声が聞こえる。 俺を呼ぶ声。名前を呼ぶ声がする。 俺はその声を聞くたびに泣きたくなるんだ。 会いたくて、会いたくてたまらなくなる。 だから、だから・・・決めたんだ。 森においで 「あの・・本当にこの道で・・。」 俺は恐る恐るヒデさんに声を掛けた。 暗いくらーい森の中、ヒデさんの黒い体は闇に溶けてよく見えない。 「問題はない。」 「でも、かなり歩いて。」 「・・・疲れたのか?」 「・・少しだけ。」 凄く疲れていた。足が痛くてもう歩けそうになかった。 「仕方がないな。少し休むか。」 「はい。」 ヒデさんの言葉に勢い良く頷いて俺は木の根元に腰を下ろした。 「はあ。」 足は痛いしお腹もすいた。 「・・・だらしないな。」 「だって、今朝からずっと歩いてたんですよ。」 ぷうとふくれてヒデさんを見つめる。 「そんなのお前の勝手だろう。」 だけどヒデさんは冷たくそんな事を言う。 「あと、どの位・・ですか?」 「さあな、半時ほどだろう。」 「本当に?」 「・・・・疑うのか?」 見つめる瞳がすうっと細くなる。 「う、疑ったりしてません。信用してます。本当に。」 びくびくと震えながら首を振る。 さっき知り合ったばかりなのにすっかり主導権を握られてしまった気がする。 でも・・。 「俺、信じてますからね。疑ったりしていませんよ。」 不思議なんだけど、それがちっとも嫌じゃない。 「本当ですよ。」 だって、ヒデさんと会わなかったら、俺は未だに森の中を一人で彷徨っていたかもしれないんだ。 ヒデさんと出会ったのは森が夕闇に染まる頃だった。 道に迷っていたことも知らず延々と歩き続けて、行けども行けども目的の場所は辿り着く気配もなくて、途方にくれていたときだった。 「お前はどこにも辿り着く事は出来ない。」 突然声が聞こえて俺は辺りを見渡した。 薄暗い森の中、張りのある声がこだまする。 「え。」 「お前はどこから来た。どこへ行く。」 「東の国・・・あの・・森の奥の大きな湖のあるところまで。」 返事をしながら声の主を探したけれど姿は見えない。 俺はぎゅっとほうきの柄を握り締めながら、怯えていると悟られないように大きな声を出した。 「どこに居るんですか?出てきてください。」 魔物かもしれない。もしそうなら俺はここで終わりだ。 ざわざわと森が鳴く。闇が動く。 俺は怯えを必死に隠しながら、声の主を探し続けた。 「・・・・お前は正しい道から外れている。」 「え。」 ざざざっと目の前の大きな木の枝が揺れ、俺はその木を見上げた。 頭上の枝にいたのは一匹の黒猫。 綺麗な綺麗な猫だった。 「ここは、迷い道。お前は魔の森の迷い道に入り込んだ。」 「嘘。だって、俺ちゃんと地図を見て。ほら、これ。」 猫が話すなんて聞いたことない。魔物?だけど俺を襲う様子もない。 驚きながら俺は地図を見せた。 北の国から来たという魔法使いから買った地図は、薄暗い森の中でほの白く光っていた。 「地図などなんの役もたちはしない。魔の森は強い魔力に守られた場所だ。魔物とあとは強い力を持つ一部 の魔法使い以外この森を抜けることなど出来はしない。 それにな、例え力があっても、道を外せば簡単に迷い道に入り込む。 正しい道を探そうとすればする程に迷う。死ぬまで迷い続ける。」 猫の言葉に俺は言葉を無くした。 魔法使いは、東の国から湖までは大人の足で約半日、そう言っていた。 少し道は暗いけど、でも魔力があるなら辿り着く事は出来る。そう聞いていたんだ。 「そんな。」 「お前みたいな半人前が一人でこの森に入るなんて無謀だ。」 「だって、だって一人じゃなきゃ駄目なんです。だから俺は城を抜け出して。」 妹の服を無断で借りて変装したんだ。 誰にも見つからないように。 黒いワンピースに赤いリボン。丈が少し短かったけど、長い靴下を履いてむき出しの足を隠したから大丈夫。 愛用の皮のブーツを履いて、食料の入ったバスケットを持って、朝早く一人で城を抜け出した。 「城?」 「あ・・。」 だけどこの話は内緒。俺の身分は秘密なんだ。 「どういう事だ。」 「あの・・俺は・・・。」 「嘘はつくなよ、俺は嘘が嫌いだ。」 「嘘・・・あの・・・俺。」 どうしよう。どうしたらいいんだろう。 「お前は本当に東の国の人間なのか?ならばなぜ魔力が使える。」 「わかりません。俺には昔から不思議な力があるんです。東の国に魔力を持つ人間はいません。魔力を持つ 人間は北の国の一部の人だけでしょ?」 「基本的にはそうだな。」 「だけど、俺には昔からその力があるんです。 夢に見たことが本当になったり、魔法が・・小さな物ですけど使えたり。」 俺だけが力を使えた。どうしてか知らないけど俺だけが。 この力は俺を守ってくれたけど、だけど・・・。 「それで。」 「眠ろうとすると、声がするんです。俺を呼ぶ声。その声を頼りに俺は夢の中でこの森に入り・・そして湖に辿り 着く。小さい頃から時々見ていた夢でしたけど、最近では毎晩この夢を見るんです。声を聞くんです。」 「・・・声。」 「はい、俺を呼ぶ声。」 囁くようなその声が聞こえると、俺は泣きたくなってしまう。 今すぐそこに行きたくて、会いたくてたまらなくなる。 だから行かなくちゃ。早く・・・早く。なのに、迷い道に入り込んでしまったなんて。 「なら、道案内をしてやろう。」 「道案内?」 「そうだ。俺がお前を連れて行ってやるよ。その場所まで。」 にやりと笑って黒猫は俺の足元に音もなく降りてきた。 「・・・お前の名前は?」 「俺は、啓太です。」 「そうか。俺はヒデだ。」 それがヒデさんとの出会いだった。 「少し寒いですね。」 慣れないスカートなんか履いてるから足元が冷えてしまう。 「そんな変な格好をしているからだろう。」 「・・・変ですか?あれ?スカート短いから?」 立ち上がり、魔法で鏡を出して全身を映してみる。 「そういう問題か?・・お前は似合うと言われたほうが嬉しいのか?」 「変だって言われるよりは嬉しいですよ。」 「変わった奴だな。」 「そうですか?・・ま、いいか。ヒデさんお腹すきませんか?パンと林檎しかありませんけど、一緒にどうですか?」 座り込みバスケットから食料を出しナイフで切り分けると、バスケットの上にハンカチを敷いて並べ始める。 「・・・ええと、後はお水・・。あ。」 並べながら気がついて、ヒデさんを見つめた。 「ヒデさん。どうやってお水・・。」 「お前の手があるだろう?」 「手・・・ああ。」 そうか。 「じゃあ、後で。とりあえず食べましょう。」 ぱくりとパンに齧りつく。 ヒデさんは前足で器用にパンを押さえながら食べている。 「それで?湖に行ったらどうするつもりだ?」 「・・声の人に会える保障はありません。でも行きたいんです。」 もぐもぐとパンを食べながら俯いて答える。 会える保障なんか無かった。 いくら俺の夢は本当になることが多いといっても、それでも夢は夢でしかない。 だけど、会いたかった。どうしても、会いたかった。 「どうして?」 「大切な人なんです。きっと。だって声を聞くだけで俺は泣きたくなってしまう。会いたくてたまらなくなってしまうんです。・・・それに・・。」 もうひとつ大事な理由があった。 「ふん。」 ヒデさんは、俺の話に呆れたように小さく鼻を鳴らした後、小さくきったパンと林檎を器用に食べ終えて「水。」と一言言って俺を見上げた。 「あ、水ですね。ええと。」 少し指先を洗ってから手のひらに水を注いで差し出す。 「どうぞ。」 「・・・。」 ぴちゃりぴちゃりと水を舐める。 「・・。」 ぴちゃ・・ぴちゃと舐め続ける。俺の顔を見上げながら。 なんだか少し変な感じ。 「あの・・。」 「もう少し。」 くすぐったいとは言えずに、言われるままに水を注ぐ。 「どうぞ。」 ぴちゃぴちゃぴちゃ。手のひらにヒデさんの舌の感触。どうしよう。なんか俺・・。 「ヒデ・・さん?」 どうしよう、くすぐったいというより・・これ・・。 「どうした。」 「あの・・くすぐったくて。」 そうじゃないけど、そう言うしかない。 「気にするな。」 一瞬にやりと笑ったような気がして、ヒデさんの顔を凝視する。 「嫌か?」 「え・・いえ、そうじゃなくて。」 嫌じゃないから困るんだ。 くすぐったいのは・・舐められた指先じゃない。だから困る。 それに・・なんか俺、ヒデさんに逆らえないんだもん。どうしよう。 「くく・・。」 「え?」 「いや、いい。」 そう言うとヒデさんは俺の膝の上に乗ってきた。 胸の上に前足を掛けて、俺の顔をじっと見つめてる。 「え。」 「・・・どうした。」 「どうしたって・・・。」 どうしたって言われても・・。 俺の方が聞きたいよ。どうしてそんな目で見るんですか?って 「ヒデさんって、猫なんですよね?でも、この森の中で平気でいるんだから、魔物?」 「お前にはどう見える。」 どうって、猫だけど・・猫に見えない。 「分かりません。」 魔物を信じちゃいけない。大人しい動物に見えてもそれは幻。優しく綺麗な姿で人を誑かす。そう聞いたことがある。 御伽話。それは寝物語に聞いた御伽噺。 怖がりの俺が、魔物の話だけは好きだった。 大きな金色の鳥の物語、人の血を吸って生きる魔物の話。そんな話を聞くのが好きだった。 ヒデさんが魔物なら、猫の姿を信じちゃいけないのかもしない。 俺を殺して俺の体を骨も残さず食べてしまうのかもしれない。 「ヒデさん?」 「なんだ。」 綺麗な瞳が俺を見つめる。 こんな綺麗な猫を俺は今まで見たことがない。 こんな眼で見られた事なんか、今までない。 「俺、あなたが猫でも、魔物でも・・信じます。」 そっと頭を撫でる。 「信じる・・。そうか。」 猫が笑うわけないのに、ヒデさんは笑っているような顔で頷いた。 「はい。」 だって出会えなければ、俺は一人だった。 この暗い森を一人で彷徨い続けなければならなかった。 「素直に信じていいのか?」 「いいんです。だって俺にはヒデさんが怖い人・・怖い猫?には見えません。 それに、ヒデという名前は俺にとっては、東の国の人間には尊い名前なんですよ。だから、信じます。」 ヒデさんを信じる・・と言い切ることがなぜか恥ずかしくて、俺は更に理由をつけた。 「尊い?」 「ええ。昔昔、荒れていた東の国を守り栄えさせた。王哲也とその片腕だったヒデ。有名な話です。」 「有名ねえ。・・ふうん?」 「王哲也が亡くなった後、ヒデは王との約束を守って、東の国を守り続けたんです。ずっと。」 魔物の話と同じくらい俺はこの話が好きだった。 それは遥か昔のお話。むかしむかしで語られる英雄の物語。 東の国の始まりの物語。 「俺ねこの話が大好きで、小さい頃眠る前に良く話をしてもらいました。」 俺にとって二人は昔話なんかじゃなかった。生きている英雄だった。 「・・・ふん。」 「だからヒデという名前は・・あの・・ヒデさん?」 すうっとヒデさんの瞳が細くなる。 あれ?俺何か悪いこと言ったの?怒らせちゃったの?不安になりながら名前を呼ぶ。 「ヒデさん?あの・・。」 さっきみたいに笑って欲しい。なのに笑ってくれない。 「くだらないな。そんな話。そんなものはただの昔話だろう?作られた物語だ。」 冷たい顔で、冷ややかな瞳で俺をただ見つめるだけ。 「くだらなくないですよ。どうしてそんな事言うんですか?」 大切な人を馬鹿にされたみたいな気がして、俺は悔しくて涙が出てきてしまう。 上手くいえないけど、俺にとって、ヒデは大切な人だった。ずっと憧れの人だった。 「さあな。・・・・泣くな、ばかもの。」 ぺろりと目元を舐められて、俺は子供みたいにクスンと鼻を鳴らした。 「だって。ヒデさんが悪いんです。」 「そうか。」 「そうか・・て。あ、くすぐったいです。」 ぺろりと頬を舐められる。 「ヒデさん・・。」 「泣くな。いいな。」 「はい。」 どうしてだろう。俺、素直に頷いてしまう。 「泣いたりしてごめんなさい。」 「謝る必要はない。」 「・・でも・・あ。」 ぺろりと唇を舐められて、俺はビクリと震えた。 「ヒデ・・さん?」 なんで・・?どうしてこんなことするの? 「しゃべるな。」 どうして・・そんな眼で俺の事を見るの? 「あの・・。」 どうしよう・・・なんで俺は嫌じゃないの? 戸惑いを感じながら、俺は動くことが出来ずにヒデさんの瞳を見つめていた。 「・・あの・・。」 「・・邪魔が入ったな。」 ヒデさんの気配が変わった。 「え?邪魔?」 「・・・・・・しゃべるな。」 瞳の色が変わる。気配が変わる。 「ヒデさん?」 なに?なにかが近づいてる。動物の唸り声・・・沢山の気配。 「啓太。お前飛べるんだな?」 「え?はい。一応ほうきには乗れます。」 なぜそんな事を急に言われたのか分からないまま頷く。 「ここからまっすぐ飛ぶんだ。いいな。何を見ても何を聞いても気にするな、かまわずに進むんだ。」 「え?でも。ヒデさんは?」 「すぐに追いつく。・・・・お前のその髪のリボンを置いていけ。それで場所が分かる。」 「え?はい。」 言われるままにリボンを外し、ヒデさんの右の前足に包帯のように結び付ける。 「振り向かずまっすぐ飛ぶんだいいな。」 「はい。」 言われるまま俺はほうきにまたがり宙を飛んだ。 「まっすぐ飛ぶ。・・出来るだけ早く。」 闇の中、のばした指先さえ見えない闇の中を、俺はかなりのスピードで飛び続けた。 「ヒデさん・・・大丈夫なのかな?」 さっきの場所からどれくらい離れたのだろう?もう、安全なのだろうか? 「ヒデ・・さん?」 そっと地面に下りて名前を呼ぶ。だけどヒデさんの気配はどこにもない。 「ヒデ・・・え。今の・・・。」 遠くから獣の声が聞こえて俺は思わず振り返った。 「まさか・・。俺・・・なんで一人で・・。」 疑いも何もなく、言われるままに逃げてしまった。 まさか、囮に?そんな・・・。 「ヒデさん!!」 早く戻らなきゃ・・・早く。 「今の声・・ヒデさんじゃないよね?違うよね?」 慌ててほうきにまたがって、今飛んできた道を戻ろうとする。だけど。 「なんで?」 さっきは何の障害も無く飛べた道が、枝に遮られて上手く飛べない。 「さっきはこんな枝なんて。」 仕方なく地面に下りて走り出す。 声のする方へ、必死に走る。 「ヒデさん、ヒデさん!!」 名前を呼びながら、何度も呼びながら俺はヒデさんの姿を探した。 闇に響く獣の鳴き声。断末魔の叫び。 「ヒデさん!!あっ。」 何度も何度も木の根や雑草につまずきながら、転びながら、俺はヒデさんを探し続けた。 「・・・ヒデさ・・。」 ガサリと背後で音がして振り返る。 「グルルルルッ。」 「・・・狼・・・。」 金色に光る眼が俺を見つめていた。 「・・・ひっ。・・・・く、来るな。」 武器が無い。何も・・・ほうきを、剣を持つように構えながら逃げるチャンスを伺うしか方法が無かった。 「来るな・・。」 「・・・お前から力を感じる・・。強い力・・・お前を喰えばその力が手に入る・・。」 「え?」 狼の声?違う・・・上だ。 「人?わああっ。」 ざざざっと枝を鳴らし、目の前に黒い塊が落ちてくる。 「王の力・・・がお前に・・・この体・・・もらう。」 「ひっ。」 人なのか動物なのか分からない。長い毛で覆われた魔物。 「やめ・・・く、来るな!」 ほうきを振り回しながら、叫び声をあげる。 「俺は会わなきゃいけない人がいるんだから。それに、それに・・・ヒデさんだって。」 なんで逃げちゃったんだろう。一人で逃げちゃったんだろう。 何も考えずに逃げた自分が情けなくて、涙も出やしない。 ヒデさんは今頃怪我して苦しんでるかもしれないのに。もしかしたら狼に食べられちゃったかもしれないのに。 「死んだりしない。絶対にお前に喰われてなんかやらない。」 ヒデさんを助けなくちゃ。俺が・・。 「グルルルルッ。」 唸りながら狼が近づいてくる。 「そんなもの振り回しても・・怖くない。」 ジリジリと魔物が近づいてくる。近づいて、毛むくじゃらの長い腕を俺に伸ばして、そして。 「それでも・・・ひっ。・・英明さん!!」 もうだめだ。しゃがみこみぎゅっと眼を閉じ叫んだ瞬間。声が聞こえた。 「残念だったな。それは俺のものだ。」 聞き覚えのある声に、顔を上げると、光る眼が見えた。 「ヒデさん!」 驚いて、小さな黒い姿を見つめる。 俺、今誰の名前を・・・? 「お前は・・。」 「俺のものに手をかけようとした償いをしてもらおうか?」 低い声なのに、闇に響く。 「ぎゃあああっ!!」 魔物の叫び声が響く。断末魔の叫び。 「ヒデさ・・・。」 小さな体なのに、魔物の方が何倍も大きいのに、ヒデさんは強かった。 圧倒的な力の差。 「・・・なぜ戻ってきた。」 ひくひくと体を痙攣させ横たわる魔物。それすら大した事はないとでもいうかのように打ち捨てて、ヒデさんは俺に近づいて言った。 「え。」 「俺はお前になんて言った?」 冷ややかな瞳が俺を睨む。 「だって。」 心配だったんだ。ヒデさんの事が。もう会えないかと・・そう思った。 「・・・まあ、いい。ほら、お前のりぼん返すぞ。」 冷たい声が悲しかった。 「はい。」 腕からリボンをはずすと、ポケットにしまいこむ。 「行くぞ。」 「・・。」 「湖。行くんだろう。」 「はい。」 涙を堪えて頷いた。俯いたまま俺は歩き始めた。 「ここが、湖。」 森の中、ぽっかりとそこだけが明るかった。 大きな大きな湖だった。 木の陰が消え、大きな月が湖を照らしていた。 「・・・ここが・・・湖。」 なんの音もしない。なんの気配も無い。 月の光で水面が鏡のように光っていた。 「これで満足か?」 「・・・誰もいない。」 会えないかもしれない、そう思っていたけれど、それでも俺は信じたかった。 「啓太。」 「ヒデ・・さん?俺ばかみたいですね。夢なんか信じて。」 へなへなと地面に座り込んで、呆然と湖を見つめた。 「会えるって思ってたんです。会えるって。」 涙が零れ落ちた。 ぽとりぽとりと、零れ落ちる涙を拭う気にもなれず、俺は泣きながら湖を見つめ続けた。 「そんなに会いたかったのか?」 ヒデさんの言葉に俺は無言で頷いた。 会いたかった。ただ、会えるだけでよかった。 「信じていたんです。夢の中でした約束を。」 「約束?」 「はい。俺が小さい頃に見た夢です。この場所で、約束したんです。『今は城に帰してやる。だが、16になったら、ここへ戻ってくるんだ。忘れるな、お前は俺のものだ。』って。だから、だから・・・。」 夢だと分かっていても、その約束を信じたかった。 毎晩聞こえる声がその相手だと、信じたかった。 だから城を抜け出して、一人でこの森に来たんだ。 『好きな人と暮らします。どうか探さないでください。』それだけ書いた手紙を残して、俺は城を出た。 「その人に会えるなら、俺はどんな事でも出来ると思ったんです。どんなことだって。 森に一人で入るのは無謀だって分かってたけど。それでも・・。」 「見つからないように、女装して?ろくに城から出たこともない箱入りの王子が?」 「・・・はい。え、どうして俺が、王子だって。あ、あなた誰ですか?」 ヒデさんだと思って話していた相手は、いつのまにか人間になっていた。 背の高い、整った顔立ちの男。どこかで会った事のあるような、良く知っているような顔だった。 「あの・・。」 「分からないか?」 「え・・あ。ヒデ・・違う。ヒデさんの声に似てるけど・・・。」 夢の中の声だった。 「ヒデさんが、夢の・・声の・・?」 声が震えた。 「そうだと言ったらどうするつもりだ。」 「・・・・なんで言ってくれなかったんですか。」 出会っていたのに。どうして。 「さあな。お前が変な格好してるからかもな。」 「酷いです。」 「酷いのはお前だろう?絶対に忘れないと言っていたくせに。夢の中の出来事だと?ん?」 くくくと笑いながら、ヒデさんは俺の額をぴんと指ではじいた。 「痛い。」 両手で額を押さえて、拗ねて膨れてヒデさんを睨む。 「俺、そんな事言ってません。」 「まあ、忘れただろうな。お前は子供だった。」 「子供?」 「ああ、子供だった。」 俺が首を傾げると、ヒデさんは、ばさりとマントを翻した。 「え。ここ・・・城?」 お城の薔薇園。どうして・・これは・・幻? 『・・・だれ?何してるの?』 小さな子供が話しかける。 白い白い薔薇。その昔、王哲也が植えた薔薇だと、そう言い伝えられながら誰も真実を知らなかった。 『お前は誰だ。』 『僕は啓太。あなたはだあれ。』 綺麗。一人薔薇の園に立つその人に子供は見とれた。 『啓太か。・・・・一緒に来るか?』 『うん。』 言われるままに男の手をとり、子供は城から姿を消した。 突然消えた子供の姿を国中の大人たちが探し続けた。 森や林、川の底をさらい、井戸の中に入る。 昼となく、夜となく、捜索は続いた。 消えた子供を思い、母親は半狂乱になった。 消えた子供を思い、父親は不眠不休で探し続けた。 それでも見つからず、何人もの人間が魔の森に入り、魔物の餌食となった。 『啓太。お前はこのまま俺といるか?』 子供を連れ出した男は、言いながら子供の髪を撫でた。 『・・・帰りたい。でも、帰りたくない。』 『ではどうしたい?』 『母様に会いたい、父様に会いたい。でも、あなたと離れたくない。傍にいたい。』 泣きながら、子供は男に縋った。 小さな手で、男の衣をぎゅっと握り締め、泣きながら縋った。 『・・・今だけ帰るがいい。お前が年を重ね、今は城に帰してやる。だが、16になったら、ここへ戻ってくるんだ。忘れるな、お前は俺のものだ。』 『帰りたくない。離れたくない。』 『お前が大人になるまでの時間。それは瞬き程の時間でしかない。だから今は帰るんだ。』 子供の髪を撫でながら、男が言った。 『お前の体に俺の力を残しておこう。お前が忘れないように。俺の声が届くように。』 髪を撫でながら、繰り返し男は言った。 『名前を呼べ。英明と。そうしたらどこにいても迎えに行く。忘れるな。お前だけが使える呪文だ。』 『忘れない。絶対に、絶対に覚えてるから。忘れないから。』 月の光に溶けるように薔薇は消え、男と子供の姿も消えた。 「英明さん。」 見つめる瞳は、ヒデさんと同じだった。幻のあの人と同じだった。 「・・・。」 「俺の力は、あなたの力だったんですね。」 ぽろりと涙が零れた。 「俺、戻ってきました。ちゃんと戻ってきました。だから、傍に置いてください。ずっとずっとあなたの傍に。」 泣きながら笑う。 「忘れていたくせに、ずうずうしいな。」 にやりと唇の端をあげて、英明さんが笑う。 「ずうずうしいんです俺。でも、いいんです。そういう約束なんですから。 俺は名前を呼んだ。英明さんあなたの名前を、そしてあなたは来てくれた。」 そっと手を伸ばして、英明さんに触れる。 「俺はあなたのものです。ずっとずっと。」 「仕方ないな。」 冷たい指が俺の髪を撫でる。 「ずっと傍にいさせてください。」 眼を閉じて、口付けを受ける。 腕を背中に回して、ぎゅっと抱きしめた。 啓太。忘れるな、啓太。------------------------------ 声が聞こえていたんだ。いつも、いつも。 俺を呼ぶ声。 俺はそれを聞くたびに、あなたに会いたくてたまらなくなった。 いますぐあなたに会いたくて、泣きたくなった。 「英明さん。俺はあなたのものです。」 呪文のように繰り返す。 これから先、永遠に、繰り返す。 「英明さん。」 あなたの名前。それは俺だけを縛る魔法の呪文。 fin |
||
あとがきへ → |
いずみんから一言 |
作品リストへはウインドウを閉じてお戻りください。 |