もういちど、この腕に

第 3 部  前 編




 中嶋に腰を抱かれて玄関を入った啓太は、靴を脱ぐより先に大きく息を吸い込むと、一瞬の間をおいてからほうっと吐き出した。8月末に実家に戻って以来、約3か月ぶりの中嶋のマンションである。懐かしい中嶋の匂いが玄関からすでに満ちていて、ようやく帰ってこれたという思いが啓太をその場に立ち尽くさせたのだった。
「どうした。自分の家だろう。何を遠慮している」
「うん……。帰ってこれたんだな、って……」
「……ああ……。そうだな」
 特別な何かがあるわけではない。落ち着いた色合いの下駄箱。モダンではあるがシンプルなデザインの傘立て。余分な靴など1足も出ていない土間の部分。花だのぬいぐるみだのが置かれた伊藤家の玄関と比べれば、額の1枚さえないそこはむしろそっけないほどである。なのに、たまらない懐かしさがこみあげてくるのは何故だろう。BL学園に転校してからというもの、2カ月くらい実家に帰らないことはよくあるが、ここまでの思いにとらわれたことはないというのに。
 どっしりとした厚みのある玄関マットの上には、中嶋が留守中の掃除を任せていたという実家の家政婦が置いて行ったのだろう啓太のスリッパが、中嶋のものと並んでちんまりと持主の帰宅を出迎えていた。
「……ただいま」
 啓太は、中嶋にではなくこの家に帰宅の挨拶をすると、ようやく足からスニーカーを脱いだのだった。

 啓太の場合、長期に入院していたといっても、どこが悪いという訳ではなかった。啓太の症状は誘拐され、山の中を彷徨った際の過度のストレスがひきおこしたもので、こどもの知恵熱と基本的にはそう変わるものではない。だが数か月もの間、使われなかった肉体には、やはりあちこちに支障が出るものだ。筋肉はすっかり痩せてしまっているし胃腸の具合もまだまだ本調子とは言い難い。
 それでも啓太は今日11月19日、つまり中嶋の誕生日にこのマンションに戻ってこられるようがんばったのだ。病室のベッドからファミリールームのベッドまで。このわずかな距離を、誰の手も借りずに歩けるようになったのは3日前のことだ。それからその距離を1往復に伸ばし、2往復3往復と重ねていった。今日の一時帰宅は、病室から車寄せまでこそ和希の押してくれた車椅子を使ったものの、マンションの駐車場からここまでは自分の足で歩いてこれた。それはたしかに他愛もないことであったが、今の啓太には大きな自信となったのであった。
「どうした。疲れたか」
 大きな窓に面したソファに座り、中嶋のいれてくれた暖かいゆず茶をすすっているうちに、いつの間にか中嶋にもたれかかっていたらしい。細くなった啓太の肩を抱いて、中嶋が静かに問いかけた。
 あの山の中を彷徨っていた間、必ず中嶋の腕の中に戻るというその一心で足を動かしていた啓太だった。だがこうして暖かく静かなリビングに落ち着き、ほっとした気分にひたっていると、かえってここにいられるのが奇跡のように感じられてしまうのだ。
「うーん……。そんなこともないと思うんですけど……」
―― ちょっと甘えてるだけ……。帰ってこれたって実感してるだけ……。
 そんな啓太の気持ちを知ってか知らずか、中嶋は啓太の顔をのぞきこむと「少し横になってた方がいいな」と言った。驚いたのは啓太である。ようやく本当の意味での「ふたりきり」になれたところなのだ。少しの間でいいからのんびりとした気分で甘えたかっただけなのに。
 だがあれよあれよと思う間もなく中嶋は啓太を抱き上げた。
「あっ、あの……」
「なんだ」
 一応の返事は返したものの、聞くつもりなどまったくないらしい中嶋は、そしらぬ顔で啓太をベッドルームに運んでしまった。一度ベッドの上におろした啓太の手からまだ持ったままだったマグカップを取り、サイドテーブルに置く。そしてベッドカバーごとかけ布団をめくると中へ啓太を押しこんだ。
「えっと、あの、俺……」
「うるさい」
 慌てて起き上がろうとする啓太を布団の上から押さえつけながら中嶋が言った。
「お前が今日こうして外泊するために、どれほどの人の手を借りているか、わかっているのか?」
「……」
「櫻井先生は午後のカンファレンスが終わったらこっちへ出てこられる。と言ってもご主人や息子さんのおられるご自宅じゃないぞ。ヘリが待機してる鈴菱本社近くのホテルだ。当然、ヘリのパイロットたちも24時間で待機している。フライトプランの作成は済んでいるだろうし、実際に飛ぶとなったらそれを提出しに行く人もいるだろう。そこのサービスエリアにヘリを下ろす許可だってもらっているはずだ。多くの人が、おまえに何かあったときのためだけに動いてくれているのを忘れるな。……わかったな?」
 驚いたような顔で聞いていた啓太が小さく頷いたのをみてようやく布団から手を離した中嶋は、「いい子だ」と言って啓太の頭を軽くなでた。そしてそのまま離れて行こうとした中嶋を、すがりつくような啓太の眼が追う。気づいた中嶋の目元がふっと緩んだ。
「心配するな。そこのデスクにいるから。何かあったら声をかけろ」
「……はい……」
 たった1泊とはいえ、病院から出られることを単純に喜んでいた啓太だった。中嶋の誕生日に間に合うことがうれしくて、櫻井医師から提案された寮か和希のマンションかへの外泊を、無理を言ってここに帰らせてもらったのだ。それはもちろん励みになり、単調なリハビリにも積極的に取り組むことができた。もし中嶋の誕生日がなかったら、まだ車椅子を使っていたに違いない。
 だがその裏でいろんな人の手を借りていたなんて、啓太は思ってもいなかった。山の中を彷徨っていたときも自分の力だけでは戻ってこられなかった。抱いてもらった中嶋の腕に安心して、引き込まれるように眠ってしまったが、驚くくらい多くの人がいたのは今でもちゃんと覚えている。実際にはあの何倍もの人が捜索してくれていたのに違いないのだ。
 今日ここに、こうして帰ってこれたのは、何人もの人に生かしてもらえたからだ。
 小さな声で「ごめんなさい……」とつぶやいた啓太は、今日は休むことに決めた。啓太が今、一番に考えなければならないのは、体調を元に戻すことだった。

 一度、部屋を出た中嶋は、そのことばの通り、またすぐ戻ってきた。東南アジア製の大きな衝立に邪魔されているが、そこで本のページを繰り、キィボードを叩いては書き物をしているかすかな音が聞こえてくる。その音が不思議なまでの安心感を与えてくれて、啓太はシーツを鼻の上まで引き上げると大きく息を吸い込んだ。枕カバーもシーツも、どれも糊のきいた洗いたてのものばかりだ。それなのにベッドの中は、家のどこよりも中嶋の匂いがした。
 その匂いの中にいるうち、不意にわきあがってきた衝動をおさえきれず、啓太はベッドの中をごろごろと転がった。小さい子みたいだと自分で思いながらも、どこで息を吸い込んでも中嶋の匂いがするのが楽しくて仕方がなかったのだ。シーツをよれよれのしわくちゃにしながら、啓太は何度も転がった。
 何度目かにようやく満足した啓太は、自分のものではなく、中嶋に枕に頭をあずけた。そこで落ち着いてはじめて、今更のように目の前の大きな窓のカーテンが開けられているのに気がついた。秋の柔らかい日差しの向こうに紅葉に彩られた山が見える。朝、目を覚ました啓太を、いつも見守ってくれている山である。心の故郷とでもいうべき風景になりつつあるその山を見るともなしに眺めているうちに、啓太はうとうととまどろみはじめた。
 2カ月以上も寝たきりでいたのだ。いくら一杯に倒したシートで毛布にくるまれて来たといっても、やはり車での移動で疲れていたのかもしれない。
―― ああ。そうだ。チェスターの最初の朝に似てるんだ……。
 あのとき中嶋は、ベッドから動けない啓太の傍らから離れず、備え付けのタウンガイドを読んだりしていた。時折、思い出したように髪をさわってくれるのが心地よく、それに誘われるように眠っては中嶋の隣で目覚める幸せを感じていたのだった。
 中嶋のたてるかすかな音を子守唄にそんなことを思い出しながら、啓太はいつしか眠りの淵に沈みこんでいった。

 起こされたときにはもう日はすっかり傾いていた。残照の、さらに最後の残り陽が、山の端だけを暗い赤に染めている。あといくらもしないうちにシルエットだけになるだろう。ちょっとうとうとしただけのつもりだったのに、思いのほかよく眠ってしまっていたようだ。疲れていたことももちろんあっただろうが、やはりこの中嶋のベッドは、それだけ安心して眠れるのだ。
「あれだけ眠っておいてまだ寝られるとは驚きだな」
 多分にからかいを含んだ中嶋のことばだったが啓太は腹も立たなかった。何より自分がそう思っていたからである。それにようやくからかってもらえるくらいにまで回復したんだと思うと、からかわれることさえもがうれしかった。
「そうなんですけど……。でもこんなに気持ちよく寝られたのは久しぶりかな……」
 照れ隠しのようにそんなことを言いながらゆっくり歩いてリビングに場所を移す。いつも座っているソファのローテーブルには、夕食用の鍋料理が準備されていた。
「わっ。お鍋ですか?」
「ああ。ちょっと前に遠藤が届けて来たんだ。大阪の有名店のうどんすきだそうだ」
「えっ? 大阪から?」
「いや。確か新橋あたりに支店があったから、そこからだろう」
 和希らしい気遣いだった。いくら中嶋がいろんなことを器用にこなすとはいえ、胃腸がまだ十分に機能していない啓太の食事にまで責任をもたせるのは酷というものだ。その点、うどんすきならどんどん煮込んでいけばいいだけであるし、食べる量も調節がきく。だしだけをきれいに残しておけば、明日、雑炊を作ることも可能だった。
「鶏肉を全部、つくねに変えてもらったらしい。気を遣いすぎると、あいつそのうちはげるぞ」
「そう言っておきます」
 皮肉な口調だったが、まるっきりの本心でないことくらい啓太にもよくわかった。和希には「美味しかった」と伝えよう。啓太の思いも中嶋の思いも、それだけで和希には、何もかも伝わるはずだった。

 絨毯の上にクッションを敷いて座っていると、お茶の用意をしてきた中嶋が同じように座りこんだ。「俺がやります」と言おうとした啓太は中嶋の眼が穏やかになっているのに気がついて、思わず口をつぐんでいた。
「穏やかに」というと誤解があるかもしれない。中嶋の視線は相も変わらずきついもので、何もしらない人間が見ると睨まれていると思うだろう。だが啓太が目覚めて以降、ずっとその目元にあった険しさが、今はすっかりなくなっているのだ。
 心配をかけてたんだ、と啓太は思った。この人に、こんな顔をさせるほどに。
 もちろん、心配をかけていた自覚くらい啓太にだってある。ただ中嶋のきつい眼を見なれた啓太は、それを「怒っているから」と思いこんでいた。心配をかけたと思っているのと同じくらい、怒らせている自覚もあったからだ。だがそうではなかったようだ。自分の思っていた以上に中嶋は心配してくれている。このマンションに啓太を連れて帰ってきて、ようやく中嶋自身もほっとすることができたのだ。……問えば中嶋は否定するに違いないだろうが。
 泣きたくなるほどの幸福感をごまかすように、啓太は静かに微笑んだ。

 時間が驚くくらいゆったりと流れていた。本当に今日の中嶋は啓太に何もさせるつもりがないらしい。ローテーブルの上を片づけたあと書斎からパソコンを持ち出して来て、昼間にやっていた作業を再開しただけだ。CDで音量を低く絞ったソロのサックスを流し、足もとに啓太を寄りかからせているので、それでも中嶋なりにのんびりしていることがわかる。そんな中嶋に体重を預けているだけで、啓太もまた、のんびりできていた。
「夢みたいです……」
 うっとりするように啓太が言った。
「……うん? 何が夢なんだ?」
「いろんなこと、かな」
 帰ってこれたこと。心配してもらったのがなきたくなるくらいうれしかったこと。中嶋さんが目の前でこうしてのんびりしてくれていること。いろいろ。本当にいろいろ。中でもいちばんの「夢」は、やはりこうしてふたりでいられることだった。
 こんな時間をもてているからこそ、よけいにあのときの絶望感が蘇ってきてしまうのかもしれない。拉致されたときの光景がフラッシュバックし、啓太は無意識のうちに身体を震わせた。
「どうした」
 突然、膝にしがみついて震えはじめた啓太に、体調を悪化させたのかと思ったのか。中嶋の声にはかなりの緊張感が含まれていた。だが啓太は中嶋の膝に顔をこすりつけながら首をふった。
「……違うんです。ただ、あのときのことを思い出して……」
 あのとき。久我沼の車に乗せられたとき。祈るような気持ちで落としたハンカチを久我沼に拾われてしまった。それを見たときの絶望は、山の中で置き去りにされたと知ったときの、何倍も強いものだった。今でも身震いをしてしまうほどに。
「山の中で目が覚めて。どこにいるのか分からなくて。ちょっと登ってみたら、とんでもない崖の上にいた……。どこにいるのか、どっちに行ったらいいのか。全然分かんなくって呆然としちゃって……。でもね。これで帰れるって思ったんです。もちろん不安になったりとかもしたけど。でもあのときはホントに、ほっとしたんです……。だって久我沼の車に乗せられたときに絶望しちゃってたから……」
 眠っている間の啓太は幸せそうな顔をしていることが多かった。甘えた顔や嬉しそうな顔、楽しそうな顔は何度もみたが、苦しそうな顔を見た記憶はない。それが目が覚めてからというもの、夜中にうなされるようになった。櫻井医師の話によると、それは正しい反応なのだという。幸せそうな顔で眠っているのは現実を見たくないからで、中嶋に抱きあげられた、その瞬間にとどまっているからだ、と。うなされるようになったのは過去の記憶が戻ってきたからに他ならず、同時に、現実を受け入れたことの証明でもあるのだ。
「久我沼の車に乗る前に、ハンカチ落としたんですよ。俺がいなくなったって分かったとき、中嶋さんや和希なら見つけてくれる。ここで何かあったって気づいてくれる。そう信じてたから。それなのに。あとから乗り込んできた久我沼が膝の上に放ったんです。そのハンカチ。ああ。これで見つけてもらえなくなる。気がついてもらえなくなる。これからどうなっちゃうんだろうってことより、見つけてもらえなくなる方が怖くて……。あの時ことを思い出すと、俺は今でも怖い。こうして中嶋さんに抱きついてるのに、それでも怖くて仕方なくなるんです……」

 胸が痛んだ。自分に拾われることを信じてハンカチを落とした啓太を思うと、中嶋の胸は痛くて仕方がなかった。それはもちろん、やり方もまずかったのだろうし、何よりも「車に乗らなければならない」と思ってしまったこと、それ自体が間違っている。だからといってどうして啓太を責められるだろう。突然の事態に驚き戸惑いながらも、啓太は啓太なりに精一杯の判断を下そうとしたのだから。それを踏みにじられた啓太の恐怖を思うと、針の山を突き立てられたくらい胸が痛くなったのだった。
 もしこれを聞いていたのが櫻井医師だったら。いや。専門家である必要はない。和希でも篠宮でもかまわない。あるいは丹羽でも成瀬でも、とにかく中嶋以外の「誰か」であれば。啓太を優しく慰め、もう安全なのだと、傷つける者はいないのだと、飴でもとかすようにゆっくりと分からせていくに違いない。だが中嶋は「中嶋英明」だった。そんな慰め方などできうるはずもない。
 ならばどうするか。
 考えるまでもない。中嶋にしかできないことをするだけだ。
 眼鏡の奥で、中嶋の眼が冷たく光った。






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