最悪の3日間 第1回 |
それは篠宮紘嗣のもとにかけられた一本の電話から始まった。 早朝といっても師走を目前に控えた時季である。空にいくつか星の残っているような時間だった。まだぐっすりと眠っていた篠宮は、それが携帯電話の着メロだという認識もなく、ただうるさいと思いながらG線上のアリアを聞いていた。しつこく鳴りつづけたそれをようやく手にしたとき、篠宮は名乗るよりまず相手の無作法を指摘しようとした。 「いったい何時だと思ってるんだ」 「りょ、りょ、りょう…ちょう……!!」 この一言で寮長としての篠宮のすべてが一気に覚醒した。 「どうした。何かあったのか」 「ゲ、ゲ、ゲ、ゲート……、す、すぐ来てください」 「橋のゲートか? 何があるんだ」 「だ、だからすぐ……」 「わかった。すぐいく」 こんなときでも風紀を乱さない篠宮は、わずか3分足らずで制服に着替え、ネクタイまで締め終わると、コートを引っつかんで走り出した。本当なら廊下を走ったりなどもしたくなかったのだが、かかってきた電話の内容があまりに異常だったので、これは緊急事態だからと自分で自分を納得させた。 篠宮がゲートについたとき、そこにはテニス部をはじめとする運動部の部員が何人か、早朝ランニングの姿で群がっていた。橋を往復しようとして来たものの、動けなくなってしまったようだった。 「どうした」 「あ、寮長。こっちです」 さっきの電話の声の主だった。数分たって、どうやら少しは気を取り直したらしい。近寄る篠宮に、何人かが脇へどいて道をあける。進んでいった篠宮は、そこにあるものを眼にした瞬間、金縛りになったように動けなくなり、そして絶句していた。 これが中嶋英明生涯最悪の三日間の幕開けだった。 中嶋は、その朝、いつもよりほんの少しだけ寝過ごした。昨夜はなかなか手ごわい微分の問題をみつけ、夢中になって解いている間に、いつのまにか時計の針が3時を回っていたのだった。翌日の頭脳の冴えを考えて、啓太の相手をしていない限り、遅くとも2時にはベッドに入っていたのだが。 そのせいか、せめて熱いコーヒーだけでも飲んでから登校しようと寮の食堂に入ったとき、いつもより多くの人間がそこにいたこと、そしてその眼が一斉に自分に注がれたことに気づいていなかった。 コーヒーカウンターでコーヒーをカップに注いでいると、遠藤和希に伴われた伊藤啓太が近づいてきた。 「ああ。……どうかしたのか?」 中嶋が不審に思うのも無理はなかった。啓太は無理に笑おうとしているような表情で、しかも目の端に涙を浮かべていたのだ。しかし啓太はそれについては何もいわず、中嶋の手を取った。 「中嶋さん。俺、俺……。誰がなんといおうとも、俺だけは中嶋さんのことを信じてますからっ!!」 「……はあっ?」 それだけいうと、訳のわからないうちに、啓太は走っていってしまった。呆気にとられてその後姿を見送った中嶋に、今度は和希が怒りを押さえかねた声でいった。 「中嶋さん。確かに10ヶ月前、啓太はまだここに来ていませんでした。だから貴方を不実といって責めるつもりはありませんし、責任があるのかどうかなんて、俺には興味もありません。でも現実に啓太は苦しんでます。貴方も男なら、啓太をこれ以上苦しませることのないようにだけはしてください」 いったいみんな何を言ってるんだ? そう思いながら食堂内を見回すと、そこにいる全員が妙によそよそしいのに気がついた。さすがに面と向かってこっちを見ているものはいないのだが、横目や上目遣いで窺っているのがよくわかる。さらにひそめた声で何かを言いつづけているのが、かえってうるさく聞こえてしかたなかった。おもしろくない気分で、座りもせず立ったままその場でコーヒーを飲んでいると、篠宮と丹羽哲也が食堂に入ってきた。 よかった。これで少しは状況が把握できるに違いない。そう思った中嶋は、ふたりに向かってコーヒーカップをあげて見せた。しかし気づいたはずの丹羽からは、険しい視線が返ってきただけだった。 もう誰も中嶋を見ているものはいなかった。食堂内のすべての眼は篠宮に注がれていた。 「寮長、どうなりましたか」 「無事だったんでしょうね」 「何かわかりましたか?」 口々にいう声を聞きながら食堂の中央まできた篠宮は、そこで足を止めた。 「順を追って話そう」 食堂内が急に静かになった。 「まず、発見が早かったので、とりあえず無事だったということを報告しておこう」 いっせいに、ほうっと安堵のため息が吐かれた。 何だ。誰か自殺未遂でもしたのか、と中嶋は思った。それがもし自分に関係があるとしたら、柔道同好会の誰かか。しかしそれはあくまで『関係』であって『責任』ではない。死ぬのは勝手だ。とはいうものの、あの連中に自殺ができるほどの気構えのある奴がいるとは思えなかったが。 「校医の先生がまだお見えでないので、健康状態その他の確かなことはそれからになるが。今は、たまたま生物の海野先生が研究の都合で泊まりこんでおられたので、見てくださっている。それから置手紙はあったが、何一つとして具体的なことは書かれていなかった。ただ『育てられなくなったのでよろしくお願いします』といったようなことだけだ。この学園に関係があるのかどうかもわからない。だから特定の人間を勝手にそうと決めつけて、つるし上げたりしないようにしてくれ」 どうやら自殺未遂でもないらしい。では俺はまったくの無関係だ。そう思う中嶋に、ここでまた全部の視線が集中した。篠宮や丹羽でさえ彼を見ていた。 「あとこれが重要なことだが、もし心当たりのあるものがいたら、申し出てもらいたい。今すぐでなくてもかまわない。そのために俺は今日、授業に出ずに一日中部屋にいる。BL学園の生徒に、卑怯者はいないと信じている。以上だ。……さあ、授業だ。遅刻するぞ !!」 そこにいた全員がぞろぞろと出て行った後、食堂には中嶋と丹羽、そして篠宮だけが取り残された。 「何があったんだ、いったい」 「お前、ほんっとに心当たりないのか?」 「だから何の心当たりだ。啓太は涙を浮かべてるし、遠藤からは恫喝といっていいくらいのことをいわれた。周りの連中は俺のことばっかり見ている。まったく、俺が何をしたというんだ」 篠宮が大きくため息をついた。 「二年半はらはらさせられ通しだったのが、伊藤とくっついたおかげでようやく落ち着いてくれたと思っていたのに。気を抜いたとたんにこれだ」 篠宮が珍しく愚痴をこぼした。それは今起きていることの説明ではなかったが、それがどの程度深刻なことなのかは中嶋にも察せられた。 「ねえ、滝くん帰ってきた?」 篠宮の愚痴に降りてきた沈黙を、海野聡の声が破った。海野はドアのところから中をのぞきこんでいた。 「もうずいぶんになると思うんだけど」 「いえ。まだです。開いている店も少ないでしょうし、何より自転車ですから」 「困ったなあ。さっき使ったので、もうオムツがなくなっちゃったんだよ」 「いや。郁ちゃんがタクシー代も渡していたようだったからな。帰りはタクで帰ってくるだろうよ」 「ならいいんだけど」 そういいながら海野は何か茶色いものを抱きかかえて近づいてきた。丹羽が逃げないところを見ると、それが猫でないことだけはわかる。何気なく海野の腕の中を見た中嶋の眼に飛び込んできたもの。それは誰かのひざ掛けだったらしい毛布にくるまれた、小さな小さな赤ん坊だった。その子は見知らぬ人間に抱かれているのがわかっているのか、それとも寒い場所に置き去りにされたショックからか、泣き声をたてることもなく、うつろに近い眼を天井にむけていた。 「なっ……、なんなんだ、これは」 中嶋は取り出しかけた煙草を慌てて戻した。篠宮の嫌味など今更どうということはないが、赤ん坊を前にして煙草が吸えるほどの無神経さも持ち合わせていなかったのだ。 「何って赤ちゃんに決まってるじゃない」 「いや。それは見ればわかる」 「捨て子だよ。捨て子」 「今朝方、ゲートのところに捨てられていたのを、テニス部の工藤が見つけて知らせてきたんだ」 「まったくひどいことをするよね。こんな寒い時季に置き去りにするなんて。明け方って特に海からの風が冷たいんだよ。発見が遅かったら危なかったんだから」 海野はひとしきり文句を並べたてたあと、篠宮にいった。 「篠宮くん。寮の空き部屋、どこでもいいから鍵あけてくれないかな。医務室だとどうしても人の出入があるでしょう?」 「ああ、そうですね。じゃあ一緒にいきましょう。俺も部屋にいないといけないので。滝には携帯で連絡とって、部屋に直接いかせるようにしておきます」 「頼んだよ」 しばらく呆気にとられていた中嶋は、ふたりが出ていくのをただ見送ってしまっていた。それから気を取り直すために、コーヒーをもう一杯カップに注いだ。 「状況はわかったが、それでどうして啓太が泣いたり、俺が非難がましい眼で見られなきゃならんのだ」 「わざわざ橋を渡ってまでこの学校に捨てにきたんだ。父親がここの関係者かもしれない」 「それが俺だとでも?」 「まー。日頃の行いが行いだからよ。誰だってまずお前の顔が目に浮かぶわな」 何かを言い返そうとした中嶋だったが、食堂のドアが開くのを見て口をつぐんだ。入ってきたのは会計部のふたり、西園寺郁と七条臣だった。 「これはこれは。人でなしさんもいらしてたんですか」 七条が開口一番、笑顔を貼りつかせていった。 「何のことか知らんね。俺には責任も関係もない」 「僕の言っているのは、責任感のかけらもない両親を持った可哀想な赤ちゃんのことではなく、人でなしの恋人を持ったばっかりに苦労する伊藤くんのことですよ」 「啓太が?」 先刻の、目の端に涙を浮かべた啓太の顔が目に浮かんだ。確かにあれは尋常ではなかった。そして和希の怒り方も。そんな中嶋の表情を興味深そうに眺めていた西園寺が口を開いた。 「捨て子のニュースが飛びこんできたとき、ここにいたほぼ全員がお前のことだと思った」 「なっ……!!」 「まあ最後まで聞け。そうしたらいきなり啓太が立ち上がって、お前のことをかばった。あれはなかなか感動的な光景だったぞ。見逃したのは残念だったな」 「まったく伊藤くんは健気でした。『中嶋さんは確かに遊び人で、今までたくさんの人を泣かせてきたかもしれないけど、こどもを作ってしまうなんて、あの人に限ってそんなこと、あるはずがないじゃないですか』……でしたかね。成瀬くんでなくても抱きしめて慰めてあげたくなりましたよ」 「そうか。啓太が……」 「ここを飛び出したあと、啓太は授業に出ると言い張ったんだが、興奮しているようだったので成瀬がつれて部屋に戻った。遠藤が安定剤を服ませるとかいっていたから、今頃は休んでいるんじゃないか」 西園寺のことばが終わりきらないうちに、中嶋はコーヒーカップを丹羽に押しつけると足早にドアへ向かった。 「おい。啓太を抱くんじゃねえぞ。身体で納得させようとしてるって思われるのがオチだからな」 しかし中嶋は脚を止めることなく、食堂を出て行った。 「……聞いてませんね。人でなしさんは」 「わざと出て行かせといて、よく言うぜ」 「おや。そんなつもりだったんですか? 郁」 「さあな」 「けっ」 「過ぎたことより、これからの対応が大変だろう。ひとつしくじれば泥沼になる」 「そりゃそうだ」 「ではそろそろ打合せに向かいましょうか」 そうして三人はBL学園でこういったことを安心して協議できる場所 ―― 理事長室 ―― へ向かったのだった。 一方、啓太の部屋の前まで来た中嶋は、ノックはせず、低い声で「入るぞ」とだけ声をかけた。返事はなかったが鍵があいていたので、そのままドアを開けた。カーテンが閉ざされた部屋の中は薄暗かった。 「……啓太」 中嶋は啓太がもぐりこんでいたベッドの脇で膝をついた。背中を向けて丸くなっている啓太を軽く揺すってみたが、それでも顔を出そうとしない。中嶋は布団の上から啓太を抱きしめた。 「啓太。すまない。お前につらい思いをさせてしまったようだ。……だが信じてくれ。俺はあの子供には何の関係もない。お前がそうしろというなら、DNA鑑定でも何でも受ける」 中嶋のことばにごそごそと布団から顔を出した啓太は、中嶋の方に向き直った。涙のあとが残るその顔は憔悴しきっていて、中嶋の胸を痛ませた。啓太は片手を伸ばすと中嶋の手を探した。中嶋はその手を大きな両手で包みこんだ。 「……そんなの必要ないです。中嶋さんが何の関係もないことくらい、俺が一番よく知ってますから。だって中嶋さん、男の俺とするときだって、ナマでやったことないじゃないですか。そんな中嶋さんが女の人と無防備でやったなんて、俺には絶対信じられない」 中嶋は苦笑をもらすと、握っていた啓太の手に軽くくちづけた。 「お前、それでフォローしてるつもりか?」 「でも食堂でそんなこと言うわけにいかなくて……。だからどうしてもみんなを納得させることができなかったんです。みんなに中嶋さんの潔白を信じてもらえなかったんです」 啓太は中嶋の首に抱きついた。 「ごめんなさい、中嶋さん……!!」 「なぜ謝る? 連中が信じなかったのは、俺に原因がある。お前が謝る必要はない」 「だって……。俺がもっときちんと説明できてたら。もし中嶋さんや西園寺さんみたいに説得力のある話し方ができてたら。絶対みんな信じてくれたのに。俺、それが悔しくて悔しくて……」 「もう言うな。お前はこれっぽっちも悪くないんだ」 「中嶋さん、中嶋さん……」 また泣き始めた啓太に、中嶋はこれ以上できないくらい優しいキスをすると、もう一度横にならせた。肩まで布団をかけてやった手で、起きあがろうとする啓太を押しとどめる。 「……安定剤を服んだんだろう? しばらく眠れ。な?」 そして啓太が落ち着きを取り戻すまで待って、中嶋はその場を離れた。ドアのノブを回した中嶋に、ベッドの中から啓太が声をかけた。 「俺、絶対、中嶋さんの潔白を証明して見せますから」 「……有難う。啓太」 一度自室に戻った中嶋は、鞄を持って学校に向かった。啓太の信頼に応えるために、毅然として授業を受けること。これが今の中嶋にできる、最善の行動だった。 |
いずみんから一言。 前後編くらいの軽い気持ちで書き始めたら、いつのまにか連載になっていました。 8回で終わらせますので、「ムボーな奴」などとおっしゃらず、最後までお付き合い頂けまし たら幸いです。 |