もういちど、この腕に 第1回 |
熟睡というのではない。不快な、それでいて深い眠りの中。 身体のあちこちがやたらとむず痒かった。虫か何かに刺されたような痒さもあるが、いちばん気になったのは何かに這い回られるようなむず痒さである。服が身体にべったりと貼りついているようで、それも不快感を煽り立てている気がする。啓太の両手は無意識のうちに顔や首、腕や足などを掻いていた。 不愉快で不愉快でたまらなかった。何故こんなひどいことになっているのかがわからない。隣にいる中嶋を起こして見てもらおうと、啓太は靄のかかったような頭のすみで考えた。 「…… 中嶋さん ……」 だが、いつもの「どうした」という声はどこからも聞こえてはこなかった。手で探ってみても中嶋の身体はみつからない。 瞬間。ぞくっとするくらいの痒みに襲われ、啓太は思わず飛び起きていた。そして背中といわず腹といわず腕といわず、とにかく爪をたてて身体中を掻きむしった。 9月の2日というのは、当地ではまだ真夏である。多少、セミの声が少なくなったようにも思うが、相変わらず太陽はぎらぎらしているし、夜は夜で真夜中まで暑い。ほんの少し遅くなった夜明けと、かなり早くなった夕暮れ程度では、暦の上で白露が近くなっていることなど、気づけという方が無理である。 地球温暖化やクール・ビズなどどこ吹く風といった感のある中嶋英明は、まだ朝の10時にもならないというのにエアコンをがんがんきかせて書斎にこもっていた。 中嶋は現在、大学の2回生である。啓太が入学してくる来年のうちに司法試験を突破し、4年の前期までで卒業に必要な単位を取得してハーバード大学へ留学しようとしている。そのための努力は見事なまでに惜しまないため、啓太がいないときには、休みの日といえども朝8時半にはもう文献を広げていた。 今朝も一見すればいつもと同じ様子ではある。が、たとえば啓太や丹羽がその姿を見れば驚いたことだろう。右手に置かれた灰皿に吸殻が山となっていたのだ。 中嶋は高校時代から煙草を手放したことのない男ではあるが、こんなふうに勉強や仕事をしている最中に吸ったことはほとんどない。煙草を吸うことで気が散ったりリズムが狂うのをとても嫌うからだ。彼にとって煙草とは、あくまで気分転換のアイテムでしかない。そんな中嶋が朝からのわずかな時間に吸殻を山にしたというのは、かなり異常な事態であった。 今朝からいったい何本目になるかわからない煙草に火をつけようとして、中が空になっていたことに気づいた中嶋は、いまいましげにパッケージをひねりつぶすとゴミ箱へ叩きこんだ。こんなときに限って買い置きも使い果たしていたりするのだ。機嫌の悪さはすでに最悪という状態を軽く越えてしまっているようだ。横目でちらっと電話を見やり、フンと鼻を鳴らすと中嶋はまたパソコンに向かった。 中嶋は今、過去の判例を自分なりのキィワードでデータベース化しようとしていた。とてつもない作業だが遣り甲斐はあった。普通に目を通しているだけなら無意識に読み飛ばす部分も出てくるのだが、キィワードをつけようとするとそれなりにきちんと読まなければならない。さらに要約し、入力する。これだけでも普通に読むよりは記憶に残るうえに、できあがったデータベースは彼が法曹界にいるかぎり利用しつづけることができるのだ。一石を投じて二鳥どころか三鳥も四鳥も落とさなければ気のすまない中嶋は、このところ空いた時間はこの作業にかかりきりになっていた。 ところが昨日あたりから作業効率が目に見えて落ちていた。頭の端っこに残った冷徹な部分は、それを「前日比18.26%減」とはじき出した。ならばと他の勉強に手を出してみたりもしたのだが、これがますます捗らない。機械的に作業が出来る分、まだデータベースの方がましだと悟ったために、昨日の午後からこれにかかりきりになっていたのだった。 理由は数日前にさかのぼる。 8月一杯を中嶋のマンションで過ごすはずだった啓太が、30日に中学時代の同窓会があるからと言って、前日の29日に実家へ帰ってしまっていた。高校を卒業すると進路が今まで以上にばらばらになるため、啓太がBL学園からこっちに戻っている機会を捉えて企画されたものだった。自分のために日にちを設定されたと知って欠席できる啓太ではない。しかたがないとため息をつきつつも結局は啓太に甘い中嶋は、同窓会の前日に実家まで送り届けてやったのだった。 しかし、いかに中嶋といえども、たかだか数日、啓太が早く手元を離れたからといって機嫌を悪くしているのではない。現に30日まではいつもと変らない日がつづいていたのである。変ったのは31日のことだった。 翌日からの新学期に備えて、31日中には学園に戻ったはずの啓太から、何の連絡もこなかったのだ。それでもその日にはまだ余裕があった。どうせ久しぶりに会った和希たちと騒いでいるのだろう、と。しかし翌1日にも連絡は来ず、寮にいる間にはきっちりと戻って来ていた課題も無視された。しびれを切らした昨日の夜に携帯電話をかけてみたが、電源が切られているか電波の届かないところにあると言う。もちろん前者と取った中嶋は、以降、家の電話と携帯電話の両方を留守電に切り替えてしまった。 早い話が拗ねているのである。中嶋英明という男にとって、啓太が自分と共にいる以上に楽しんでいるなど言語道断。絶対に許しがたい状況なのだ。加えて「寮に着きました」という連絡もないとは、太陽が西から昇るのは認められても、こればかりは絶対に容認できないカテゴリに分類される。しかもそれを充分に分かっているはずの啓太が電話をよこしてこないとは…… !! そうしてやおら煙草の量は増え、見事なまでに比例して作業効率は落ちた。というのが現在の状況である。ちなみに丹羽は、31日の夜に啓太から課題が戻ってこないことを訝しんで中嶋の部屋を訪れて以来、まったく近づこうとしていなかった。「王様」の名は伊達ではない。まさに君子危うきに近寄らず、なのであった。 一度はパソコンに向かった中嶋だったが、やはり煙草がないのは作業効率の悪さに輪をかけているようだ。気分転換のためにも煙草を買いに行こう。ついでに足をのばして……。と思ったときだった。携帯ではなく、家の加入電話の方が鳴った。待ちに待った電話だが、中嶋は不機嫌さの度合いを一層強めただけだった。今頃、どんな面を下げて電話をかけてきたというのだ? だが留守電に切り替わった電話機から流れてきたのは、意外な声の意外すぎる内容だった。 『中嶋さん? 遠藤です。いったいいつになったら啓太を学園に戻す気なんですか?』 ……何を言ってるんだ? こいつは。 『今日が何日か分かってますよね? もう2日ですよ?』 ……そうだ。2日だ。3日もあの馬鹿は連絡をよこしてこないんだ。 『そろそろ学校側が不審に思いはじめてますから、至急に啓太を……』 中嶋にとってこれほど不当な言いがかりはなかった。これではまるで中嶋が啓太を閉じこめてでもいるような言い方ではないか。自他共に認めるS系ではあるが監禁の趣味はない。中嶋は受話器をひったくった。 「えらい言われようじゃないか。俺が何をしたというんだ」 『いましたね』 「いたがどうした」 『啓太を出してください。早く』 「啓太なら学園だろう。何を寝ぼけたことを言ってる」 『……っ!!』 「貴様の方こそとっとと啓太を出せ」 電話の向こうで息を飲む気配がした。ほぼ同時に中嶋も事態の異常さを悟った。ふたりとも同じことを話している。眉をひそめた中嶋の口調は、一気に絶対零度まで下がっていた。 「……どういうことだ?」 『啓太がまだ学校に現れないんです。てっきり貴方のところにいるものとばかり』 「啓太なら29日に実家まで送り届けた。30日に中学時代のくだらん同窓会があるとか言ってな」 『だったら……』 ちょっと待て。そう言って中嶋は携帯電話を取り出した。メモリから啓太の実家を呼び出して電話をかける。5度6度とコールを繰り返したあとで、聞き覚えのある明るい声がした。 『はい。伊藤でございます』 「あ、お母さんですね。中嶋です。先日は失礼致しました」 『あらあ。中嶋さん。こちらこそ何のおかまいもできませんで』 「それよりあの……。啓太はいますか?」 『あら嫌だ。啓太はもう学校じゃありませんか。とっくに新学期は始まってますよ』 「ああ、そうか。そうですね」 『大学と高校じゃ始まる日が全然違いますよ(笑)』 「すみません。ついうっかりしていました。……それで、いつ学校に戻りましたか?」 『31日の昼前ですよ。お昼を食べてからにしたらって言ったのに、あの子ったら』 それ以上聞く必要はなかった。適当に話をごまかして電話を切った中嶋は、待たせていた和希に言った。 「聞こえたか」 『ああ、聞いた。つまり啓太は31日の昼前に実家を出て、学園に着くまでの間に姿を消した。そういうわけだな』 数秒の沈黙があった。中嶋は中嶋で、和希は和希で対応策を考えていたのだ。事故にしろ故意にしろ、これは異常な事態であった。しかも相手は啓太である。たとえ中嶋に愛想をつかして家を飛び出していたのだとしても、学園に姿を見せないはずがない。実家の次に頼れるのは和希のところしかないのだから。やがて和希が緊張を含んだ口調で言った。 『まず、こちらで警察関係をあたってみます。中嶋さんはそのままそこにいて下さい。進展があるにせよないにせよ、30分ごとに連絡を入れます。最悪の場合、午後一番に啓太の実家に向かいましょう』 「わかった。連絡を待っている」 受話器を置いた中嶋は、ひとつため息をつくと車のキィをズボンのポケットに入れた。そしてすぐに飛び出せるよう、ジャケットを出してデスク脇のついたてに掛けた。嫌でもそこにあるベッドが眼に入る。ぐずる啓太をいつものようにたたき起こしたのは、ほんの数日前だ。あいつはいったい、どこへ行ったというんだ ―― ? 30分後。和希からの最初の連絡が入ったときには、丹羽が同じ部屋で待機していた。そして啓太の実家に向かうと決まった頃には、篠宮と岩井もマンションに到着していた。これだけのメンバーがいれば、中嶋の留守中に何かアクションがあったとしても対応できる。 待ち合わせの場所へは丹羽が運転して行った。表面的には平静そのものであったが、長年つきあってきた丹羽の眼からは、中嶋が苛ついているのが一目瞭然だったのだ。しかもそれはレッドゾーンまで踏み込んでいた。それでもまだ「キィをよこせ」という丹羽に黙って従うだけの理性は残っているようではあったが。 和希が指定してきたのは、啓太の家まで車で20分くらいのところにある、幹線道路沿いの喫茶店だった。丹羽がそこの駐車場に車を入れると、向こうの端に場違いな高級車が停まっていた。ご丁寧にお仕着せを着た運転手まで座っている。ひと目で和希の乗ってきたものだと分かる車だった。そしてそれが言外に含む意味も分かってしまい、ふたりは鉛を飲みこんだような重い気持ちを引き摺りながら、店内へつづく階段を上った。 平日の昼間ではあったが、幹線道路に面している所為もあってか、比較的広い店内も3分の1程度は埋まっていた。ランチタイムが過ぎてこの客の入りならそこそこ流行っているといっていいかもしれない。ぐるっと店内を見回した中嶋は隅の方でノートパソコンを叩いている和希を見つけた。 「おっ。おねえさん、ホットのコーヒー3つな」 よけいな人間に近寄られるのを1度でも減らそうと、店を横切りながら丹羽がウエイトレスに声をかけた。 「ふーん。珍しくも気配りの連発か。明日は豪雨だな」 「ピリピリした危うそうなツラをふたつも見せられてみろ。俺がマトモでいなきゃどーすんだよ」 「ふん」 挨拶をするわけでもなく、黙って席に着いたふたりを、乱れてもいない髪をかきあげながら和希が見遣った。憂いとも怒りともとれるまなざしは、丹羽の背筋さえ震えさせるくらいの凄みに満ちていた。啓太がかかわっている分、今の中嶋にも、丹羽や篠宮でなければ近寄れないくらいの緊迫感はある。が、世界を相手にする男の気迫は、まだ学生でしかない中嶋のそれを軽く凌駕していた。何も知らずにコーヒーを運んできたウエイトレスは、自分でも気づかないうちに彼らの撒き散らす怒りのオーラに巻き込まれたようだ。たかだかコーヒー3つをテーブルに置くのに震える手で何度もやり直さなければならず、逃げるようにその場を離れてからは、彼らが出て行くまで近寄ろうとしなかった。 「時間がないから端的に言おう。啓太は見つかっていない」 「……そのようだな」 「内々のルートを使って、警察犬に啓太の家の周辺を探らせた」 和希が傍らにおいてあったブリーフケースから1枚の地図を取り出してテーブルに載せた。通常見慣れたものよりはるかに細かいその地図は、明らかに捜査を目的として作成されたものだった。 「ここが啓太の家。駅はここだ。ルートとしてはこの道をこう行くのと、ここにある郵便局前に出てまっすぐ行くのとふたつある。啓太は郵便局前へ出ようとしたらしい。ここからこう行って……こう進んだところまではたどれたんだが、このあたりで啓太の匂いをロストした」 和希が指し示す地図に、中嶋と丹羽の眼が釘付けになる。そこはどちらのルートを使っても必ず通るポイントで、相手は土地勘のある人間か、そうでなければよほど周到にリサーチをかけたものと思われた。 「ついでに言えば、犬を換えても結果は同じだった。つまりそこで車か何かに乗ったのだろう」 「んなもん、無理やりに決まってるだろうがよ」 「当然だ」 わずか一言で和希が切って捨てた。啓太が自分から身を隠すはずなど絶対にないのだ。今はそんな、分かりきったつまらないことを論じる時間はなかった。 「啓太のご両親には連絡を取ってある。お父さんが帰ってこられるまでもう少しかかるだろう。それまでにこれからの手順を話し合っておきたい」 和希の手並みは 『 捨て子事件 』 でよく分かっていた。それに、こういう場合こそ指揮系統は1本でなければならない。丹羽も中嶋も数手先までの展開予測を繰り広げる和希のことばを、黙って頭に叩きこんでいた。 掻きたいだけ掻いたら息がはずんでいた。まるで100メートルを全力疾走してきたみたいでさえある。腕も足もあちこちが血だらけになってしまっている。だが我に返った啓太はそれにも気づかず、呆然と目の前を見ていた。 「……どこだよ、ここ……」 目の前は木だの雑草だのが生い茂っている森のような場所だった。そこの、わずかに地面が出たところに啓太は座っている。その前後の雑草が倒れてしまっているところに、今まで啓太が寝ていたのだろう。一度は追い払われた虫が、また啓太の足を這い登っていた。啓太の手は無意識にそれを払いながら、為すすべもなくただ周囲を見回していた。 |
いずみんから一言。 「9月から連載やります」なーんてあちこちで書いておいて、今頃焦っている伊住です。 今のペースだと月2回いけるかいけないか、ってとこかも? ← おいおい 長さはまったく分からないです。 最初は3回くらいって思ってたのが、それは無理だと判明しましたが(笑)。 ともあれ。啓太くんはどこへ行っちゃったんでしょうか。 しばらくの間、おつきあい頂ければ幸いです |