一夜の夢(ひとよのゆめ) 後編




 何がなんだかわからないうちに終わってしまった茶会のあと、俺と和希は七条さんの案内で西園寺さんの部屋だという離れにいった。七条さんは、今は畳を見たくないでしょうといって、2階の私室の方に上げてくれた。そこは寮の部屋をさらに広く、豪華にしたものだったが、何よりソファに腰かけられるのがうれしかった。そこで思いっきり脱力していると、着物姿の西園寺さんが帰ってきた。
「疲れたろう、啓太」
「え? あはははは……。お茶が優雅だっていう意見は撤回します」
「しかし思ったよりずいぶん早く済んだぞ。初めてでこれならたいしたものだ」
「あ、それは七条さんと和希の作ってくれたマニュアルがよかったからです」
「いえ。伊藤くんはよく覚えていましたよ」
「俺も驚いたよ。元演劇部の面目躍如ってとこかな」
 みんなにそういってもらって、俺もようやく人心地をつくことができた気がした。実のところ、豪華だったはずの懐石料理さえ、何を食べたか記憶にないくらいだったのだ。でも、どうやらそんなことはお見通しだったらしく、西園寺さんは夕食にかに料理を予約してあるから、あとでみんなで出かけよう、といった。俺と和希は一応断わったのだが、無理をいった詫びだと、西園寺さんに押し切られてしまった。それどころか、今夜は母屋に泊めてもらうことにまでなってしまったのだった。
 でも泊めてもらってよかったと思う。西園寺家の母屋のお風呂は檜造りで、とても香りがいい上に広々としていたのだ。ホテルの小さいユニットバスでは、今日の疲れはとれなかったかもしれない。俺と和希は、思う存分、たっぷりとした贅沢な湯を楽しんだ。
 部屋に戻ると、一足先に帰っていた和希が、布団の中で腹ばいになってテレビのニュースを見ていた。暖房は入っていてもやっぱり日本家屋は少し寒かった。もしかしたら部屋が広すぎるのかもしれない。風邪をひかないように俺も布団にもぐりこむ。敷いてもらっていた布団は信じられないくらいふかふかだった。和希のまねをして腹ばいになり、オリンピックに挑戦するアスリートの特集を見ようとしたら、和希が悪戯っぽい表情をこっちに向けていった。
「お前、ホントは今、七条さんの部屋に泊まりたかった、って思ってるんだろう」
「んな体力どこにあるんだよ。もうくたくたで、今にも寝てしまいそうなのに」
「ふーん。啓太は七条さんの部屋に泊まったら、体力がいるんだ」
「こいつぅ!!」
 思わず笑いながら枕を投げると、同じように和希も投げ返してきた。二度三度と枕がふたりの間を行き交う。そのうちだんだんおかしくなってきて、ふたりとも大笑いをしてしまい、修学旅行以来の枕投げは終わった。
「いいじゃないか、別に」
 和希がまだ少し笑いを残しながら、それでいてどこか真剣なまなざしでいった。
「うまくいってるんだろ? 七条さんと」
「え、えっと。まあ……」
「見てればわかるよ。七条さんが啓太を見る眼って、とても優しいから」
「うん。すごく大事にしてもらってる」
「馬鹿野郎。真顔でいうな」
 和希が寝返りをうって仰向けになった。
「ああ、俺、悪いことしちゃったかなあ。俺が来てなきゃ、ここで寝るのは七条さんだったのに」
「そんなことないよ」
 俺はこの数日間、和希にいわなきゃと思いながら、いえなかったことを口にした。
「和希にはホント感謝してる。何ともなかったって顔してるけど、スケジュールあけるの大変だったんだろ? マニュアルだって作ってもらったし。今日もずっと、目立たないように助けてくれた。和希がいてくれなかったら、どうなってたかわからないよ。ホントに有難う」
「気にするなって。お前は疲れただけかもしれないけど、俺にはちょうどいい骨休めだったんだから。最高級の懐石に美味い蟹。檜の風呂にこの布団だろ。温泉いってもここまでの旅館はそうないぜ」
「あ。それはいえてるかも」
「な!? だから今日はもう寝ようぜ。西園寺家で寝坊なんて、怖くてできないぞ」
「うん。おやすみ、和希」

 どれくらい眠った頃だろう。顔に冷たいものがあてられ、思わず飛び起きた。眼を開けた俺のすぐ前に、夜目にも白く見える七条さんの姿があった。冷たかったのは俺の口をふさいでいる七条さんの手で、もう一方の手の指を立ててくちびるにあてていた。喋るなということだろう。俺は頷いてみせると、七条さんに促されて布団を抜け出した。和希はどうやら気づいていないみたいで、規則正しい寝息を立てていた。七条さんが音を立てないように襖を閉め、和希の姿を隠した。
 隣の部屋にいくと、七条さんが着ていたダウンのベンチコートで俺を包んでくれた。外人向けのXLだったらしいコートは、一番上の釦さえしなければ、ふたりでもなんとか着ていられた。
『どうしたんですか。こんな時間に』
 目の覚めるようなキスのあとで、七条さんの耳元に囁きかけた。というよりこんな状態では抱き合っているしかできなかった訳だけど。
『日本は素晴らしい国ですね。こんなときにもちゃんと適切なことばがある』
 何をいってるのかよくわからなくて黙っていると、七条さんはかすかに笑った。
『夜這いですよ。僕は伊藤くんのところに、夜這いをしに来たんです』
 嘘。ということばは、七条さんのくちびるに消されてしまった。くちびるは俺のくちびるから離れたあとも、耳の下のくぼみや顎の下に入りこんでいく。七条さんの吐息がかすかにかかった。
今日はどんなふうにするのかな。と思ったら、とたんにドキドキしてきはじめた。そして突然、今更のように、するっていうことと七条さんのいった夜這いということばとが、結びついたのだった。
キスに浮かされて忘れかけてたけど、襖の向こうには和希が寝ている。間取りがよくわからないけど、西園寺さんの家族や住みこみの使用人の人も、同じこの家のどこかにいる。俺が七条さんと抱き合っているこの部屋を仕切っているのは、壁さえなく四方向同じ柄の襖だけだ。紙でできていて音は筒抜け、鍵なんて当然かからない。いつ誰が不意に開けるかわからない、不安定な空間。でもそんなことは、ついてしまった火を煽りたてこそすれ、消したりはしなかった。だって俺たちは共犯なんだから。いつもより以上に、そんなことを思った。
七条さんがベンチコートの袖から手を抜いて、俺のパジャマに手をかけた。まだ冷たさの残った指が、俺の肌に触れる。お互いの顔しか見えないせいか、こんなに身体が密着していて、七条さんのわずかな筋肉の動きさえ感じ取れるのに、いつもみたいに怖くも恥ずかしくない。だから俺も、七条さんの服を脱がせてあげた。足元にふたりの脱いだ服が重なり合って落ちていった。
 もう脱ぐものがなくなったとき、七条さんの手がまた袖を通り、ポケットから何かを掴んで出てきた。ウインクをしながら俺の眼の前にかざされたもの。それは例の成瀬さんからのお土産だった。パッケージの図柄は使った(?)けど、中身はそのまま七条さんが持っていたのだ。
『西園寺の座敷を汚すわけにはいきませんからね。今日は伊藤くんにもつけてあげますよ』
 そう囁かれ、俺は耳まで真っ赤になった。手早く自分のにつけた七条さんの長い指が、今度は俺にからめられる。ただでさえさっきのディープなキスで硬くなりかけていたのに、七条さんの指の動きでさらに追い上げられることになった。
 今日はこんなところでいっちゃいけない。いっていいなら、七条さんは必ずそういってくれる。
その想いだけが俺を踏みとどまらせた。俺は七条さんの肩を抱くと、厚い胸に上体を預け、今日のお茶事を最初からトレースすることで、なんとか気を紛らわせつづけた。
突然。七条さんの手が奥の窄まりに割って入った。思わず声を出しそうになったのを、すんでのところで押しとどめる。見えないからよくわからないけど、片手にチューブみたいなものを持っているようで、それを俺の内側に塗りつけようとしていた。
『声が出そうだったら、襟のところを噛んでもいいですよ』
『こ……れ、何なんですか……?』
『潤滑油のようなものですよ。今日は充分に慣らしてあげられないから。これで我慢してください』
 深く浅く、七条さんの長い指が、縦横無尽に俺の中を抉っていく。潤滑剤をつけるたびに指が出たり入ったりして、俺はその都度、コートの襟を噛んで声を殺さなければならなかった。まだまだ慣れたとはいえないものの、何も知らなかった頃と比べて、俺のそこは着実に快感を吸い上げ始めている。七条さんの首にしがみついて何とか足を踏ん張ってきたが、指が二本になったとき、ついに限界がきた。膝から崩れたみたいに、その場に沈みこんでしまう。七条さんもあえて抱きとめようとはしなかったみたいで、一緒になって脱いだ服の上に座りこんだ。コートからはみ出した足が、妙に寒かった。
 七条さんの腿の上に跨るようにして座ると、ラテックスに包まれたお互いの部分が否応なく触れ合った。それなのに七条さんはまだ俺の中を探りつづけているものだから、抱き寄せられているみたいなもので、余計にそこが密着してしまう。見えなくても、七条さんがどんなに大きくなっているのかがよくわかった。
これが俺の中に――。そう思ったら身体がこわばってしまったらしい。七条さんは俺の顎を掴んで仰向かせると、優しいキスをひとつしてくれた。
『怖がらないで。今日は僕のにも潤滑剤を塗っておきますから』
 あやすようにいわれると、かえって恥ずかしくなってしまう。だから俺は、思い切って七条さんの手を探り当てた。七条さんも俺の考えていることがわかったみたいで、黙ってそれを手渡してくれる。俺はチューブの中身を少しずつ搾り出しては、七条さんに塗りつけていった。それでなくても大きな七条さんが、俺の手の中でさらに大きくなった気がした。
 何度かそれを繰り返したとき、七条さんが俺の手を止めた。もう充分ということだろう。俺は七条さんにチューブを返すと、首に抱きついた。二人で一枚のコートにくるまっている。そんな状態でできることが限られていることくらい、俺にだってわかっていた。これは前にやったときうまくできなくて、それから一度もやったことがなかったけど、なんとなく今日ならできるような気がした。
 七条さんが俺の足の位置や腰の位置を、細かく調整していってくれる。俺は黙ってそれに従いながら、バクバクいっている心臓をなだめようと必死になっていた。やがて七条さんがあてられた。
『いいですよ。腰を落としてください。……そう、ゆっくりでいいですから』
 わかっていても、足が震えるのはどうしようもなかった。それでも七条さんが腰を抱えて、落とすようにしていってくれたので、なんとか俺は七条さんを受け入れることができた。七条さんのヘアが触れて、最後まで入ったんだってわかったとき、漏れ出したのは痛みよりも、今度こそうまくできた安堵のため息だった。

 風邪をひくからといって俺を無理やり布団に押しこんだあと、七条さんは来たときと同じように、気配もさせずに帰っていった。七条さんは「勝手知ったる郁の家ですから」といって笑っていたけど、いったいどうやって出入したのか、俺には見当もつかなかった。夜這いっていうからには雨戸とガラス戸とを外して入ったんだろうけど。でも先の尖った黒い翼で飛んで入ってきた、って考える方が七条さんぽくて楽しい気がする。そんなことをいくらも考えないうちに、俺は深い眠りに引きこまれていた。
 翌朝。目が覚めるなり襖を開けて、隣の部屋に入ってみた。後始末はちゃんとしたつもりだったけど、電気をつけるわけにいかなかったので、何か痕跡を残していないか心配だったのだ。でもさすがは七条さんというか、何もそれらしいものは残っていなかった。まずはほっと息をつく。そうすると不思議なもので、昨夜のあれは現実の出来事だったんだろうかと思えてきてしまった。腰の奥に鈍い痛みが残っていなかったら、昨夜の逢瀬は夢だったと思っていたかもしれなかった。
 
 夢ではなかった証拠が、学園に戻って数日してから出てきた。
 その日、会計室を訪れた俺を出迎えてくれたのは、七条さんひとりだった。
「やあいらっしゃい。先日は本当にお疲れ様でした」
「こちらこそ有難うございました。あれ? 今日は西園寺さんは?」
「郁なら親しくしているロシアのピアニストがこちらにきているので、食事に出かけましたよ」
「あ? そうなんですか」
 じつは西園寺さんから、渡すものがあるので都合のいいときに会計室に来い、といわれていたんだけど。自分でいっておいて留守にするなんて、西園寺さんにしては珍しい気がした。
「ああ。それならこれです。ちゃんと預かっていますよ」
 そういって七条さんから手渡されたものは、片手に乗るほどの小さな包みと封筒だった。
「なんでしょう。これ」
「さあ。僕も何も聞いていません。開けてみたらどうですか」
「えーっ。いいんですかぁ?」
「だってそれはもう、伊藤くんのものですから」
 それはそうだと思い返し、まずは包みの方から開けた。中から出てきたのは男性用オードトワレの箱だった。それを見て俺は驚いてしまった。
「あれ!? これって……」
「どうかしましたか?」
 七条さんが俺の手からその箱をとった。
「これは僕が使っているトワレと同じものですが……」
「あっ。そうだったんですか!? 実は昨日……」
 そう。実は昨日、和希からまったく同じ物をもらっていたのだ。和希の方がもう少し小さい箱だったけど。でもそのときは、これが七条さんのトワレと同じものだなんて、思っても見なかったのだ。
「ふうん。遠藤くんからは何も説明はなしですか?」
「はい。ただ、ちょっと怒ったみたいな顔してたのが、気にはなっていたんですけど」
 あわてて封筒の方も開けてみる。二つ折りのカードの中にはただ一言。こんなことが書いてあった。

          こんな気を遣ってやるのは、これが最初で最後だ。
                                      K.S

「何なんですかぁ、これ!?」
 まったく西園寺さんも和希も何を怒っているんだろう。それに怒るくらいなら、ちゃんといってくれたらいいのに。こんななぞなぞみたいなことを書かれても、わからないよ。手紙を見せると七条さんもしばらく何かを考えているようだった。
「遠藤くんも怒っていたのですね」
「俺にはそんなふうに見えましたけど」
「……ふうん」
 七条さんはカードをたたんで俺に返すと、その手で俺の両の二の腕を掴み、すっと胸元に顔を寄せてきた。首にキスでもされるのかな……。ちょっとドキドキしたけど、ほんのわずかな時間で七条さんは離れてしまった。
「伊藤くんは何も香料を使ってないんですね」
「俺そんなの似合わないんで……。使ってるといえばアフターシェーブローションくらいかな……」
「……ではどうやら、僕が原因のようです」
 七条さんがひとつ、ため息をついた。
「この間、郁の家に行った夜。あとでお風呂にもシャワーにも行かなかったでしょう」
 あれは行かなかったんじゃなくて行けなかったんだけど。と思いつつ頷いた。
「それもコートの中でべったりでしたからね。僕の匂いが伊藤くんに移ってしまったんだと思います」
「え゛!?」
「俗にいう移り香というやつですね」
 っていうことは、っていうことは。もしかして……。考えたくないけど……!!
「あの夜の出来事は、ふたりにはバレバレだった、ということです。なるほど。普段から伊藤くんが僕とおなじトワレを使っておけば、これから同じようなことがあっても、誰にも気づかれずにすむ……」
 七条さんのことばを、俺は最後まで聞くことができなかった。頭を抱えて、思わずその場に座りこむ。頭の中では西園寺さんと和希の顔が、いつまでもいつまでも、ぐるぐる回りつづけていた……。




いずみんから一言
ほんのちょっと臣に夜這いをさせたかっただけなのに……。
夜這い=日本家屋にこだわったら、西園寺さんまで巻きこんで、えらいことになってしまいました。
その割にはいちゃいちゃしてただけだったなあ、と。
ちょっと反省(笑)。


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