Sweet,Sweet,
Honey Moon

〜 11・ それぞれの旅立ち 〜



 翌朝8時。定刻より30分早く、船はゼーブルージュの港に着岸した。潮の所為かそれとも張っていた氷を溶かしたのか、ペンキのはげかけた足元はとてもすべりやすく、啓太は一歩ずつ踏みしめながらタラップを下りた。吐く息が白く、タラップの手すりを握る手は冷たかった。
―― 寒い。
 これが啓太の、ヨーロッパ大陸の第一印象だった。ゼーブルージュはオランダとの国境に程近いベルギーの港町である。緯度的にはチェスターどころか初日に泊まったカーディフよりも南にあるはずなのに、こっちの方が格段に寒かった。荷物を見てくれるよう頼んだときに、和希が「あっちはまだ寒いだろうな」と言ったのはこういうことだったのかと、手に息を吹きかけながら啓太は思った。
「寒いか」
 丹羽が車を下ろしてくるのを待ちながら中嶋が訊いた。
「……はい」
「もう少しこっちに寄ってろ」
「……はい」
 そう言われて、啓太は中嶋に寄り添っていった。抱いてくれるわけではない。ただ立っているだけなのに、中嶋の大きな身体の近くにいればそれだけで温まる気がした。心が温まれば身体も温かくなるのだ。
 ほどなくして丹羽が車を下ろしてきた。まだ暖まってはいないものの、潮風が吹き付ける岸壁の上から比べると、車内はまるで天国のようだった。
「おーし、乗ったかあ? まずはブルージュへ向かうからな。ちょっと遅くなるが朝メシはそこだ」
「ブルージュだな」
「昨日のうちに地図にマル入れてっからよ。それ見てくれや」
 大陸に渡ってからフランクフルトまでは丹羽がコースを決めることになっているようだ。その所為か朝から妙にハイになっていた。
「それから……。ゲント、ブリュッセルと来て、リエージュで1泊か」
「そういうこと。俺ぁヒデみたいにひねくれてないからよ、どこのガイドブックにも載ってる綺麗な街を選んでるぜ !!」
「王様、テンション高いですね」
 超ご機嫌状態の丹羽に引き摺られて、啓太も楽しそうな声を出した。
「そりゃーそうよ。なんつーたって俺はベルギー走りたくてこの旅行に来たんだからよ」
「あ、そうだったんですか」
「そうでもなきゃこんな寒いトコ来ねえって」
 そして篠宮、中嶋、啓太の3人は、車に乗っている間中、ひばりちゃんの鼻歌に悩まされることになったのだった。

 丹羽のことば通り、立ち寄った街はとても綺麗なところばかりだった。特に昼食をとったブリュッセルのグラン・プラスの壮麗さは、どちらかというと地方都市ばかりを回ってきた啓太を圧倒した。四角い広場をいくつもの建物が囲んでいるだけなのだが、100m四方はありそうな文字通りの「広場」と、華麗かつ重厚な石造りの建物は、ここが歴史ある国の首都であることを無言のうちに顕示している。人の多さも今までとは段違いである。啓太にしてみれば別世界に迷いこんだようなものだった。
「ここでたっぷり時間を取ってるからな。チョコレートでもレースでもゆっくり選んでいいぞ。おふくろさんや妹に何か買っていってやれや」
 丹羽はそう言ってくれたが、見るからに高級そうな店は敷居が高く、啓太はどうしてもドアを開けることができなかった。場慣れしていないことに加えて、グラン・プラスの雰囲気に飲まれてしまったからなのだろう。丹羽に言われるまでもなく、母さんや朋子へのお土産にしたいと思ってはいたのだが、ウインドウを眺めるのが精一杯だったのだ。頼めば中嶋は一緒に入ってくれるかもしれないが、少し前から何やら丹羽や篠宮と相談している様子である。邪魔をしてはいけないと思った啓太は、1軒おいた場所にあったレースショップのウインドウをのぞきこんだ。繊細な糸で編まれたレースは男の啓太が見ても芸術といっていいほどで、こんなモノを人間の指が作り出したとはすぐには信じられそうもない。ため息が出そうな品々を前に、このままでは見ているだけで満足してしまいそうだった。
「啓太。こっちだ」
 突然かけられた声に振り向くと、中嶋が隣の店のドアを開けて待ってくれていた。慌てて後について入った啓太を、甘い香りが包みこむ。思わず見回したそこはベルギーが世界に誇るチョコレートの店だったのだ。すでに丹羽と篠宮はあれこれと物色しはじめている。中嶋や篠宮はともかくとして、丹羽のそれはとても異質な風景といえた。
「あの……、王様もチョコレート買うんですか?」
 啓太の素朴な質問に、丹羽が苦笑で応えた。
「ヒデに任せようとしたんだが嫌だと言いやがったんだ。俺だってこんなの柄じゃねえことくらい分ってるさ」
「……?」
 それは起きている現象の説明ではあったが、何故チョコレートを買うかという理由の説明にはなっていない。小さく首を傾げた啓太に、丹羽が言葉を継いだ。
「クルマ貸してくれた人の奥さんにだな、チョコとレースをお礼に買っていこうってことになったわけだ。おまえだって乗ってんだから、一緒に選べ!」
「クルマ貸してくれたって……。あれ、レンタカーじゃなかったんですか?」
「会社によって違うが、レンタカーは最低でも21歳になっていないと利用できないんだ。だからあのクルマは卓人についてきた河野さんが、画廊仲間に頼んで借りてくれたものなんだ」
「あ……、そうだったんですか」
「わかったらおまえもさっさと選べ」
 そう言われてのぞきこんだショーケースの中には、少し小ぶりの宝石のようなプラリネが何種類も並べられていた。それらに目を輝かせた啓太は、さっさと選んでしまって実家用のお土産を選ぼうと思った。朋子がきっと喜ぶだろう。それにここにはプラリネだけじゃなく、啓太にも見て分るごくごく普通の、それでいておしゃれなケースに入ったチョコレートもいろいろあった。おやつと言うにはちょっと高いけれど、自分用にもひとつ買って寮で少しずつ食べよう。残ったケースはもちろん捨てずにとっておく。ささやかではあるが、これも啓太にとっての大事な記念品なのだった。

 ゼーブルージュからベルギーをほぼ横断する形で着いたリエージュは、どこかほっとするような素朴なところの残った街だった。古くから繁栄した街だといわれれば確かにそんな感じはするが、現在でも国内第5の街だといわれるとちょっと驚いてしまう。観光地化されていない落ち着いたたたずまいと、そこに行き交う人々の温かく親切な人柄とがそう思わせるのだろうか。
 ホテルが少ないこの街では4つ星ホテルはふたつしかない。そのひとつにチェックインした一行は、ホテル裏にある小さなレストランでささやかな打ち上げをした。明日フランクフルトで岩井や河野と合流し、明後日の便で日本に帰国することになる。4人で過ごす最後の夜といえばいささか感傷に過ぎるかもしれないが、何かの区切りみたいなものは欲しかったのだろう。そう遠くないところに住むとはいえ、日本に帰れば4人ともばらばらになってしまうのだ。今度こうしてこのメンバーで顔を合わせるのは、いったいいつになるか見当もつかなかった。
 最初に飲み物を注文するとき、丹羽がみんなをおさえてクリークを注文した。何かと問う篠宮に「まあ見てろって」と鼻をうごめかす。やがて彼らの前に、恭しくワゴンを押したウエイターが現れた。ワゴンの上のアイスクーラーには何本かのビンがつっこまれていて、まるでシャンパンのようだ。
「おい丹羽。おまえいったい何を注文したんだ」
「あ゛ー。ビール……なんだけど、よ」
「ビール、だと?」
「ああ、ビール……」
「……」
「……」
 間の抜けた日本語など分りたくもなさそうなウエイターは、芝居がかった仕草でそのうちの1本を取り上げると、シャンパンと同じように栓を抜いた。足のついた細長いグラスに注がれたそれは、泡の具合こそ確かにビールだったが、色は少し暗めの紅色をしていた。
「さて。みんな行き渡ったな。こいつはクリークといってさくらんぼのビールだ。こっちでは祝い事の席で飲むらしい。と聞けば今の俺たちにぴったりの飲み物だと思わねえか? あん?」
「無粋なおまえにしては気のきいたものを知っていたな」
「ま、そのあたりは明日ということにして……」
 丹羽の音頭に4人がグラスを手にする。
「ほんじゃあとにかく、お疲れさん !!」
「お疲れ !!」
「お疲れ !!」
「お疲れ様でした !!」
 そして高くかかげられた4つのグラスが、ちん、と綺麗な音を立てた。

 丹羽のテンションは翌日になっても衰えなかった。というより、その朝にピークを迎えたといっていい。ひばりちゃんの鼻歌は、ひばりちゃんのヒットソング・メドレーと化していた。
「しょーがねーなー。晴れっちまったぜよぉ。啓太がいやがるからなあ。雨は無理かぁ……」
「雨? 王様、雨の方がよかったんですか?」
「知らねえか? 『雨のスパ・フランコルシャン』っていうんだけどな」
 昨日までと違ってくにくに曲がった道は生活道路のようで、手を伸ばせば民家に届きそうなところさえある。英国とはまた違った美しさのある風景の中を、丹羽はむしろゆっくりとしたスピードで車を走らせていく。やがて民家が少しずつ減っていき、代わりに樹が増えてきはじめた。ぽつぽつと集落はあるものの、どうやら山の中に入ったようである。わずかにかかる朝もやの幻想的なカーテンが割れたとき ―― 。眼の前に壁があった。
「なんだっ !?」
「丹羽っ !!」
「わああっ、王様あっ !!」
 悲鳴をあげる三人を他所に、ギアをローに切替えた丹羽は、アクセルをめいっぱい踏みこんだ。
「うおりゃあーっ !! 行くぜえっ !! ひばりちゃあーーーーーーんっっっ !!!!!」
「うわあーーーーんっ〃」
 壁に見えたのは道路だった。それくらい傾斜がきつかったのだ。こんなところクルマが上がっていけるわけがない、と、ポットの入ったバスケットを抱きしめながら啓太は思った。

「はっはっはー。気持ちよかったな。最高だぜ」
 坂道を上がりきると、今度は1キロ近くストレートがつづいていた。その端まで思いっきりかっ飛んでからようやくスピードを緩めた丹羽は、中嶋と篠宮の抗議に応えて、道路脇の木立の下に寄せて車を停めた。啓太は即座にシートベルトを外してドアを開けたものの降り立つことはできず、転げ落ちるように地面にへたりこんだ。ひんやりした空気に包まれて、ようやく生きている実感が持てた。何度か大きく息をついてから中嶋はどうだろうと眼で探すと、篠宮ともどもちゃんと歩いてはいたが、やはり度肝は抜かれた様子である。丹羽だけが独り楽しそうにしていた。
「あれがスパ・フランコルシャン・サーキット名物、オー・ルージュの壁だ。俺らは今、スパのコースをオー・ルージュからラディヨン、裏のストレートと走ってきたわけだ。くーっ、たまんねえ」
「サーキットっていつの間に紛れこんだんだ」
「紛れこんだわけじゃない。スパってのは一部公道なんだよ。近所のねーちゃんに聞いてから、ずーっと走ってみたかったんだよなあ。あ、昨日のクリーク教えてくれたのもそのねーちゃんな。すげえんだぜ、そのねーちゃん。ずっとレースに通ってて……」
 そのままだと際限なく喋っていそうな丹羽を、怒気を含んだ篠宮の声が押しとどめた。
「だったら前もって一言くらい言っておいたらどうだ。心構えがあるとないとでは大違いだ。見てみろ。伊藤は立てなくなっているじゃないか」
 丹羽が振り返ってみると、地面にへたりこんだ啓太が熱いお茶をすすろうとしているところだった。中嶋がポットのお湯で淹れてやったものらしい。篠宮は足早に近寄ると、座席からコートを出して啓太の肩にかけてやった。
「悪ぃなあ、そんなに怖かったか? けどよぉ、地元の人はみんな使ってんだがなあ」
「丹羽……。おまえ、全然悪いと思ってないだろう」
 いつものごとく笑い飛ばそうとした丹羽を、中嶋が冷たく睨み返した。啓太はまだまともに口がきけそうにない。中嶋が怒るのもあたりまえと思ったか、篠宮でさえフォローに回ろうとしなかった。
「いっ、いや……。そんなこともない……けどよ」
 そこまで言いかけて、突然、丹羽は大きな音を立てて両手を合わせた。コップを両手で抱えこんだまま上目遣いに丹羽を見上げた啓太と、目が合ってしまったのだ。睨まれたわけでも泣かれたわけでもなかったが、とんでもない罪悪感に襲われたのだった。
 平謝りに謝ったあげく、次に通過する街でゴーフルを買ってやる約束までさせられて、ようやく丹羽は解放された。それからゴーフルの屋台が見つかるまで、ひばりちゃんの歌声が聞こえることはなかった。

 夕方より少し前。フランクフルトに入った丹羽は、旧市街近くの高層ホテルに車を停めた。カーディフ以来、一週間ぶりの近代的な建物だった。
「クルマには何も残すなよ」
 荷物を降ろしながら中嶋が言った。
「荷物を置いたら返しに行くからな。ポケットの中やクッションの下も確認しろ」
「はいっ」
「観光はあしたの昼にさせてやるからブーたれるなよ」
「えー? そんなことしませんよ」
 車を返すということは旅の終わりを意味する。だがそんな感傷に浸れるだけの時間などはなく、啓太は慌しく荷物を部屋に入れるとすぐに取って返した。車を貸してくれたミュラー家はここから20分くらいの場所だという。
 そこは郊外にある、ゆったりとした家がつづく街だった。今まで通ってきた街と比べて家が新しく感じられるのは、新興の住宅街であるからだろう。家の形や大きさなど、パーツとしては全然違うにもかかわらず、歴史の重みのない街のもつ雰囲気はどこか日本の住宅街とも似ていて、啓太ははじめて見るこの街を「懐かしい」と思った。
 その街でも大きな部類に入る家がミュラー家だった。通りからつづくガレージにはアウディとゴルフが停まっている。アウディの隣に車を停めた丹羽は、キィを抜いてからもしばらくハンドルを撫でていた。
「よく走ってくれたよなあ。さすがはアルピナちゃんだ。名残は惜しいがこれでお別れだ」
 家のドアが開いて、ミュラー夫妻と思しき40代くらいの男女が出てきた。促されて車を下りた啓太は、中嶋に紹介してもらって挨拶をした。
「よく来たわね、啓太。話を聞いて想像してたよりうんと可愛いわ。ところで彼は……、えーっと、哲也、だったかしら? 彼は何をしているの?」
 振り向くと、丹羽はまだ運転席に座ってハンドルを撫でている。それを見た啓太は、中嶋や篠宮が何かを言うより早く、運転席に走り寄っていった。
「王様、王様 !!」
「あん?」
 何度も窓を叩く啓太に、丹羽はうるさそうに窓を下げた。
「なんだあ?」
「このクルマ、みんなで洗いませんか? 長い間走ってくれたんだから、クルマにもお礼をしてあげましょうよ」
「洗って?」
「ああ、そうだな。俺もそれはいい考えだと思う。綺麗にして返すのは礼にもかなう」
 突然の提案に少しの間考えていた丹羽だったが、決めると早い。「おっしゃー」と気合を入れながら車を降りた。
「よく言ってくれたぜ、啓太。俺としたことがアルピナちゃんを埃だらけのまま返すとこだった」
 にやっと笑った丹羽が、啓太のアタマをがしがしと撫でた。
 
 河野に連れられた岩井がミュラー家についたのは、ちょうどみんなでワックスをかけていたときだった。最初は呆れたように見ていたミュラー氏だったが、あまりにも真剣に、それでいて楽しそうに車を磨きあげていく丹羽たちに共感するものがあったのか、その頃には一緒になってワックスがけをしていた。
「おやおや。これはすごい騒ぎじゃないか」
 思いがけず聞こえてきた日本語に啓太が顔をあげると、両手に花やシャンパンの包みを持った河野と岩井が立っていた。
「岩井さん !!」
「やあ啓太。何だかとても楽しそうだな」
 ワックスがけを放り出して、啓太は岩井のところに走っていった。会えたらすぐにラブ・スプーンのお礼を言おうと思っていたのだ。岩井が話してくれたからこそ、今度の旅行にカーディフが入り、啓太は中嶋からスプーンをもらうことができたからだ。同行こそしなかったが、篠宮や丹羽と同じく、岩井も今度の旅行では啓太にとって「なくてはならない人」であった。
 紅潮した顔で自分の前に立った啓太を、岩井はいつものように穏やかな微笑を浮かべながら見つめた。
「……うん。その様子なら受け取ったんだな」
「はいっ。有難うございました。岩井さんに教えてもらったんだって聞いてから、ずっとお礼を言おうと思ってたんです」
「お礼なんていわなくていい。啓太のその顔が見られただけで十分だ。俺もデザインした甲斐があった」
「えっ !? あれ、岩井さんのデザインだったんですか !!」
「ああ、そうだ。俺は……、そういうのはやらないんだが、中嶋が啓太に贈るスプーンとなれば話は別だ。喜んでさせてもらったよ」
「……岩井さん……」
「それより、意味もちゃんと聞いたか?」
「あ、いえ……。それは……」
 啓太がもらったスプーンは葡萄の葉やつるが複雑に絡まりあったものだった。その意匠にこめられた意味をいくら聞いても、中嶋は「さあな」とか「忘れた」とか言ってはぐらかしてしまうのだった。
「俺がその話をしたとき、中嶋はひとつずつ意味を聞いて、それで葡萄のつるを選んだんだ。デザインが気に入って選んだんじゃない」
 そして岩井は啓太の耳元で、小さくその意味を囁いた。啓太は大きく目を見開き、そしてふわっと笑った。

 旅の終わりは意外にあっけなかった。現地を夜に発つフライトだった所為もあって、啓太は大半を寝て過ごしたのだ。往きのビジネスクラスと違ってシートは狭く、リクライニングの具合もよくなかったが、ときおり毛布をかけなおしてくれる人の手を感じた啓太は、安心したように眠りつづけていたのだった。
―― 身も心も貴方に囚われています ――
 夢の中で啓太は何度もそのことばを聞いた。それは岩井からだったりラブ・スプーンからだったりしたが、その都度、中嶋らしい人影は向こうを向いてしまうのだった。
 ざわめきのようなもので啓太が目を覚ましたとき、機内ではリフレッシュメントが配られ始めていた。そんな時間まで眠っていたのは啓太だけだったらしく、ちょっと気恥ずかしい思いがした。
「そろそろ起こそうと思っていたところだ」
 そう言って中嶋は、自分のテーブルに載せていたアップルジュースを啓太に手渡した。先に配られていた飲み物を、啓太の分までもらってくれていたらしい。有難うございますと言う啓太に、中嶋はくちびるの端をつり上げだけで、すぐに丹羽との雑談に戻ってしまった。
 英国での日々から思えば、それはそっけないくらいかもしれない。だが啓太にはそれで十分だった。啓太だって女の子ではないのだ。べたべたしたりちやほやしてもらう必要はない。それよりもこんなふうに、知らん顔をしているようでいて眼の端でちゃんと見てもらっている方が、どんなにかうれしかった。

 入国手続きをして空港の外に出ると、外は春一色になっていた。出国前に芽がほころび始めていた街路樹は、すでに葉を広げていた。まだ小さくて色も浅かったが、それでも「春」以外の何ものでもなかった。英国でもちらほらと緑が見えはじめていたが、こうやって日本の春を目にすると、全然違うことがよくわかる。日本の春っていいな、と啓太は思った。
「どうした。何を見てる」
「あ……。春だなあって」
「ふん。おまえの頭の中はいつでも春だろう」
「もうっ」
 怒ったフリをしてじゃれついているうちに、他のメンバーも手続きを終えて集まってきた。これで旅も終わる。そしてみんながそれぞれの道を歩き始めることになるのだ。
「よう、楽しかったな」
「ああ。またどこかへ行きたいな。同じメンバーで」
「賛成だ。啓太の受験もあるし、再来年の夏休みあたりか?」
「ああ、そうだな」
「どうせ大学もマンションもみんな近いんだ。いつだって集まれるし相談もできる」
 彼らには珍しく、別れがたい気持ちが全員を支配していた。しかしいつまでもこんなところに立ち止まっているわけにも行かないし、広島まで帰る篠宮の飛行機の時間もあった。
「篠宮。羽田まで送るから乗っていけ」
「いや、しかし……」
「かまわん。どうせ帰り道だ。ツードアのリアで丹羽とふたりはきついだろうがな」
「そうか。すまんな」
「俺は河野さんに千葉まで送ってもらう。まだ少し荷物が残ってるんだ」
 それ以上話せるものがなくなったとき、邪魔にならないよう脇に退いていた啓太が、ナイロンの手提げ袋をふたつ差し出した。
「あのっ、これ……。篠宮さんと岩井さんに」
「……なんだろう」
「俺たちになのか?」
「はい。王様にも同じものがあるんですけど、マンションに帰ってからにしますね」
 つまらない遠慮などせず、篠宮と岩井が受け取ってみると、中には少し淡いカーキ色のセーターが入っていた。
「これ、陸軍の軍用セーターなんです。ドライブ連れてってもらったときに、軍の放出グッズ売ってる店を見つけて買いました。俺から篠宮さんたちへのお礼です」
「礼か? 俺は何も伊藤に礼をもらうようなことはしてないつもりだが」
 いいえ。そういって啓太は首を振った。
「俺……。俺、皆さんと出会えて、一緒に旅行ができて、本当にうれしかったんです。今度の旅行は俺の一生忘れられない思い出っていうだけじゃなくて、俺の財産になったような気がするんです。王様にも篠宮さんにも岩井さんにも、お礼なんて言い切れないくらい可愛がってもらいました。あの……。本当に、有難うございましたっ !!」
 ぺこりと頭を下げる啓太を、全員が温かい眼で見守った。表現は幼いかもしれないが、啓太の心からのことばであることは、誰にも疑いようはなかった。
「……わかった。有難く使わせてもらう」
「俺もうれしいよ。おそろいのセーターなんだな」
「あと、俺のが空軍用で中嶋さんのは海軍用なんです」
「そーか、そーか。自分たちだけは別って訳だな」
「それはそうだろう。同じものが着られるか。なあ、伊藤」
 そうしてひとしきり笑いあったあと、誰からともなく荷物を取り上げた。
「じゃあまた」
「ああ。落ち着いたら連絡する。といっても、実家にいられるのは2、3日だが」
「俺も、家のことが片付き次第、東京に出るから……」
「んじゃ次はヒデの家で飲み会、ってことで」
「そうだな」
 いつまでも立ち止まっている5人を促すように、春の風が吹き抜けていった。乱された前髪をかきあげた中嶋が、傍らに立つ啓太に眼を向けた。
「よし……。じゃあ帰るぞ、啓太」
「はいっ」
 今の今まで。啓太は中嶋と一緒に旅行に行けたのを喜んでいた。だが本当の喜びは、中嶋と一緒に同じ家に帰れることであり、そこでごく普通の生活を営むことであった。そしてそれに気づいたとき、啓太の旅は終わりを告げたのだった。





いずみんから一言。

お、終わった……。終わったぞおおっ!!
長かったよぉ。資料を集め始めたのが1月。「海野先生の失恋」を先に書いて、このシリーズに取りかかったのが3月。書き終わったらもう11月も終わろうとしています。つまり今年1年を、ほぼこのシリーズのために使ったようなものです。
途中でサイトを替わらなければならない事態になったりもしましたが、とにもかくにもエンドマークがつけられたのは、背中を押してくださる皆様方のおかげです。本当に有難うございました。
この稿を書くにあたってA国政府観光庁からいろいろとご協力を頂きました。また、S女子中高図書館、O図書館からも便宜を図って頂きました。この場を借りてお礼を申し上げます。出来上がったものがお見せできないのが残念です。
そしてこの長ったらしいものを最後までお読みくださった貴女に。心からのお礼を申し上げます。
どうも有難うございました。
                                             霜月吉日 伊住真木

ついしん
王様にクリークのことやスパのコースのどの部分が公道かを教えたねーちゃんというのは、実は私のことです(笑)。90年F1ベルギーGPにいき、リエージュで泊まってスパに通っていました。「雨のスパ・フランコルシャン」で3日とも晴れてしまってがっくりしたのも私ですし、クリークを注文してみんなから「何を注文したん?」と言われたのも私です(爆)。テレビで見るとわかりにくいですが、オー・ルージュは冗談抜きでホントに傾斜がきついです。地元の方はあれを下ってルのかと思うと……。ぶるぶる
王様が啓太に買ってやる約束をした「ゴーフル」というのは、某チェーン店でおなじみのベルギー・ワッフルのこと。形は同じようなものですが味は全然違います。すごく美味しいので、スパに行っていた3日間、毎日ふたつかみっつは食していました。機会があればまた食べてみたいものです。




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