Sweet,Sweet,
Honey Moon

〜 2.マリッジ・ブルー 〜



 三月も下旬に入り、ようやく春らしくなってきた感のあるこの日。ロンドン・ヒースロー空港へ向けて成田を飛び立ったボーイング747型機は、わずかな天候の乱れもなく、順調にフライトをつづけていた。
 ヨーロッパ各地へは、直行便の就航による飛行時間の短縮から、最近ではフライト中の「お休みタイム」のない便が主流になっている。昼前後に日本を発てばその日のうちに目的地に着き、空港からホテルに入った頃に現地時間で夕方になるのであれば、旅行者の負担は少なく、途中で眠る必要もないからである。
 ところが今日、啓太と和希が乗りこんだ飛行機は少数派に属していたらしい。窓が閉じられ、照明を絞りこんだ機内では、かりそめの闇の中に乗客たちがわずかなまどろみを求めていた。確かに、いくら時間が短くなったとはいえ、11時間程度もただ座りつづけるのだ。映画や音楽を楽しめるようになってはいても、乗客たちにとってはやはり「寝る」のがいちばんの時間つぶしであることは間違いない。
 フラットとまではいかないものの、エコノミー席よりはるかにリクライニングし、幅もゆったりしたビジネスシートで、首まで毛布を引き上げた啓太は、小さなため息をついて何度目かの寝返りをうった。その様子を隣で見守っていた和希は、啓太の左手にそっと自分の手を重ねた。
「和希……?」
 驚いたように振り向いた啓太に、和希はやわらかく微笑んで見せた。
「寝られないのか?」
「……うん」
 少しはにかみながら、それでも啓太は素直に頷いた。
 啓太は今、中嶋の待つロンドンへ向かおうとしている。一足先に高校を卒業した中嶋は、啓太とともに暮らす家を用意し、卒業旅行に同行させるという名目で航空券を手渡した。しかしそれがただの「卒業旅行」でないことは、当の啓太は薄々と、そして周りの人間は明確に気づいていることだった。
 ところが、とても楽しみにしていたはずなのに、出発日が近づくにつれ、啓太はふさぎこむようになっていた。寮の部屋替えの慌しさに取り紛れているうちはよかったのだが、落ち着いてしまうといろんなものが見えてきはじめたのだろう。引越の挨拶状を手に学園島に戻ってきたときとは、まったく違う啓太がそこにはいた。
 どうして中嶋さんは俺を選んでくれたんだろう。
 もう考えないと何度も思ったその疑問の答えを、啓太はいつの間にかまた考えてしまっているのだった。いくら考えても答えなど得られないことくらい、自分でもよくわかっているのに。幸せすぎて不安になる。啓太はまさにマリッジ・ブルーのど真ん中にいたのだった。
 そしてそれは出発の前日、空港近くのホテルに宿泊した頃からピークに達していた。
 とにかくほんの少しも落ち着かないのである。何度もチケットやパスポートを確認し、ガイドブックを読み始めたと思ったらものの数分で放り出して、今度は英会話の本を取り出すといった具合である。テレビのチャンネルは次々と変えまくり、お茶を飲んではトイレに行った。夕食をとりに和希の秘書と3人で入った和食の店でも、心ここにあらずといった具合で器だけを空にしていた。もちろん夜はほとんど眠っていない。ちょうど遠足の前の日の子供に似ているが、それにしては表情が暗すぎた。知らない人間に「売られていくんです」と説明したら、なるほどと頷きかねないくらいひどい顔をしていた。
 飛行機に乗りこんでからはガイドブック、ビデオ、英会話の本、ゲーム、ミステリ小説を、まるでローテーションでもあるかのようにとっかえひっかえする始末である。和希が心配するのも無理ないことといえた。
 そんな啓太がまがりなりにも眠ろうと思えるようになったのは、見かねた和希が機内食のあとで無理やり飲ませた乗り物酔い止めの薬が効きはじめたからであった。啓太の渡航に無理やりスケジュールをあわせてついてきた和希だったが、自分の判断が正しかったと、これほど思えたこともなかった。
「昨夜も寝てなかっただろ。今のうちに寝とかないと、あとがつらいぞ?」
「ごめん。和希の邪魔しちゃってたんだ」
「気にしなくていいよ。俺はこんな移動はしょっちゅうだし、機内でも書類に眼を通したりしてあんまり寝ないんだ。ひとりだと手持ち無沙汰でさ。つい仕事とかしちゃうんだな。啓太がいてくれるおかげだよ、こんなのんびり出張に行けるのはね。秘書も喜んでるんじゃないかな」
「有難う」
 和希のことばがリップサービスであることくらい、今の啓太にもよく分かった。小さく微笑み返した啓太に、和希は「少し話そうか」と言った。
 不況の影響か、たまたまか、あるいは鈴菱が買い占めたか。ビジネスクラスでは彼らの周囲に他の乗客の姿はなかった。数列離れたところにいる英国人風老夫婦はふたりともよく眠っているようだし、もうひとり見えた日本人ビジネスマンはヘッドホンをかけて何かビデオを見ている。和希の秘書のひとりがどこか近くにいるはずだが、うまく姿の見えない席にいるらしい。あとはみんな少し離れた席ばかりだ。だから小声で話す分には、たいして遠慮は要らなかったのである。
「啓太は中嶋さんのことが好きなんだろ?」
「……うん」
「だったらそんな不安そうな顔するなよ。大丈夫。中嶋さんはちゃんと待っててくれてるさ」
「……うん。そのことは心配してないんだ」
「そっか」
「ただ、いつも思っちゃうんだよ。中嶋さんは俺のどこが良かったんだろう、って」
「『どこ』じゃなくて『全部』だよ。いいところも悪いところも、全部ひっくるめて中嶋さんには『良かった』んだろうよ。人を好きになるってそういうことじゃないか?」
 それは俺にとっても、なんだけど。和希は、今は口にできない思いを、胸のうちでつぶやいた。
「たとえば中嶋さんだっていいとこばかりじゃないだろ? 怪しげなショーを見に行ったりするし、秘密主義だし、煙草は吸うし、極めつけは思いっきりのサドだ。敵に回すとあれほど容赦のない人も珍しい」
「あはっ、そうだね」
「でも啓太はあの人がいい。同じことだよ」
 少しほっとしたような啓太の顔を見て、和希は話題を変えた。
「ところでさ、ガイドブック見てただろ? どこ行きたいか決まった?」
「うーん。あんまり思いつかなくて」
「ロンドン・アイとかどうなのかな。俺もまだ乗ったことはないんだ」
「中嶋さん、あんなの好きかなあ」
「中嶋さんはどうだっていいんだよ。啓太が行きたいと思えば、行きたいって言えばいい。そんなのわがままのうちにも入らないぜ?」
 わがまま!? そう驚いたように言ったとたん、啓太は固まってしまった。「わがまま」という言葉の意味はもちろんわかっている。だがそれを中嶋に向って言うなど、考えたこともなかったのだった。
「おい啓太。わがままくらいで固まるなよ」
「ごめん。だけど俺、中嶋さんにわがままって言ったことないと思う」
「うーん。確かにな。中嶋さん相手じゃ言いにくいかもな。じゃあおねだりとかお願いとかは?」
「あっ。それならある。捨て子事件のあとで、何でもお願いを聞いてくれるって言われたから」
「うんうん」
 ぱっと顔を輝かせた啓太に思わず先を促した和希は、次の瞬間、思いっきりそれを後悔した。
「アレ舐めさせてください、ってお願いしたんだ。だっていつもしてもらってばかりだった……」
 馬鹿なことを口走ってしまったのに気がついたのだろう。突然、口をつぐんだ啓太は、真っ赤な顔をして「……ごめん」と小さくつぶやいた。しばらくぽかんと啓太の顔を眺めていた和希は、我に返ったとたん、思わず吹き出してしまっていた。一度笑い始めてしまうと、どうしても止らなかった。
「ぷっ……。ごめ……」
「なんだよ和希。そんな笑わなくてもいいだろう? そりゃ馬鹿を言ったのは俺だけど」
「ごめんごめん。ちょっと安心したら、つい……」
「安心って、何を安心したんだ?」
 和希はそれには答えずにキャビン・アテンダントを呼ぶと、小声で何かを依頼した。そして彼女が行ってしまったのを見届けてから、啓太の方に向きなおった。放っておかれた啓太は、子供っぽく頬をふくらませていた。
「安心したんだよ。だって相手はあの中嶋さん(・・・・・・)だろ? それくらいのこと、当然やらせてると思ってたからさ。でも啓太がしたいって言うまで待っててくれたんだな」
「……中嶋さんは、俺が嫌がりそうなことは最初からさせないよ。ショーを観に行ったって同じことをしろとは言わない。グッズ類なんて持ち出してきたことさえないから」
「わかったよ。それだけ啓太を大切にしてるってことなんだろうな」
 啓太は返事をしなかったが、幸せそうな表情に包まれていた。和希でさえやらせていて当然と思っていた「それくらいのこと」。それを中嶋は、啓太がしたいというまで待っていてくれたのだ。一緒にいても離れていても、不安になることに違いはないけれど、和希の言うとおり、本当に自分は大切にされていたのだと、啓太は今、初めて思い知ったのだった。胸の奥から、何か暖かいものが満ちてくるような気がした。和希は、ちょうどそこへキャビン・アテンダントが運んできたカップを受け取ると、ひとつを啓太に手渡した。ちょっと林檎のような甘い香りのする、薄黄色いお茶が入っていた。
「ほら。カモミールのお茶だよ。気持ちがすごくリラックスできるんだ。これ飲んで少し休もう」
「うん。有難う、和希」
「中嶋さんに会ったらわがまま言っていいからな。うんとわがまま言ってうんと甘えてやれよ。それって実はすごくうれしいことなんだから。な?」
 驚いたようにカップを持つ手を止めた啓太の髪を、和希がくしゃくしゃと撫でた。

 ヒースロー空港到着ロビーは、同じような時間の到着便が多いため、かなりごった返していた。右も左もわからない啓太は和希とはぐれないようについていくだけで精一杯で、荷物を待つターンテーブルの脇にたどり着いたとたん、文字通りへたりこんでしまった。直前までどっぷりとはまりこんでいたマリッジ・ブルーのことなど、きれいさっぱりすっ飛んでしまっていた。
「ふえ〜っ。入国審査って疲れるぅ。マジ緊張しちゃったよ」
「何で? 海外旅行は初めてじゃないだろ? 聞かれることは同じじゃないか」
「だって今までツアーばっかだったし、行き先も香港とかハワイとかだったから」
「ははあ。ツアー客はほとんどスルー状態か」
「そういうこと。福引の特賞なんてそんなもんだよ。行くのはそこらへんのおばちゃんとかだもん」
「じゃ、ちょうどいい予行演習だったわけだ」
「予行演習って……何?」
「え? だから修学旅行の……あ、あれ、おまえのじゃないか?」
 中途になった和希のことばも気になったが、奥から吐き出されてきた濃紺のスーツケースは確かに啓太のものだった。メタリックな色合いが多い荷物の中では、派手に貼られたステッカーがなくても、一目で啓太のものと分かった。ぐるっと回ってきた荷物を啓太がピックアップした頃には、吐き出し口近くで待機していた和希の秘書が、和希の荷物もカートに積み上げていた。
 税関で手間取らないよう気をつけて荷物を詰めたので、和希も申告するものは何もなく、形式的にスーツケースを開けただけで税関をパスすることができた。荷物がひとつで、いかにも子供っぽい啓太などはフリーパス状態だ。これですべての入国手続きが済んだことになる。あとは外へ出るだけだった。
 ところがここまで来て突然、啓太は出口の自動ドアの前で足を止めてしまった。先刻までのマリッジ・ブルーがよみがえってきたというよりは、中嶋がいなかったら……という思いが、啓太の足をすくませていたのだった。和希はわざと気づかないふりをして先に立った。啓太は知らないが、中嶋がいないときのために和希はここにいるのだ。
「中嶋さんはどこで待ってるんだ?」
「ここ。出たとこで『俺が行くまでその場を動くな』って言って……」
 そう言いながら自動ドアを抜けた瞬間だった。「遅い!」という声が飛んできた。ドアのど真ん前に、不機嫌そうな顔をして腕を組んだ中嶋が立っていた。
「たかが入国審査にいつまでかかってるんだ」
「中嶋さん……!!」
 中嶋の顔を見たとたん、自然に体が動いていた。スーツケースをその場に放り出して、啓太は中嶋に飛びついていた。啓太を抱きとめた中嶋は、「ずいぶん待たせやがって」と言うなり、何か言いかけた啓太のくちびるをふさいでしまった。何日ぶりかの中嶋のくちびるはほんの少しひんやりしていた。
「……人前ではやめろと言ってあるのに……」
 苦々しげな声に和希が振り向いてみると、苦笑ともなんともいいがたい顔をした篠宮が立っていた。
「まあいいんじゃないですか? 赤のスタジャンに赤のスニーカーでしょ? ボーイッシュな女の子くらいにしか見えてませんよ」
「それにしても……」
 ため息をつきながらも篠宮は、啓太が放り出したままのスーツケースを拾い上げた。強硬手段に出ないことには、いつまでたっても空港から出られそうになかった。
「伊藤。荷物はこれだけか」
「え? あ、はい」
 中嶋の身体からようやく離れた啓太が篠宮のところに走っていった。それ見て和希は、ひとりになった中嶋に歩み寄った。
「ご覧のとおり、無事に啓太を送り届けましたからね」
「誰もそんなことは頼んでいないが?」
「あんなにわざとらしく、俺に荷物を見ろだのなんだの言っておいてですか?」
「俺は文字通り荷物を見てもらえと言っただけだ。言葉をどう解釈しようがそいつの勝手だな」
 ふん、と鼻を、しかし満足そうに鳴らして、中嶋が踵を返そうとした。その背を和希の手が止めた。
「なんだ。まだ何かあるのか」
「啓太なんですが、ここ数日、ほとんど寝てないんですよ。昨夜なんか全然寝てなかったし、飛行機でもほんの少しだけ。だから今夜はちょっと気をつけてやってください」
「ほう。昨夜一緒だったか」
「ええ。成田のホテルでね。啓太の寝不足は俺が寝かさなかったからかもしれませんよ」
 フライト中、さんざん惚気られたせめてもの報いとばかり皮肉を飛ばした和希に、中嶋はくちびるの端をつり上げることで応えた。
「仮におまえと何かあったとして、あんなふうに俺の胸に飛びこんでこれる啓太だと思うか」
 完敗だった。ただ今回は、最初から勝とうと思っていなかったことがせめてもの救いだった。なすすべもなく中嶋の後姿を見送るだけの和希のところに、思い出したように啓太が駆け寄ってきた。
「じゃあ和希、俺、みんなと行くから」
「ああ。気をつけてな」
「うん。和希もね。仕事がんばって」
 そう言って中嶋のもとに戻ろうとした啓太の背中に、和希が声をかけた。
「啓太。中嶋さんにうんと甘えるんだぞ。わがまま言っていいんだからな」
 啓太は一度振り向いて大きく腕を振った。中嶋と篠宮に追いついた啓太は、もう振り返ろうとはしなかった。そして駐車場へ向かうその姿はすぐに、人ごみの中に紛れてしまった。
「……ちぇっ。あんな幸せ一杯の顔しやがって」
 和希は小さな胸の痛みとともにその想いを封印した。うしろでは秘書だけでなく、出迎えの鈴菱の社員たちも待っている。のんびり気分の旅行は終わった。遠藤和希から鈴菱和希に戻る時がきたのだった。



いずみんから一言。

♪ はーなー嫁はぁ〜、夜汽車ーに乗ぉってぇ、嫁いでぇゆーくのぉ。
(中略)いのち、かけてぇ燃ぉえーたぁー、恋が、結ばぁれるぅー。(後略)
という、すでに歌手の名前さえ思い出せないくらい古い歌を口ずさみながら書きました(笑)。
作中、和希がハーブティを注文するシーンがありますが、各社ビジネスクラスで用意されている
ドリンクを調べたところ、ハーブティを用意してあるのは一社もありませんでした(汗)。
だからこれは、マリッジ・ブルー状態にある啓太のために、和希が秘書に命じて持ってこさせて
いたものじゃないか、と……(大汗)




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