銀の月 2


               
「郁は怒りますか?でも、でも・・・許してくれますよね?」
 眠る郁に口付けて僕は涙をふいて部屋を出た。

××××××

「え?ここに・・・ですか?」
「そうです。もしも急ぐ必要が無いのでしたら2.3日泊まっていってくれませんか?」
「どうして?」
 啓太と朝のお茶を飲みながら僕は願いを口にした。
「ここは近くに誰も住んでいないでしょう?街まで遠いですしあまり他の方とお話をする事が無くて・・・お客様も本当に久しぶりなんです。あなたが行ってしまったらまた僕はひとりでこの館で時を過ごさなくてはいけなくなってしまう。寂しいんです。」
 少しうつむきながら、悲しげに告白する。
「一人?あの、でも・・・。」
「主人は体を悪くして臥せっているんです。いえ、そんな重病という訳じゃありません。けれど病気の主人を一人置いて僕が出かける訳にもいきません。ですから・・僕は・・。」
「確かにそれは寂しいですよね。いいですよ。俺急ぐ用事もありませんから。臣さんが迷惑でないなら何日か・・。」
「ありがとうございます。啓太。」
「そんなお礼なんて・・・。俺の方こそ泊めて頂いて服までお借りして。俺の服汚れてたから・・。」
「森の中を歩いてきたんでしょう?仕方ありませんよ。あまり人も通らない場所ですからね。
よく一人で歩いてきたものだと思いますよ。怖くはありませんでしたか?」
 暗い森。
 確かあの場所は昼間でもそう変わらない筈だ。
 僕の記憶と違っていなければ、あの森は子供が一人で気楽に通り抜けるなどできる場所ではない。
「怖くは・・・本当は少し怖かったです。昼間もあまり明るい雰囲気じゃなかったんですけど、夕方になって夜になってもっともっと嫌な感じになってきて、おまけに変な鳴き声はしてくるし。」
 その時の気持ちを思い出したのか、啓太は両手で自分を抱くようにしながら眉をしかめた。
「そうでしょう?あの辺りは熊や狼も出るらしいですよ。」
 夜の闇に得体の知れない声。それだけで人間は恐怖を感じる。
 明るい太陽の下でなら平気な木々のざわめきも遠くに聞こえる川の流れも、闇の中では恐怖の対象でしかない。
「狼!!」
「ええ、この辺りの山を縄張りにしている狼がいるんです。幸い餌が豊富なのか人里に下りたりはしないみたいですけどね。」
 何も見えない夜の闇。あの時の僕もそうだった。闇に怯えそして・・・。
「俺熊や狼に食べられるところだったんだ。良かった〜その前にここに着いて。」
 暢気な啓太の声に僕は笑顔を作り頷いた。過去の記憶を遠ざけるため無理矢理笑顔を作り頷いた。
「僕もそう思いますよ。啓太あなたが無事で良かった。この屋敷の灯りに気がついてここに来てくれて良かったと思います。」
「ありがとうございます。臣さんは優しい人ですね。」
「優しい?僕が?ふふふ。そんな事を言うのはあなた位ですよ?郁はいつもお前は意地が悪いと嫌な顔をしますからね。僕は意地悪なんですよきっと。」
 しかめっ面をした郁を思い出し笑う。夜明け前、僕たちはいつも二人で熱い紅茶を飲んだ。今、啓太としているように郁と二人でこの場所で・・・。
「かおる?」
「え・・ああ、主人です。」
「ああ。ふふ。郁さん?と仲が良いんですね。」
「仲が良い?・・・そうですね。どうなのでしょうね。そう思いますか?」
「ええ。嬉しそうでしたよ?今。」
「そうでしょうか?よく分かりませんが。
 仲が良かったのでしょうか?分かりません。ずっと二人でしたから。郁と僕は二人だけでずっとここに暮らしていましたから。
 仲が良いとか悪いとかそんな事考えたことがありませんでした。郁の傍に居ることは僕には当たり前のことだったんです。郁の傍に居て、郁の身の回りの世話をして・・・美味しい紅茶を入れて花を生けて・・。」
 そうして長い長い時を過ごした。郁がいつか僕の前から消えることなど思いつきもしなかった。
 いつまでも永遠にこの時は続くのだと、そう信じていた。
「でも臣さんは郁さんの事がとても好きなんだと俺は思いますよ。きっと郁さんも同じだと思います。」
「そうだといいですね。ふふ、啓太は優しいですね。」
 笑う啓太の顔を見つめながら告げる。不思議な気持ちだった。啓太の笑顔をずっと見ていたい。
 誰かをそんな風に思ったことなど今まで無かった。
「優しい?俺優しくないです。結構自分勝手だし。我侭だし。」
「そうですか?」
「はい。それよりそろそろカーテンを開けた方がいいんじゃないですか?」
「あ!」
 立ち上がる啓太の腕を掴むと慌てて引き寄せた。
 指先に啓太の体温が伝わって僕は思わず目を瞑った。
「え?」
「すみません。僕は眼が悪くて、日の光は僕の眼に毒なんです。だから昼間僕は外には出ることができません。勿論カーテンを開けて日の光を部屋の中に取り込むことも・・。すみません。」
 とっさに嘘をついた。本当のことを話すわけにはいかなかった。
「え?すみません!!俺知らなくて。だからカーテンを引いたままだったんですね。俺余計なことを。」
「いいえ。先に伝えておくべきでした。すみません。それより・・お茶を入れ替えましょうね。」
 手を離したくない、この温度をもっともっと味わっていたい。
 この手を離したくない。もっと傍に来て欲しい。この腕に抱きしめていたい。
 不思議な衝動にかられ焦りながら僕は言葉を捜した。
 思いを断ち切るように啓太から手を離し紅茶のポットを掴む。逃げるようにドアへと近づきながら僕はやっと思いついた言葉を言い訳のように口にした。
「・・・天気はいいと思いますよ。鳥の声がしていますから。きっと良い天気だと思います。
 もし良かったら・・・庭を散歩してみてはどうです?ご一緒することは出来ませんが主人が大切に育てた薔薇園をぜひあなたに見て欲しい。」
「そうですね。そうします。」
 頷く啓太の声を聞きながら僕はドアを閉めた。

××××××

「郁。」
 啓太が散歩に出かけると僕はすることが無くなり郁の部屋を訪ねた。
「郁。啓太が数日居てくれることになりました。その間にあなたが目覚めるといいのだけど。」
 眠る郁の顔は陶器でできた人形の様だった。
「ね、目を開けてください。」
 頬に触れる。啓太の様な温かさは僕たちには無い。
「啓太の肌は温かいんです。とても温かい。ねえ、郁。僕は変になってしまったのかもしれない。
 あなたが眠ったままで、僕は一人ぼっちで。寂しくておかしくなってしまったのかもしれない。」
 啓太の温かさが僕を狂わせる。
「変なんです。啓太に触れて・・・僕はもっと彼に触れていたいと思った。」
 抱きしめたいと思った。なぜかそう思った。手を離したくない、触れているだけで心が切なくなる。
 そんな感情を僕は知らない。
「郁・・・あなたが目を覚まさないから、だから僕はおかしくなる。僕に必要なのはあなただけなのに。」
 なのに、啓太の笑顔に見とれてしまう。出会ったばかりの啓太の笑顔に見とれてしまう。
 どうしてか魅かれてしまう。
「郁、お願いです。目を覚まして。僕の決心が鈍らないうちにどうか目を覚まして。」
 郁の肌に触れる。冷たい肌。
 初めて出会ったあの日。その冷たさに僕は恐怖を感じた。冷たい指先。凍るような温度に僕は震えながらそれでも救われたのだ。あの夜僕は郁に救われたのだ。
「必要なのはあなただけです。郁。だから僕は・・・だから。」
 早くそうしてしまおう。郁のために。僕のために。
「郁・・・待っていてください。今夜、今夜・・僕は・・。」
 閉じた瞼に口付けて僕は郁に誓った。

××××××

「お庭凄いですね。薔薇がとっても綺麗でした。」
 椅子に座り笑う啓太から太陽の匂いがした。日向の匂い。
 僕はその匂いを胸に吸い込みながら無理に笑顔を作った。
「ふふふ。綺麗でしょう?」
 どうしてだろう胸が苦しい。啓太の笑顔、日向の匂い。それだけの事が苦しい。
「薔薇が好きなんですか?」
「ええ。とても。啓太はなんの花が好きですか?」
「俺は・・ひまわりかな?」
「ひまわり?」
 首を傾げ僕は啓太を見つめ考えた。ひまわりの花。どんな花だったか思い出すのに時間が必要だった。
 長い間僕はひまわりを見ることは無かったから。その花の形も色も僕は忘れてしまっていた。
「ええ。俺ね一度だけ見たことがあるんです。一面のひまわり畑。
 ひまわりって太陽の方を向いて咲くでしょ?沢山のひまわりが、黄色い大きなひまわりが太陽を目指してすっと伸びて咲いてる姿はとっても凄くて・・なんていうか感動的で。俺それを見てから大好きになったんです。」
「へえ。」
 啓太の言葉にやっと僕はその姿を思い浮かべることが出来た。
 大きな背の高い花。黄色い花びらは太陽の光の様で。夏の日差しを受け咲く花。
「俺ね悲しい事があると同じように太陽を見るんです。ひまわりみたいに。
 背をぴんと伸ばして両手を広げて顔を上げて。
 まぶしいから目は閉じてるんですけど。そうやっているとだんだん元気になってくるんです。」
「元気に。」
 その姿はすぐに想像がついた。
 啓太に似合うのは夏の日差し。澄み切った青い空。大きな白い入道雲。どこまでも続くひまわり畑の中で啓太が両手を広げ空を見上げる。
 簡単に想像がつく啓太の姿。けれどその姿を僕は見ることは出来ない。
「はい。おかしいでしょ?臣さんもぜひ一度・・あ。ごめんなさい。」
「え?ああ、いいんですよ。」
 啓太が自分の嘘に謝っているのだと気がついて僕は暗い喜びに震えた。
「僕は太陽を見ることは出来ません。もうずっと夜の空しか見たことありません。
 啓太。あなたのように僕も外に出られたらいいのに。」
 喜びを長引かせたくて僕は、無理に笑顔を作った振りをして俯いた。
 僕を気遣うように見つめる瞳が心地よかった。
「すみません。俺・・・無神経なこと・・。臣さんの目の事聞いたばかりなのに・・・ごめんなさい。本当にごめんなさい。」
「いいえ。いいんですよ。」
 うな垂れる啓太の姿が僕の心を浮き立たせていた。
「ねえ、啓太。」
 誘惑に抗うことが出来ず僕は立ち上がると啓太の前に立つ。
 啓太の温度が恋しかった。
「え?」
「今夜月を見ませんか?僕と二人で。」
 そっと啓太の肩に触れ瞳を見つめる。
「月を?」
「ええ。あなたが今教えてくれた様に、両手を広げて顔を上げて、そうして二人で月を見ましょう?」
「はい。」
「ありがとうございます。」
 二人で月を見て、そうして僕は・・・。
 暗い思いを胸に秘め、僕は啓太の体を抱きしめた。
「啓太の体は温かいですね。」
 眼を瞑り啓太の髪に頬を擦り寄せた。
 抱きしめる腕に啓太の温度が移る。擦り寄せる頬に啓太の温かさが移る。
「温かい?俺体温高いのかな?」
 どうしてなのだろう。啓太が僕を思うことが嬉しい。
 どうしてなのだろう。僕の嘘を信じて頷く啓太が愛しい。
「啓太?少しこうしていてもいいですか?」
「え?はい。」
「僕の体は冷たいでしょう?とても冷たいでしょ?」
 啓太の体が僕を少しだけ温かくする。
 人ではない僕を少しだけ人へと近づける。
「そんな事ありません。」
「あなたは優しいですね。」
 優しすぎるのだ。きっと。だから僕の手を振り払うことが出来ない。
 だから僕の腕の中で頷くことしか出来ない。
「ねえ、啓太。あなたは逃げたほうがいい。」
 心に逆らい無理矢理に啓太の体から手を離し言った。
「逃げてください。」
 手の中の温度が消え僕の体は簡単に熱を失ってしまう。これが生きている人間と魔物との差なのだと僕は自覚して笑う。
「え?」
「僕はずるいからあなたの優しさを利用しようとしているんです。」
 逃げて欲しい僕から。そうしないと僕は郁の為に君を。
「え?」
「だから逃げたほうがいい。そうしないとあなたは後悔します。」
 逃げてなんて欲しくない。僕の傍に居て欲しい。
 ずっと傍に。出会ったばかりの人なのにそう思う。
 この温度を僕は忘れることが出来ない。
「臣さんはずるい人なんですか?」
「ええ、僕は酷い性格をしています。ずるくて冷たくて利己的なんです。自分だけが良ければいい。だから逃げるなら今のうちです。」
 逃げて欲しい。逃げないで欲しい。僕の心はくるくると変わる。
 大切な郁。ずっとずっと共に生きてきた僕の大切な人。僕の父であり唯一の友。
 啓太。出会ったばかりの何も知らない人間の子供。優しい笑顔。温かい手。
「ふふふ。本当に酷い人はそんな事言わないでしょ?」
 僕を信じて笑う。啓太の瞳には何の疑いも無い。
「簡単に信用していいんですか?」
「信用しちゃ駄目ですか?」
 無邪気な瞳が僕を見つめる。
「駄目です。」
 僕は嘘をついている。信じてはいけないのだ。僕は君を利用しようとしている。
「でも、俺は臣さんが悪人だとは思えない。臣さんは見ず知らずの俺を一晩泊めてくれました。
温かい紅茶を入れて、暖炉にあたらせてくれて。綺麗な着替えと安心して眠れる場所をくれました。」
「それだけで?」
「信じるにはそれで十分です。」
「そうでしょうか?」
「それにね、そんな眼の悪人はいないですよ。」
「え?」
「そんな優しい眼をした人が悪い人な筈ありません。俺にはわかります。臣さんは優しい人です。」
「優しい?僕が?」
「ええ。俺にはわかります。あなたの手は冷たいけれど。それでも俺はこの手が嫌だとは思わない。」
 温かい手が僕の両手を包み込む。
 小さな手だった。細い指先が僕の手の甲を撫でるたびに僕の皮膚が微かに熱を持つ気がした。
「啓太。」
「一緒に月を見ましょう?」
「ええ。」
 この手を離したくない。でも僕は大切な郁を守りたい。――――――――失いたくない。
 選ばなくてはいけなかった。その時は近づいていた。

××××××

「綺麗な星空ですね。」
 夜になるのを待って僕達は庭に出た。
「寒くはありませんか?」
「はい。臣さんは寒くありませんか?」
 にこりと啓太が笑いながら僕の手に触れた。
「啓太が手を握っていてくれるなら・・・寒くありません。」
「手を?はい。いいですよ。」
 啓太の指先が僕の指に触れる。
「手をつないで歩きましょうか?薔薇の園。二人で散歩しましょう?」
「ええ。」
 風の無い夜だった。
 明るい月が闇を照らしていた。
「気持ちのいい夜ですね。月が綺麗。」
 立ち止まり啓太が空を見上げる。
「ええ。月の光は穏やかで・・癒される気がします。」
「そうですね。月の光は優しいですね。」
「太陽の様な力強さはありませんけど。僕はそれでも夜が好きです。
 郁とこの庭を歩くのがとても好きでした。勿論手をつないだりはしませんでしたけど。薔薇の香りを感じながら僕達はただゆっくりと歩いていました。月の光が照らすこの場所を。」
 同じ場所を啓太と歩くのは不思議な感じがした。
 同じ場所なのに啓太が傍にいるだけで違う場所のような気がした。
 見える月さえ違うものに感じる。
「空は不思議です。僕はね寂しいときに月を見ていました。孤独を感じるたびに月を見ていました。不思議ですよね。空を見上げることなど何の意味も無い事だと思うのに。それでも心が休まるんです。」
 郁が眠りについてから、僕はそうして一人の時を過ごしていた。
 ただひとり歩く薔薇の園はどこかよそよそしくて、知らない場所に紛れ込んでしまった迷子の子供の様な気持ちを、月を見ることで紛らわしていた。
「ひとりではないと感じるんです。変でしょう?」
 孤独を感じながら。不安を感じながら。僕は時を過ごし。心を慰めてきた。
「空には神様がいるから。だからじゃないでしょうか?」
「神様?」
「俺はそう思います。」
「啓太は神様の存在を信じているんですか?」
 上着のポケットに忍ばせた銀のナイフに触れながら僕は聞いた。
「存在?」
 銀のナイフをポケットの中でもて遊ぶ。
 啓太を傷つける為の道具。これを啓太の首筋に躊躇うことなく突き立てる。流れる啓太の血を薔薇の花で受け郁の唇に含ませる。
 それが僕の計画だった。
 郁を救うための計画。
「啓太?天国はあると思いますか?」
 声が震えた。
 郁を救うために人を殺す。
 大切なものを守るために、愛しいと感じた人を殺す。
「ねえ、天国はあると思いますか?すべてそこへと行けるのでしょうか?どんなものでもそこへ行くことは出来るのでしょうか?」
 僕の声は震え、ナイフを握る手には力が入った。
「え?」
「啓太?答えてください。答えて!」
 郁はもうすぐ僕の傍から居なくなる。
 太陽の光を避けながら闇の世界で生き、一筋の髪さえ残さず消える。それが魔物である僕たちの決まり。
「天国は本当にあるとあなたは信じているんですか?誰もが美しい場所で眠ることが出来るのだと信じているのですか?」
 郁はもうすぐ消えていく。
 僕がどれほど嘆いても時の流れを止めることなど出来はしない。
 そしていつかは僕も同じように消える。
 ただ一人消え去る。
 誰にも看取られること無く消えていく。
 神が創り、神が愛する生き物達とは一線を引いた生き方。
 魔物として生き、魔物として死んでいく郁を、僕達を、神の園は受け入れてくれるのだろうか?
 魂はどこへ行く?
 天国は存在するのだろうか。
 僕達の魂を迎える扉はあるのだろうか?
 神が住まう国。明るい日差しが暖かく照らす安らかな場所。
 そんな場所は本当にあるというのだろうか?
 僕達の魂が向かう先が、夜より暗い真の闇の世界ではないとどうして言える?

 天の国。

 死したすべての生き物が必ずそこへ行けるとどうして言える?
「答えてください。啓太・・・どうか・・僕に教えて。」
 綺麗な綺麗な郁の魂。
 僕の父であり友人。
 優しく気高い美しい郁。彼が惨めに消えるだけだとは思いたくは無かった。
 神の園に受け入れられることも無く、ただ暗い闇を漂うだけなのだとは思いたくは無かった。
 それではあまりに悲しすぎる。それではあまりにも惨め過ぎる。
 だから救いが欲しかった。
 たとえ嘘でも、一時でもその救いに縋りたかった。
 天国はあるのだと。郁の魂はそこで幸せな時を過ごすのだと思いたかった。
「天国はあります。」
「啓太。」
「たとえ信じる神様は違っても。人間でも動物でも誰でも死んでしまった後はきっと、天国で安らかな眠りにつく。綺麗な花が咲く。綺麗な綺麗な場所。苦しみも悲しみも痛みも無い場所。
俺も臣さんもそこで眠るんです。いつかきっと。」
「ありがとうございます。」
 ポケットの中のナイフから手を離し、僕はそっと啓太を抱きしめた。
 温かい体。僕にはない温度。
 その温度が過去の記憶を呼び戻していた。

「啓太。話を聞いてくれますか?僕と郁の事を。」
 啓太の命を利用することなんか出来ない。啓太の命を奪うことなんか出来ない。
 郁を助けるためでも、出来はしない。
「はい。」
 月を見上げながら僕は話し始めた。郁との出会いを。僕達の記憶を・・。

「郁は僕のすべてでした。僕の命は郁の為にあるといっても間違いではありません。」
 思い出す。つらい記憶。
 あれは遠い遠い昔の話。
 暗い森の中を僕は母様に手を引かれ逃げた。
 走って走って。
 息が切れ、何度も転びながらそれでも走り続けた。
 暗い闇がどんどん僕達を追い詰めそして、追っ手に矢を打たれた母様が倒れた。
『母様。』
 驚き声を上げながら、悲鳴にも似た声を上げながら僕は倒れた母様に縋り付いた。
『逃げなさい。臣。早く逃げて・・どうか生き延びて。』
『母様嫌だよ。僕一人で逃げるなんて出来ないよ。』
『逃げて、臣。』
『嫌だよ・・かあさ・・。』
 握り締めた手にぬるりとしたものが触れた。母様の血だった。
『母様死なないで。死んじゃ嫌だよ。』
 血が流れ、僕の手を濡らした。
 血が流れ、母様の体が血に染まる。
『母様!!』
 動かなくなった母様に縋り泣いた。逃げろという母様の言葉に従うことは出来なかった。
『見つけた。小僧お前を殺しその首をもらうぞ。お前の首は良い金になる。』
『殺したいなら殺せば良い。』
 複数の男達に囲まれ僕は眼を閉じた。
『母様今傍に行くよ。』
『すぐに母親の元に送ってやるよ。』
『観念しな!!』
『ああ!!』
 心臓を貫く熱に僕は悲鳴をあげた。
 ドクドクと流れ出す血。命が流れ落ちていくのが分かった。



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