともだちが持っているオモチャは買ってもらえなかったが、贅沢な幼少時代を送ったと言っていい。長じた今はそれなりの容姿も上背もあり、世界でも一流と言われる大学に留学し卒業もした。現在はまだ学園理事長と研究所所長という肩書きでしかないが、おそらく数年後には系列会社を任されることになるだろう。年収は2千万にはまだ少し届かないものの、同年代のサラリーマンの数倍はあるに違いない。
 ビジネスマンとして世界を相手に戦うのはゾクゾクするほど楽しいし、学園の理事長として学生たちを育てていくのには、何事にも替えがたい喜びがある。これから先、たとえどんな仕事を任されることになろうとも、学園理事長だけは続けていきたいと思っているくらいだ。ビジネスマン・鈴菱和希の人生は、これ以上ないほどに充実していると言っていい。だがそれは魂の幸せとは違っていた。
 今なお幼い啓太との思い出を大切にし続けているのは何故かと自問すれば、あのとき以上の幸福を感じていないからという答えに行きついてしまうのだ。どんな勉強もビジネスでの成功も。1千万円以上もするスポーツカーをぽんと購入できるほどの金があっても、自分を好きでいてくれる誰かが向けてくれる笑顔以上の幸福など与えてくれはしないのだ、と。心の何処かで気づいていながら、敢えて目をそらしていたその現実を、岡田の答えは見事なまでにえぐり出したのだった。
「和希さま……?」
「いや、すまない。ちょっと感動していたんだよ。君の言う通りだと思ってね」
「……はぁ……」
 素直に受け止めるどころか感動までされてしまって、岡田はむしろ困ったのだろう。この男には珍しいくらい、返答の語尾が曖昧になっていた。何故ならあれは、ただでさえ短い仕事の時間にデート用クルマの選別をしていた和希に対する、ほとんど嫌味で言ったようなものだったからだ。意識の大半がまだ夕暮れのコンビニにいる和希は、そんなことは気にもしていなかったのであるが。内心で感じるわずかな罪悪感を咳払いで振り落とし、岡田が言葉を継いだ。
「少し確認をしたいのですが」
「何かな」
「和希さまはそのお車を、今度の休みに使われるご予定でしょうか」
「もちろんそのつもりだ」
 予定も何も、啓太を乗せて行きたいからこそクルマを選んでいるのだ。ヘタにベンツを使って「オヤジ臭い」と思われてしまったら、鈴菱和希一生の不覚である。だが岡田は「それは少し難しいのでは」と言った。岡田に対する見方を上方修正しかけていた和希の機嫌はこの一言で一気に下降した。確かにあまり運転することもないが、感覚を忘れないよう機会をみつけてはハンドルを握るようにしているし、免許もきちんと更新している。自宅のガレージにあるベンツのカブリオレだって、たとえ和希が乗っていなくても、契約している業者が定期的に転がして調整してくれている。たしかにベストとは言い難いかもしれないが、少なくともベターな状態にあると言っていい。和希が運転するのに何の支障もありはしないのだ。
「それは……。いや。まずは理由を聞こうか」
「失礼ながら和希さまは、前回いつ運転をされたでしょうか」
「春先にはしたよ」
「あれはしかしオアフじゃなかったでしょうか」
「そうだが?」
 どうしてもつなぎをつけておきたかったアメリカの製薬会社の重鎮が和希の一家を別荘に招いてくれたのは、日本ではまだ厚手のコートが手放せない頃のことだった。ようやく接触できた相手からの申し出を断ることなどできるはずもなく、会長までが都合をつけたそれは、鈴菱家にとって10年以上ぶりの家族旅行となった。社会に出れば地位のある役職についているといっても、家庭に戻れば、和希もただの一人息子である。両親から買い物だの観光だのと言われては、運転手役を仰せつかることとなったのだった。
「あの時は、やれ観光だ買い物だ食事だと言われて、結構大変だったんだ」
「なるほど。ではその前は」
「その前? あれはえーと……、冬になる直前のピッツバーグだ。移植用の免疫抑制剤の売り込みに出かけたとき」
「はい」
「もっと言おうか? その前はそこから一月ほど前だ。ドイツの田舎町でどういう訳かジャパンウィークみたいなものをやるからと、製薬つながりでB社から協力要請があって日本酒を出品したときだな」
 岡田の意図をつかめないまま記憶を探っていた和希は、自分でも意外なくらいハンドルを握っていることに驚いていた。海外では公共交通機関よりクルマの方が便利なことが多く、ちょっとした隙間の時間の移動に自分で運転していたのだ。それに良く知らない道を運転するのは、ビジネスで使っているのと違う場所が緊張するので、いい気分転換になることもあった。
「それから、えっと……」
 まだ続けようとする和希を、岡田は「いえ。もうそのあたりで」と止めた。
「つまり和希さまは感覚を忘れないように、時々運転をなさっておられる、と」
「そうだ」
 調子が出てきたところで止められて、和希の声にどことなく尖る。
「わずかな移動やプライベートに、わざわざ運転手を使うのは却って面倒だからね」
「でもそれは海外ばかりのようですが」
「ああ……。そうなるかな。たまたまそうなっただけだと思うけど」
「つまり日本の道路は走り慣れていらっしゃらない」
「そう言われればそうかもしれないけど。ハンドルとか標識のことなら……」
「いえ。そういうものではなく」
 何が言いたいのかと訝しむ和希に、岡田はむしろそっけない調子で冷たく事実をつきつけた。。
「横幅も長さもある外車の運転に、和希さまは確かに慣れておいででしょう。ですが、日本の道路が狭くて細くて複雑に入りくんでいるのをお忘れなのではないですか」
「それは……」
「しかも石塚の手配したレストランは、海を見下ろす崖の上に建っているようです。そこに出るまでの道路はすれ違うのがやっとという程度の幅しかなく、曲り角もずいぶん急なように見受けられました。ああいう土地の限られた場所では、1台あたりの駐車スペースが狭いことも多うございます。伊藤くんをお連れになっても、何度も切り返したりやり直したりするようでは、せっかくのフェラーリも逆効果になりかねないのでは、と」
『逆効果!』
 この一言で、ビジネスモードだった和希のスイッチが一気にオニイチャンモードに切り替わった。
 確かにそうだ。学園の周辺こそ道路も整備されているが、駅から少し離れただけで、道は複雑怪奇に入りくんでしまっているではないか。コンパクト・カーならともかくあの道をフェラーリで走るのは、サンデー・ドライバー以下の今の和希には高いハードルと言わざるをえないだろう。啓太が何も知らなければ、何度切り返しをしてもそんなものかと思ってくれるかもしれない。が、こと運転に関する限り ―― ほかにもいろいろあるのだろうが、そんなモノ考えたくもない ―― 啓太の基準は中嶋である。啓太を送ってくる中嶋のクルマを何度か見たことがあるが、無理のない流れるような運転だった。それは確かな技術と高い運転センスとで、常に最良のライン取りができているからだ。十分な道幅があるなら和希の運転だってボロはでないが、あれと比べられてはたまったもんじゃない。『下手』の烙印は『オヤジ』の烙印以上にあってはならないものであった。
 いけない! というか危なかった……。背中に嫌な汗を感じながら、和希は安堵のため息をついた。
 日本の道路事情を考えずにフェラーリなど買っていたら散々な目にあうところだった。いくらフェラーリ1台くらい即金でぽんと買えるくらいの稼ぎはあると言っても、決して安い買い物ではない。それだけの金を出して買ったクルマで笑い者になったら目もあてられないではないか。いやいや。啓太はそんなことで誰かを笑ったりするような子じゃない。絶対そんなことはしない。しないけれども。哀れむような目で見られでもしたら、オニイチャンもう立ち直れないぞぉぉぉぉーっ!
 脳内でアドレナリンが沸騰状態にある和希は、ぜえぜえと肩で息をしつつ「岡田……!」と言った。もう少し距離が近ければ、岡田の両手をがしっとばかりに握っていたかもしれない。そうでなかったのは幸運だったのに違いない。……おそらくは双方にとって。
「今回のところは無理をなさらず、いつものベンツの方がよろしいのではないかと存じます。新車を披露する機会はこれからいくらでも作れましょう」
「君の言う通りだ。もう少しで啓太に無様な姿を見せるところだった」
「では伊藤くんとの一件は運転手手配ということで」
「よろしく頼むよ」
 べつにフェラーリだけが外車ではないし、外車のすべてが大型であるはずもない。小さくて乗り心地のよくない某ミニは除くとしても、プジョーの小型車はそこそこおしゃれだし、ルノーは5ナンバーサイズでのオープンウインドウを出している。いささか普及してしまっている感はあるが、VWだってけっして悪い選択ではないはず。なのに岡田の使ったたった一度の「フェラーリ」が、今の和希の中で既定の事実となってしまっているらしい。
「それと、和希さま」
「うん。何だろう」
「搭乗手続きがはじまるようです」
「おっ。そうか」
 親ガモに連れられた子ガモよろしく、和希はVIPラウンジをあとにした。

 翌日。
 厚労省宛の書類の整理をしていた岡田は、和希との打ち合わせから戻ってきた石塚に声をかけた。和希はこのあと研究所のクリーンルームに入ってしまうので、しばらくは聞かれる心配がない。
「和希さまのお休みの件ですが」
「どうなった?」
 ちょっと悪戯っ子のような顔をしながら石塚が問い返す。自分が仕掛けた悪戯の結果を知るのは、いくつになってもわくわくするものだ。
「うまくいった?」
「ええ! 石塚さんに言われたとおりでした。伊藤くんの前での失敗の可能性をだしたとたんに、自力ドライブはなくなりました」
「フェラーリ効果は抜群だろう?」
「本当ですね。それとレストランの選択が最大のポイントだったように思います。あそこでなければドライブは強行されていたかもしれません」
「そういう情報を仕入れておくのも、秘書の重要な仕事だからね」
「よく覚えておきます。それで、予定通り日曜は運転手手配ということになりましたので、わたしが同行することにします」
「そう。じゃあ勝手にどこかへ行ってしまう心配はないね。時間通りに仕事の段取りをしておきましょう」
「よろしくお願いします」
 有能な秘書ふたりはにんまりとした笑みを交わしあった。
 
 秘書の仕事は役員に気持ち良く仕事をしてもらうこと。鈴菱本社はとてもいい人材を抱えているのだった。






いずみんから一言。

別名「馬車馬と御者」でした(笑)。
石塚さんって有能ですよねえ。
ちょっと彼のことを書きたいなあと思っていたら、なんだか
こんなオハナシになってました。
ま、彼の有能さは伝わったんだからよしとしよう(笑)。


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