Sweet,Sweet,
Honey Moon

〜 10.思い出の中の場所 〜




 最後にもう一度、啓太はホテルを振り返った。左右対称の小さな建物は、レンガ色に塗られた壁と、それを引き立てる窓周りの白いアクセントで飾られている。ベイウインドウのように前に突き出した部分には小さくとんがった屋根がのり、建物の可愛らしさを強調しているかのようだ。
玄関からまっすぐに伸びる、白い二本柱に支えられたポーチの下をくぐって、啓太は何度外へ出ただろう。道路までの短いアプローチの左右に、ランダムに配置された低い植え込みには、今まで気づかなかった新芽が吹き始めていた。
中嶋とふたり、蜜のように凝縮された時間を過ごした部屋はこの反対側で、ここから見ることはできない。啓太にとってその方がいいようでもあり、また、残念なようでもあった。
「啓太。かっこよく "I'll be back"とかって決めてみろや」
 ホテルの玄関まで車を回してきた丹羽が、運転席から軽口を飛ばした。
「来るんだろ? 大学、通ったらよ。また」
「いや。来るには来るが、多分ここは使わない」
 荷物を積みこんでいた中嶋が、後部座席に乗りこみながら言った。瞬間。丹羽はものすごい勢いで中嶋の方を振り向いた。助手席の篠宮でさえひそめた眉を中嶋の方に向けた。
「ってヒデ。それは啓太に言うなよ」
「何故だ? あいつが合格したら夏休みに来るつもりだ。今の時季はクルーズもなかったし、いろんなイベントがまったくなかったからな。ひと月まるまる滞在するなら、キッチン付の部屋を借りた方がいいじゃないか」
「あ。さようで……」
「今の学力から同じ大学に来ようとしてるんだ。俺たちの何倍の努力が必要だと思う? それくらいのご褒美は考えてやってもいいだろう」
「だとすると大変なのはむしろ中嶋、おまえの方だろう」
「俺のはただの道楽だ。好きでやるものに苦労はない」
 車の中にいた全員が示し合わせたように啓太の方を見た。それを促しているととったのか、見送りに出ていたジョージがドアを開けた。中嶋の隣に乗りこんだ啓太の膝に、手にしていたバスケットをのせる。そして初対面のときのように啓太の手にキスをすると、思いを断ち切るようにドアを閉めた。
 サイドブレーキをおろした丹羽は、ふと気がついて啓太の側の窓を開けてやった。中嶋が啓太の膝のバスケットを自分の方に引き取る。啓太はまるで重石が取れたかのように窓から身を乗り出した。
「有難うございました !! ジョージさん、俺また絶対来ますから。有難う……」
それが日本語になっていることも気づかず、啓太はジョージにお礼を言いつづけた。そして彼の姿が見えなくなるまで手を振っていた。
のろのろと車を走らせていた丹羽は、角を曲がってからようやく制限速度までスピードを上げた。しばらく誰も何も言わなかった。バスケットを抱きしめて泣きはじめた啓太の邪魔をしないように、篠宮は指で方向を指示していた。

 啓太が落ち着いたのは、高速道路に上がってからのことだ。中嶋に手渡されたハンカチはぐしゃぐしゃになり、篠宮のポケットティッシュは空になっていた。
「……落ち着いたか」
「……はい。あの……、ごめんなさい。なんで泣いちゃったのかな……」
 ゴミ箱がわりに持っていた紙袋に使ったティッシュを入れながら、啓太が小さい声で謝った。その声があまりに申し訳なさそうだったので、丹羽が豪快に笑い飛ばした。
「いいじゃねぇかよ。それだけあの人に可愛がってもらったってことだろ? 俺らももう一日早く来て、あの人と知り合いたかったぜ。ちゅーか、交通規制さえなけりゃ、昼頃までここにいることだってできたのに。そしたらもう少し話もできたんだ。なあ、篠宮?」
「ああ。丹羽の言うとおりだ。会えなくて残念だと思う」
「……ジョージさんは昨日、お休みだったんです。今日は昼からだったんですけど、見送りに来てくれて……」
 また涙がにじんできそうになって、啓太は慌ててことばを切った。確かめたわけではないが、ジョージはおそらく啓太が男だと気づいていた。だがそんなことはおくびにも見せず、啓太に優しく接してくれた。そして「君とヒデはこのホテル始まって以来のベストカップルだ」とまで言ってくれたのだ。小さい頃から中嶋を見守ってきたジョージは、啓太にとっても「英国のお父さん」といえる存在になっていた。啓太はティッシュを拾い集めている間、座席に置いていたバスケットをまた膝に抱いた。ジョージの心が詰まったバスケットは、ふんわりと温かい気がした。
「で? そのバスケットは何なんだ?」
「お茶のセットです。まだ寒いからって、熱いお茶をポットに入れてくれてるんです。この間もドライブ行くときに持たせてくれました」
「……ああ。あのくそ甘ったるい紅茶な……」
 中嶋は嫌そうに横を向いたが、篠宮があとを引き取った。
「そうか。暖かいご配慮だ。あとで有難く頂こうな」
「……はい」
「あの人に会えただけでも、この街に来てよかったじゃねえか。そういうのはな、なんつぅか、その……、財産みたいなもんだからよ」
「……はい」
 そう言って頷きはしたものの、本当の財産はそんなふうに言ってくれる丹羽たちなのだということに啓太は気づいていた。今度の旅行では何度も丹羽や篠宮の大きさ、懐の深さにふれることができた。今から2年後。自分は彼らのように大きな男になれているのだろうか?
 だがそんなことより今はジョージだった。何も求めないからこそ、啓太は彼の厚意に少しでも自分の気持ちを返したかった。
―― ジョージさんは捨てていいって言ったけど、フランクフルトからちゃんとこれを送り返そう。みんなで撮った写真に寄せ書きをして添えたいけど、それは中嶋さんが嫌がるだろうな……。
 そう思ったとたん、くすっと笑った啓太に、丹羽がほっとしたような声を出した。バックミラーで啓太の様子を見ていたらしい。
「よしよし。ようやく笑ったな」
「はいっ。本当に寂しかったんですけど、でもこれって、今度会う楽しみができたってことですよね」
「おーお。前向きじゃねえか。上出来、上出来。んじゃよヒデ。そろそろルート決めてくれねえか?」
 ああ、そうだな。そう言って中嶋は手元の地図を広げた。啓太には言っていなかったが、出発を遅らせたことで、今日、立ち寄る予定だった街を変更せざるをえなくなっていたのだ。だがそれは啓太の知る必要のないことだ。話し合ったわけではないが、誰もそんなことをわざわざ口に出したりはしなかった。要は船のチェックインが始まるまでにハル港にたどり着いていさえすれば、何も問題はないのだった。

 リーズで高速道路から下りて休憩を取った丹羽は、A659を北上して公園都市ハロゲートで車を停めた。結婚のごたごたから逃れてきたアガサ・クリスティが滞在していた街である。往時の華やかさに欠けるとは言われるが、季節を感じさせない美しい庭園、高級な店が建ち並ぶショッピングストリート、そして数多くの高級ホテルは、啓太たちを楽しませるには十分だった。
「リーズで甘ったるい紅茶を飲んだから」
 オックスフォードストリートをのんびり歩きながら中嶋が言った。リーズではドネル・ケバブのスタンドを見つけたので、紅茶だけでなくピタパンにはさんだケバブも食べていた。にもかかわらず、ことさらのように「甘ったるい紅茶」を強調したがる中嶋の心理には、歳相応の子供っぽさが見え隠れしていた。
「昼食は少しくらい遅くなってもかまわないだろう?」
「ああ、かまわないが?」
「俺もいいぜ? 啓太はどうだ?」
「あ、俺も大丈夫です」
 豪華なつくりの街並に目を奪われながら啓太が答えた。どこがと言われると、うまく答えられなくて困ってしまうかもしれないが、今回訪れた中でいちばん豪華な街であることは啓太の眼にも明らかで、車を降りてからずっときょろきょろしどおしなのだった。
「じゃあこっちだ」
 そう言って中嶋が次の角を左に曲がった。ラドローほどではないにしても、ここは日本人にはマイナーな街であるらしく、篠宮の持っていたガイドブックには載っていなかった。観光案内所に行けば地図とタウンガイドは手に入るのだが、まだ見かけていなかったのだ。だからいつもは先頭にたつ篠宮も、今は手ぶらで中嶋のあとをついて歩いていた。
「しかしよく知っているな」
「ここは我が家の女どもが好きな街で、何度か来たことがあるんだ。チェスターと違って広いから、放りっぱなしにしてもらえずに連れて歩かれていた」
 それはこの街にジョージさんがいなかったからだ。自嘲気味にくちびるの端をつり上げる中嶋の横顔を見ながら、啓太はそう思った。会ったことはないが、中嶋の端整な顔立ちを見れば、彼の母や姉の美しさは容易に想像がつく。きっとこの街を歩いていても違和感がないくらい豪華な雰囲気をもった人たちに違いない。その所為か「幼い息子(弟)を連れて歩いている母(姉)」といった微笑ましさは微塵も感じられず、石造りの建物と相俟って、冷たい印象しかもてなかった。それに比べてハーフ・ティンバーの建物が並んだチェスターは、なんて温かみにあふれた街だっただろう?
「普通は予約が要るんだが、まあ大丈夫だろう。……ああ。でもまあ、その前に」
「なんだあ? えらく思わせぶりだな」
「いや……。こういう機会でもないと来ないからな」
 一度、足を止めかけた中嶋だったが、その角を曲がってさらに歩いた。どこへ行くのかと訝る一行の様子に、中嶋はどこか得意そうだった。そしてもう一度角を曲がったところで、向こうに見える4階建てらしい建物を指差した。
「アガサ・クリスティが一時失踪してただろう」
「ああ。映画にもなったな」
「その時に滞在してたホテルがあれだ」
 丹羽と篠宮が揃って「へえ〜」という声を出した。

「はっはっは」
 丹羽が思い出したように笑い出した。
「啓太のやつ、クリスティが失踪してたの知らなかったんだからよ」
「ああ、意外だった。図書館でよく借りてたんだがな」
 中嶋が行こうとしていたのは、ロイヤル・バス・アセンブリ・ルームズにあるトルコ風呂だった。風呂といっても小さなプールにしか見えない水風呂とサウナしかなく、あとはエステのようなマッサージがあるだけだ。ところがこれがなかなかの人気で、予約をしていない中嶋はサウナとレストルームだけを利用しようとしたのだった。ところが啓太はサウナの熱気に耐え切れず、早々に退散することになってしまった。中嶋が啓太をもっと温度の低いレストルームに連れて行っている間に、丹羽が啓太を笑い話のネタにしていたのである。
「ヒデの野郎も啓太に見せるつもりで連れて行ったんだろ? へっへっへ、残念なこって」
「俺も中嶋のあんな間の抜けた表情ははじめてだったな」
 篠宮までが思い出し笑いをしながら、ふたりはサウナから出た。このあとも車を運転しなければならないのだ。あまり身体を絞るわけにはいかなかった。
 探してみると、啓太と中嶋は「Tepidarium」という部屋で寝そべっていた。そこは「暖かい」というレベルの部屋で、横になってリラックスできるようになっている。中嶋の隣で同じように寝転んでみると、身体の中から疲れが溶け出していくようだった。同じところに5泊もした啓太たちと違い、毎日移動をつづけていた疲れが、知らないうちにたまってしまっていたのかもしれない。丹羽も篠宮も、しばらくは何も言わずに、ただぼーっと横になっていた。
「ああ、なんか思いっきりのんびりするなあ」
「クリスティだけじゃない。バイロンやオスカー・ワイルドなんかもここがお気に入りだったようだが、それも頷ける気がするな」
 同じ建物内にある観光案内所から、篠宮は早速、資料をもらっていたようだ。ようやく本領発揮といったところなのだろう。説明する声がやけに楽しげだった。
「んで? これからどうするんだ?」
「ここを出たらまずは食事だな。せっかくだからベティズでも行くか。あとはテイラーズで紅茶を仕入れたら終わりだ。ハルで時間があれば夕食になるものを買えるだろう」
 おっしゃー。と言って丹羽が立ち上がった。
「船のメシはぜってー不味い! だからとっとと行ってなんか確保しようぜ」

 船の食事が本当に不味いのかどうか、確かめることはできなかった。出航の1時間以上前にハル ―― 正確にはキングストン・アポン・ハルという実に長ったらしい名前がついている ―― に着いたので、中華料理をテイクアウトで買うことができたのだ。子供っぽいところの残った啓太は、外国人の目にはかなり小さい子供に思われたらしく、店のおばさんから「船室にあるお湯でお飲み」と言って、烏龍茶のティバックをサービスしてもらっていた。
 船のタラップを上がっていくと、塗料とエンジンオイルと潮の臭いが混ざった、船独特の臭いがまとわりついてきた。これに馴染めなくて船酔いする人間は多い。さらに外洋に出ると揺れも大きくなるに違いない。啓太には早めに酔い止めの薬をのませておこう、と中嶋は思った。
 船室は思ったよりもさらに狭く、部屋の両端に取り付けられた二段ベッドの間に、応接セットがどうにか収まるだけの広さしかなかった。それでもトイレと洗面所だけでなくシャワーもついているのはそこそこの部屋であるからだ。部屋に入った一行は、まずベッドの割り振りをした。入って右側のベッドの上が啓太、下が中嶋。左側のベッドは上が篠宮、下が丹羽である。ベッドが決まると、啓太は自分のベッドにもぐりこんでしまった。中嶋がのぞきこんでも、シーツの端をつかんで顔を出そうとはしない。
「どうした。外へ出ないのか」
「あの……。俺、少しこうしてますから、皆さんはデッキに出てください」
「ひとりで大丈夫か」
「はい。帰ってきてくれるまでこのままいます。外にも出ないから大丈夫……」
「……わかった。いい子にしてろよ」
 中嶋は他のふたりを促してそっとドアを閉めると、まだ寒い潮風を嫌って、階上にあるガラス張りになったラウンジに上がっていった。向かい合わせになったソファや肘掛け椅子がいくつも並び、前方のドリンクバーではふたりいる係員がコーヒーやビールを出すのに忙しそうだった。
「啓太はどうしちまったんだ?」
「わからんが、英国から離れるのを見たくなかったんじゃないか。口ではあんな強がりを言っていたが、船に乗ってみたら急に実感がわいてきたんだろう。今頃はジョージにもらったヴィクトリアン・サンドイッチを、泣きながら頬張っているかもしれん」
「じゃあしばらくここにいた方がいいな」
「すまんな」
「いや……。伊藤が一緒でも俺たちはここにいた。結局は同じさ」
 このとき、かすかなうねりが彼らを包んだ。窓の外に目をやると、港の灯りがゆっくりとうしろへ流れている。ハルは長く切れこんだ入り江の奥深くにあるので、しばらくは左右に灯りが見えつづけるだろう。それがすべて消えたとき、英国は思い出の中の場所になるのだった。




   中嶋さんへ

 チェスターでの5日間、本当に有難うございました。
 綺麗な風景もジョージに会えたこともうれしかったけど、
 中嶋さんが俺のためだけにずっと一緒にいてくれるのが
 何よりも一番うれしかったです。
 チェスターだけじゃなく、スプーンをもらったカーディフや、ドライブに
 連れて行ってもらった街。リバプールの夜景。そして小さなラドローも
 何もかも、この旅行のことは一生忘れません。
 このあいだもうまくお礼が言えなかったから、こうして
 はがきに書いておきます。
 俺が学園に戻ったあとでこのはがきを受け取ってください。
 心からの感謝をこめて。
                                     啓太





いずみんから一言。

ヴィクトリアン・サンドイッチというのは、2枚のスポンジケーキの間にジャムを塗ってこってりした
クリームを挟んだものだそうです。ケーキ屋で買ってくるというよりはご家庭で作るイメージがある
ので、啓太くんがもらったのはきっとジョージのお手製でしょう。
それはさておき。
ようやく英国を離れました。
前サイトでの企画「新婚旅行先はどこでしょう」にご応募くださった方が書いてこられた地名は、
できる限り書きこみました。どうしても入れられなかった方はごめんなさいです。
おかげさまで王様と篠宮の旅行ルートは非常にマニアックなものになりました(笑)。
ご参加くださった方々には、あらためましてお礼を申し上げます。
あとはベルギーを通ってフランクフルトに行けばおしまいです。
あと1回。長くても2回で終わりますので、もう少々おつきあい頂けましたら幸いです。




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