もういちど、この腕に 第 2 回 |
「落ち着け」 声に出して自分に言い聞かせた啓太は、自分でも大げさだと思えるくらいの深呼吸をすると、とりあえず周囲を見回してみた。雑木林、とでもいうのだろうか。雑多な木や植物が生い茂っている。薄暗いとまでは言えないものの、それなりに背の高い木が多いので、本当に周囲数メートルくらいのことしか分からない。だがその風景にまったく見覚えはなかったし、記憶が途切れてしまっていて、何故こんなところにいるのかもわからない。いつの間にか迷子になっていたのに気づいた子供のように途方にくれてしまった啓太の視線の先で、木でも草でもない、何か異質な色がちらっと見えた。 何でもいい。何かにすがりたい。その一心で熊笹のような葉をもつ枝をかきわけて進んだ。一歩進むたびに鋭い葉は腕のあちこちを傷つけ、出血するほどではないまでもひりひりと痛んだ。そうしてようやくたどり着き、覆いかぶさっていた枝を取り除けると、それは啓太がもって出た赤いスポーツ・バックだった。 そうだ。俺は寮に戻ろうとしてたんだよ……。 そこまでは何とか思い出せたが、そこまでだった。そこから先がどうしても思い出せない。 『 しっかりしろ。馬鹿か、おまえは 』 中嶋の声が聞こえた気がした。 「はあ……。家出人ですなあ。よくあるんですよ。新学期が始まったら、学校に行きたくないってんで家出しちまうパターン」 人を小馬鹿にしきった表情で面倒くさそうに話をする警察の人間を、和希はうんざりする思いで見返していた。とりあえず地元の警察に、ということで啓太の両親と共に捜索願を出しにきたのだが、それは忍耐の限界値を試されてでもいるような不愉快な時間だった。 「いえ。先程もご両親から説明がありましたとおり、伊藤はそんな子じゃないんです。まじめに学生会の業務と受験勉強をこなしている。成績だって順調に上がって、国立を狙えるくらいになった。家出する理由はまったくないんです」 「ははあ。じゃあ新潟の女子中学生みたいに某国が拉致したとでも」 「そこまでは言いませんが、何らかの事件に巻き込まれた可能性は大きいと思っています。現に犬が匂いをロストしている」 「誰かが車で迎えに来たんでしょう? 高3にもなれば免許を持っているヤツは多い。車とも限りませんよ。学校に戻りたくないと思いつつ歩いていたら、バイクに乗った友人とばったり会った。おたくなら乗っちまいませんか?」 「だからそういうタイプの子じゃないと言っているんです」 「なんですか? 公安の丹羽警視……でしたっけ? そこからも協力要請ってのがきてますがね、そんなたいそうなもんじゃないですよ。普段まじめそうに見えてたって言うんだったら、渋谷か原宿あたりで女の子とたむろってるに違いないんです。受験勉強に疲れて、ちょいと息を抜いてるだけですよ。こんな大事にしちまったら、かえって帰ってきにくくなるんじゃないんですかね」 時間の無駄だとでも言いたげに鼻で笑う男を前に、中嶋くんがこの場にいなくて本当に良かったと、和希はそんなことを思った。 『 理事長 』という肩書きに、いつものリビングのソファでは失礼と思ったか、和希たち3人は床の間のついた和室に通された。面識のある中嶋にすがるような眼を向ける母親の姿に、我にもなく和希は心を痛ませた。 「はじめてお目にかかります。BL学園理事長をしております鈴菱和希と申します」 こういう場合こそ私情を交えてはいけない。自分にそう言い聞かせつつビジネスライクに自己紹介した和希の名前を、啓太の両親は「学園での親友と同じ名前だ」とは気づかなかったようだ。とっくに学園で新学期を迎えているとばかり思っていた息子が、実は3日も前に行方不明になっていたと聞かされたのだ。細かいところまで目が向かないのは仕方がないだろう。取り乱さずに話を聞いてくれるだけでも有難いと思わなければならなかった。少なくとも無駄な時間とエネルギーは使わずにすむ。 その所為かどうか、状況の説明はあっけないくらい簡単に終ってしまった。それでも改めて息子がいなくなった説明を聞かされた母親の衝撃は大きかった。顔色はこれ以上ないくらい白くなり、全身が細かく震えている。その目に和希たちの姿は映っていただろうか? 「あ、あの。私、お茶を入れ替えないと……」 などと口の中で呟きながら、啓太の母親は逃げるようにその場を立とうとした。その場を立ち去りさえすれば、何事もなかった世界に戻れるとでも思ったかのように。そして立ち上がり損ねたのか、足をもつれさせるとその場にしゃがみこんでしまった。畳についた手の上に、涙がふたつみっつと続けざまに落ちた。 「おい、母さん!」 「ご、ごめんなさい……。でも啓太、啓太が……」 泣き声は聞こえなかった。だが顔を覆った両手の間から落ちてくる涙は、もう止まりそうになかった。こんなときでさえ声を出して泣けない母親という名の大人は、先刻、出迎えてくれたときより一回り小さくなってしまったように見えた。その小さな背に和希と、そして啓太の父親が何か声をかけようとしたときだった。 「申し訳ございません!」 聞きなれた声の聞き覚えのない大声だった。驚いて振り向くと、座布団から降りた中嶋が、啓太の両親に向かって土下座をしていた。鼻の先と畳との隙間は2センチもないだろう。和希にも、そして丹羽にも、ここまで頭を下げた中嶋というのは記憶になかった。 「大見得を切って大事な息子さんをお預かりしておきながら、こんなことになってしまいました。 31日の夜におかしいと思わなければならなかったのに、俺は……!」 「……中嶋さん……?」 「そうすれば、どんなに遅くても昨日のうちに捜査が始められたはずです。この48時間、啓太がどんな思いで助けを待っていたかと思うと……、ご両親にはお詫びしてもしきれません!」 「中嶋くん、それは違う」 和希はそう言うと中嶋の隣で同じように手をついた。 「ご両親に謝らなければならないのはわたしの方だ。わたしの方こそ、啓太くんが31日に帰ってこなかったのを見過ごしてしまった。彼に限って、新学期に間に合わないなんてことがあるはずなかったのに……。本当に申し訳ございませんでした」 気押されてしまったのか、啓太の両親と丹羽は、並んで頭を下げるふたりをただ黙って見つめつづけていた。 警察へ同行するという中嶋を止めたのは和希だった。どうせ不愉快な経験にしかならないのはわかりきっていたからだ。だから啓太の部屋から手がかりを探すという名目を与えて置いてきたのだが、どうやらそれは正解だったようだ。うんざりするような時間をかけて、得られたものは何ひとつない。ねばってねばって、ようやく捜索願を受理させたのだけが収穫のようなものだった。 先年、学園が巻きこまれた捨て子事件のとき、地元の刑事たちは気持ちよく和希に手を貸してくれた。それは向こうが地方都市だということも関係しているだろう。ここのように東京を目の前にしている街では、高校生の家出など、記録の1行にしかすぎないのだ。あの真面目で朴訥な感じの寺田刑事がとてつもなく懐かしかったが、今の和希にはそんな感傷にふける時間はなかった。中嶋の言葉ではないが、啓太がどんな気持ちで自分たちを待っているかと思えば、1秒でも早く次の手を打たなければならなかった。 本人の留守の間に部屋を家捜しするというのは、たとえそれが非常時であっても、あまり気持ちのいいものではない。丹羽と共に啓太の部屋に入った中嶋は、ほんの少しためらいでもあったのか、部屋の中ほどで足を止めると、ぐるっとあたりを見渡した。 この部屋に中嶋が入るのははじめてだった。今年の正月はこの家で迎えたが、あえて啓太の部屋には入らなかった。この家にいる間、中嶋はいつも啓太と少し距離を置くようにしているからだ。いずれふたりの関係が知られるのは分かりきっていたが、啓太が高校生の間に知られることだけは避けなければならなかったのだ。自分たちがどんなに真剣であっても、いや、真剣であればあるほど、まだ知られるわけにはいかなかった。ベッドの足側の壁に貼られたピンナップの中では、数年前にブレイクしたグラビアアイドルが水着姿で笑っている。そうだ。中嶋が手を出しさえしなければ、このポスターだって新しいものに貼り替えられていたに違いないのだ。 「意外と片付いてるじゃねーか」 「そうだな」 中嶋の意中を察してか、わざと軽い口調で丹羽が言った。言外に「早く作業をはじめろ」と言っているのが感じられた。 丹羽や篠宮にしか分からない程度かもしれないが、中嶋は今、非常に危なっかしい状態にいた。 啓太がもし自分とこんな関係でなければ、和希はもっと早くアクションを起こしたに違いないと考えているからだ。中嶋と一緒にいると思ったからこそ、和希は苦い想いを噛み潰しながらも今日まで待ってしまったのだ。 それでなくても中嶋は啓太とこうなったことを、啓太の両親に対して申し訳ないと思っていた。 いつかは啓太に可愛いお嫁さんをもらって孫を抱くというごくごく普通の幸せを、啓太の両親から取り上げてしまったという思いは、余人には計ることのできないくらい重たい枷となって中嶋の心に埋めこまれていた。加えて今日は、初動捜査の遅れの原因が自分にあるという自覚があった。 それらのすべてが、あの土下座という行動になって現れたのだ。中嶋の精神的なダメージは相当なものであると言えた。その背景が見えている丹羽には、ヘタな慰めはかえって不要とわかっている。であればこそ無理にでも中嶋を働かせなければならなかった。 「とっとと手がかり見つけて迎えに行ってやろーぜ」 「そうだな。早く捕まえてお仕置きをしてやらなければならん」 「おいおい」 「あたりまえだ。ご両親にあれだけご心配をおかけしてるんだ。一晩や二晩のお仕置きではまだ足りないくらいだ」 呆気に取られたように中嶋の顔を見た丹羽は、苦笑を漏らしながら「手加減はしてやれ」と言うと、中嶋の肩を何度か叩いた。どこが「ご両親が心配」なんだと言いたいくらいの顔はしているものの、どうやら中嶋は中嶋なりに気持ちの整理をつけたようだ。啓太とこうなった責任云々を言いはじめたら、和希がプラチナペーパーを送ったところまで遡ってしまう話だ。今はつまらない葛藤で時間を無駄にするわけにはいかないと、無理矢理にでも思うことにしたのだろう。1秒を無駄にすれば啓太を見つけるのが1秒遅くなる。積もり積もればそれは数時間、数日単位になってしまうのだ。 「スケジュール帳かアドレスブックみたいなものがあればいいんだが」 「わかった。んじゃ俺はベッドの周りからはじめるわ。おまえは机の引き出し見てけよ」 机を中嶋に任せたのは、丹羽なりの配慮だった。無闇矢鱈と他人が開けていい場所ではないからだ。1時間程度の作業の後、この部屋からはめぼしいものは見つからないという結論に達したとき、篠宮と入れ替わりにマンションへ戻るよう言ったのも同じ理由からだった。 「向こうは篠宮に探させればいい」 「いや、だめだ。あっちにはパソコンだってある。パスワードを見つけられるとしたら、それはおまえだけだ。戦力の逐次投入が結果として時間の無駄になることくらい、おまえだってわかってるだろ? 遠藤が帰ってくるまでできることはほとんどない。ふたりで待つことはないんだ。俺がここにいる。俺が手足になってやる。だから頭脳のおまえはあるべき場所で考えろ」 それだけ言うと丹羽は中嶋の返答も待たず、電話を出して篠宮を呼び出した。そして啓太の家の最寄の駅を説明しながら、中嶋に向かってしっしっと手を振った。睨みつけるようにして丹羽を見ていた中嶋だったが、やがてくるりと背を向けた。尚も篠宮と話す丹羽の耳に、車にエンジンがかかった音が聞こえてきた。 啓太の両親を後部座席に乗せた和希は、助手席を開けて乗りこんだ。驚いた運転手が慌てて飛んできたが無視をして助手席に納まった。彼にとっては鬱陶しいだろうが、携帯であちこちに連絡を取りたい以上、啓太の両親たちと並んで座るわけにはいかなかったのだ。 日本にいるかどうかさえ危ぶまれた相手は、意外にもわずか2度のコールで電話をとった。 「やあ。まだ日本にいたようだね」 『いや。ちょうど北米から帰ってきたところだ。入学前に挨拶をしておかねばならないところがいろいろあるからな』 「七条くんもそこにいるのかな」 『ああ。と言っても、臣は家に風を通しに帰ってきただけだ。いつまでここにいるかは分からない』 西園寺と七条はフランスにある大学へ留学が決まっていた。和希が手配をして、フランスで現地の高校生とまったく同じバカロレアの試験を受けさせたのだ。そしてふたりとも満足のいく結果を得ていた。 フランスの大学は10月からだと分かってはいたが、早めに出国して各地を旅行しながらフランスへ向かうことも考えられたので、彼らが日本にいる確立は半々くらいかと和希は考えていた。その場合、呼び戻しに必要な約1日のロスを如何にして埋めればよいかと思案していたのだが、どうやらその問題はクリアできたようだ。やはり啓太は運がいいのだ。 「今現在そこにいるのさえ分かれば充分だ。ヘリを飛ばせるからこっちへ来てくれ」 『おい。遠藤』 「2時間後にそこの消防署のヘリポートだ。わたしは今、埼玉にいるんだ。これから本社に戻ったら、多分君たちと同じくらいの時間になると思う」 ほんの数秒だけ沈黙が流れた。うしろに啓太の両親がいて、和希の一言一句に耳を傾けているのに違いないのだ。最低限のことしか口にできなかったが、西園寺はきちんと意味を取ってくれたようだった。 『今、埼玉にいると言ったな』 「ああ」 『中嶋はどうしているんだ』 「まだ動かせないでいる」 『……わかった』 西園寺には珍しく、いくばくかの緊張感を含んだ声だった。和希が「鈴菱和希」として啓太の自宅のある埼玉にいる。啓太のことならすべてを把握しているはずの中嶋が和希の手駒となっていて、しかも和希はその手駒を動かせずにいると言う。事態はどうやら西園寺の予想を超えてしまっているようだった。 『2時間は要らない。1時間で待機しておく』 「よろしく」 たたんだ携帯電話をスーツの内ポケットに入れた和希は、数ある営業用の顔のうち、安心感を抱かせる笑顔を選んで顔に貼り付けると、後部座席で聞き耳を立てていた啓太の両親の方を向いた。 すぐにでもバッグを開けたいところだったが、このあたりは特に枝や葉の茂り方がひどく、押さえた端から違う枝がまとわりついてくる。このままではバッグの口さえ開けられそうになかったので、啓太はまた熊笹のような葉に悩まされながら元いた場所に戻った。そこの方がまだ開けていたからだ。 元いた場所に戻ることはふりだしに戻ることでもある。だが自分につながるものを見つけた啓太は、自分でも意外なくらい落ち着いていた。ポケットになかった携帯電話がバッグに入っているかもしれない。それに和希へのお土産に買ったペットボトルのお茶が入っているはずなのだ。空腹はさほど感じなかったが、喉はとても渇いていた。 先刻まで倒れていた場所に戻り、膝をついて地面にバッグを置いた啓太は、軽く眼を閉じてひとつ息を吐いてから、震える手でファスナーを開けた。 バッグを開けると、数枚の着替えの上に置いたミステリのペーパーバックが、まず目に飛びこんできた。マンションを出るときに中嶋から借りたものだ。 『 ところどころ単語の意味を書きこんだりしているし、そう難しい構文も使われていない。まずは辞書なしで読んでみろ 』 「中嶋さん……!」 ペーパーバックを思わず胸に抱きしめて、啓太は中嶋の名を小さく呟いた。 |
いずみんから一言。 いやはや。諸般の事情から1ヶ月ぶりの第2話となりました。 でも怒っちゃやーよ。ってか怒る人いないよねぇ? ←懇願? 脅迫? 8月末には書きあがってたんだけど、手を入れる余裕がなくて(涙)。 怒ってなくても「第1話を忘れた!」という方はいらっしゃるかもしれません。 伊住はこれのファイル名を忘れていて、FDだのマイドキュだのHDDだのを探し回りました……。 これからは月2回の更新を目指して頑張りたいと思いますので、またよろしくお願いします。 ……でも最後は中嶋の誕生日に絡めるつもりだったんだけど。 時間的にはもう無理だ……。 |