啓太くんのお引越し 後編




 俺と中嶋さんが話している間にも、母さんと朋子は早速、あちこちを開けてのぞいたりしていた。
「趣味のいい家具ですわね」
「中学まで使っていたものなので……。古いもので申し訳ないです」
「とんでもない。いい品物だから、使っている分、味が出てきていい感じになってきてますわ。啓太のほとんど使っていないスチールデスクとは大違い」
「まったくだ。おまえも中嶋さんを見習って、もっともっと使いこむまで勉強するんだぞ」
 中嶋さんを見習って淫乱になっちゃったらどうするんだ? だいたい『何を』使いこむんだよ。そう思いつつ、俺はダンボールのふたを開けた。
「もういいから。父さんたちはあっちに行っててよ。こんなとこに五人もいたら荷物が片付かないって」
「あんたって子は、すぐそれなんだから……」
 呆れたようにいう母さんの声に、世にも珍しい中嶋さんの笑い声が重なった。

 いつまでも聞いていたかったのに、父さんが中嶋さんを促してリビングに連れて行ってしまったので、それ以上の笑い声は聞けなかった。中嶋さんの笑い声って貴重なのに。あの人は「笑う」っていうのは「くちびるの端を吊り上げる」ことだと思っている人なんだから。
 ドアからのぞくと、リビングのソファに腰掛けた両親と中嶋さんが、低い声で何事かを話していた。きっとさっき言っていた俺の生活費のことなんだろう。そう思ったから、俺はリビングに行きかけた朋子の腕を掴んだ。
「なによ」
「父さんたち、大人の話してるんだよ。俺たちは邪魔しちゃいけない」
「だって……」
「いいから。この服、ハンガーにかけてそこのクロゼットに吊るしてけよ」
「お兄ちゃんて横暴。朋子、中嶋さんみたいな人がお兄ちゃんだったらよかったのに」
 ぶつくさ言う朋子をなだめるのに、中嶋さんのことをちょっとずつ話してやりながら、ふたりで荷物を開けていった。古い家具といったって埃ひとつ残っていなかった。だから俺はただ、荷物をいれるだけでよかった。中嶋さんの完璧さを見せつけられる思いだった。
「中嶋さんってさ、完璧主義なんだよ。何に対しても絶対に手を抜いたりしないんだ」
 眼をきらきら輝かせて聞き入る朋子にではなく、俺は自分自身にそう言って聞かせた。それが何であったとしても、俺が手を抜いたりするようなら、中嶋さんは俺を捨ててしまうだろう。これは「もしかしたら」ではなく「絶対」だ。中嶋さんが王様のことをぶつくさ言いながらも認めているのは、王様が誰も見ていないところで手を抜かないのを知っているからだ。中嶋さんや王様の信頼を裏切ることはできない。それはとても大きくて、そして重たかった。

 名ばかりの春の日が暮れかかった頃、中嶋さんが開けっ放しにしていた部屋のドアをノックした。
「残りは明日でいいだろう。休憩だ。コーヒーをセットしたから、出来上がったらもってきてくれるか?」
「はい。……朋子、手伝って」
 中嶋さんの前では朋子もおとなしく、手にしていた本を置いてあとについてきた。そんな朋子に中嶋さんが笑いかけた。
「朋子ちゃんにはジュースを買ってあるから。冷蔵庫を開けて好きなのをどうぞ。でもケーキは食後までおあずけだよ」
「うわあ。有難うございます!!」
「……すみません」
 中嶋さんのこういう心遣いはいったいどこから出てくるんだろう。普段の傲慢ともいえる態度の中嶋さんを知っているから、ものすごい違和感があるんだけど。でも考えてみれば中嶋さんって違和感の塊のような人だ。だって第一印象は「真面目で堅物の副会長」だったんだもんな。それを考えると、なんだかあの頃の自分が可愛くて、俺は朋子に不思議がられながらくすくす笑った。
 振り向くと朋子が冷蔵庫に首をつっこんで、パイナップルにするかオレンジにするか迷っていた。俺もコーヒーフレッシュを出すのに、朋子の後ろから冷蔵庫の中をのぞいた。まだほとんど食料らしい食料が入っていない中で、ジュースだけは6種類も入っていた。
「グレープフルーツにしろよ」
「えーっ? どうしてぇ」
「俺が嫌いだから」
「訳わかんなぁい」
「だから。中嶋さんってジュース飲むような人じゃないんだよ。みりゃ判るだろう? 残ったやつはどうせ俺が消費することになるんだから」
「やっぱりお兄ちゃんは横暴だった」
 憎まれ口を叩きながらも、朋子はグレープフルーツのジュースを出した。それをグラスに移して、コーヒーと一緒にトレイで運ぶ。リビングでは両親と中嶋さんがすっかり和んでいた。
「どう? 少しは片付いたの?」
「うん。大分ね」
「まあ春休みまでに片付ければいいさ」
 そういって中嶋さんは意味ありげに笑った。
「今もご両親と話していたんだが……。土日は別として、長期の休暇中は1日10時間ずつ勉強してもらうことになった。春休みになると片付ける暇はなくなるぞ」
「じゅっ……、10時間、ですかあっ!?」
 驚く俺と朋子を尻目に、中嶋さんだけでなく両親までもが、いかにも満足げに笑っていた。
「午前中に2時間。午後の早い時間に2時間。夜が零時までに3時間。零時以降に3時間。……できないわけじゃないだろう。俺も丹羽もそうしてきたぞ。篠宮や西園寺だって変わらないはずだ」
「それ……、マジ、ですよね?」
「普段でも6時間授業を受けて、4時間くらい勉強してるだろう。同じことだ」
 もう声も出なかった。中嶋さんは本気だ。一緒に暮せると浮かれていた俺が阿呆だった。思いっきりため息をつく俺を、朋子がジュースをすすりながら、哀れみ深い目で見ていた。さすがの朋子も「中嶋さんがお兄ちゃんだったらよかったのに」とは言わなかった。

「じゃあ私たちはそろそろ……」
 10時間の重みでぐったりしてしまった俺と違い、中嶋さんといとも楽しそうに話が弾んでいた両親だったが、コーヒーカップが空になったのを潮時に、そういって腰を上げかけた。
「いえ。夕食を予約してありますから」
「いや。しかし、そんな……」
「でもお時間はよろしいんでしょう? 明日は日曜日ですし。この近くのイタリアンなんですが、子供の頃からよくいっていた店で、なかなかいい魚料理を食わせてくれるんですよ」
「でも……」
「もう予約してしまってますからね。行かなかったらあのオヤジ、へそを曲げてしまって、俺が出入り差し止めになってしまいます」
「そうですか? じゃあ、そうさせていただくか」
 ということで夕食をみんなでとることになった。うーん。家族と食事。ますます新婚さん状態だ。父さんの車の助手席にナビ役の中嶋さん。後部座席に俺と朋子と母さんが乗りこんだ。車の中では朋子一人がはしゃいでいた。
 お店は本当に近かったけれど、知らなければ見過ごしてしまいそうなところだった。重たげな木のドアを開けると、適度な微笑を浮かべたウエイターが立っていた。わざとらしくも押し付けがましくもないその微笑を見て、中嶋さんがここの店を気に入っている理由がわかる気がした。
「お久しぶりでございます」
 シェフらしい人が中嶋さんにカードのようなものを渡した。中嶋さんはそれにさっとサインをすると返しながら言った。
「今度、この近くに越してきたんだ。これからはちょくちょく寄らせてもらうよ」
「それはそれは」
「ああそれから、彼は伊藤啓太。一緒に住むことになったから覚えておいてやってくれ。それとご両親と妹さんだ。こちらはこの店のオーナーシェフの鈴木さんです。小さい頃を知られているので、この人の前では悪いことはできないんです」
 中嶋さんの紹介に微笑を浮かべた鈴木シェフが、なんとも優雅なおじぎをした。母さんと朋子もつられておじぎを返していた。
「伊藤様。ようこそいらっしゃいました。わずかなひとときではございますが、お楽しみいただけますと幸いです」
「中嶋さんのごひいきの店だというので、楽しみです」
「有難うございます。ではお飲み物などは如何致しましょうか?」
「いや。今日は車だし未成年もいるから、ミネラルウォーターをもらうよ」
「かしこまりました」
 そして鈴木シェフは俺たちに嫌いな食材などを聞くと、またあの優雅なおじぎをして戻っていった。食事中もやっぱり、話の中心は両親と中嶋さんだった。俺ってよく考えると、中嶋さんがこんなに長時間話しているのを見たことがないような気がする。でも無理をしているようでもなさそうだし、どっちかっていうと上機嫌の部類に入るんだろうな、これ。それでいて大人の話に流されてしまうところを、朋子を気遣って話題を修正したりするんだ。「へえ? そのとき朋子ちゃんはどうしてたの?」とか「朋子ちゃんの言うとおりだと思うよ」とかさりげなく水を向けるものだから、朋子ばかりか両親までがしっかり中嶋さんの掌中に落ちてしまっていた。子供に気を遣ってもらうと親は敏感に反応するもんな。でもこれで中嶋さんは我が家の一員とでも言うべきポジションを確保したのだった。
 きっと料理はどれも美味しかったんだと思う。だけど和気藹々としている中嶋さんや家族と違って、もうひとつ雰囲気になじめなった ―― なじみたくなかった、だろうか? ―― 俺は、よく味も分からずに皿だけを空にしていた。
 そして最後のデザートを見て、朋子が歓喜の悲鳴をあげた。鈴木シェフが押して現れたワゴンには、ケーキやジェラートが何種類も載っていたのだ。どれがいいか迷う朋子に中嶋さんは、「ケーキは食後までお預けって言ってただろう? 好きなのを全部言うといいよ。少しずつ切ってくれるから」とアドバイスしていた。母さんまでが同じようにしたのには驚いたけどね。
 デザートはジェラートを少しだけにした父さんが席を立った。トイレだと思っていたらなかなか帰ってこない。俺もトイレにいきがてら様子を見ると、鈴木シェフと困ったような顔をして話している父さんが立っていた。
「どうかした?」
「いや。食事代を払おうとしたら、中嶋くんからもらっているから受け取れないって言うんだ」
 そういえば店に入ったとき、渡されたカードにサインしてたっけ。あれがきっとそうなんだろう。
「中嶋さんってそんな人なんだよ。今日はご馳走になっといて、今度返したら?」
「うーん」
「私どもも伊藤様から頂戴するわけにはまいりませんので……」
 あまり押し問答しているのも大人気ないと思ったみたいで、父さんもそれ以上言うのをやめにした。「今日の食事の分は身体で返せ」なんて言う中嶋さんの声が頭の中でこだました。

「今日はどうも有難うございました」
「これからもどうかよろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそ。何かとお世話になることもあるかと思いますが、よろしくお願いします」
 等々。挨拶をしてから両親は車に乗った。ここからだとまっすぐ出ただけで国道に出られると中嶋さんが言ったからだ。マンションまでは歩いても十五分くらい。腹ごなしにはちょうどいい距離だ。
 そう思ったにもかかわらず、ここで俺は本日最大の馬鹿をやらかした。朋子が乗ったあとから俺も乗ろうしてしまったのだ。
「お兄ちゃん……?」
 不思議そうにこっちを見る朋子の顔をみて気がついた。そうだ。俺って今日から中嶋さんと一緒に住むんだった。俺の腕を掴んだ人を振り返ると、微妙な感情を苦笑というコートにくるんだ中嶋さんがそこにいた。慌ててうしろに下がった俺の代わりに、中嶋さんが車のドアを閉めた。
 リアウインドウから朋子が手を振っていた。中嶋さんもそれに応えて手を上げる。朋子の姿もテールランプも見えなくなって、ようやく中嶋さんは手を下ろした。みんな行ってしまった。そう思うとなんだか胸にぽっかりと穴でも開いたような気がして、俺はその場を動けなかった。
「おまえ……。ひどい顔をしてるな」
「俺がですか?」
「そうだな……。結婚式のあと気がついたら新郎とふたりだけで取り残されているのに気がついた花嫁、ってところか」
「えっ、えっ!?」
 たとえはとんでもなかったけど、なんだか図星をさされた気がして、俺は思わず顔をこすっていた。俺を見る中嶋さんの顔は、くちびるの端こそつりあがっていたが、眼がとても真剣だった。ついさっきの、あの苦笑をもらしたときの表情だった。
「一緒に帰りたかったのか?」
「いえっ。ついいつもの癖が出ただけです!!」
「そうか? ならいいが……」
 自分のしでかしてしまったことへの後悔に、胸がきゅんとなりかけたときだった。中嶋さんがさりげなくことばをつづけた。
「おまえ俺の言うことを信じてなかったろう」
「そんなことないですけど?」
「ふうん?」
 中嶋さんの片眉がはねあがった。たった今やさしくしてくれたと思ったのに。くちびるが皮肉な形を作っていた。
「それにしては昨日、不満そうに帰っていったじゃないか」
「だって、あれはその……。えっと……」
 しどろもどろになる俺を見ていた中嶋さんは、ふっと笑いを漏らして俺の肩を抱いた。
「まあいい。帰ろう」
「はいっ」
「帰ったらお仕置きだ。俺を信じてなかった罰だ」
「ええ〜っ」
 どんなことをされるのか不安だったけど、中嶋さんの腕が暖かくて、もうそんなことどうでもよくなってしまった。マンションまでの道だけだったけど、天下の公道を中嶋さんが俺の肩を抱いて歩いてくれたんだから。もう今日はどんなに恥ずかしいことをされてもいいと思った。
マンションに戻るなり中嶋さんは俺の手を引いて部屋に入った。いよいよかと覚悟を決めた俺だったが、予想に反して(!?)、中嶋さんは俺をパソコンの前に座らせた。目の前にははがきが積まれていた。
「さて。裏面は作ったんだが、住所録の入力が全部終わってないんだ。それをまずやってから裏表全部印刷してもらおうか。お仕置きだから手伝ってやらんぞ。ああそれから。わかってると思うが、終わるまでベッドには入ってくるな」
 新手の「お仕置き」には面食らったけど、中嶋さんが作ってくれていた裏面を見たとたん、俄然やる気が出てきた。おかげで夜中過ぎにはなんとかやり遂げることができた。思ったよりは遅くなってしまったかもしれない。でも中嶋さんは、ちゃんと起きて待っていてくれたんだ。
 俺がベッドルームに入っていったのを見ると、中嶋さんは読んでいたペーパーバックをサイドテーブルに置いた。俺は部屋の電気を消して、中嶋さんの傍にもぐりこんだ。
こうして俺と中嶋さんは、新しい一歩を踏み出したのだった。



 桜の便りが聞かれる頃になりました。
 皆様方には如何お過ごしでしょうか。
 さて。このたび下記の住所に引っ越しました。
 何のおもてなしもできませんが、お近くへおいでの
 節はぜひお立ち寄り下さい。
                        三月吉日
                 中嶋英明・伊藤啓太




いずみんより一言

「新婚さんシリーズ・新居紹介編」です。ヌルい話で申し訳ない(汗)
でもこれを書いておかないと「新婚さんシリーズ」に入っていけなかったのです。
まあそういうことで、おひとつよろしく。
マンションを設計の段階で2軒分買うっていうのは、伊住のお茶の大先生がやっていることだったりします。
こうしてできたお稽古用茶室は12畳。水屋スペース入れると30畳弱というところでしょうか。
ヒデのところはワイドスパンなので、この倍に近いんじゃないかと密かに思っております。

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