聖なる夜の月 前編




ジリリリリリリリ……
「はいっ。そこまで」
 終業を告げるベルの音に担任の声が重なった。最後の体力と気力を使い果たした俺は、ぱたっと鉛筆を置くと机の上に突っ伏した。
「やった……。終わったぁ……」
 2学期の期末テストの最終日。突っ伏したまま周りを見てみると、みんな多かれ少なかれ似たようなものだ。もう眼の前に迫った入試に比べれば、ちゃんと範囲を言ってくれる期末テストなんて楽勝のはずなんだけど……。
「啓太、どうだった?」
 うしろの席から和希が背中をつついてきた。試験中は名簿の順に並ぶから、和希はいつも俺のうしろだ。試験の後でこいつの平然とした顔を見るたび、俺にテレパシーの能力があったらいいのにと思う。そうすればうしろから電波を送ってもらえるのに。和希ときたら理事長の仕事で忙しいっていうのに、いつも成績はトップクラスだ。本人に言わせると「幼稚園からず〜っと死に物狂いで勉強してきたから」だそうだけど。俺みたいに高2になってからがんばり始めたくらいじゃキャリアが違うってことなのかもしれない。
「うーん……。一応全部、埋めるのは埋めた」
「見直しは?」
「それもやった。……一回だけだけど」
「ふうん……。じゃあ結構いけてるんじゃないか? おまえ去年一年間、徹底して基礎を勉強しなおしてたからな」
「あはははは……」
 和希のことばに、俺はちょっと力ない笑いをもらしてしまった。思い出したくもない去年のことを思い出してしまったのだ。
『こんな問題も解けずによく高校に入学できたな。前の高校は幼稚園か?』
『おまえの頭の中はどうなってるんだ。ザルか? 豆腐か?』
『おい……。啓太、頼むよ。いくらなんでもこりゃねえだろ? こんなんじゃヒデに怒られっぞ? 来週中に中学レベルの単語と構文は全部、覚えとけよ』
 等々。中嶋さんの悪口雑言に耐え、よく聞くとひどいことを言われてる王様のセリフにも耐え抜いた1年だったのだ。自分がサボっていたツケとはいえ、4月に入っていくらもしないうちに中嶋さんから「駄目だな、これは。中学からやりなおしだ」と言われたときには、さすがに目の前が暗くなった気がした……。
「基礎がきっちりしてるとさ、応用が利くだろ? 今年に入ってから、教えてくれって言いに来る回数、うんと減ったもんな」
「そうだっけ?」
「そうさ」
 和希のことばにちょっとだけ気分がよくなったとき、ポケットの中で携帯がバイブした。開けてみたら中嶋さんからだった。すごいタイミングだと思ったけど、よく考えたら3年もこの学校にいたんだから、何時に試験が終わるかなんて知っててあたりまえなのだった。
『試験は全部終わったな?』
『あっ、はい』
『じゃあ迎えに行く。暖かい服を着て、1泊の荷物と外泊届を用意しておけ。うしろにいるオニイチャンにハンコでも押してもらっとけば手間もかからんだろう』
 返事をする間もなく、言いたいことだけ言うと切れてしまった。中嶋さんからの電話はいつもそうだ。そっけないと言うかなんと言うか。……でもちゃんと声を聞かせてくれるのがうれしかったりするからいいんだけど。
「中嶋さんか?」
「……うん」
 ポケットに携帯をしまう俺に和希が聞いてきた。
「外泊届と1泊の荷物を用意しろってさ」
「強引なところはあいかわらずみたいだな」
「……うん」
「しかたないなあ」
 和希が気分を変えるように言った。
「今日は打ち上げに誘おうと思ってたんだけどな」
「ごめん。でも明日には帰るみたいだから」
「わかってるよ」
 あの事件以降、和希は中嶋さんとのことで何も言わなくなった。きっかけは何であれ、少しでも認めてもらえたのかなと思うと、ちょっとうれしい気がする。
「さ。早く帰ろうぜ。あの人のことだからもう待ってるかもしれないぞ?」
「って和希。どっから電話してきたって言うんだ?」
「橋の向こう側、とかさ」
 なんて馬鹿なことを言いながら寮に向かって歩いてると……。本当にいたんだよ。中嶋さんが。寮の前に。俺は思わず、一緒に歩いていた和希のことも忘れて走り出していた。

 車の中の中嶋さんはとてもご機嫌だった。和希の目の前で俺をひっさらえたからかもしれない。受験が近づいてきたこともあって、このところ移動の車の中はいつも口頭試問みたいになっていた。暗誦するように言われていた英文や古典、公式などをチェックされたりするのだ。それが今日はまったくなかった。ただひたすら車を西へ走らせているだけだ。
「思ったより遅くなったな」
「まだ遠いんですか?」
「いや……。30分はかからんと思う」
 中嶋さんのことばに時計を見たが、まだ2時を回ったところだった。時間的にコンサートっていうことでもなさそうだし。誰かと待ち合わせでもしてるんだろうか。道路の標識を見ると車は神戸市内に入っていた。
 神戸って実はよく知らない。ケーキが美味しいとか異人館があるとかおしゃれなイメージがある中で、子供心にも強烈に印象に残っているのがあの地震だ。まるで映画を見ているように現実感がないのに、でもそれが、家からたったの5時間くらいしか離れてないところで起きている事実。  あれから10年経った所為か、あたりを見回してみてもそれらしい痕跡は残っていない。道の両側を見てもきれいな建物が並んでいるだけだ。だけど俺がそれを口にしたとたん、中嶋さんが怖い顔でこっちを見た。
「……車を降りたら、絶対にそんなことは口にするなよ」
「えっ? あの……?」
「どの建物も同じような新しさなのは何故だ。同じときに壊れてしまって建替えたからじゃないのか」
「あ……っ !!」
 そう言われて俺は身体中から血の気が引いていく思いがした。地震があったことも被害が大きかったこともちゃんと知っていたのに、それと建物が新しいことを結びつけもしなかった。今見えている建物。そのほとんど全部がきれいに見えるということは、ここにあった建物のほとんどが倒壊してしまったということだ。考えたくもないけど、巻きこまれてしまった人もいるはずだ。そんな簡単なこともわからないなんて……。ものごとの表面しか見えない自分がとんでもないガキに思えて情けなかった。
「…………ごめんなさい……」
「俺に謝らなくていい。気がついたならそれでいいさ」
「……はい」
「さあ、もうすぐ着くぞ。……機嫌直せ」
 中嶋さんはそう言って俺の頭をくしゃっと撫でると、車を大きく左折させた。

 ビルの間をすり抜けるように走っていたかと思うと、突然、眼の前に海が開けた。同時に、見覚えのある建物がいくつも眼に飛びこんでくる。テレビや雑誌で見たことのある神戸の中に、俺はいた。
「白い網を広げたような建物が海洋博物館。赤い鼓型のタワーがポートタワーだ。海の色とも合っているし、まあ、きれいなコントラストではあるな」
「はい」
 きれいなんてものじゃない。俺の眼はさっきからずっと、少し向こうで舞っているカモメを追いかけていた。もちろん学園島にだってカモメはいる。対岸の浜からだって見たことがある。だけどここのカモメたちは、なんて優雅に舞い降りてくるのだろう。まるでここが最高の舞台だって知っているみたいだ。中嶋さんが急いでる様子でさえなければ、もう少し見ていたかったんだけど。
 そこからすぐ近く。突堤の突端といっていいくらいの場所に建ったホテルの前で、中嶋さんは車を停めた。走り寄ってくるベルボーイに車を預けて、バッグを取った俺と中嶋さんはホテルの中に入っていった。
 うーん。リゾートホテルだ。「いかにも」って感じではないけど、リゾートホテルとシティホテルが適度にミックスされてて、俺みたいのにも居心地がいい。吹き抜けになった開放的なロビーをきょろきょろ見回していると、こっちに向かって手を振っている人が何人かいた。歳は20代後半から50代くらいまで、男女とりまぜて7〜8人のグループだ。当然、人違いだと思ってたのに、まっすぐそっちに向かった中嶋さんは、その人たちに軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しています。今回はご無理をお願いしてしまって……」
「ああ、もうそんなのはナシだよ。中嶋くんが我々を頼ってくれたんだからね。ホテルだってなんだって出しますよ」
「そうそう。めったにないもんねぇ。佐野さんから連絡もらって、みんな張り切ってホテル探ししたんよ」
「有難うございます。おことばに甘えます」
 そして中嶋さんは、突然の展開についていけなくてうしろにいた俺を前に引っ張り出すと、その人たちに紹介してくれたのだった。
「こいつは伊藤啓太です。啓太、こちらは俺のジャズ仲間みたいなものだ。1年でいちばんホテルの取りにくい時季に、こんなにいいホテルの部屋を確保して下さったんだ」
「えっ、あの、そうだったんですか? あ……、えっと。はじめまして、伊藤啓太です。このホテルすごくきれいだし居心地がいいです。有難うございました」
「いやいや。ここが中嶋くんの趣味じゃないことくらいわかってますよ。しかし今だけはどうしようもなくてねえ」
 佐野さんというそのおじさんと、中嶋さんとはとても仲がいいみたいだった。年は親子……、ううん、もう少し離れてるかもしれない。でも中嶋さんがその人を見る眼に、尊敬と親しみが浮かんでいるように思えた。
「さあ。伊藤くんのいうようにここは居心地がいいけれど、そろそろ行かないと」
「じゃあチェックインしてきます。啓太、バッグを貸せ。一緒に預けてくる。それから、今のうちにトイレに行っておけ。ここを出たら4時間くらいは行けないぞ」
「……はい?」
 いつも思うけど、中嶋さんってどうしてこう何も説明してくれないんだろう? だいたいこんな大勢でどこに行くって言うんだよ? 絶対に口を割りそうにない中嶋さんでなく、佐野さんに聞いてみたらきっと教えてくれたに違いない。だけどそれはルール違反だ。中嶋さんに言われたわけじゃないけど、きっとそうに違いないと思う。だから俺は聞きたい気持ちを押えこんで、みんなと一緒にホテルを出たのだった。

 海沿いに少し歩いてから街中に入っていった俺たちは、海外ブランドのブティックと大きな銀行が入れ混じるようにして建ち並ぶ、ちょっと不思議な通りで足を止めた。平日の昼間だというのにそこだけ驚くくらいに人が多い。小さな子供からお年寄りまで、多種多様な人間が歩道からあふれかえってしまっていて、警官が笛を鳴らしたりしても平気でみんな車道に出ている。車が通るときだけ脇へ退くのだけど、行ってしまえばまた元通りだ。なんていうか、車の方もよく知っているみたいで、あまり通らなかったけど。
 俺たちも車道に出たものの、中嶋さんも他の人たちも、同じ方向に顔を向けたまま、何をするでもなくただ立っている。そうするうちにもどんどんどんどん人は増えてきて、もう前に進むことも後ろに戻ることもできなくなってしまった。トイレに行っておけと言われた意味はわかったけど、なんでここに立っているかはわからない。人が多い所為かあまり寒さを感じないのが救いだった。そうして1時間ばかり並んだところで、もういいかなと思った俺は、中嶋さんに何をするのか聞くことにした。
「ここって何かあるんですか?」
「この時季に神戸の旧居留地にきたら『神戸ルミナリエ』しかないだろう」
「ルミナリエ……?」
 ことばは聞いたことがあるような気がする。たしか震災で亡くなった人への鎮魂のイベントか何かだったはずだ。
「少し早いが、今日はおまえへのクリスマスプレゼントだったんだがな」
「えーっ。そうなんですかぁ? 有難うございます」
 ルミナリエがどんなものかなんて、具体的なイメージは浮かばなかった。でもホテルでの様子を見ていたら、俺にこれを見せるために、中嶋さんが誰かに頭を下げてくれたっていうのはわかる。それだけでもう、まさにお宝シチュエーション。俺はカモメに負けないくらい舞い上がれる気分だった。
 動きがあったのは、その場所で陣取ってからなんと2時間半(ウソっぽいけどマジだ……)後のことだ。もうあたりは真っ暗になっていた。前が見えないから何がどうなってるのかわからないけど、どこからともなく子供たちの歌声が聞こえてきた。それが終わったあと何度か鐘が鳴って、そして……。
 あの瞬間のことは忘れられそうにない。通りのいちばん向こうのアーチに電気が灯ったと思うと、俺や周りの人の口から一斉に、ため息のような歓声が洩れた。そしてその声も次々に浮かび上がってくるルミナリエの灯りに呑みこまれていく。まさに光の回廊が出現していた。
 きれいだと思ったのは全部が点いてしまってしばらくしてからのことだ。それまでは視覚が感情に直結していたみたいで、俺の意思とは関係ないところで声をあげていたのだ。意思が自分に戻ってくると、今度は声なんか出なくなっていた。それくらいそこは別世界になっていた。たかだか電気が点いただけで、こんな光景が浮かび上がるとは思ってもいなかった。もし天国につづく回廊があったとしたら、それはきっとこんなふうなのに違いない。震災で亡くなった人たちは、ここを通って天国に行ったのだろうか ―― ?
 やがて俺たちは人波に押されるようにゆっくりと進みはじめた。このときになってようやく俺は、中嶋さんが俺の腰を抱いてくれていることに気がついた。ちょっと焦ったけど、でも光の回廊に足を踏み入れた人はみんな頭上の電飾に見とれていて、誰も俺たちのことなんか気にもかけていない。誰も彼もが幸せそうな表情を浮かべて歩いているだけだ。
「どうだ?」
「すごく、すごくきれいです。最高のプレゼントです」
「……そうか」
 そうして俺たちはゆっくりと足を運びながらくちびるを重ねたのだった。天国の光の中、俺は今年あったすべての嫌なことが浄化されていくのを感じていた。





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