………………一体どうしてこんなことになったんだろう。



第一次接近遭遇<Side Omi> 1






 ここは学園島から程近い、海沿いに建つ高級ホテルの25階。
 ダブルやスイートルームの並ぶ階のふかふかの絨毯が敷いてある廊下で、僕は中嶋さんと鉢合わせていた。
 僕には連れがあったし、彼の隣にも…………女の人がいた。
 年齢は二十代半ばくらい。
 細い身体付きながらも出るべき所は出ていて、さらりとした長い髪と派手過ぎない化粧がその綺麗な容姿を引き立てている。淡い色のスーツも嫌味がない。
 きっとこういう女性の事を“いい女”と言うのだろう。
 そう、彼女は概ね好感が持てた。
 ……………………中嶋さんにしなだれかかるように腕を組んでさえいなければ。
 どうやら彼にとってもここで僕と会ったのは予想外の出来事だったらしく、その顔には明らかに驚愕の表情が浮かんでいた。
 冷静沈着を売りにする中嶋さんらしくない、と何故こんな非常時にそんな事を考えたのかは解らない。中嶋さんが着ている紺色のサマージャケットと青みを帯びた白いシャツが、とても良く似合っているな……と思ったのも馬鹿げている。
 多分まともな思考が出来ないほど混乱していたのだと思う。
 今日は…………僕の誕生日だったから。
 本当は中嶋さんの横にいるのは僕のはずだったから。





 僕はここ数日かなり苛立っていた。
 中嶋さんに僕の誕生日の過ごし方について何度相談しようとしても、いつもはぐらかされたからだ。
 しつこく食い下がれば「溜まっているのか?」と妖艶な顔で微笑まれ、つい誘惑に負けて卑猥な情事で誤魔化されてしまう。
 中嶋さんがそういう態度を取るという事は9月7日、僕の誕生日当日に何か他の用事でもあるということだろうか。いや、いっそのことただ単に煩わしいだけなのかも知れない。
 郁から「中嶋と誕生日を過ごすのか?」と訊かれても、心配を掛けたくなかったから曖昧に頷くことしか出来なかった。
 そんな風にすっかり誕生日に中嶋さんと過ごす事を諦めていた僕は、一昨日の夜、僕の母親であるトウコさんから掛かってきた電話に「Yes」と言った。
 中嶋さんに振り回されて失望させられるくらいなら、初めから他の予定を入れてしまった方がマシというものだろう?
 二言三言のやり取りであっという間に僕の誕生日の予定が立つ。9月7日、昼過ぎの便で帰国するトウコさんを空港まで迎えに行き、ホテルにチェックインしてからいつものフレンチレストランで誕生日祝いを兼ねた食事をする
『本当に十七にもなって誕生日を一緒に過ごす相手がいないの?』
「ええ、残念ながら」
 自分では平静を装ったつもりだったが、どうやら見抜かれてしまったようだ。電話口の向うで押し殺した笑い声が聞こえる。
『あなたみたいな十年後のイイ男を振る相手なんて放って置きなさい。あなたならいくらでもいい相手が見つかるでしょ?』
「そうでしょうか」
 僕の気のない返事に気が付いたのか、途端に口調が明るく柔らかいものに変わる。
『まあ、毎年誕生日を違う女と過ごすどころか、一日で何人もの女を掛け持ちするあの馬鹿みたいにはならないで欲しいけれど』
「トウコさんも相変わらずですね」
『あら、それ誉め言葉?』
「もちろんです」
『ふふっ……それじゃ、7日の夜はいつものホテルを予約しておいて。ああ、シングルは狭いから嫌よ』
「承知していますから、ご心配なく」
 そうして僕は誕生日当日の土曜日、授業が終わると昼食も取らずに学園島を出た。
 もちろん空港までトウコさんを迎えに行くという名目もあったが、中嶋さんと過ごせない誕生日に彼と顔を合わせたくはなかったからだ。
 それなのに僕たちは会ってしまった。
 それも別の相手を伴ってホテルの廊下で出くわすという、考えうる限り最悪のシュチュエーションで。
 先に表情を取り繕うことに成功したのは中嶋さんの方だと思う。
 見事なまでに一瞬の内に顔から感情を消し、僕たちとすれ違った。
 まるで、僕が見知らぬ人間だというような態度に心が冷えていく。
 ……僕は、振り返らない。
 …………振り返ってやるものか。
 つい数日前、僕の部屋であんな痴態を晒したばかりだというのに、今日はどこかで引っ掛けた女をホテルに連れ込む。
 ええ、あなたがそういうひとだと知っていましたよ。
 僕を想ってくれるその心に偽りはないと思うのに、平気で僕を裏切るような真似をする。
 それを知ってショックを受け、うろたえる僕を見てあの人は心底楽しそうに笑うのだ。
『お前のそういう顔が見たかった』と。
 郁は僕と中嶋さんが同族だというけれど……それはある点ではとても的を射ているのだけれど、こういう時にはその見解を否定したくなる。
 『同族』というにはあまりにも彼を理解できない。
 よりにもよって僕の誕生日というこの日に、わざわざ他の女とホテルに来る神経の持ち主を一体どうやって理解しろというのだ。
「あの子、臣の知り合い?」
 ……………………っ!
 不意に予想もしていなかった人から声を掛けられて、僕は完全に混乱してしまっていた。
「ト、トウコさんっ!」
「あら、ふふ……何を慌てているのよ、私に隠さなくちゃならないようなカンケイなの?」
「い、いえ!あの……」
 思わず振り返ると、僕たちの方を怪訝そうに見ていたのは女性だけだった。僕と視線が合うと彼女は気まずそうに慌てて前を向く。
 しかし中嶋さんはまるで聞こえなかったかのように無反応だ。
 そんなはずはないのに。
 僕たちの会話が聞こえていないはずはないのに、彼は無視を決め込んだ。
 …………つまり、このダブルルームが並ぶ階の廊下に僕が他の誰かと居ても、彼には関係ないし気にもならないのだと……そういうことなのだろうか。
 いつの間にか中嶋さんと女性の姿は見えなくなっていた。あの先の廊下を曲がっていったのか、どこかのドアに入っていったのかそれすらも分からないほど僕は自失していたようだ。
 エレベーターの到着を告げるチャイムの音が、無機質にホテルの廊下に響く。その渇いた音すら、今の僕には終末の天使が吹き鳴らす絶望のラッパの音に聞こえた。





「子羊のロースト 香草風味でございます」
「あら、美味しそう」
 トウコさんのはしゃぐような声も、真っ白な皿の上に載ったほかほかと湯気を立てる料理も、地の底を這うような僕の気分を浮上させる事はできない。
 度々利用する内にトウコさんのお気に入りになりつつあるこのレストランは、本当に美味しいのだけれど。
「それで……ねぇ、臣、私の話を聞いてる?」
「……あ」
 はっとして顔を上げるとトウコさんが悪戯っぽく笑いながら僕を見つめていた。
「あ、すいません……ぼーっとして」
「いいのよ。臣の考えていることなんてお見通しなんだから」
 そう言ってグラスのワインを一口含む。
「さっき部屋の前の廊下で擦れ違ったあの男の子……臣の恋人でしょう?」
「ト、トウコさんっ!」
 いきなりそう言われて、思わずナイフとフォークを取り落としそうになる。
「隠したって駄目よ。臣の顔を見ていれば分かるわ」
「…………トウコさんには敵いませんね」
「……あら、本当にそうなの?」
 軽く目を見張るトウコさんに、僕はがっくり肩を落とした。
 鎌を掛けられてあっさり引っ掛かってしまった自分が情けない。しかし相手がこの人では当然の結果とも言える。
「…………………………そうです」
 別に隠そうとしていた訳ではないが、こんな風に知られてしまうのは予想外だ。しかも、トウコさんの反応は僕の想像を超えていた。
「恋愛経験値ゼロのあなたが、どうしようもない相手にいつか引っ掛かるんじゃないかと心配していたけれど……中々いい趣味しているじゃないの」
 …………まったく、この人は……息子の恋人が男だという点には突っ込まないのだろうか。
 しかし、ある意味トウコさんの杞憂は当たっていたというべきだろう。中嶋さんは確かに『どうしようもない』相手だ。
「……お褒めに預かりまして」
「ふふ、美味しそうな子だったわね」
「……あげませんよ」
「味見も駄目?」
「当然です」
 次の瞬間、僕たちはお互い目を合わせたまま吹き出してしまった。
「冗談よ。いくらなんでも息子の恋人を取るような真似はしないわ」
「………………本当にトウコさんには敵いませんねぇ」
 ほんの少しだけ気持ちの紛れた僕は料理を一切れ口に運ぶ。程よく脂の乗った肉が舌の上で蕩けた。
「でも、いいの?あのまま彼を放っておいて」
「………………いいんです。あの人はああいう人ですから」
 無理やり浮かべた笑みは自然な笑みではなく、どうやっても取り繕ったものにしか見えなかっただろう。
 その証拠にトウコさんはどこか気遣わしげな、困ったような表情をしている。
「でも彼も驚いたような顔をしていたわ」
「それは……浮気の現場を目撃されれば誰だって驚くでしょう?」
「それだけじゃないわね。彼はショックを受けていたように見えた」
 …………僕だってショックでしたよ。
「彼はあなたも『浮気』していると思ったんじゃないの?」
 確実にそう思ったでしょうね…………………………え?
 彼もショックを受けた? 僕がトウコさんと一緒にいたから……僕が浮気をしていると思ったから?
「……本当に彼もショックだったと思いますか?」
「私にはそう見えたわ。傷付いたのを無理やり無関心で取り繕ったみたいだった」
「……でも、彼は…………」
 今頃、あの女性と………………
 それは厳然たる事実で。
 テーブルの上で拳を作っている僕の手に、そっとトウコさんの手が重ねられた。
「食事が済んだら寮へ帰りなさい、臣」
 その声はまるで小さな頃の僕に言い聞かせていた時のように、毅然として優しかった。
 しかし僕は首を振った。
「………………一人で居たくないんです。今日は自棄酒に付き合ってください」
 寮に帰ったら僕は一人でこの混沌とした思いを抱えているしかない。
 郁には心配を掛けたくないし、他の人間に笑顔を取り繕う気にもなれない。
「駄目よ、今日は寮に戻りなさい」
 トウコさんの微笑みと手の平から伝わる体温は温かくて、波立つ僕の心静めていく。
「大丈夫よ、臣。私を信じて」
 重ねた手が僕の拳を握り締める。
「あなたはちゃんと彼に愛されている」
「…………今はそんな風にとても思えません」
 でもトウコさんがそう言うのなら、そうかもしれないと……そう思ってしまう僕はこんな酷い仕打ちを受けても、本当は彼の事を信じたいのだろうか。
「……まったく……その自信が一体どこから来るのか訊いてもいいですか?」
「あら、経験と女の勘に決まってるじゃない」
「…………本当に、トウコさんには負けますよ」
 苦笑する僕に、トウコさんは悪戯っぽく片目を瞑って見せた。





 ホテルまでトウコさんを送って行き、バスで寮へ帰ってきた。トウコさんに背中を押されても、バス停から寮へと歩く足取りは重くなるばかりだ。
 寮の玄関を入ったところで九時を知らせる音楽が流れた。まだ寝るには早すぎる時間だが、フランスにいる父から送ってきたコニャックが手付かずのままあったはずなので、あれをがぶ飲みして寝てしまうことにした。
 ………………文句の一つ、二つや三つ……いや、はっきり言えば夜が明けるまでベッドの上で責め苛んでやりたくても、中嶋さんはきっと今日帰ってこない。
 そんな地を這う気分のまま部屋まで帰ってきた僕は、ドアが目に入るとフリーズしてしまった。
“Don Juan!”
 ドアには全面を使って、いかにも落ちにくそうな赤い色で大きくそう書いてあった。
 …………これが誰の仕業かとは考えるまでもない。
 しかし言うに事欠いてドン・ファン……女たらしとは、言ってくれるではないか。
「それは中嶋さんのことでしょうが!?」
 ガツッ!
 そう腹立ち紛れにドアを蹴りつけて、はた、とある可能性に思い当たる。
 …………まさか、中嶋さんはもう帰ってきているのか?
「臣、帰ってきたのか?」
 そう隣の部屋のドアが開いて顔を覗かせたのは、郁だった。
「しかしさっきの音は一体…………うっ!…………何なんだ、これは……」
 僕の部屋のドアの落書きを見つけて、その綺麗な顔を引き攣らせる。
「……まさか、中嶋がやったのか?」
「疑いの余地もへったくれもなくそうでしょうね」
 郁は腰に手を当てながら、やれやれという風に首を振った。
「……一年に一度の誕生日だというのに、何も喧嘩しなくてもいいだろう」
「それは中嶋さんが……」
 悪いのだと言いかけた僕に郁が告げたのは思いがけない一言だった。
「中嶋は三時間近くも前に帰ってきたぞ。余程腹が立っていたのか、丹羽ばかりか篠宮や啓太にも当たる始末だ」
「え?」
 ………………三時間前というと僕たちと会った後、直ぐ寮に帰ってきたということになる。
 それはつまり、あの女性とホテルの部屋に入りながらほとんど何もせずに帰ってきたということだ。
 ………………僕に会ったからだと、そういう風に都合よく解釈してもいいのだろうか?
 ………………それとも僕の誕生日という今日、僕よりそんなつまらない相手を選んだのだと解釈するべきなのだろうか?
「しかし一体何で書いたんだ?この文字は」
 ちょっとやそっとじゃ落ちそうにないぞ、と呟く郁に僕は背を向けた。もちろん、中嶋さんの部屋に行くために。
 怒涛のように様々な感情が押し寄せて、正常な判断が出来そうになかったが。
 目の眩むような怒りと嫉妬と失望と不安と……そして微かな安堵と期待が胸の内をぐるぐると回っている。
 ……はっきり言ってしまえば、僕は混乱の極致にあった。信じがたいことに。
「おい、臣!どこへ……」
「すいません、郁。中嶋さんに会ってきます。その落書きは後で何とかしますから」
「………………無茶はするなよ」
 そう言う郁の表情は見ることが出来なかったが、掛けられた声はどこか不安気な色を滲ませながらもひどく優しいものだった。





 普段では考えられないような乱暴な手つきで彼の部屋のドアを叩く。
 永劫にも匹敵するような長い数十秒の後、かちりと鍵を外す音がしてドアの隙間から中嶋さんが顔を出した。
 部屋の中は真っ暗で、廊下の明かりが眩しいのか眼鏡の奥の双眸を眇めている。
 不機嫌の極致にあるようなその姿からは、アルコールの匂いが漂っていた。
「年上美女とお楽しみだった割には早かったじゃないか。肝心な時に勃たなくて追い出されたのか?」
 微かに歪んだ唇から酒気と共に吐き出されたのは、僕を嘲笑うかのような言葉。
「……………………あれは僕の母です」
「……………………何だと?」
 予想もしていなかったのだろう僕の答えに呆然とした隙に、中嶋さんを部屋の中へ突き飛ばす。素早く僕も中へ滑り込んで鍵を掛けた。
「……っ、七条っ!」
 よろめきながらも睨み付けてくる彼の腕を掴んで、ベッドの上に乱暴に押さえつける。
「ですから浮気なんかじゃありませんよ。でも中嶋さんは違いますよね?説明していただけますか?」
「それはお前が……」
「僕がなんです?」
「…………っ、いいから放せ!」
「駄目です。本当に嫌なら、ご自慢の空手の足技でも何でもご自由に使って下さって構いませんよ。今まで幾度となく僕の想いを踏み躙ってきたように、身体も痛めつけてみればいいでしょう?」
 起き上がろうともがく彼の四肢を力任せに押さえつけると、顔を見られたくないのか背けようとする。そんな中嶋さんの横顔には、彼をよく知る人間にしか分からないようなほんの微かな動揺の色があった。
「……母親だと言ったが随分と若いな」
「いつも十歳以上は若くみられるんですよ」
「……母親だと言う割には名前で呼んでいただろう」
「僕みたいな大きな子供に『お母さん』なんて言われると老けた気がする、と言うので」
 誤魔化そうとしているのか中嶋さんはトウコさんの事を口にする。
 …………そんなことは許さない。
 未だに僕と視線を合わせないようにしている彼の両手首を左手で纏めて拘束し、空いた右手で彼の顎を掴んで僕の方を向かせた。苦痛と屈辱からだろうか、彼の嫌味なほど整った顔が歪められる。
 彼の瞳に浮かんでいるのは……困惑と…………
 僕が他の感情を読み取る前に彼は目を閉じてしまった。
「僕に言うことがあるのではないですか?」
「……………………『悪かった、もうしない』とでも、言って欲しいのか?」
 中嶋さんは目蓋を閉ざしたまま鼻で笑う。
 別にそんな陳腐な言葉が聞きたい訳ではない。
 …………それなら、一体僕はどんな言葉が聞きたいのだろう。
「本心からの言葉なら、喜んでいただきますよ」
「そんな守れもしない約束は出来ない」
「…………そうでしょうね」
 僕は自分のネクタイを片手でするりと解く。
「……でしたら、身体にお伺いしましょうか?」
 そのネクタイで中嶋さんの両手首を縛り上げた。
「七条!」
「中嶋さんは口よりも身体の方が素直ですから。少々酷くするかもしれませんが大丈夫ですよね」
 あなたに耐えられない事なんてないでしょう?
 堪らず目を開いた中嶋さんの耳元で囁くと、彼の身体が小さくびくりと震えたのは恐怖からかそれとも期待からか。
 そんな事はもうどちらでもよかった。
 今日は僕の誕生日なのだから、僕のしたいようにしても構いませんよね?中嶋さん。







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