一夜の夢(ひとよのゆめ) 前編 |
今日から三日間、七条さんが留守になる。隣の市にある大学で、情報工学の集中講義を受けるためだ。それは久我沼一派の不正調査に協力した会計部への、和希の感謝の気持ちだった。 「お金や品物あげて喜ぶような人達じゃないだろ?」 和希は簡単そうにいったけれど、いくらBL学園の生徒でも、それも高校2年生が、大学の授業を受けられるようにするには、裏での根回しやら手続きやらが大変だったはずだ。ところが七条さんは、もうひとつ喜んだふうでもなかった。受講するほどの内容かどうかわからない、というのが言い分だった。 「今までも独学みたいなものでしたからね。確かに理論の裏打ちができればそれに越したことはないのでしょうが……」 「まあいってみないと無駄だったかどうか分らないじゃないか。参加しなかったものには是非を論じる権利などないからな」 この西園寺さんの一言で、和希の気遣いも無駄にはならなかった。ということで俺は今、七条さんのピンチヒッターで会計室にきている。 「僕の代わりといっても特別なことは何もないですよ。郁がいったことだけしていればいいんです。お茶といわれたらお茶を、コピーといわれたらコピーをとってください」 電話番とお茶くみだけっていうことだったし、何より七条さんに頼まれたものだから二つ返事で引き受けたものの、俺は一時間もしないうちに、どっぷりと後悔の念に浸っていた。 することが何にもない……!! できることが何もない、といった方が正しいかもしれない。確かに電話はかかってきたけど、一本だけで、それも「七条さんはあさってまで留守です」といったとたん、切られてしまった。じゃあ西園寺さんを、っていわないところがBL学園の生徒だな、なんてちょっと感心してみたりしたけど。その他にこの一時間に俺のしたことといえば、コピーを三枚とっただけ。合計で数分にもならないだろう。暇があるから掃除でもしようかと思ったら、掃除が好きだっていう七条さんの手で、どこもかしこもぴかぴかに磨きあげられていて、埃ひとつ残っていない。下手にさわるとかえって汚れそうな気がして、掃除をしようという思いつきはすぐさま断念してしまった。 かといって西園寺さんがすぐそこで仕事をしているのに、俺が本を読んだり宿題をしたりするわけにもいかない。当然、話しかけるなんてことはできやしない。こうして俺は、残りの五十数分間というもの、ものすごい緊張感の中でひたすらじっと電話をにらみつづけていたのだった。 「啓太。弓道場に電話をして、篠宮に来てもらってくれ」 西園寺さんにこういわれたのは、会計室に来てから二時間近くたった頃のことだった。俺はばね仕掛けの人形のごとく、電話に手をのばしていた。 「奉納試合の費用の用意ができた、といえばわかる」 「はいっ」 「それからお茶の用意もしておいてくれ。三人分だ」 「はい、電話してお茶、ですね。わかりました!!」 地獄のような「待ち」から開放されたうえに、篠宮さんも加えてのお茶の時間! これ以上楽しい状況なんてあるだろうか? 俺は早速篠宮さんに電話をし、いそいそとお湯を沸かしてお茶の準備をした。ポットからアップルティーのほのかな香りがたち始めた頃、几帳面なノックの音とともに篠宮さんが現れた。俺にはその姿が、救世主のように見えた。あとになって、この状況すべてが西園寺さんの策略だったことを知らされることになる。 「ところで奉納試合は23日だったか?」 篠宮さんにお茶を勧めながら、西園寺さんがいった。 「ああそうだ。22日に出発して、翌日が奉納試合になる」 「実はわたしも22日から家に帰ることになった」 「ええっ!? 西園寺さん、家に帰るんですかぁっ?」 「ああ、23日に炉開きがあるんだ」 篠宮さんが驚いたように顔をあげた。 「23日に炉開き? ずいぶん遅いじゃないか」 「面倒だからMVP戦を口実に帰らなかったんだ。口切は招待状を出した後だったから、わたし抜きでもするといっていたし。だからもう今年は帰らなくてもいいはずだったのに、うるさい叔母がいて……」 「しかたがないな。茶人の端くれなら、炉開きは避けて通れない」 「どうやらそのようだ」 珍しいことに子供っぽくくちびるを尖らせた西園寺さんに、篠宮さんがふわっとした笑いをもらした。さっきからうずうずしていた俺は、ここで我慢ができずに口を挟んだ。ふたりの会話が、まるで宇宙語を聞いてるんじゃないか、ってくらいチンプンカンプンだったのだ。 「あのう……。さっきから話題になってる『ロビラキ』って何なんですか?」 そう。まさにこの瞬間。俺は西園寺さんの掌中に落ちたことになる。もちろんこのときの俺に、そんなことは知る由もなかったのだけれど。 「うむ。炉開きというのはな、11月の亥の日に行われる、茶道の行事のことだ。茶道の世界ではこの日から冬に入る。道具も何もすべて入れ替えてしまうんだから、徹底してるぞ。いってみれば一年の始まりみたいなもので、茶人の正月ともいわれている、とても大事な行事だ。だから西園寺の叔母上は、日にちが少々遅くなっても、西園寺のための炉開きをしようとなさっておられるのだろう」 「ふん。有難迷惑なだけだ」 「ついでにいえば口切は茶を詰めた壺の封印を切ることをいう。五月の新茶の季節に壺に封じ込められた何種類かの茶葉が何ヶ月も寝かされ、最高の状態となったところで取り出されるんだ。たいていは炉開きに招いた客の前で封印を切り、どの茶を飲みたいか尋ねて、それを奥で粉に挽く。客は茶室にかすかに届く石臼の音を聞きながら、今年初めての茶へ想いを馳せる。西園寺はさっき、それを家の人が済ませたといっていたわけだ」 「へえ〜」 篠宮さんの説明に、俺は何か別の世界のことを聞いたような気がした。そう、俺の頭の中では、王朝絵巻と宮中晩餐会と歌会始とがシャッフルされたような図柄が、何の根拠もなく思い浮かんでいたのだった。 「なんかすごいですねえ。優雅っていうのかな、これぞ日本!! って感じですよね」 「そうか? それほどのものでもないが……」 いいかけて、まるでたった今思いついたかのように、西園寺さんがつづけた。 「啓太。お前、22日からの三連休に、何か予定があるか?」 「え? 俺、ですか? ……何もない、いつもと一緒ですけど……?」 「そうか。じゃあうちに来い。炉開きに招待しよう」 「ええっ!? そ、そんなの無理。無理ですよっ!! だって俺、作法も何も知らないし」 俺は大慌てで両手を振った。 「お前が来てくれるなら臣もくるだろうから、よその客は呼ばないでおく。亭主は私が務めよう。だから気を遣わなくてもいい。それに口切がすんでいるから、懐石を食べて茶を二種類飲めば終わりだ」 「えーっ。だけど……」 俺は助けを求めるように篠宮さんの方を見た。篠宮さんはいつもの真面目そうな表情で頷いていた。 「西園寺がああいってくれてるんだ。せっかくだから出席させてもらえばどうだ。これから先、社会に出たときに、どんな場所に出なくてはいけなくなるかわからない。こういう機会に体験しておくのは、とてもいいことだと思う」 「はあ……」 「それに炉開きはいいぞ。何もかもが清々しく、心の引き締まる思いがする」 「……」 そうだ。このせりふを引き出すためだけに、今日のお茶に篠宮さんが呼ばれたのだ。西園寺さんの人選は、まさにうってつけだったといえる。そしてそのあとのことは、あれよあれよという間に決まってしまっていた。 「よし。これで決まった。啓太出席ということで、後日、案内状を出す」 「ええっ。決まっちゃったんですかあっ!?」 「……それとも啓太は、私の招待が受けられないとでもいうのか」 西園寺さんに睨まれて、いったい誰が断れるだろう? 俺には、よろしくお願いしますというよりほかに、道は残されていなかった。 その日の夕食は少し遅くなった。西園寺さんの招待のことを和希に相談したくて、理事会が終わるのを待っていたら、遅くなってしまったのだった。 「和希ぃ。ちょっと相談があるんだけど」 「あと、あと。メシ食ったらいくらでも聞くよ。俺今日、昼も食えなかったんだ」 そういえば昼には商工会議所に行くとかいってたっけ。ということで、ものすごい勢いで夕食をたいらげていく和希を見ながら、進まない箸を動かしていると、七条さんが飛びこんでくるのが見えた。あ、帰ってきてたんだ、と思ったとたんに眼があって、七条さんはまっすぐ俺たちの方に来た。 「七条さん。大学の講義はどうでした?」 「ええまあ、大学の講義とはああいうものだろうな、というようなものでしたよ」 和希の質問に、どこか心ここにあらずといった感じで応えた七条さんは、そんなことより、といいおいて、半分にらみつけるように俺を見た。 「伊藤くん。郁からお茶事の招待を受けたんですか?」 「そう、そうなんですよ!! 俺、どうしたらいいのか……」 「おいっ!!」 「伊藤くん!!」 和希と七条さんの声が重なった。ふたりともマジに真剣な顔でこっちを見ていた。 「啓太。さっきいってた相談って、もしかしてこれのことか?」 俺はブンブンと首を振った。 「断われなかったんだよう」 「おちつけ啓太。まず聞くが、お前が何も知らないってことは、向こうもわかってるんだよな?」 「俺、ちゃんといったよ。作法も何も知らないから絶対無理です、って」 「で、西園寺さんはなんといった」 「えーっと。食事してお茶二杯飲むだけだから、って」 「確かに嘘ではありません。突き詰めていえばそれだけです」 それから七条さんはため息をひとつついて、こうつけ加えた。 「郁にはめられましたね」 はめられた? 俺が西園寺さんに? 何故と思う反面、ああ、やっぱりとも思う。 「郁はああいう容姿ですから、やたら御婦人や殿方に人気があるわけです。家の茶事で郁がはんとう半東、ああこれは取次役みたいなものなんですけど、これに出ると、偶然のふりをして手を握られたり、それでなくてもうなじへの視線が痛いくらいなんだそうです」 「あ、それはなんかわかる気が……」 「それやこれやが鬱陶しくてMVP戦を口実に帰らなかったのに、うるさ型の多佳子叔母さまに呼び戻されてしまった。では気に入らない客を呼ばずにすむ方法は?」 「それで、俺?」 「郁にすれば篠宮さんあたりを呼びたかったんだと思います。なにしろ客の品定めが趣味のような多佳子叔母さまが、手薬煉をひいて待ち構えているわけですから。ところが――」 「あっ、奉納試合だ!!」 「そう。頼みの綱ともいえた篠宮さんは絶対に無理。多少なりとも心得のある人間なら、11月に西園寺家に招待と聞いただけで、適当な口実をつけて断ってしまう。それならいっそ、何もわからない人間をうまく丸めこんで……と思っていた矢先に、僕が留守にして伊藤くんが眼の前にいた、と」 「で、でも。西園寺さんは俺と七条さんしか呼ばないから、気楽にしろっていってたけど」 七条さんのことばに落ちこみかけた俺は、なんとか気分を浮上させたくてそんなことをいってみたけど、七条さんに軽く一蹴されてしまった。 「いったでしょう。客の品定めが趣味の叔母さまだ、って。『茶人の無作法』を体現したような方ですからね。きっと今から、伊藤くんがくるのを待ちわびていることでしょう」 「じゃああの、ソッコーで食事してお茶飲んで帰る、ってので……」 「……啓太、希望を打ち砕くようで悪いが、正午茶事ってのは3時間はかかるんだよ」 「ええっ!? 3時間?」 「それも正座して、だ。特に最初の2時間はトイレにも立てないぞ」 「……うそ……」 「そうですね。3時間っていうのは、出席者全員がかなり慣れていた場合の時間です。慣れていない人がひとりでもいると、当然時間はのびますね」 「……だから無理です、っていったのに……」 状況が、自分が考えていたより数倍深刻だったことを知った俺は、もう呆然とするしかなかった。そんな俺を無視して、和希と七条さんはなにやら相談を始めていた。 「その叔母さん、かなりヤバイですか?」 「ヤバイも何も。会わずにすむなら、絶対会いたくないタイプです」 「はぁ……しかたがないですね。じゃあ西園寺さんに、俺もいくって伝えてもらえますか」 「それはかまいませんけど。遠藤くん、スケジュールはいいんですか?」 「何とかしますよ。そんな叔母さんの前で、七条さんひとりじゃ無理です。ふたりで啓太を挟むしかない。それに」 といって和希は俺の方をちらっと見た。 「この時季に七条さんを大学に送りこんでしまった俺に、一番の責任がありそうだし」 「和希ぃ」 目をうるうるさせた俺は、思わず和希の手を握った。 「気にするな。西園寺さんに目をつけられたんなら、何をしたって断れやしないさ。こうなりゃ西園寺家特製の懐石料理でも堪能してこようぜ」 翌朝。俺は和希から二種類のマニュアルを受け取った。一つは和希の作ったもので、茶事の流れと、俺が覚えなければならない挨拶が書いてあった。もう一つは七条さんの作った西園寺家の茶室の見取り図で、俺がそこでどう動けばいいのか、矢印が書きこまれていた。あのあとふたりで、相談しながら作ってくれたものだった。さらにその次の日には、話を聞きつけて責任の一端を感じたらしい(?)篠宮さんから、懐石料理の作法のコピーが届けられた。 合計で二十枚近く。こんなの覚えられないと泣き言をいう俺に、和希の檄が飛んだ。 「こら。お前、元演劇部なんだろ。シナリオ覚えるつもりで、頭ん中叩きこめ!!」 そしてついに当日がやってきた。土曜から現地入りして、駅前のホテルで泊まっていた俺と和希は、タクシーで西園寺さんの家に向かった。門の前ではすでに七条さんが待っていた。 「おはようございます、七条さん。ちょっと遅れちゃいましたか」 「おはようございます。伊藤くん。遠藤くん。さっき郁が水を撒いていきましたから」 「いけない。急がなきゃ」 「だから僕の家にお泊まりなさいっていったんですよ」 「そんなことしたら、啓太は今日一日、座ってられないでしょう!?」 和希の説明によると、門の前に水が撒いてあったら、もう中に入っていいというサインだそうだ。あとは隙間の開いた襖を開けて通っていくと、案内してもらわなくても茶室にたどり着けるようになっているらしい。将来の鈴菱グループの総帥ともなると、結構こういう招待も多いらしく、和希はずいぶん場慣れしていた。七条さんは七条さんで、西園寺さんと一緒に稽古をしていたことがあるらしく、こっちも余裕綽々って感じだ。ところが俺ときたら、この期に及んでまだ挨拶のカンペを読み返していて、自分が軽口の俎上にのせられているのがわかっていても、反論する余裕さえない。 和希や七条さんにいわれた通りに身支度をし、ふたりに挟まれて移動する。 寄付、待合と通ってようやく茶室に座ったとき、俺の緊張はピークに達していた。向こう側の襖が開いて、和服の女の人が見えた。まずは全員で一礼。あれが西園寺さんの叔母さんか。そう思った俺の隣で和希が、よく通る声で「どうぞ、お入りを」といった。これから4時間に及ぶ、不思議の世界の幕開けだった。 |