もういちど、この腕に

第 3 部  後 編





 それまでの空気を一変させた中嶋は啓太の両手首をわしづかみにすると、追い立てるようにベッドルームへ連れて行き、ベッドの上に投げ出した。
「脱げ」
 慌てて起き上がろうとする啓太を、中嶋の冷ややかな声が縫い止める。中途半端に起こした啓太の身体が固まった。身じろぐことさえできないままに、5秒10秒と時間だけが過ぎていく。催促のことばこそなかった。が、それ以上に促す強い視線に焙られて、もう一度ぱったりと倒れこんだ啓太は、仰向けになったままのろのろとシャツのボタンに手をかけた。窓際で腕を組んでその様子を眺めていた中嶋は、最後の1枚を脱ぎ落としたのを見て、ゆっくり啓太に歩み寄った。怯えたように見上げる啓太と冷たく見下ろす中嶋と。それぞれの視線が宙空で絡みあい、もつれあう。やがてその視線に圧されたかのように、啓太は思わず顔を背けていた。
 中嶋の眼が怖かった。怒っているのが手に取るように分かる。怒られて当然だと啓太は思った。
 あそこで久我沼の車に乗ってはいけなかったのだ。何と言って脅されようと、あの場は逃げなければならなかった。両親や妹に危害が及ぶのなら、和希なり丹羽なりに相談するべきだった。だけど彼らに迷惑をかけられないと思った。
 その結果があれだ。
 相談するよりも何倍も大きく、「迷惑」などという単語では済まされないほどの迷惑をかけてしまっている。行方不明になって心配をかけ、助け出されてからは眠り続けて心配させた。
 和希や丹羽に迷惑をかけると思ったことが迷惑や心配をかける原因そのものだったのだと、今になってみれば良く分かる。何も言わないが和希など、作らなくていい借りをあちこちに作ったのに違いないのだ。
―― お仕置きされて当然だ。
 そう思った啓太は、背けた眼をそっと閉ざした。

 止まっていた空気が不意に動いた。
 無造作に伸びた中嶋の手は啓太の膝のあたりを掴んで前へ引いた。シーツを掴む暇さえ与えず、啓太の尻をベッドの縁ぎりぎりまで引き寄せると、大きく膝を左右に割った。両のかかとがかろうじてベッドにかかる、見事なまでのM字開脚だった。無防備に開かれた部分が明るい光と、そして中嶋の眼に晒される。今更なのは分かっていても、駆けあがってくる羞恥心に全身が朱に染まった。
 いつ手が伸びてくるのか。そして次に何をされるのか。真っ白になった啓太の頭の中で、ただそれだけがぐるぐると回っている。怖いのにその瞬間を待ちわびる自分を啓太は持て余していた。いつの間にか中嶋は窓際に戻ったようだ。すぐには触ってもらえない。その現実が啓太の何を刺激したのだろうか。本人の意思に関係なく立ち上がったそれが、中嶋を求めて首を振った。
「何をやってるんだ、おまえは」
 揶揄と呆れが半ばしたように中嶋が言った。
「すごいじゃないか。見てるだけでそれか」
「……や……、違……」
「何が違う。こんなに涎をたらしながらもの欲しげに首を振って。淫乱だとは思っていたがこれほどだったとはな」
「……そ、んな……」
「好きに言ってろ。めったにない見せ物だ。俺はここから楽しませてもらおう」
「やだあ」
 耐えきれなくなって、啓太が涙声をあげた。受けて当然のお仕置でも、触ってももらえずに言葉と視線だけでなぶられるのは辛かった。そしてそれより以上に中嶋と自分とが離れているのが辛い。中嶋が傍観者となっているのが辛いのだ。
 どんなに酷い言葉を投げつけられてもいい。触ってくれとも言わない。それだけのことをしてしまった自覚はある。でもせめて同じベッドの上にいて欲しいと思うのは、わがままなのだろうか ―― ?
「お願……。さわ…って」
「触る? 何を」
「俺、の……」
「分からないな。どこがいいのか自分で触って見せてみろ。納得ができたら、そこを触るかどうか考えてやる」
 息を飲む音がした。それは窓を背に立つ中嶋の耳にも届いていたに違いない。それでも尚、中嶋は啓太に近づこうとはしなかった。虚ろに天井を見上げた啓太の目の端から、きらりと光るものが流れ落ちる。そしてそれが耳の脇で髪の中に吸い込まれる頃。のろのろと伸びた啓太の手は、情けなくも中嶋を求めて首を振り続けていた自分の中心をそっと握った。
「両手でだ」
 恐ろしいまでに冷静な中嶋の声が、啓太をさらに辱める。だが同時に手の中の熱があがり、質量が一気に増大した。
 いつもの啓太なら、それでもまだ少しは持ち堪えられたかもしれない。だが2ヵ月以上もの間、誰にも触れられることのなかった啓太には、もはやあっという間もなかった。頭の中がスパークしたように白く光り、押しとどめようとした果汁を振り撒きながら若い実をはじけさせてしまっていた。
「う…っ。え……っ」
「泣くほど良かったのか?」
 指の1本さえ使わず、啓太を追いつめた中嶋の声は冷たかった。だがその声がほぼ真上から降ってきたのに気づいて、啓太はぼんやりと目を開けた。
 中嶋の顔はすぐそこにあった。やっと近づいてきてくれた。月より冷たい目でも、ただそこにあるだけでうれしくて。安堵の息を吐いた啓太は、抱きつこうと腕を伸ばした。なのにその手を拒むかのように中嶋は位置を下げる。
「……中嶋、さん?」
 不安が啓太の声を震わせる。だが中嶋は返事を返さず、いつの間にかまた首をもたげはじめていた啓太の先端に、ほうっと熱い息を吹きかけた。けっして手を触れようとはせず、それでいて甘すぎる愛撫に、啓太ごときが自分の意思でどうこうできるはずもない。さほどの時間もかからず甘い声を漏らしはじめた啓太の茎は、とろとろと透明のしずくをこぼした。
「おまえ俺のことを『絶倫』などと言ってくれるが、おまえの方がよほどじゃないか。うん?」
 そのことばと共に出る吐息のひとつひとつがまた刺激となって、啓太のそれを踊らせる。もっともっと熱い吐息が欲しくて、啓太は握りしめた自分の先端を中嶋の声のする方に向けた。
 と、啓太の両のひかがみに中嶋の手が入り、胸につくくらい膝をもちあげた。腰が軽く持ち上がり、啓太の最奥が中嶋の目にさらされた。欲しがるものを与えず、求めて苦しむ姿を見て楽しむというそれは、中嶋のお仕置きの基本のようなものである。それをよく知っている啓太は諦めと、そしてとらされた姿勢の恥ずかしさとから自身を握っていた手を離し、かわりに両腕で顔を覆った。
「手を離したのなら膝をもってろ。どうせここからだと表情までは見えん」
 持てと言われて、おそらく訳もわからないままに自分の膝を受け取った啓太は、次の瞬間、泣き声まじりの悲鳴をあげ、全身を彩る朱の色をさらに深くした。自分で自分の膝を割り広げているのだ。いや。ただ割り広げているだけではない。中嶋の視線にさらすために広げている。恥ずかしい部分がもっと奥までよく見えるように。自らの手で。悲鳴のひとつくらいあげたくもなるだろう。
「も……、やだ。許、し……て。お願い……」
「何が嫌なんだ」
「恥ずかしい……。こんな……の」
「何を今さら」
 中嶋がふっと笑ったのを、啓太は自分の一部でありながら自分では目にすることのない場所で感じた。
「おまえのこの、俺を欲しがってひくついている細かい襞のひとつひとつが、俺には見慣れたものであるのにか?」
「やあ……っ」
「わざわざ濡らしてやらなくても、自分でこんなにとろとろにすることだって、俺はちゃんと知ってるんだ」
 耐えきれなくなった啓太はまた、欲望の証を吐き出していた。

 その後、何度達したのか。ことばと吐息だけでいたぶり続けた中嶋にもわからなかったのに違いない。意識を飛ばしてしまうまで啓太は蜜を吐き続け、中嶋は中嶋で最後まで啓太に触れようとはしなかった。泣き声さえあげなくなってようやく啓太を解放した中嶋は、立ち上がろうとして、自分自身もまた疲れきっているのに気がついた。落ちていた前髪をかきあげると汗で指が濡れた。シャツもぐっしょりと湿ってしまっている。これではお仕置きをされたのはどっちなのかわからなかった。それでなくても今日は啓太を追いあげることばかりを考えていて、中嶋自身はあれだけの啓太の恥態にも反応さえしていなかったというのに。
 ため息をつきながら立ち上がった中嶋は、啓太のすぐ隣に腰をおろした。汗と涙と自身の吐き出したものとで、啓太の身体はぐちゃぐちゃになっている。手加減という選択肢がどこにもなかったからだが、よくもここまで追い上げたものだと自分でも思う。
 啓太の脳裏に今夜のことはどう刻まれたのだろう。啓太を泣かせるのも汗をかかせるのも、そして汚せるのも中嶋だけだと分かっただろうか。久我沼に拉致されて流した汗や涙は本物ではない。あの日に感じたすべてのことは、ただの上っ面だけの感覚にすぎないのだ。恐怖や絶望でさえ、雨が降って寒いとか店のBGMがうるさいとかと同じレベルの、取るに足りない些細な出来事にすぎない。だからもう、あの日のことで震える必要はない。仮に思い出したところで、それは密接なまでに今日のお仕置きと結びついているはずだ。この中嶋英明が疲れ果てるまで記憶を上書きしてやったのだ。あの日のことを思い出したなら、恐怖や絶望にではなく、今夜のこの肉の悦びに震えろ。
 一息ついた中嶋は、啓太にキスしてやりたい気分を抑えて立ち上がった。何事にも手を抜かないのが中嶋英明である。啓太を手放すつもりがないという、明白かつ単純な事実さえ何年かかっても覚えようとしない啓太の頭に叩きこむには、もう一押しくらいしておかなければならなかった。

「起きろ」
 ひとまとめにして掴んだ両手を乱暴に引いて、中嶋は啓太を叩き起こした。
「何をのんびり寝ている」
 正確には抱かれたとはいえないが、2ヵ月半ぶりに中嶋の激しさに触れた啓太である。目を開け、されるままに床は踏んだものの、何を言われているのかわからなかったようだ。そんなただ呆然と立つ啓太の手を後ろ手に握りなおして、中嶋は啓太を歩かせた。
「中嶋さん? 何を……」
「そんな汚い身体で寝るつもりか」
「……あ…………」
「ぐずぐず言わずにとっととバスルームへ行くんだ」
 後ろ手に手を拘束され、よろよろとひったてられる啓太の姿は、まるで江戸時代の罪人のように思える。だがいつものように抱いて運んでもらえなかったことで啓太にもわかっただろう。これはお仕置きなのだ。中嶋英明を心配させた罪は重く、一度意識を飛ばしたくらいでは許してもらえないのだ、と。
 もしかして途中で倒れるかと思ったが、啓太はなんとかバスルームまで歩いた。やはり中嶋を受け入れなかった分、お仕置きといっても負担が少なかったようだ。内心でほっとしたことなどおくびにもみせず、中嶋は勢いよく落ちてくる熱めの湯の下に啓太を立たせた。
「熱っ!」
 熱いという啓太の泣き言に中嶋は耳を貸そうとはしなかった。湯船につからないのだからぬるい湯だと風邪をひいてしまうからだ。いくら病気ではないといっても数ヵ月眠り続けた身体が健康であるはずもない。免疫だって当然、落ちているに違いないのだ。そんなときに適温のシャワーなど浴びさせられなかった。
「せめてもう少し、お湯をゆるめてください。痛いです……」
「うるさい」
 左手は啓太の両手を掴んだまま、中嶋は器用に右手だけでボディ用のスポンジを泡立てた。いつもなら意識のない啓太を抱いてやっていることである。このあたりは手慣れたものだ。それどころか啓太が自力で立っている分、今日はまだ楽というものだった。
 泡立てたスポンジで、中嶋はまず啓太の顔を洗った。ほんの少しシャワーの下から引き出し、つい先刻まで汗と涙と自らの飛沫とでぐしゃぐしゃになっていた顔に、そっとスポンジをすべらせる。お仕置きであるはずなのにとても優しい中嶋の手は、あの山の中で、抱きとめた啓太の汚れを落としたときのものにとても似ていた。
 だが優しさは時として残酷さにもなりうる。耳のうしろから首筋へと、泡を塗り広げるようにスポンジを動かす中嶋に、いつしか啓太は甘いうめきをあげはじめていた。

 中嶋のもつスポンジが小刻みに、あるいは大胆に。ゆっくりと、そしてかすめるように、啓太の肌を這いまわる。顎の下のくぼみを。胸を飾る小さなふたつのアクセントを。啓太の肌を知り尽くした指があやつるスポンジは、まるで中嶋そのもののように啓太の弱い部分だけを責めたてた。
「あ……、ふ、ぅん……」
「ほお? いい声じゃないか」
「…や……」
 しがみつくこともできず、掴みしめるシーツもない。ましてやこの場に崩れることさえ許してもらえない。そしてこんなに翻弄されていながら、中嶋は啓太に手を触れてさえくれていないのだ。中嶋の与えてくれる感覚がどんなに甘くても、これはやはりお仕置きなのだった。
「ほら、足を開け」
「や……っ!」
「嫌がるんじゃない。洗えないだろう」
「……ぁ……ん。だって……」
「おまえが独りで欲情して独りで達きまくって。勝手に汚した部分をきれいにしてやろうとしてるんだ。いい子にしろ」
 それでも動こうとしない啓太に焦れたのかもしれない。中嶋は啓太の手首を掴んだまま、背を支える支点にしていた左腕の肘をぐっと押した。と、啓太の腰だけが前に突き出される。『洗う』という名の愛撫に首をもたげていた啓太の欲望をシャワーの湯が洗い流していく。敏感すぎる部分に直接降り注ぐ湯の熱さと勢いに、よろけた啓太が思わず足を開いた。待っていたように動きはじめるスポンジ。一気に押し寄せた訳がわからなくなるほどの快感に啓太の喉があげようとした叫び声は、その刹那に大きな手の中に吸い込まれた。スポンジを掴んでいたはずの右手はいつの間にか啓太の腰に巻きつき、ほんのわずかの身動きさえ阻んでいる。啓太の耳に、シャワーの音にまぎれなかった中嶋の、低い笑い声が届いていた。

「入ってろ」と言って押しこまれたベッドは、それでも中嶋のものだった。どんなにお仕置きをされてもこのベッドでさえあれば、啓太はそれを受け入れることができた。ここにいられさえすれば、まだ中嶋に捨てられてないのだと思えるからだ。
「……俺、まだここにいていいんだ……」
 ほっとしたように小さく呟いた啓太は、落ち着いた所為か、昼寝をしたときとシーツが替わっているのに気がついた。中嶋の匂いに包まれるのがうれしくて、小さな子供みたいにごろごろ転がったあとの、シーツのヨレやしわがなくなっているのだ。今のシーツはまるでチェックインしたてのホテルのそれのようにぴんと張ってしわひとつない。最初のお仕置きで汚してしまったのを、中嶋が取り替えてくれたようだった。
 シャワーでのお仕置きは今までにないパターンだったので衝撃も大きかったが、今から考えると啓太を洗ってくれただけだったし、ドライヤーをかけてパジャマも着せてくれた。自分は濡れたままだというのに。ドライヤーも着替えも取りに行かずに出てきたところをみると、前もって用意しておいたに違いない。
 口をふさがれたのだって、抱きしめられたと思えば思えなくもなかった。その前後は手も触れてくれなかったことを思うと、身動きのできなかったあの数瞬はお仕置きなどではなく、まるでご褒美をもらったようなものだ。
 結局のところ今日のお仕置きは、啓太に、今ここにいる幸せを再確認させただけのようだった。
 自分が意図した以外にそんな効果があったとは気づかずに、自身もシャワーを浴びてきた中嶋がベッドにすべりこんできた。擦り寄っていっても何も言わなかったのを諾と取ったのか、ためらいがちに手をのばした啓太は中嶋の腹のあたりに抱きついた。懐かしい温かさが、以前と変わらずそこにあった。
 ことばなど必要のない時間である。不要なものは何もなく、必要なものだけがここにある。相手の呼吸。わずかな身じろぎに動くシーツ。暖房と連動した加湿器の作動音。静かでなければ耳に届かないほどのかすかな音が、ひっそりと静まりかえった部屋を際立たせる。シンプルであるがゆえにごまかしのきかない今のこの時間は、だがふたりともにこれ以上ないほど満ち足りたものとなっていた。啓太も、そして中嶋も、ただ相手のぬくもりだけを感じていた。

「……俺………。もう、怖がらなくてもいいんですよね……?」
 思い出したように、啓太がぽそぽそと口を開いた。
「お仕置きはもうすんだんだから……」
「……」
「だからもう、ハンカチのことで怖がらなくてもいいんですよね……」
 それもまた、中嶋の意図していたこととは違っていた。中嶋はより強烈な印象を与えて、啓太の記憶を上書きしようと思っただけなのだ。それを「お仕置き」と受け取った啓太は勝手に、これで許してもらえたと思っている。まるで中嶋が許せば怖くなくなるとでも思っているかのように。
 いろいろと思いどおりに動いてくれない啓太だったが、出した答えだけはさほど外していなかったので、今回はこれでよしとするしかないようだ。要はあの日を思い出しても、恐怖に震えさえしなければそれでいいのだから。
「……今日のはご両親と朋子ちゃんの分だ。俺のはあんなものではすまないから、今から覚悟しておくんだな」
「ぇ……っ」
「それに、ほかの男のことを思い出すなど言語道断。これから何度でも、思い出すたびにお仕置きしてやるから、そのつもりでいろ」
「…………うん……」
 言外にこめた意味をきちんとくみとったか、啓太が小さく頷いた。今日のところはそれで十分だった。
 中嶋は啓太の下になっていた腕を引きぬくと、そっと啓太の肩を抱いた。気づいた啓太がうれしそうに頬をすりつけてくる。そのやわらかい感触を楽しんでいた中嶋は、啓太が腕の中にいる不思議を思わずにいられなかった。久我沼から取り戻したことではない。あれは不思議でも何でもなく、当然の結果にすぎないからだ。中嶋が今、あらためて思うのは、MVP戦から少しだけあとのことだった。
 あの頃の中嶋は、すでに啓太を手放せなくなっていたにもかかわらず、啓太の存在にとまどっていた。自分の方から誰かを欲しいと思ったこともはじめてなら、自分の中にするりとはいりこみ、裏表のない無垢な笑顔を向けてくる存在もはじめてだったのだ。そんな啓太を、ではなく、自分自身の心を扱いかねた苛立ちを、理不尽にも啓太にぶつけてしまっていた。あのときの啓太の顔を、中嶋は今も忘れられずにいる。
 あのときばかりは中嶋も、啓太が離れていくかもしれないと覚悟をしたものだ。だがそんな思いをさせしまったはずなのに、啓太はこうして中嶋の腕の中にいてくれている。存在そのものが不思議な啓太は行動の予測がつかず、今日も中嶋に意外な思いをさせているのだ。
―― まあ、離れていくなどは許さんが、それ以外なら楽しんでやらんでもないか。
 あまりなまでの己の変わりように、中嶋はくちびるの端をつりあげた。
「……どうかしたんですか……?」
 半分眠りかけたような声で啓太が聞いてきた。もらすほどに笑った訳ではないが、わずかに揺れた腹筋を感じたのだろう。
「いや……? 別に何でもないさ」
「……そうですか…?」
 何か納得していないような口ぶりだった。つまらないところで頑固な面をもつ啓太は、気になりはじめると目を覚ましてしまうのに違いない。
 明日は昼過ぎにはここを出て、また病院へ戻らなければならない。それでなくてもお仕置きで必要以上に疲れさせたのだ。寝不足で体調不良などおこさせでもしたら、和希と篠宮の両方からなんと嫌味を言われることかわかったものではなかった。
 ならば早く寝かせてしまえとばかりに、中嶋は啓太の髪からうなじにかけてを撫ではじめた。とたんに啓太の口から、ほっとしたような甘い息がもれた。こうしてやるといくらもしないうちに寝息をたてはじめるのだ。啓太の保護者のつもりでいる和希でさえ、こんな仔猫のような啓太は知るまい。そう思うと埒もない優越感が中嶋の胸を満たした。
「……そうだ。ねぇ、中嶋さん……?」
 とろんとした、すでに夢の中にいるような声で啓太が言う。
「……うん?」
「あのね……。お誕生日おめでとう、ござい……ま、す…」
 言えたことで満足したのか、中嶋の返事も待たずに啓太は眠ってしまった。言えなかった返事の代わりに中嶋は、腹のあたりに抱きついている啓太の手をとると、指先にそっと口づけた。そしてそのまま、同じ場所に戻してやる。キスしてもらったのが分かったのか、中嶋を抱いた啓太の腕に力が入った。中嶋もまた、腕の中の宝物をいとおしむかのように、いつまでも啓太の髪を撫でつづけた。
 今夜のこの、腹にかかる啓太の重みとぬくもりは、中嶋にとって人生最高の誕生日プレゼントとなったのだった。







いずみんより一言

全編、会社のパソコンと携帯電話だけで書いたわたしを褒めてやって下さい(爆)。
会社に持ち込んでるパソコン「啓太」はXPなんですけどオフィスのバージョンが
2007なので、混ぜるとファイルが一気にブタになるのです。
時計の針との競争になった最後の2日は、隣のオヤジに怪しまれつつ書いてました。
ま。そんなことはさておき。

何だかなあ。
10ヵ月くらいかかって、結局最後はやっつけ仕事に近かったような気が……(涙)。
最初は闇鍋用にお仕置きだけを書いていたのですが、状況がわからないので前編を
書いたら、うまくつながらなくて苦労しました(汗)。
お仕置きのイメージが「入門講座シリーズ」と似ていますが気の所為です!
……ではなくて(笑)、100質でも書いたように、うちの中嶋氏は目で見るのがいちばん
感じるのですよ。そういうことにしておいてやって下さいませ(滝汗)。

前編で和希が用意をした「大阪の某店のうどんすき」は、前サイトの管理人・みみずくと
何度も行った店です。
彼女が盲腸で入院したあと、快気祝いに行ったのもそこでした。
このお話を書いている最中に逝ったみみずくとの想い出にこの場面を書き足したことを、
この場所を借りて書いておきます。




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