黄色い柚子にはとげがある




 はじめてのことって、なんだかすごくどきどきする。
 だって今から七条さんの部屋に行こうとしてるんだから。

 夜中にこっそり七条さんの部屋に行くのははじめてじゃない。今までにだって何度もここを通って七条さんの部屋に行った。いちばん最近は先週の金曜日……、って。それは関係ないか。
 はじめてなのはそこへ至る過程。このところ七条さんは西園寺さんと海野先生の手伝いが忙しく、夜にならないと帰ってこない。1日の大半を研究所で過ごしている。その所為かいつもはある七条さんからのお誘いがないんだ。昨日も一昨日も……って考えていって、最後に七条さんと夜を過ごしたのがその先週の金曜日だったんだと思い至る。つまり今日で5日目。こりゃ寂しいわけだよ……って思ったら、ぺかっとアタマにひらめいたんだ。だったら自分から行けばいいじゃないか、って。七条さんは何も木星にいるわけではない。海底基地にいるわけでもない。同じ建物の中の、ひとつ上のフロアにいるのだ。うしろ向きに歩いていっても5分はかからないに違いない。難しいと勝手に思い込んでいた問題のあまりにも簡単すぎる答えに、自分で笑っちゃったくらいだ。
 思いついて。そうしたら矢も盾もたまらなくなって。気がついたら部屋を出ていた。そしてその瞬間。「簡単だ」と思った自分の考えが大間違いだったことを思い知ったのだった。
 すべての音が気になった。ドアに鍵をかける音。廊下を踏みしめる靴の音。自分の息や心臓の音までが辺り中に鳴り響いている気がして、呼吸を止めて廊下の端までつま先で走った。階段の下で立ち止まって一息をつく。ジュースを買いに自販機に行くときには気にならないすべてのことが、自分でもどうしようもないくらい気になって仕方なかった。このままではとても階段を上れそうになくて、それでも部屋に戻ろうとは思わなくて。思わず掴んだ手すりが意外なくらいにひんやりしていたおかげで、ほんのちょっとだけアタマが冷えた。
 七条さんの部屋に行くときはいつも冷や冷やはしてるけど、こんなにどきどきはしてなかったと思う。今までのそれは、きっとスリルとかいうやつなんだろう。篠宮さんの目を盗んで寮則やぶってるんだから、そりゃスリルもありまくるってもんだ。だけど今日。いつもの100倍増しでこんなにどきどきしてるのは、七条さんの了解をとらず、いきなり部屋に行こうとしてるからだ。もし行って拒否されたら……。その不安がこんなに心臓をばくばくさせてしまっている。
『今から行ってもいいですか』
 ケータイのメールだと何回キィを押すのかな。予測変換があるからそれほど手間がかかるわけじゃない。まあ……。街で見かける女の子みたいには素早くは打てないけれど。でもほんの数秒あれば打てる。そのわずかな時間。わずかな手間がかけられなかったのは何故だろう。それさえできていればこんなどきどきせずにすんだのに。
 少しでもアタマが冷えた所為か、それともドアの前を通らない所為か。階段は比較的落ち着いて上れた。手すりを握りながら。普段、壁の一部のようにしか思っていなかった手すりは、じつは頼もしい味方だった。一歩一歩、握るたびに確実に俺を上の階に引き上げてくれる。一度握って3段上がる。もう一度握ってまた3段。数を数えながら上がったのは、余計なことを考えないようにするためだ。
 鍵は持っている。
 もう何週間も前にもらった合鍵だ。
 合鍵をもらったということは、いつでも開けて入っていいということ。七条さんにもそう言われた。なのに今まで一度も使ったことがなかったのは、きっと機会がなかったからだ。だって七条さんはいつも俺の耳元で囁いてくれたから。食堂で。会計室で。そして、学園から戻る道の途中で。「今夜、僕の部屋で」と。そんなときはもちろん部屋の鍵は開いている。合鍵を使って入る必要なんてないんだ。
 でもそんなのはほんのわずか。いつもはその前に七条さんが俺の部屋に入ってきてくれていた。本当にいいタイミングで。七条さんがいてくれたらいいのになあと思ったら、いつの間にか部屋にいるんだ。これがどんなにうれしいか分かる? でも同じように七条さんもうれしいと思ってくれるかどうか。
 だって七条さんは今、とっても忙しいんだ。今日も帰ってくる姿を見かけたのは、もう9時近くなった頃だった。食事はしてきただろうけど、あれからのわずかな時間でやらなきゃいけないだろうことは、たぶんとても多い。何か大事な勉強してたりとか、すごく楽しくプログラミングしてたりとか。洗濯だとか明日の準備とか。疲れてぼんやりしてるかも。とにかく、俺は七条さんの邪魔をしたくないんだ。
 七条さんは優しいから、たとえ邪魔だったとしてもにっこり笑って迎え入れてくれるだろう。だけど邪魔なのを俺が気づいてないだけだとしたら……。そう思ったとたん、また心臓が跳ね上がりはじめた。
 駄目だ、これじゃ。そう思って、一息入れるために踊り場で一度足を揃えた。仕切り直してそしてまた手すりを握り、数を数えながら上がる。上がってしまえば、もうそこは3階。2年生のフロアだ。もう逃げられない。腹をくくるしかない。ここから先、俺を導いてくれた手すりはないけれど。

 七条さんの部屋は西園寺さんの部屋の隣。つまり左の端っこのひとつ手前、ってことだ。階段の前ならよかったのに、この距離が今は恨めしい。どきどきする時間が長くなり、迷惑だと気づいたとき、すぐに逃げ込む場所がない。
 時間は日付が変わる直前。みんなまだ起きている時間だ。もちろん寝てるヤツもいるだろうけれど。頼むからジュースやアイスなんか買いに出てこないでと、祈るような気持ちで足を運んだ。
 それぞれの部屋からそれぞれの音や気配が、かすかにだけど廊下までもれてきている。テレビっぽい音やゲームの音はすぐにわかる。静かなドアの向こうにも人の気配は感じられる。不純な同性交友に足を忍ばせている俺と違って、おそらくは真剣に勉強している気配なんだろう。
 成瀬さんの部屋からは英語で喋る声が聞こえている。電話してるのかな。笑い声が混じっていて、なんか楽しそうで。それで俺の気持ちもふっと軽くなった。今夜が駄目だったら「じゃあ明日はいいですよね?」って言えばいいんだ。俺と七条さんの間には、明日も明後日もその次も、まっさらのままの日がどでーんと待っててくれてるんだから。
 気づかせてくれた成瀬さんにお礼が言いたくなって、俺はドアに向かって最敬礼をした。上体を90度折り曲げて3秒維持。身体を起こした勢いのまま足を廊下の奥に向ける。ターゲット、ロックオン! 目指すは奥からふたつ目のドアだ。
 ここまで来るとさすがに足も速くなる。七条さんに会いたかった気分が一気に噴出してきたみたいだ。だって俺、本当に本当に七条さんに会いたかったんだよ。最後のお誘いが先週の金曜。今日はもう水曜日だ。何度かはランチを一緒にしたもののなんだか少し慌しくて、落着いて話をすることさえできなかったのだ。もう駄目。限界だ。迷惑でもなんでもいい。早く七条さんに会いたい……!
 つかつかと。って言葉の見本みたいな歩調で七条さんの部屋まで行った。ノブを掴んで開いてないのも確認した。でも。ノックはやっぱりできなかった……。音が響くからっていうのは言い訳だと思う。俺は理由が欲しかったんだ。もちろん、合鍵を使うための。鍵が開いてないのを確認するのにどきどきした心臓は、ポケットの中の合鍵を取り出したとたんにばくばくした。
『ドアが開いてなかったし、音が響くからノックも出来ませんでした。だから合鍵を使わせてもらいます』
 免罪符を手に入れた俺は合鍵を差し込み、ゆっくりと右に回した。

 手の中で「かちん」と小さな音をたてて開錠した七条さんの部屋のドアは、わずかに軋むこともなく開いてくれた。さすがは鈴菱。メンテナンスは完璧だ。むしろ鍵を引き抜く音の方が大きかったくらいだ。
 ぎりぎり身体が通れるだけの隙間を開けてすり抜けると、細心の注意を払ってドアを閉める。ここまでたどりついたことに、思わずほっとした息がもれる。とりあえず第一関門は突破したのだ。が。その息を吐ききる前に、いきなりうしろから抱きしめられた。誰。と思うはずなんかない。ここが七条さんの部屋だからではない。優しそうでいて、その実強引なこの腕も。体臭に馴染んだ香水の香りも。たとえここがどこであっても、間違えようのない ―― 。
「七条さん……!」
「今日はなんてうれしい日でしょう。伊藤くんが自分から来てくれるなんて」
 ことばがそのまま熱い吐息となって耳にかかる。ぐずぐず悩んでいた自分をあっという間に解かしてしまう、熱い熱い吐息だ。だから俺は腕の中でくるりと向きを変え、七条さんの胸に顔を預けた。そして……。ほっとした。
「だって……。会いたかったから」
「ええ。僕もですよ。明日の夜には、何を置いても伊藤くんの部屋に行くつもりでした」
 なのに。と続けた七条さんの声は、俺の背中を這い上がるくらい甘いものだった。
「伊藤くんの方から来てくれるなんて。今、僕がどんなにうれしく驚いているか。きっと伊藤くんには想像もできないでしょうね」
「じゃあ俺がどんなにどきどきしながらここへ来たかは、七条さんにわからないですね」
「とんでもない! 伊藤くんの部屋に行くたびに、僕はすごくどきどきしているんですから」
 ちょっと。ううん。かなり驚いた。だって七条さんはいつもすごく落着いて見えたから。俺の前だけでは作り物じゃない、本当の微笑を浮かべてくれていたから。
「おや。驚いていますね?」
 そう言った七条さんは、ひとつ小さなキスをしてくれた。

 七条さんの手でベッドに押し込まれたのは、それからいくらもしないうちのことだった。風邪を引くといけないから、って。そっ、それはまあ……。その前にスッパにさせられてたからなんですけどっ(赤)。それはさておき。俺が不安に思っていた通り、七条さんはパソコンに向かっての作業中だったのだ。さっきも言ってたよな。「明日の夜には」って。つまり今夜は行けないって意味だったんだろう。やっぱり邪魔しちゃったんだって思いかけた俺に、七条さんは優しく首を振った。
「じつは僕は嫌で嫌でしょうがなかったんですよ。郁がこんな研究の手伝いを引き受けたばっかりに、何日も拘束されるし、伊藤くんと夜も過ごせないし。毎晩毎晩、レポートの清書をするのに気分がのらなくて困っていました」
「そうだったんですか……」
「海野先生の研究が意味のないものだと思ったわけではないんですけどね」
 海野先生が何年もかけて遺伝子の操作をしていた研究がようやく、文字通りの『実』を結んだのだそうだ。西園寺さんは入学当初からかかわっていたものらしい。その頃はまだ、七条さんが手を貸すほどのことはなかったということだけれど。
「でも、それも今日で終わりです。それは……。そうだ、研究の結果は伊藤くんも知っていますよ」
「え? 俺も?」
「さっき伊藤くんの髪から、少しですけど柑橘類の香りがしました」
「ああ、あれですか」
 お風呂に入りに行ったら、脱衣場がすごく濃い柑橘類の香りで一杯になっていた。驚いて戸を開けると、大浴場にレモンが浮いてたんだ。しかもハンパなく大量に。お湯の表面の3分の2くらいが黄色くなっていて、残ったわずかな隙間に、みんなが小さくなってつかっていた。それがまるでレモンに遠慮してるみたいでちょっと面白かった。もっとも、レモンを掻き分けて俺もなんとか湯船につかると上級生が面白半分に握りつぶしたレモンがうんざりするくらい底に沈んでいて、今度は座る場所を探すのに苦労するくらいだったから、それほど面白がってもいられなかったのだけれど。でもあんまり香りが良かったものだから、シャワーを使わずに湯船のお湯でアタマを洗った。
「すっごい量のレモンだったんです。それがまあ浮かぶわ沈むわで。お風呂の中にぷかぷかぷかぷか」
「ああ、それはレモンじゃなくて……」
「こう……両手でよけるんですけど、おんなじだけ押し寄せてくるから入るのも一苦労で」
「……伊藤くん?」
「でも底にもいっぱい沈んでるから足の踏み場もないっていうか」
「……伊藤くん。たいへん楽しそうなところ、申し訳ないのですが」
「もう座るトコさえ見つからない……。って……。はい?」
「あれはレモンではありません。柚子です」
「柚子ぅ?」
 柚子なら俺もよく知っている。学食のかけうどんには刻んだ皮が入っているし、西園寺さんに連れて行ってもらう懐石料理でもよく使われているからだ。しかも隣の家の庭に1本植わっていたから、姿形だって見慣れたものだ。知ってる? 柚子の木ってとげがあるんだよ。けっこう長いやつ。『桃栗3年柿8年』ってよく言うだろ? あのあとに『柚子の大馬鹿18年』って続いたりするくらい、柚子は成長が遅い。だから普通は挿し木にするんだけど、そういう木は実生のに比べてとげが細くて小さいんだってさ。なんか人間みたいでおもしろい。
 実はおなじみだよね。ゴルフボールより一回り大きいくらいの大きさで、皮が思いっきりでこぼこしてるやつ。でもお風呂に浮かんでたのは大ぶりのレモンくらいの大きさで皮もつるんとしてて、形は楕円形というか紡錘形だった。
「あれは……。でもレモンですよ。香りは確かに柚子って言われたらそうかもって気はしますけど、形はこーんなだったし」
「ええ。形はね」
 両手の親指と人差し指でレモンの形を作る俺を、七条さんは否定はしなかったけれど。代わりに机に置いてあったレポート用紙を、意味ありげに取り上げて見せた。
「えっ。じゃあもしかしてあれが……」
「そう。海野先生の研究です」
 何年もかけて柚子をレモン型にする。それにいったいどんな意味があるのかがわからなくて、俺は一瞬絶句した。
「だけど……。なんだってあんな……」
「柚子釜にするにはたしかに向かないと思いますが、果汁を取ったり皮を使ったりするなら、こっちの方が量が倍です。1個あたりのコストパフォーマンスが飛躍的に向上しますね」
「なるほど……」
 それってたとえば、今まで100個しぼってやっと1瓶になった果汁が50個でオッケーになるとか、倍の吸い口が取れるから料理屋さんが喜ぶとか? いやいや。柚子農家の人が、同じ手間で倍の収穫が出来るようになったってことか? でもどれにしたって1個あたりの単価は上がるわけだから……。うーん。よく分からないけどきっとすごい研究なんだろう。でなければ天下の鈴菱が研究費を出すはずないもんな。
 なんかいろいろ疑問がないでもなかったものの、俺はそこで話を終わらせた。だって七条さんに早くレポートにかかってもらわないと。楽しむ時間がなくなっちゃうだろ? 柚子の話だってもちろん楽しいんだけどね。
 その思いはちゃんと伝わったみたいで、「じゃあ30分だけ待ってくださいね」と言った七条さんは、パソコンに向き直ったのだった。

 ベッドの中から見る七条さんの大きな背中。ここからだと手元は良く見えないけれど、レポートを繰る間隔が短い上に、ぱっぱぱっぱと表やグラフが作成されては挿入されていくのを眺めていると、きっと目にも止まらないくらいのスピードで動いてるんだろう。俺のために本気を出してくれてるんだなあって思うとたまらなく幸せな気分になれたのに、あの長い指が動き回るキィボードを羨ましいと思ってしまったのはナイショの話だ。俺ってどんだけ贅沢なんだ? でも、ちょっとでも早く、あんなふうに俺もさわってもらいたい。すべるようになめらかに。強く。そして、優しく。さわって。そして。反応と結果を見てもらいたい……。いつの間にか糊のきいたシーツに包まれた身体が自分でも持て余すくらい熱くなっていて、七条さんに気づかれないよう何度も布団を持ち上げて、こもった熱気を外へ逃がした。
 ところが。そんなことをしながらもうっとりと背中を見ている間に、どうやら眠ってしまったらしい。キィボードをたたく音が切れ目ないものだからかえって単調で、聞いてるうちに眠くなっちゃった。っていうのは言い訳にもなりゃしない。気がついたら朝で、しかも七条さんのパジャマを着せられていた。これはもう「うっとり」じゃなくて「うっかり」で、俺のどうしようもない失態だ。っていうか、何しに来たんだよ、俺……(涙)。
 しかも。抱きしめてくれていた七条さんの腕がとても優しかったから、はじめての経験を最高の気分で締めくくれたと思った、まさにその瞬間。にっこり笑った七条さんの口から、世にも恐ろしい一言が飛び出してきたのだった。
「伊藤くん? もうこんなことのないように、これからは僕が先に寝ていますから、今後は鍵を開けて入ってきたら、ちゃんとベッドに入ってきてくださいね?」
 黄色い柚子にはとげがある。にっこり笑う七条さんには尻尾がある。
 朝の白っぽい光の中。先のとがった尻尾が揺れているのが見えた気がした……。





いずみんから一言。

啓太くん初夜這いの話でした。
夜這いと思えばそりゃーどきどきもするわな(爆)。
和希がせっせと空回りしている話を書いていたら、突然のように。
七条クンの最後のセリフが浮かんできたのです。
だけど空回りは引きずってたみたいで、こっちでは啓太くんを空回りさせてしまいました。


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