銀の月 3 死に近づいているのだと分かった。 『後は、この首を落として・・・ひっ!!』 母様の体に縋りつき、ぎゅっと眼を閉じたその時だった。 『煩く騒ぐのは誰だ。私の眠りを妨げる耳障りな声。償いをしてもらおうか。』 母様の体に寄り添うように倒れながら、薄れていく意識の中で僕はその声を聞いた。 『子供か。まだ息がある。』 首筋に鋭い痛みを感じて僕は意識を取り戻した。 『あ。』 『気がついたか。』 闇の中で僕は誰かの腕に抱かれていた。 『僕は・・生きている。』 『生きている?・・・・ああ、今は動けるな。』 『あなたが助けてくれたのですか?』 淡々と答える声のする方に視線を向けると、冷たい指が僕の頬を撫でた。 『助けてなどいない。ただ煩い輩に償いをさせただけだ。』 『償い・・・?』 『お前の母親か?』 質問には答えずに声の主はそう聞いた。 『はい。』 『ここに置いたらすぐに狼の餌になってしまう。それは嫌だろう?』 『え?』 『お前は歩けるはずだ。付いて来い。』 僕の疑問には何も答えぬまま、母の体を抱き上げるとその人は歩き始めた。 『あの。』 『質問は着いてからだ。もうすぐ夜が明ける。』 『はい。』 『お前の名前は?』 『臣といいます。』 答えながら必死に声についていく。闇の中何度も木の根や草に足をとられながら、それでも僕は必死に歩き続けた。 『臣か・・。良い名だ。』 『あの・・・どうして僕は動けるんでしょうか?』 男達の刃は確かに僕の心臓を貫いていたはずだった。 なのに今、僕は自分の足で歩いている。流れていた血も止まっている。 『それは私の力だ。』 『あなたの力?』 『そう。もっとも効果は長くない。』 『長くない?』 『そう。だから助けたわけではないと言っただろう?私はお前の時間を止めただけだ。一時的に。』 『意味が分からない。』 本当に分からなかった。それではまるで御伽話だ。 そんな僕の疑問を笑うように冷たい手が僕の首筋に触れた。 『お前の首筋に痕があるだろう?ここだ。』 『え?』 『痛みを感じたはずだ。私の牙がお前の首筋を傷つけた痛みを。』 『え?それじゃ・・・まさか。』 『そう。私は吸血鬼。うわさには聞いたことがあるだろう?あそこは死の森といわれている場所だ。あの森に入って生きて戻ったものなど誰も居ない。』 『それは御伽の・・・。』 『御伽?ふん。ではこれも御伽話か?お前の胸の傷。背中の傷。それもそうだと?馬鹿馬鹿しい。』 『それじゃどうして僕は生きているんですか?』 信じることなど出来なかった。男達の剣は僕の体を傷つけたのだ。容赦なく傷つけた。 『生きてなど居ない。そう言っただろう?お前に言葉を理解する能力は無いのか?』 『だって。じゃあ僕は・・。』 『お前の体は一時的に動けるだけだ。もうすぐ傷も消える。だが、一年後の今日お前は死ぬ。母親の様に。』 『・・・・。』 『私がお前に力を与えたのはただの気まぐれだ。だから選択肢はお前に与えてやる。』 『選択肢?』 『お前はいくつだ?』 『九つです。』 『そうか。ではあと十年だな。』 『十年?』 『そう。お前が選択できるのはあと十年。たぶんな。』 『たぶん?』 『あいつがそうだったからといって、お前もそうだとは限らないということだ。』 『あいつ?』 『私の力がお前の体を変えるのにそれだけの時間がかかる。一年ごとに私はお前の体に力を注ぐ。お前の血と引き換えに。人の血は私に力を与える。たった一滴でも莫大な力となる。』 『吸血鬼に血を吸われると吸血鬼になるということ?』 やっと僕は言葉の意味を理解した。それならば人としての生ではなくなる。生きてなどいない。ただ動けるだけ、その意味がやっと分かった。 ただ動いているだけ。それなら人形と同じだ。 『普通は吸血するだけだ。体中の血を吸われた人間は死んで土に還る。』 『僕には力を?』 『そういうことだ。お前は私の力で一年だけは死を先に延ばすことが出来る。 ただし、死んだ人間を生き返らすことは無理だ。私の力は万能ではない。』 『それで?』 『力を与えればまた一年。そうやってお前は死を延ばす事が出来る。その間お前は人としての成長を続けることが出来る。自ら死を選ぶことも出来る。』 『ではその後は?』 『その後にお前の選択肢はない。』 『それはどういう?』 『たぶん十年後、その年月は不確かだが。私の力は万能ではない。力を注ぎ続けても、お前の命の限界は来る。』 『では、その後は・・?』 『最後の選択だ。人としての死を選ぶか、吸血鬼として魔物の生を得るか。お前が望むなら同族に迎える、望まず死を選ぶならそれでも良い。それはお前の自由だ。』 『吸血鬼に?』 『そうだ。夜の闇でしか生きられない。その代わり長い長い時を生き続ける。』 『長い長い時を?』 『人の何倍もの時だ。何倍もの時間を私はすでに生きた。』 『あなた一人で?』 『二人だったときもある。それはほんの一瞬だった。人の時間は幻のように短い。』 人と共に生きていたということだろうか?答える声の悲しげな響きに僕はその疑問は胸の中に封印し、別な疑問を口にした。 『僕には選択肢がある?人として生きること。死ぬこと。そしてあなたの仲間になること。』 『たった数回の選択だ。』 それでも良かった。母の最期の願いを僕はそれで叶えることが出来る。たとえ魔物との契約でもそれでも僕は死にたくは無かった。 『なら、僕は選ぶ。僕は生き続ける。それが母様の願いだから。』 『そうか。』 『あなたの名前を教えてください。』 『私は郁。そう呼べばいい。』 『郁・・・。』 『そうだ。郁だ。臣?』 『はい。・・・あ!!』 木の根にまた足を取られ僕は悲鳴をあげた。 郁はどうしてこんな闇の中を歩けるのだろう。不満と共にそれは疑問となって顔に出たらしい。郁はクスクスと笑いながら母様の体を地面に下ろすと僕に手を差し伸べた。 『人の目は闇の中で物を見ることが出来ないのだったな。ほら、手をつないでやるこれなら歩けるだろう? お前の母親の体は館の庭に埋めてやろう。そうすればお前はいつも母親と共にいられる。お前の母親も寂しくないだろう。お前の母親の体はちゃんと運んでやる。私の僕が館まで連れて行く。』 低い背の何かがどこからか現れ母様の体を持ち上げた。 『ありがとうございます。』 小さな気配に頭を下げ、僕は郁の手を掴んだ。 『お前の手は温かいな。人は温かいのだということを忘れていた。』 『忘れていた?』 『ずっと昔に親しい友が居たことがある。豪快な馬鹿者で昼寝ばかりしている男だった。 あいつの服からは日向の匂いがしていた。いつもな。』 『日向の匂い?』 郁の声の温かさに、僕は胸にしまってあった疑問を思い出した。 郁と二人でわずかな時をすごしたのはその男だったのだと。理解した。 『ああ。お前はまだ太陽の下を歩くことが出来る。 空が青いことも。太陽の光がまぶしい事も感じることが出来る。 人であるうちは昼間は外に出なさい。他は何をしていてもかまわないけれど。それだけは命令だ。』 『郁?その人はどこへ行ったの?今は郁の傍には居ないの?』 郁を置いて去ってしまったのだろうか?その男は去っていったのだろうか? 『居ない。あいつは彼方へと旅立った。お前の母親が今向かっている場所だ。』 『母さまが向かっている場所?』 それではその男は・・。 『人と魔物は生きる時の長さが違う。人は不老不死を願うだろう?永遠の若さを願う。だがそんなのは愚かな望みだと私は思う。 限られた儚い命を生きるから人は夢を持てる。愚かな希望を現実に変える力を持てる。 あいつはそうだった。愚かで誠実で・・・一生懸命だった。』 『その人の事が好きだった?』 声から感じ取れる思いの種類を僕はそのまま口にした。 『人間を?まさか。自分とは違う世界の生き物を愛しいと思うか? 儚い命を求める姿が哀れだっただけだ。その生を懸命に生きようとした姿が哀れだった。 ただそれだけだ。だから私は力を貸した・・それだけだ。 お前を助けたのもただの気まぐれだ。同じように声が聞こえたから・・。』 それでは郁は僕と同じようにその男を助け、そして二人になり、ひとりに戻ったのだ。 その思いをまだ覚えていて、だから僕を助けたのだ。 話す声が悲しく響くほど、まだ思っているのだ。 『郁?ねえ。僕は傍にいます。十年後僕はあなたの同族となり、それから先はずっとあなたの傍に居ます。 僕はあなたを寂しくさせたりはしない。ね、だから郁笑ってください。』 母様の願いを叶え、その後は郁の傍にいよう。僕はそう決めていた。 僕は郁をひとりにはしない。僕は郁と共にいる。ずっと。 『傍に?馬鹿だな。私はそんな事を望んではいない。お前は自由に生きればいい。死ぬことも生きることもお前の自由だ。お前に与えられた人としての権利なのだから。』 『僕の権利なら、僕は僕の望むままに生きます。郁と一緒に。』 冷たい指先を握り締めながら、僕は誓った。 『勝手にしろ。』 笑う郁の声を聞きながら、その手に縋り歩き続けた。それが長い歴史の始まりだった。 「それじゃあ、あなたは・・・吸血鬼なんですね。」 「ええ。」 過去の記憶を啓太はただ黙って聞いていた。 恐怖に青ざめることも無く、微笑さえ浮かべて僕の話を聞いていた。 「では、館に眠るあなたの主もそうなのですか?」 「ええ。郁はもうすぐ消えてしまう。魔物の、吸血鬼の長い一生を終えて消えてしまうんです。 僕はあなたに嘘をついていました。僕は眼が悪くて太陽の下を歩けないわけではない。僕は魔物だから、闇の世界で生きるものだから、太陽を見ることが出来ないのです。」 告白さえ啓太は頷いただけだった。 「・・・・あなたの望みはなんですか?臣さん。」 「僕の望みは、郁の命。郁が消えることなく僕の傍に・・・。」 啓太の命と引き換えに、僕はその望みを叶えるつもりだった。 「望みを叶える方法はありますか?臣さん。」 「あります。ひとつだけ。」 瞳を伏せながら僕は答えた。 「それは俺が想像しているものと同じでしょうか?俺の命が必要?」 笑う啓太の顔を見つめることは出来なかった。頷きながら僕は、ポケットからナイフを取り出し啓太へと差し出した。 「これをあなたの体に突き刺して、そうして血を・・・命を奪うつもりでした。」 けれど、出来ない。僕には出来ない。 「どうしてそうしないんです?」 ナイフを右手に持ったまま、啓太は聞いた。 「どうして?じゃあどうして僕があなたの命を奪えると思うんです?僕が魔物だから?人を襲うのは当然だというんですか?仲間を助けるためなら平気でそんな事を出来ると、そういうんですか?」 助けたかった。郁の命を。だけど、奪えなかった。愛しい人の命を。 出来なかった。どうしても出来なかった。 ぽとりぽとりと涙の粒が零れ落ちた。 「僕には出来ない。出来ないんです。」 涙が止まらない。止める事が出来ない。僕は子供の様に泣きじゃくるだけ。 「あなたは郁さんが大事なのでしょう?なぜ迷うんです? 俺はそれでも構わない。俺はただの使いでしかないけど。・・・ねえ、どうして?」 啓太は優しく僕に聞いた。小さな子供に諭すように。 「それは・・・それは。あなたが愛しいから。郁を愛しく思うようにあなたの事も大事だから。だから・・・僕には奪えない。あなたの命を。」 啓太の体を抱きしめながら、僕は告白した。 「あなたの体の温もりを無くすことなど出来ない。それならいっそ僕は僕自身を消してしまいたい。」 「臣さん。」 「郁が大事なのに、郁が・・・。」 「なら、選択するべきです。大切な人を。」 「啓太?」 啓太の手が僕の頬に触れる。温かい温度が、僕の肌に移る。 「俺はただの使いでしかない。俺には何の力も無い。泣いているあなたを抱きしめてあげることしか出来ない。ねえ、臣さん。それでも俺はあなたの体を温めることはできる。そうしてあなたの心を救うことも出来る。 俺の命で・・ね?」 笑いながら啓太はナイフを自分の胸に近づけた。 「何を・・。」 「俺は、ある人の使いでここまで来ました。大事な大事なものを預かって、ここまで来ました。」 「え?」 啓太はナイフを自分の胸へむけたままじりじりと後退り、白い薔薇の花の横へ移動した。 郁が大切にしていた白い薔薇。 「俺は人だけど、人じゃない。罪を償うために地上へ降ろされ生きてきました。」 「啓太?」 啓太の体が白く光を放つ。 暗い闇に啓太の体だけが、白く浮き上がる。 「使いを頼まれ、それを人として果たしたら俺は元の場所へ戻ることが出来る。そう言われてここまで来ました。暗い森を一人で抜け、誰もいない道を一人で歩いて。灯りを見つけた時は本当に嬉しかった。 一人で暗い道を歩くのは怖かった。寂しくて辛かった。だから、あなたがくれた紅茶の温かさが嬉しかったんです。本当に嬉しかったんです。 だから、だから。」 「何を言っているんです?」 意味が分からずに僕はただ啓太を見つめるしかなかった。 「・・・・臣。お前の泣き声が聞こえた。」 「・・・郁。」 懐かしい声に振り返ると、郁が立っていた。 「起きてはいけません。そんな事をしたら・・。」 郁の最後の時が来てしまう。 「いい。もう時は来たのだ。・・・そうだろう?」 「・・・・はい。」 「郁?・・・その剣はどうしたのです?」 郁の両手に見たことも無い剣があった。 「これはその子供が持ってきたものだ。そうだな?」 「はい。」 「啓太?」 「・・・その剣を俺はここへ届けるように頼まれました。郁という人に渡して欲しいと、そうすれば分かると言われたんです。 訳も分からず、俺はここまで来ました。」 啓太の告白を聞いても僕は理解することが出来ずにいた。 「啓太、あなたは人間ではない?」 「俺は、罪を犯し地上に降ろされた天使です。この使いを人として果たすことで天に還ることが出来る。そう言われました。でも、でも・・・還れなくてもいい。俺は、俺は・・・。」 泣きじゃくる啓太の背中に白い翼があった。 白い翼と光が、啓太の体をつつんでいた。 「お前の命を私にくれると?」 「はい。」 「・・・くだらないな。」 吐き捨てるように郁は言った。 「郁・・さん?」 「くだらない、だがくれるというのなら、貰いたい物は別にある。」 「郁?なにを・・。」 啓太の背後に郁は近づきそして、啓太に剣を振り下ろした。 「郁!」 「ひっ。」 悲鳴を上げ、啓太は地面へと倒れた。 「郁。啓太。」 啓太を抱き起こし、気がついた。啓太の体から光が消えていた。腕の中にあるのはただの温かい人間の体、それだけだった。 「翼を無くして天には還れまい。子供。この命をくれるというのなら、命の代わりにこの翼をもらう。」 剣と共に、啓太の翼を腕に抱いて郁は啓太を見下ろした。 「郁・・・さん?」 「郁。」 啓太の体を抱いたまま、僕はただ成り行きを見ているしかなかった。 「この剣は約束の証。臣。私の体は塵となり土へ還る。だが、魂は天へ・・・・。」 「郁・・・。」 「郁・・さん。俺は、ここにいてもいいの?臣さんの傍に。」 「居てくれぬと困る。私の為に、そうして欲しい。」 「はい。」 頷く啓太を、郁は見つめそして笑顔で頷いた。 「私の力をお前に与えよう。啓太。」 「はい。」 啓太の首筋に唇を近づけ、郁は啓太の体に力を注ぎこんだ。 「郁。」 郁の力が消えていく。郁の・・。 もう消えるのだと分かった。最後の力を啓太に注ぎ、郁は消えるのだと僕には分かった。 「臣・・。」 「郁・・・。僕は・・。」 震える手を伸ばし、郁に触れる。 この手が好きだった。あの森で出会ったときから、郁は僕のすべてになった。 「笑いなさい。そうして私を送っておくれ。」 「郁。」 涙が零れ落ちた。 郁が消えていく。 「臣。頼むから。」 「はい。郁・・・・ありがとうございました。僕は・・・あなたに会えて幸せでした。」 泣き笑いの顔になりながら、それでもそれだけ言うと僕は郁の細い体を抱きしめた。 「幸せになりなさい。臣。」 笑う郁の顔。 ふわりと啓太の翼が風に揺れ、羽ががふわりふわりと天に昇り始めた。 白い光、月の光のような、優しい光を放ち、羽が一枚、また一枚と舞い上がる。 「さあ、時間だ。」 「郁・・・郁。」 腕の中で、郁の体は力を失い、そうしてさらさらと崩れ落ちた。 剣を両手に抱いたまま、郁は僕の腕から旅立っていった。 「郁。」 体は光を放つ小さな粒となり、それは風と共に空へと散った。 さわさわと風が吹き。薔薇の花びらが風に舞った。 光の粒が天へと舞い上がる。白い薔薇の花びらと共に。 郁の体はこの地へ還り、魂は天へと昇るのだと、そう思った。 「郁・・・・。」 啓太の体を腕に抱きながら、僕は月を見上げた。 「臣・・さん?」 「・・・・郁は笑っていました。ね、啓太。」 「はい。」 郁の力を受け継いでも、啓太の体は温かいままだった。 「傍にいてくれますか?ずっと僕の傍に。この体が消えるその日まで。」 寂しい気持ちと悲しさが心の隅にまだ残っていた。 「はい。ずっと傍にいます。」 郁の愛した薔薇の園で僕達は誓いの口付けをした。 月明かりの照らす庭を僕達はゆっくりと歩く。 色とりどりの薔薇が咲くこの庭を二人で歩くことが僕達の日課となった。 手を繋ぎ、薔薇の花を摘みながら、郁が愛したこの場所を二人で歩く。 ゆっくりと歩いていく。 手を繋ぎ笑いながら歩く僕達の心は満たされていた。 Fin ×××××××××××× 薔薇と王様の続編となるこの話は、「漂う・・・」と同じ頃に書かれたもののようです。 薔薇と王様と、この話は訂正されているところが一つもないので(他の物は、赤や緑で色々書き込んで あります。)書き上げたものの没にした、と考えるのがやはり正しいのかもしれませんが、載せてしまい ました。 |
||
← 2 へ |
いずみんから一言 |
作品リストへはウインドウを閉じてお戻りください。 |