Sweet,Sweet, Honey Moon |
〜 1・ お兄ちゃんの密かな思惑 〜 |
沖に浮かぶ緑の島へ向って伸びる優美なアーチ。晴れた日には煌めく波頭のなかに凛としてたたずみ、悪天候の時には守り神であるかのように、大地へと両の腕をさしのべる。 学園島にかかる橋は、関係者のみならず対岸の街にとってもなくてはならない風景であり、見る者すべてを魅了せずにはいられない美しさを持っている。 だがその風景もいつも見られるわけではない。セキュリティの関係から、橋が下りている時間が限られているからだ。まず新聞・牛乳などが配達されてくる早朝から他の教職員たちが出勤してくる、いわゆる朝の時間帯。ちなみに啓太が乗ったバスが橋を渡ったのもこの時間だ。このあと数時間おきに30分程度ずつ、バスの運行にあわせて下ろされている。もちろん学生たちはこの時間を熟知していて、外出したときにバスに乗り遅れたりすると、時計を見ながらタクシーに飛び乗ったりするのだ。だから帰省していた学生が親の車で学園に戻るとき、期せずして橋のところで友人の乗った車と出会う、などということもたまにはある。学生の絶対数が少ないので、あくまで「たまに」ではあるが。 中嶋のマンションに引っ越した翌日の夕方。中嶋の車の助手席にいた啓太は、中嶋が右へ車線変更しようとしたとき、和希の乗った車を追い越したのに気がついた。 「あっ。和希だ」 「へえ。白のベンツか。若作りはしていてもやっぱりオヤジだな」 バックミラーに眼をやりながら中嶋が皮肉っぽく言った。啓太は横で、くすっと笑った。 中嶋は今月の初めに卒業してしまい、一緒にいられる時間は激減してしまった。だが今の啓太は「それを受け入れなければいけないんだ」と思えるようになっていた。中嶋は自分のマンションに啓太の部屋を作ってくれただけではなく、自分と啓太の連名の引越挨拶状まで作ってくれたのだ。同じ大学に合格できるまでの、不安定といえなくもない関係ではあるが、啓太には十分すぎるくらいだった。中嶋は確かに部屋の鍵と、卒業旅行に同行させてもらう航空券をちゃんと手渡してくれたのだから。鍵は寮の部屋の鍵と一緒にキィケースに。そして航空券は挨拶状と一緒にバッグの中に入っている。いずれ大学が始まったとき、中嶋のいない寂しさに耐えかねる日が来るかもしれないが、少なくとも今の啓太は幸せの絶頂にいたのだった。 2台の車は前後してゲートをくぐり、寮の近くにある父兄用駐車場に駐車した。まだ中途半端な時期なので、他に停めている車はいない。和希の乗ったベンツは彼を下ろすと走り去っていった。本当だったらサーバー棟まで行くはずだったのだろうが、啓太の姿が見えたのでここで降りたのに違いない。啓太はドアを開けるのももどかしく、後部座席に置いていたバッグを引っつかんで和希のところに駆け寄った。 「和希! いいところで会ったよ」 「なんだ? 中嶋さんがにらみつけてるぞ?」 「え? そう?」 驚いて振り向いてみたが、啓太の目にはさほどにらみつけているようには映らなかった。むしろゆったりと足を運んでくる姿に余裕のようなものが感じられたのは、啓太の思い過ごしだっただろうか。どちらにせよ、いくら中嶋の機嫌が悪くなろうとも、今夜お仕置きをされるという心配はない。一足先にあさって日本を発つ中嶋は、このあとマンションへとんぼ返りするのだから。啓太は中嶋のことはおいておいて、バッグから出した封筒を和希に手渡した。顔にはこれ以上ないくらいの、満面の笑みが浮かべられていた。 「えっとさあ、これ。はいっ。まず最初に和希に渡したかったんだよ」 「へえ? 何だろう」 「開けて開けて♪」 「わかったわかった。そう急かすなよ。えーっと、なになに……!?」 読み進むごとに和希の表情が険しくなっていた。それに比例して中嶋のくちびるがつり上がっていく。煙草に火をつけた中嶋は、さりげなく啓太の腰に手を回した。 ―― このたび下記の住所に引っ越しました。何のおもてなしもできませんが、お近くにおいでの節はぜひお立ち寄り下さい。三月吉日。中嶋英明・伊藤啓太 ―― 「って、何だよこれはっ!!」 「見てわからんか。引越の挨拶状だ」 「すごいんだよ。中嶋さん、ちゃんと俺の部屋まで作ってくれたんだ。カーテンとか中嶋さんのと色違いでおそろいだし。和希も1回来てくれよな。リビングだけなら和希のとこと負けないから」 和希の顔色などまるで目に入っていない啓太をとりあえず無視して、和希は中嶋に詰め寄った。 「どういうつもりなんですか、中嶋さん!!」 「何がどうだと言うんだ。引っ越したから挨拶状を作った。俺の方は今朝方ポストに入れたが、こいつのは直接ここで渡したほうが早いし、何より手渡したかったんだそうだ。丁寧だと誉められこそすれ、非難される謂れはないはずだ」 「あのですね。啓太はまだ高校生なんです。それも4月が来てようやく2年生になる。それを自分のマンションに引っ張り込むなんて、そんなの犯罪じゃないですか!!」 「どこが犯罪なんだよ。だいたい何怒ってるんだ?」 悲しそうな顔をして啓太が言った。今の今まで、真っ先に和希が「おめでとう」と言ってくれるとばかり思いこんでいたのだ。和希が何を怒っているか、啓太には皆目見当もつかなかった。中嶋が卒業して一番喜んだのが、七条ではなく実は和希だったことを啓太は想像もしていなかったのだ。 「俺、俺は真っ先に和希に喜んでもらおうと……」 くちびるを噛んで顔を背けてしまった啓太を、中嶋はここぞとばかり胸に抱き寄せた。和希は沸きあがる感情をねじ伏せて、精一杯落ち着いた声を出そうとした。 「啓太。悪かったよ。家を出たい気持ちはわかる。俺だって啓太くらいのときは早く独立したかった。だけどよく考えてみろよ。中嶋さんはまだ高校卒業したばかりだぞ? 生活はどうするんだ。そんなに独立したいんだったら、俺のマンションに一緒に住めよ。な? ここからだって近いし、ご両親だって安心するぞ?」 「悪かったな遠藤。啓太の両親はこいつが俺と住むことを喜んでくれているんだ」 最後の煙を吐き出して、中嶋は足元に煙草を捨てた。靴の先で踏みにじられる吸殻が、まるで和希の心のようだった。 「啓太の両親、って……」 「中嶋さんはちゃんと俺の両親に挨拶にきてくれたんだ。それだけじゃない、朋子まで一緒にマンションに招待してくれて、みんなで中嶋さんの行きつけのイタリア料理店に食事に行ったんだから」 両親に挨拶。両家 ―― 正確には両家とも言い難いが ―― 顔合わせの食事会。やられた……!! 和希は愕然とする思いだった。いくら切れるといっても、たかだか高校を卒業したばかりの青二才と高をくくっていたのが、完全に裏をかかれて出遅れてしまっていたのだ。距離と時間を味方につけたつもりだっただけに、このボディブローは効いた。がっくりと肩を落とす和希に見せつけるように、中嶋は啓太に熱く甘いくちづけをすると、意外にあっさりと身体を離した。 「残念だがそろそろタイムリミットだ。嫌がらせで橋なんか上げるなよ、遠藤」 「そんなすぐばれるようなまねはしませんよ」 「ふふん。ま、おまえも啓太の成績が上がれば文句はないだろうさ」 「そのことば、忘れませんからね」 「勝手にしろ。……ああ、啓太。荷物はちゃんと、このひがんじまってるオニイチャンに見てもらえよ。気をつけて来い。待ってるからな」 「はいっ、あの……。中嶋さんも気をつけて下さいねっ」 「ああ。じゃあな」 必死に手を振る啓太に片手を上げて応えると、中嶋は車を発進させた。残された和希は結構本気で、橋を上げてやろうかと考えていた。 「ごめん啓太。悪かったよ。その……、突然でちょっと驚いただけなんだ。本当にごめん」 夕食の後、啓太の部屋を訪れた和希は、まず謝罪の言葉を口にした。冷静になって考えてみると、慌てる必要はないというのに気がついたからだ。啓太自身が心配していたように、大学へ行った中嶋が啓太から誰かに乗り換える可能性は十分すぎるくらいある。それでなくても中嶋の浮気の現場を目撃してしまった啓太の方から、三行半をつきつけることだってあるのだ。啓太が卒業するまで2年ある。自分の存在意義をアピールするために、まずは謝っておくのが得策だと考えたのだった。 「だってほら。出かけるときには何も言ってなかったろう? だから、さ」 「うん。実は俺も知らなかったんだ。引越手伝いに行ったら今夜は実家に帰れって言われてさ。えーっ? とか思いながら帰ったんだよ。そしたら母さんに『中嶋さんとこに引っ越すんでしょ。荷物はできたの?』とか言われちゃって。もう訳わかんなかったよ」 「あの人らしいな」 「うん」 どちらからともなく、ふわっとした微笑が浮かび、和希は啓太をそっと抱き寄せた。和希を信じきっている啓太は抗いもせず、されるままになっていた。 「おめでとう、啓太。本当によかったな。あの中嶋さんにここまでさせるなんてすごいよ。だけどひとつだけ覚えておいてくれないか。何があってもあのマンションの部屋はおまえの為に開いている。この先、仮に俺が家庭を持つことになったとしても、必ず開けてある。だからもし何かつらいことが起こったら、いつでも来てくれていい。鍵を置いておくよ。連絡なんかしてこなくていい。留守でもかまわない。誰といるときでもいい。勝手に開けて入って来い。いいな」 「有難う。和希。俺、中嶋さんといるのにふさわしい人間になれるよう努力するよ。和希の鍵を使わなくていいようにがんばるから……」 「ああ。おまえならできるさ、きっとな」 大人の余裕を見せ、自分の鍵もしっかりキィケースにつけさせたところで、和希は本題に入った。 「ところで中嶋さんが言ってた『荷物を見てもらえ』って何のことなんだ?」 「ああ。中嶋さんたちの卒業旅行に連れてってもらえる、って言ってただろう? あれのことなんだ。岩井さんの都合でみんなはあさって先に行っちゃうんだよ。それで気候とかTPOに合った服とかは、和希に相談したらいいって」 転居通知で神経を逆撫でしておいて、新婚旅行の荷物を手伝えだと? 中嶋英明という男はどこまで自分を愚弄すれば気がすむというのか。怒りのあまり、和希は目の前が白くなっていくのを感じた。とはいうものの何の責任もない啓太に嫌味を言ったところで、ようやく直った機嫌がまた悪くなるだけの話である。それに丹羽だけならともかく、篠宮や岩井までが同行するというのなら、中嶋の行動にも歯止めがかかるだろう。蜘蛛の糸のように細いわずかな希望にすがりついて、和希はなんとか作りあげた笑顔を啓太に向けた。 「なんだ。そういうことなら任せろよ。で、どこに行くんだ?」 「えっと、イギリス」 「イギリスかあ。ロンドンなのかな。だったらいつも着てるスタジャンで間にあうと思うけど」 「うーん。何も聞いてないんだ。ただみんなでヒースロー空港に迎えにきてくれるってだけ」 「じゃあ他の国は? 大陸に入るとずいぶん寒いからな。荷物も違ってくるけど」 ちょっと待って。そう言うと啓太はバッグから航空券を出してきて和希に見せた。 「見ても全然わかんなくってさ」 「あはは。慣れないと見難いよな。確かに。……ああ、帰りはフランクフルト・アム・マインだ。あっちはまだまだ寒いだろうな」 航空券独特の何枚も束ねられたチケットを慣れた手つきでめくりながら和希が言った。そして往路のチケットのフライトデータをさりげなく頭に叩きこんだ。 「あれ? この出発便、俺と同じだ」 「えっ!? そうなの?」 「うん。……やっぱり同じだ。っていうかさ、寮の部屋換えが終わってからだから、だいたい同じような日になるよな」 「そういえば太田もこの日に出発って言ってたよ。行き先はシドニーだけど」 「じゃあ一緒に行こうぜ。啓太がいてくれると退屈しないでいい」 「ホントに!? よかったぁ。実は俺、ちょっとだけ心細かったんだ」 何も疑おうとしない啓太に、和希はほんの少し胸の痛みを覚えた。和希の出国予定は実は啓太の出発日の翌日で、しかも行き先はカナダだったからだ。これが逆なら苦しいところだったが、一日早くするくらいなら多少の無理で何とかなる。秘書を泣かせることになっても、啓太をひとりでロンドンへ行かせるなど絶対にできなかった。中嶋が何かの理由で迎えに来られなかったらどうする? 啓太を慰めるのは自分しかいないではないか !! 「軽くてあったかいコートとかさ、明日見に行こうぜ。両替もしといた方がいいし」 「うん。よろしくな。お礼に三番館でコーヒーおごるよ」 「オッケー。交渉成立だな。じゃあ俺は今から必要なもの書くから、啓太は揃えてけよ。スーツケース開けといて放りこんでけばいいから。部屋変えの引越し荷物と混じったら悲惨だぜ?」 ベッドの上にスーツケースを広げた啓太は、和希がメモを書く手元をのぞきこみに来ては品物を揃えていった。そんな啓太の様子を見て、和希はひそかに自分の側にポイントを10点加算した。何点になれば逆転するのか分からないけれど、それは多ければ多いほどいいのには違いなかった。 案に反して秘書は泣かなかった。スケジュールの調整。航空券の変更。ホテルの手配等々が一気に押し寄せてきて、泣くことさえできなかったのだ。しかもそれは和希の分だけでなく、啓太の分もあれば和希に随行する秘書の分までも必要だったからだ。 「桐山氏との会食は帰国後ということにしておいてくれ」 「ご出発の前夜ですから、変更はなさらなくても」 「いや。前日もフリーにしておいてくれ。ゆっくりとホテルに入りたい」 「ということは、世田谷にはお泊りにならないということですね」 「ああそうだ。そっちの迎えの車は断わってくれないか。代わりに前日に成田まで頼むよ。成田のホテルはデラックス・ツインでいい。それとロンドン行きのチケットだが、啓太の分はエコノミーなんだ。ビジネスに換えておくのを忘れないでくれよ」 「かしこまりました。すぐに手配いたします」 指示を出し終わって、和希は大きく息をついた。火がついてしまった以上、それを無理に消そうとするのは愚である。燃え始めたばかりの火は勢いが強く、消そうとするものまで焼き尽くさずにはいないからだ。 慌てることはない。今はただ中嶋に貸してあると思えばいい。ビジネスと同じ、途中経過はどうでもいいのだ。最終的に自分が「啓太の最後の男」になりさえすれば ―― !! 和希は不敵な笑みを浮かべると、自信に満ちたしぐさで前髪をかきあげた。何年かかろうとかまわない。闘いはまだ始まったばかりだった。 |
いずみんから一言。 ようやく、ホントにようやく、新婚旅行企画をスタートさせることができました。 背中を押してくださった皆様、どうも有難うございました。 ぼちぼちと書いていきますので、また読んでやってください。 |