もういちど、この腕に

第 3 回




 バッグの中に携帯電話はなかったが、ペットボトルのお茶は3本とも見つかった。それは転校前に通っていた学校の食堂で売られているもので、ラベルには和希の作ったくまちゃんそっくりのクマの絵が描かれていた。何気なく話したら和希がおもしろがったので、お土産にしようと友人に頼んで買ってきてもらっていたものだった。ちなみに緑のクマが緑茶。ピンクが紅茶。青が烏龍茶である。何故クマかというと、製造元が大熊食品という会社だかららしい。
 お土産だけど……。1本くらいいいよな。自分で自分に言い訳をした啓太は、キャップを開けるのももどかしく、烏龍茶を一気飲みしようとした。が、何かが頭に引っかかって手を止めた。ここがどこか分らないままだというのに気がついたのだ。
『 まずは状況を確認しろ。休憩はそれからでいい 』
 中嶋の声が聞こえてきて、啓太はもっと飲みたい気持ちをぐっと抑えた。ほんの一口、くちびるを湿らせる程度でキャップをする。たったそれだけで身体中から精神力をかき集めてこないといけないくらい喉が乾いていたが、たとえ空耳でも中嶋のことばに逆らえる啓太ではなかった。
 ほんの10分だ。啓太は自分にそう言い聞かせた。10分も歩けば自分の居場所くらい分るだろう。そうしたらゆっくり、気のすむまで飲めばいいんだ。もしかしたら冷たい飲み物の自動販売機だってあるかもしれない。こんななまぬるいお茶より、ずっとそっちの方が美味しいに決まってる。
 そして啓太は、思いを断ち切るかのように、ペットボトルをバッグの中に押しこんだ。



 制限時速など気にしたこともない中嶋だったが、マンションまでの道のりはプラス10キロ程度のスピードで流した。違反切符を切られるのはかまわないが、それによって貴重な時間を取られるのだけは願い下げだったからである。その程度の計算ができるくらいには中嶋の精神状態も落ち着きはじめていた。啓太の現状が深刻であればあるほど、中嶋の腰は据わるのかもしれない。
 帰り着いたマンションでは、途中で電話を入れておいた岩井が、啓太の部屋で見つけた年賀状の束を持って待っていた。
「助かる」
「……いや。俺は見つけただけだ。あきらかにBL関係者だとわかるものだけは除けたが、あとはどうすることもできない」
「それだけでも十分な収穫だ。実家の方ではたいしたものは出なかったんだ」
「そうか……」
「俺は今からあいつのノートを見るから、悪いがもう少し部屋を探してもらえるか」
「ああ。わかった」
 芸術家である岩井の仕事は繊細で緻密だった。それは馬鹿がつくくらい丁寧な作業で、見落としもないに違いない。しかしそれを横でやられていると苛々してしまうのもまた事実だった。ぐずぐずせずにとっとと手がかりを見つけてくれと叫びたくなってしまうのだ。中嶋は自分の精神衛生の安定と岩井の作業効率を下げないために、啓太のノートパソコンをもってリビングに出ると、啓太の部屋の壁におしつけてあるダイニングテーブルに落ち着いた。

 電源は入れたもののやはりパスワードがかかっていて、すんなりとノートの中に入れそうになかった。ドラマでもあるまいし、思いつくままいくつか試した程度で見つかるものではない。小さくため息をついた中嶋は携帯電話を取り出した。
「俺だ」
『何か手がかりでも見つかったか』
「いや。そうじゃない。今どこにいる?」
『鈴菱本社に戻るところだ。もうすぐ西園寺くんたちが到着する』
「なるほど。ではパソコンは使えるな」
『何をさせたい』
「あの馬鹿はパスワードを設定してるんだ。そこからシステムの中に入って、せめてパスワードが何文字あるかだけでも調べてもらいたい。元はといえばおまえのところのパソコンだろう。なんとかしろ。……俺だと時間がかかりすぎる」
 言いたいことだけ言って電話を閉じた中嶋は、ふと気がついて充電コードにつないだ。いつ何どき家を飛び出さないといけなくなるか分らないのだ。行った先で電池切れを起こしたら目もあてられない。いずれどこかで電池パックを追加購入しておかねばならないだろうが、できるときに地道に充電しておくことも必要だった。
 現金も引き出してきたし、車のガソリンも満タンにしてきた。いつでも啓太を迎えに行ってやれる。……たとえそれがどこであろうとも。必ずこの腕に取り戻して見せる。
 かすかなため息と共にもう一度啓太のパソコンの前に座った中嶋は、これで何度目になるかわからない呟きを口にした。
 啓太。おまえはいったいどこへ行ってしまったんだ、と。

 西園寺たちを乗せたヘリがもうすぐ到着すると連絡があったとき、和希は鈴菱本社にある第2システム管理室で啓太のパスワードの解析をつづけていた。啓太が使っているパソコンは鈴菱グループがパソコンを総入換えしたときに、廃棄する予定の1台を譲ったものだった。もちろんデータなどは和希の手によって見事なまでに消去されていたが、基本のところは残っている。
 数年前のことだが、鈴菱本社の幹部社員が車にはねられて数日間意識が戻らなかったことがあった。その間、その社員のパソコンに入っていたデータが取り出せなくて困ってしまったのだ。それ以降、和希は全社員のパソコンに、いざというときパスワードが見つけられる道筋のようなものをつけておいた。いくら経営者だといってしていいものでは絶対にないが、非常事態になったときには役に立つ。今こうして和希がたどっているのは、そのときに作ったルートなのだった。
「そろそろタイムアップかな……」
 完全な防音防振対策がなされているので、この部屋にいるとヘリが近づいているのかどうかなどまったくわからない。だが時間的にもう着いてもいい頃だった。作業中のパソコンをそのままにして席を立った和希は、部屋に入るカードキィの設定を変えると、西園寺たちを出迎えるために屋上のヘリポートへ向かった。戻ってくる頃には解析作業ももう少し進んでいるだろう。
「もしもし、遠藤だ」
 廊下を歩きながら携帯を取り出す。思ったとおり、中嶋は最初のコールで電話をとった。
『わかったか?』
「わかったのは全部で13文字。すべてが半角のアルファベットらしいということだけだ。数字は使わなかった可能性が高い。今も解析中だから、何かわかったら追加で知らせる」
『頼む』
 和希が電話を切るのを見計らっていたかのように、秘書の石塚が歩み寄ってくるのが目に入った。急といえばあまりに急すぎるスケジュールの変更に、岡田ともども、文字通り走り回ってくれているのだ。今のこの時間を確保したことによって和希の今月の休みはつぶれてしまうだろうが、それは彼らといえども同じだった。申し訳ないことをしているとは思ったが、今はどうすることもできない。啓太を少しでも早く見つけ出すことが、彼らの労に報いることになるのだと気持ちを切り替える。一足先にエレベーターホールについた石塚が呼びボタンを押した。
「ヘリはもう見えています。あと数分で着陸できるでしょう。作業用に第8会議室を確保しました。指示された通りの装備はセッティング済です。それからわたしの独断で、前回の捨て子事件のときにオペレータを務めた女性社員のうち、大前チーフ以下、都合のついた約半数を待機させておきました」
「いい判断だ」
 こういう判断ができてこそ鈴菱の秘書である。一言のねぎらいのあと、和希は悪戯っぽい表情を石塚に向けた。
「大前チーフを確保するのに苦労しただろう」
「和希さまに1時間でも早く現場復帰をしていただくためです。まともな能力のある管理職なら、優先しなければならないことの判断はつくはずです」
「……総務部長にはあとで礼を言っておくよ」
 余計なことは言わないが、現場と一悶着あったことは簡単に想像できた。黙って頭を下げる石塚の肩を軽く叩いた和希の前で、小さな音と共にエレベーターのドアが開いた。

 半角のアルファベットで13文字。
 さてどうしたものかと考えた中嶋は、気分転換もかねて書斎のパソコンでエクセルを立ち上げると、13文字の枠を作った。頭でパスワードを考えるとき、文字数が多いのは有利な要因である。そこまで多いと無意味な文字の羅列では覚えられないため、何がしかの単語、あるいは何かの法則にしたがって並べられた文字に限定できるからだ。ましてや設定したのは啓太である。さほど難しいものであるはずがなかった。
 だがうまく13文字というのも難しかった。思いついて並べてみても、14文字になってしまったり11しかなかったりと、なかなかうまくいかないのだ。また行き詰まってしまった中嶋が濃い目のコーヒーを淹れていると、雑誌を手にした岩井がキッチンに入ってきた。
「今コーヒーを淹れたところだ。飲んでいくだろう」
「ああ。もらおう。……それより、これを見てくれないか」
 岩井が差し出したのは啓太がときどき読んでいる漫画雑誌だった。日々の課題さえきちんとこなせば、漫画を読もうがアニメを見ようが昼寝をしようが、中嶋は何も言わない。学園にいる間は友人に借りて読んでいるその雑誌を、夏休みの間は自分で買っていたのだった。
「何冊かくくっておいてあったやつなんだが」
「ああ。そう言えば、雑誌の回収日に捨ててくれと言ってたな」
「裏表紙にメモ書きがしてある」
 コーヒーを入れたカップと引き換えに雑誌を受け取って見てみると、裏表紙は近日発売予定のゲームソフトの広告になっていた。ごちゃごちゃと絵柄が入れ混じっているのでわかりにくいが、よく見るとヒロインらしきキャラの白いドレスの部分に、確かに啓太の字で 『 6時 茶屋 』 と書いてあった。読んでいるときに電話がかかってきて、ちょこっとメモをしたといったところだろうが、知らないと見過ごしてしまうような書き込みだった。岩井でなければ見つけられなかったかもしれない。
「おまえのパソコンを貸してくれたら、これに相当する店がないか探してみる」
「そうだな。まだご両親に聞くのは無理だろう。好きに使ってくれ」
 啓太の両親に聞けば早いが、もし無関係だった場合の落胆が恐ろしかった。それでも確認作業は必要だし、それに手がかりらしい手がかりがほかにないのだ。中嶋がパスワードに専念するなら、岩井の手助けは有難かった。

 コーヒーを手にした岩井を書斎へ案内した中嶋は、マウスを軽くつついてスクリーンセイバーを解除した。あとの画面には、先刻まで作業をしていた13文字の枠が現れた。
「それは……いいのか?」
「ああ。パスワードの数が13文字だと言うんで、枠を作って考えていただけだ。消してもらってかまわない」
「13か……」
「数字は使っていない。アルファベットだけらしいんだが、なかなかうまくはいかないものだな」
 わざと軽く言った中嶋がエクセルの画面を消そうとしたときだった。しばらく考えこんでいた岩井が顔をあげた。
「啓太は外国語が得意か?」
「いや。無残なものだ」
「ではこれはローマ字だな。母音と子音の組合せになるから数が多くなってしまったんだろう」
「……ローマ字か……」
 盲点を突かれた思いだった。4文字や5文字で考えていたときにはちゃんとローマ字でも考えていたのに、13という少なくない数を見たときから、何故かそれが英単語の組み合わせ、熟語のようなものだと思いこんでしまっていたのだ。
 基本的にローマ字は偶数で作られる。それが奇数だということはア行の母音か 『 kya 』『 sha 』といった拗音、あるいは 『 xtu 』 などの促音が含まれていることになる。だが母音というところで中嶋には何か確信のようなものがひらめいていた。
 広いリビングを文字通り駆け戻った中嶋は、パソコンの前に座ろうともせず、パスワードの欄にまず 『 keita 』 と入力した。これで5文字である。残り8文字はためらいもなくその前に挿入した。 『 nakajima 』 。
「馬鹿が。こんなことをして……」
 呟く中嶋の前で、啓太のノートパソコンは立ち上がった。

 日にちの見当はついていたので、そのメールはすぐに見つかった。
『 啓太 元気してるか? 同窓会の話聞いた? おまえが来るなら三輪と矢島は行くってさ。俺は考え中。ってか、おまえと会うだけならこないだ会ったとこだしな。ぶっちゃけ宿題の出来にかかってる(笑)。おまえが来るんなら宿題のスピードアップをしてもいいけどな。出欠決まったら、俺らにも知らせろよ。船木 』
 中嶋は岩井が見つけていた年賀状の中から、三輪・矢島・船木の3枚をより分けた。さらにアドレス帳から自宅の電話番号も調べだした。携帯電話の番号がなかったのは、メモリに入れてあるからかもしれない。
 同じ同窓会に出席していたらしい親しい友人が特定できたのは大きな収穫だった。本来なら啓太の両親に聞けばいいのだろうが、男子中学生ともなれば親が交友関係を把握しているケースは少ない。数人の名前くらいなら知っていたかもしれないが、ただでさえ突然のことに動揺している両親に3年も前のことを思い出せという方が酷というものだった。
 この調子でもう数人の名前がわかれば。そうは思うのだが、受信トレイや送信済みアイテムにある名前はほとんどがBL学園関係者のもので、たまに違う名前を見つけても、それは先刻の3人だったり関係を特定できなかったりと、気が焦る割に作業は進まなかった。もともとが休暇のときにしか使わないパソコンなのだから、それはそれで仕方のない話なのかもしれない。
 時計を見ると「パスワードが見つかった」と連絡してから、すでに1時間近くがたっていた。とりあえず分ったところまでを報告しておくか。そう思って電話に手を伸ばそうとした中嶋は、気がついて岩井の様子を見に行った。岩井の手元のメモにはいくつもの字が書かれ、バツで消されていた。
「何かわかったか」
「ああ。 『 茶屋 』 で検索してみたんだが、啓太の住所の近くで6軒ある。電車で一駅まで範囲を広げればさらに3軒増える。電話をしてみて、それらしい予約の入ってないところは消しておいた」
「すまないな」
「気になるのは 『 茶々屋 』 という店だ。野村という名前でそれらしい予約が入っているんだが、細かいことを聞こうとしたら切られた」
「茶々屋。野村。だな。わかった。ここまでで一度、報告を入れておく」
「そうしてくれ。……少しでも早く見つけてやりたい」
「……ああ。そうだな」
 こんなものが手がかりになるのかどうか、ふたりには分らなかった。それでも啓太を見つけるために、何かが確実に動きはじめていた。



 そこを上がったのに深い意味はなかった。ただ、少し高くなっているところから周囲を見渡せば、道なり建物なりが見つかるだろうと思ったからだ。それにその向こうは今いる場所より明るいようにも見えたのだ。であれば開けた場所に出られるに違いない。
 ほんの少し急な程度の斜面であったが、雑多な木だの草だのが生い茂っていて、登りきるのに意外と時間がかかった。しかし思ったとおり、数メートル先で樹々は途切れていた。明るい日がさしているのがよく見える。
 走り寄ろうとした啓太は、だがほんの数歩で思わず足を止めていた。そしてそのままバッグを抱きしめながらへたりこんでしまう。
 啓太の眼の前に広がったもの。それはただの空だった。足元は深い谷につながる稜線で、どのくらいの深さか見当もつけられない。おそらく数百メートル。もしかしたら千メートル以上あるかもしれない。さらにその向こうは幾分低いもののやはり山で、まるで日本画のようにいくつもの山が重なり合いながら連なっていた。
 混じりけのない空気の中。鮮やかな青さを誇る空をバックに、さまざまな緑が交じり合う。いっそ美しいとさえいえる光景を、啓太はもはや驚くこともできずに眺めていた。







いずみんから一言。

何はともあれの第3回です。なんとか月2回の目標はクリアできました!
関東地方の山って某イニDくらいでしか知らないので、啓太くんのいるのがどのあたりの
山なのか伊住にも分かりません。← をいっ!
まあ伊住的にそういうのは珍らしいんですけどね。
書くとなったらマジで資料集めしちゃうタイプなので。
↑ 新婚旅行シリーズでA国政府観光庁を利用しまくったヤツ(笑)。
埼玉から行ってるので、たぶんその周辺の県の名もない山なのでしょう。
ということで。そこらあたりにお住まいの皆様。
みょーなツッコミはナシっちゅーことで、ひとつよろしく(爆)。




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