啓太くんのお引越し 前編




 最低の気分で寝たら、眼が覚めても最低の気分だった。肉体労働の後で身体は結構へとへとだったから、なんとか寝るのは寝られたんだけど。でなかったら一晩中寝られなくて、よけいにひどい気分だったかもしれない。
 起き上がるのも鬱陶しくて、ふてくされた気分のまましばらく天井を眺める。自宅の二階にある俺の部屋の天井がそこにあった。三ヶ月ぶりだからって、別に懐かしくもなんともない。っていうか。なんでこんな天井見てなきゃならないんだよ? 本当だったら今頃は中嶋さんのベッドで、中嶋さんに起こしてもらっていたはずだったのに。まああの人のことだから、冷たく「起きろ」だろうけどさ。
 あああーっ!! 思い出してもアタマにくる。何が「引越しを手伝いに来たら合鍵をやる」だよ。手伝いに行ったのに、合鍵はおろか泊めてさえもらえなかったじゃないか。働かせるだけ働かせておいて、夕方になったら「ごくろうさん。今日は家に帰って休め」ときた。しかも「悪いが今日は送ってやれない。電車で帰れ」だよ。『アタマにきた』ってより『がっくりきた』だな。正確に言うと。あんまり何か言っても、中嶋さんを本気で怒らせると怖いから、俺も何も言わずに帰ってきたんだけど。
 でも試験休み中でよかったと思う。試験中だったら、マジで何も手につかなくなるところだった。中嶋さんと同じ大学なんて、今の成績だったら絶対、受験させてももらえない。そう思って学年末試験は俺なりに必死にがんばったんだ。でもあんなふうに言われちゃったら、がんばってきたのって、なんだかちょっとむなしい気がする。王様は中嶋さんが俺のことを待ってる、っていってくれたけど。こんな風に言われちゃうと、やっぱちょっと不安になる。
 だめだ。ぐるぐる回り始めちゃった。こんなことしてたら、それこそむなしいよ。気分転換、気分転換。えーっと、今は。ああ。昼前か。腹減ってきたから起きるとするか。だけど変だな。いつもだったらこんな時間まで寝てると、母さんが叩き起こしに来てるはずなのに。そういえば朋子の声も聞こえないや。みんなで買い物にでも行ったのかもな。うるさくなんだかんだ訊かれないだけ、俺的にはそっちの方がいいんだけど。こんな中途半端なときに突然帰ってきたりしたから、絶対、何か言われそうだもんな。
 あれ? 父さんが車洗ってる。そっか。今日土曜日だっけ。珍しいな。明日ゴルフかも。出かけるときでないと、車洗ったりしない人だもんな。ふーん。中まで掃除してるんだ。珍しいの通り越してるよ。春の椿事ってやつか。雪でも降らなきゃいいけどな。雪ん中、寮まで帰るのって、結構大変なんだから。
 あ、食パンがある。じゃあこれをトーストにして、と。もうちょっとで昼飯かな。だったら1枚にしとくか。あとはコーヒーを……。コーヒーか。中嶋さんとこだったら、コーヒーは中嶋さんが淹れてくれる。っていうか、コーヒーだけは自分でさっさと淹れてるよな、あの人。俺の淹れたコーヒーって信用ないのかな。……ああ。なんかコーヒーが鬱陶しくなってきた。紅茶にしよ。七条さんが淹れてくれるみたいな紅茶じゃないけど。中嶋さんを思い出してしまうコーヒーよりよっぽどいいや。
 うーんと。卵も野菜もあるな。じゃあスクランブルエッグとサラダ。といいたいところだけど、自分のためだけに作るのってめんどくさい。もうトーストだけでいい。ちょっと疲れてるからバターよりジャムかママレードを……。よしよし。りんごジャム発見。はあ……。中嶋さんは甘いもの食べないから、ジャムなんて冷蔵庫には入ってないんだろうな。逆に七条さんとこの冷蔵庫なんて、10種類くらいジャムやママレードが入ってたりして。でもってフリーザーにはアイスクリームがぎっしりなんだよ。きっと。あはは。ありそうでちょっと笑える。
 なんだか気分がちょっと浮上してきたみたいだ。腹にモノが入ったくらいで浮上できるなんて、我ながらなんてお手軽なんだろう。どーせ、俺ってそんな奴なんですよ、っと。
 三月半ばの土曜日。俺の勝手な、それでいて平和な物思いは、ここで唐突に打ち切られることになった。

 トーストを食べ終えて二杯目の紅茶をすすっていると、にぎやかな声がして母さんと朋子が帰ってきた。やっぱり買い物に行ってたらしく、両手いっぱいに荷物を下げていた。
「あ、母さん。おはよ」
「何それ。『おはよ』じゃないでしょ。荷物はもう出来たの? 二時にはこっち出るわよ」
「え!? 荷物? って何? どっか行くの?」
「あんたまだ寝ぼけてんの? 中嶋さんとこに引っ越すんでしょ」
 中嶋さんとこに引っ越す? って、一緒に暮らす、ってことか? 俺が? えええーっっっ!!
 顔が赤くなってるのが自分でもわかる。紅茶がのどにつかえたフリしてごまかしていると、今度は父さんも入ってきた。
「ちょっとお父さん。この子ったら引越しのこと知らないみたいよ」
「なんだそれは。話が違うじゃないか」
「違う違う」
 話がおかしくなりかけてたから、俺は大慌てで手を振った。ここはなんとか取り繕わなくては。訳わかんなくてもいい。怪しまれてもいい。とにかく中嶋さんと暮せるチャンスを失いたくなくて、俺は必死だった。
「俺は『卒業したら一緒に住む』って思ってたんだよ。同じ大学に行くことにしてるから。そっか。中嶋さんは今からのつもりだったのか。あはは。とんだ勘違いだね。それで合鍵がどうとか言ってたのか」
 それでも怪しそうに俺を見ている両親から、俺は何とか話を聞きだそうとした。
「つい先週よ。水曜だったかの夜に、中嶋さんがうちに見えられて。卒業後もあんたの家庭教師引き受けることにしたから、長期の休みの間とかに預からせて欲しい、って」
「ああ、水曜だったら東大の合格発表を見に来たときだ」
「えっ!? 中嶋さんって東大受けたの?」
「うん。BL学園の人って、東大受ける人多いんだって。受かったって行かないんだけど。中嶋さんもそう。王様と一緒に受験して。……ああそうだ。新聞に載ってたでしょ。東大の入試で過去最高得点が出た、って。あれが王様。中嶋さんの親友で、部屋は別だけど同じマンションに住むんだ。……言ってなかった?」
 両親は呆気にとられたらしく黙ったまま首を振った。中嶋さんって見た目がああだから、成績優秀だとは思ってたんだろうけど。まさか合格した東大をあっさり振っちゃえるとは思ってなかったみたいだ。自分のことみたいに、ちょっとだけ気持ちがよかった。
「でさ。同じ大学に行けなかったら、鍵返せって言われてるんだ。すげープレッシャーだよ」
「何それ。結局、引っ越すってことになってたんじゃない」
「……あ、そうか」
 朋子がぷっと吹き出した。
「お兄ちゃん、そんな大ボケやってて、ホントに同じ大学いけるの?」
 つられて両親も笑い出してくれたので、俺はマジでほっとした。助かった。これで何とか取り繕えた。
 ちゃんと言っといて欲しかったなあ、中嶋さん。心臓に悪いよ。まったく。意地悪く、それでいてすごく楽しげに笑ってる顔が眼に浮かぶ。でも親公認でこれから一緒に住めるんだ……。中嶋さんとのことを相談しにいったとき、王様は「一緒に住もうって言ってるんだろ」と言っていた。あれってこのことだったのか。中嶋さんは本当に、俺とのことを考えてくれてたんだ……。俺は胸のうちで、うれしさをそっとかみしめた。

 それからの二時間は文字通り時間との戦いだった。家族が昼食をとっている間に、俺は荷物をまとめるのにてんてこ舞いだったのだ。家具類は中嶋さんの古いのを入れておいてくれるということらしいので、身の回りのものだけでいいのが、せめてもの救いだったけど。
 中嶋さんがうちに来たあと、下着類や服なんかは母さんが新しいのを買っておいてくれたのが、もうダンボールに詰めてあった。今日の買い物も、ちょっとしたものを買い足しに行ってくれたものだった。うう。感謝。あとは靴と本。歯ブラシとかシェーバーとか。それ以外の細々したものは、あとで買いに行けばいいと割り切ることにした。いつでも取りに来れるわけだし。
それから忘れちゃいけないスーツケースとパスポート。ヨーロッパに連れてってくれるって、王様が言ってたもんな。パスポートだけバッグに入れて、スーツケースは途中でコンビニから宅配で送ろうと思った。

 やっとの思いで車に乗りこんで気がついた。なんで家族全員乗ってるんだろう?
「ねえ。みんな行くわけ?」
「そりゃそうでしょ。息子が預かってもらうのに、挨拶しない親がどこにいるっての?」
「挨拶ったって、この間中嶋さんが来たとき、もうしたんじゃないの」
「それはそれ。まったく別物でしょ。ホントにこの子ったら……」
「いや。それもあるが、中嶋くんの方からも来てくれと言ってたしな」
「えっ!? そうなの?」
「ええそうよ。『大事な息子さんをお預かりするわけですから、どうぞご家族の皆様で一度いらしてください。それで勉学の環境が整っていないと思われたら、この話はなかったことにしていただいて結構です』って。あの人、ホントに啓太とたったふたつしか違わないの?」
「中嶋さん、素敵だったもんねぇ。朋子にもね、お土産に有名なお店のお菓子もって来てくれたの」
 ああそうなんだ。中嶋さんのやることって、ホントにそつがない。両親や妹を見ていると、すでに中嶋さんを信用しきっているのがみてとれる。ごめんなさい。父さん、母さん。実は中嶋さんと俺は、あなたたちが想像もできないような関係なんです。夜毎に抱かれ、泣いて身悶えしながら「もっと」とおねだりしてるんです……。何の疑いもなく俺を送り出してくれる家族みんなに、俺は心の中で謝った。
 
 マンションが見えてきたので、あれだよと言ったら、みんなが絶句してしまった。学生が住むマンションだから、もっと安っぽいところを想像していたらしい。
「……あれって家賃いくらくらいなの?」
「さあ? 買い取った、って言ってたけど?」
「買い取ったって……」
「前の持ち主が中嶋さんのお父さんの知り合いだったんだって。使い勝手が悪いから、売れなくて困ってたらしいんだ。安い買い物をしたっていってたよ」
「狭いの?」
「逆。広すぎるんだ」
「広すぎて使い勝手が悪いの?」
「うん」
「……?」
「それにしても買い取るからには百万や二百万じゃないだろう。中嶋くんのご両親って何をやってるんだ?」
「お父さんが医者で、お母さんはエステか何かを経営してたと思う」
「ああ、やっぱりね……。でもお父さん、中嶋さんはいらないって言ってたけど、やっぱり啓太の食費程度はお支払した方がいいんじゃない?」
「そうだな。でもそう言うと受け取らないかもしれないから、家庭教師料か何かの名目をつけた方がいいかもしれないぞ」
 両親の会話を聞いて顔が赤くなりかけた俺は、インターフォンを鳴らすという口実をつけて早めに車から降りた。一緒に住むだけじゃなく生活費もまるまる見てもらうなんて、それってほとんど新婚家庭状態じゃないか。そう思ったらなんだか親に新居を見せる若夫婦って感じがして、いたたまれなくなったのだ。俺は何度か深呼吸をしてからインターフォンを鳴らした。
「あの……、啓太です」
「来たか。ご両親も一緒か?」
「はい」
「わかった。左手にゲスト用の駐車場があるから、そこに車を停めてくれ。俺もすぐ降りていく」
「えっ? そんな、わざわざ降りてきてもらわなくても……」
「運ぶ荷物もあるだろう。つまらん遠慮はするな」
 何か言おうとしたのに、突然インターフォンは切れてしまった。あの人のことだから「降りてくる」と言ったら即刻降りてくるに違いない。俺は慌てて車に戻った。

 言われたとおりの場所に車を停め、トランクを開けて荷物を下ろしていると、中嶋さんが降りてきた。セーターの袖を無造作にまくりあげているのが、憎らしいくらいに似合っていた。カジュアルだけど金のかかった服装だというのは、きっと朋子みたいな子供の眼にも明らかなんだろう。うっとりしたような眼で見ている。まっすぐ俺たちの方に歩み寄ってきた中嶋さんは、俺の両親に頭を下げた。
「ようこそおいで下さいました。このようなところまでわざわざお運び頂いて、申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ。中嶋さんのような方に預かっていただけるなんて、願ってもないことです」
「ほんとうにお世話になります。まだまだ子供なものですから、ご迷惑にならないかと……」
「どうぞご心配なく。それよりこんなところで立ち話もなんですから、部屋の方へどうぞ」
 そういうと中嶋さんはおろしていたダンボールをひとつ持つと、俺に「荷物はこれだけか?」と聞いた。突然だったし身の回りのものだけだったので、箱と紙袋が三つずつだけだったのだ。紙袋を母さんと朋子に持ってもらい、俺たちは中嶋さんのあとについて歩き出した。
「朋子、19階押して」
 エレベーターの中で出た会話は、何故かこれだけだった。俺は取り澄ました顔でインジケーターを見ている中嶋さんを、ちょっと憎らしい思いで見つめていた。
 エレベーターを降りて右に折れる。突き当りの角部屋が中嶋さんの部屋だった。
 玄関を入ると右手が下駄箱。左手がトイレ。朋子の持っていた靴の入った紙袋をここで落とす。開け放たれた正面のドアの向こうに、だだっぴろいリビングが見えていた。リビングだけなら和希のマンションといい勝負だと思う。廊下がないので、どこに行くにもリビングを通らないといけないのが、中嶋さんのマンションの特徴だ。両親と朋子がおのぼりさんよろしく、きょろきょろしながら入っていった。きっと心の中では「広すぎて使い勝手が悪い」の意味を理解していることだろう。
 このマンションは前の持ち主が設計の段階で二軒分買って、それを一軒にしたからただでさえ広い。各部屋が広いんじゃなくてリビングだけが広く、部屋数も少ない。もともとワイドスパンだったのをつなげたものだから、南に向かって26mと東西に長いつくりになっていて、そのほとんどをリビングが占めているというわけだ。リビングの長い方の壁はところどころにドアがついているのだが、壁紙と同じなので遠目にはドアだとわからないだろう。それらは洗面所とバスルーム、リネン室に納戸など。リネン室はバスルームに抜けられるようになっていて、こっちから入ると下着やタオルなんかを持ってそのままお風呂にスルーできるというスグレモノだ。そして一番端のキッチン側から入るように、もうひとつトイレがあって、ついでにいえばこっちに裏口まである。ようするに前の持ち主は、玄関とトイレだけは二軒分そのまま使っている、ということだ。玄関の横にトイレのドアがあるのは、リビングから見えないようにしたからだと思う。
 リビングの南側はルーフ・バルコニーになっているからゆったりとしていて、中嶋さんはここをウッドデッキにしてテーブルとチェアを置く予定だといっていた。夏に裸足で歩くと、きっと気持ちがいいに違いない。
 そのルーフ・バルコニーに向かって、右側の短辺を切り取ったのが中嶋さんの部屋だ。南に窓がひとつと西側にも幅の広いサービスバルコニーがついている。広いけど細長いのでドアがふたつあった。もともとは二部屋になっていたのかもしれない。南側の方にデスクや書架など。奥にあるキングサイズのベッドは足を窓の方に向けて置いてあった。さらにその奥、ちょうど下駄箱の裏にあたるところがウォークインクロゼットになっていて、中嶋さんお気に入りのダークブルーのスーツが吊るされている。
 俺の部屋はリビングを挟んで反対側だった。昨日はドアが閉まっていたのと、リビングやキッチンだけで手一杯だったのとで、俺も見るのは初めてだ。中嶋さんの部屋は短辺全部の細長い部屋だけど、俺の部屋の方は北側をキッチンにとられている分、短くて四角かった。キッチン側は壁全体がクロゼットになっているようだ。ルーフ・バルコニーに出られる窓があって、そこにかかっているカーテンは中嶋さんの部屋のと色違いだった。中嶋さんのは青が基調になっていたけど、俺のは緑だ。こういうさりげない「おそろい」が、妙にうれしかった。
 部屋の中には木製のライティングデスク ―― 使うときにふたを開けるとそれが机になるタイプ ―― と書架に、高さの違うチェストふたつ。そしてベッドが置かれていた。全部統一されたデザインで、一目で輸入物とわかる家具だった。
「適当に入れただけだから、使い勝手のいいように置きなおしてくれ」
 部屋の真ん中にダンボールの箱を下ろしながら中嶋さんがそう言った。
「いえ。このままがいいです」
「そうか? あとセンターテーブルはどうしようかと迷ったんだが、好みを聞いてからにしようと思ってな。そう広いわけじゃないから、椅子を置くよりラグを敷いて座る方がいいかと思うんだが。まあ春休みに入るまでに考えておいてくれ」
「あ、はい」
 何気ない会話だったけど、俺はちょっとどきどきした。昨日の俺は、このマンションの引越し手伝い人にすぎなかった。でも今日は違う。ふたりで相談して部屋のインテリアを考えている。ふたりで暮すっていう実感がじわじわとわいてきた。合鍵をくれるっていっていたし2LDKだっていうのも聞いていたけど、こんなちゃんとした家具の入った自分専用の部屋がもらえるなんて考えてもいなかった。一緒に住まわせてもらうお礼に、寮に戻ったら成瀬さんや俊介に頼んで料理を教えてもらおうと思った。






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