聖なる夜の月 後編 |
端まで歩いてしまった俺たちは、もうひとつの会場でサークル式になったルミナリエ ―― 佐野さんは「ゾウの檻みたいだろう?」と言った ―― を見たあと、北野坂の中ほどにあるジャズハウスに移動した。このあたりにはライブを聴かせてくれる店が多いのだそうだ。ここで太ったおばさんが歌うスタンダードナンバーを聞きながら簡単な食事をとった。簡単といってもワンプレートに収まっているというだけで、綺麗に盛りこまれた料理はどれも手がこんでいてとても美味しかった。特にパンの味が違いすぎる。神戸は食べるものが美味しいと聞いていたけれど本当だった。 「どうでしたか、ルミナリエは」 食後のお酒を飲みながら佐野さんが聞いてきた。ちなみに女性陣が色とりどりのカクテルで、中嶋さんを含む男性陣はブランデーだった。ここのブランデーはオーナーが直接買いつけてくるもので、日本ではここでしか飲めないのだそうだ。 「きれかったです。すっごくきれかったです。もう感動しました」 「そうかい? それならよかった」 「待ってる間、退屈やったでしょう。それでもあの時間には行ってんと、点灯の瞬間が見られへんのよ。やっぱりあれがいちばんきれいやからねえ」 「はい。俺もそう思います。暗いところからいきなり世界が変わったから、もうびっくりしちゃって」 「ああ、よかった。また来てね」 「はいっ」 ステージでは太ったおばさんの歌が終わり、メンバーの入れ替えみたいなことをしていた。今度はピアノがメインのようだ。 「ま、来年、来られるかどうかは、大学に合格するか否かにかかってるなあ」 意地悪いことを楽しそうに言った中嶋さんは、ブランデーの半分くらい残ったグラスをテーブルに置いて立ち上がった。佐野さんたちが一斉に拍手をしはじめる。よくわからないまま一緒になって拍手をしていると、ピアノにスポットライトがあたった。座ったのは……中嶋さんだった。司会の人が何か紹介していたけど、俺の耳には入ってこない。ただ呆けたように中嶋さんの姿を見つめているだけだ。だが中嶋さんの指がひとつのキィに触れた瞬間、俺の全身は音楽に包みこまれていた。 俺がわかるようにと思ったのか、中嶋さんが弾いたのはジャズピアノ風にアレンジしたクリスマスソングだった。中嶋さんのピアノを聞いたのははじめてだ。っていうより、ピアノが弾けるなんて思いもしなかった。でも中嶋さんってなんてかっこいいんだろう。あそこでスポットライトを浴びて、とても楽しそうにピアノを弾いているのが俺の大好きな人だなんて。俺は大勢の人がいるのも忘れて、その姿をうっとりと眺めていた。 何曲かメドレーで弾いたあと、曲は『 Let it Snow 』に替わった。俺と中嶋さんが出会った年。寮のクリスマスパーティの余興で、この曲を俺たち一年生が歌った。そのことを覚えていて選曲してくれたのに違いない。俺のしたことをちゃんと見ていて、ちゃんと覚えていてくれる。俺にとってこれ以上のことはない。ましてそれをこんなにたくさんの人たちの前で演奏してくれているのだ。音のひとつひとつは中嶋さんの指であり掌でありくちびるだった。何メートルか離れた場所にいるのに、まるで抱かれているかのような感じさえする。ジャズが、音楽が、こんなに官能的だなんて思いもしなかった。俺は火照ってしまった身体を冷ましたくて、両手で握りしめていたグラスからジンジャエールを一口飲んだ。 やがてすべての曲を弾き終わった中嶋さんが、前髪をかきあげながらこっちを見た。割れるような拍手に包まれていても、最初に見てくれるのは俺だ。そして帰ってくるのも俺のところだ。俺も中嶋さんも男だってことを他人がどう見るかなんて、もうどうでもよかった。ただ俺のために弾いてくれたことがとても誇らしかった。 アンコールがかかっているので、戻ってきても中嶋さんは席につかなかった。俺がさしだしたブランデーのグラスを受け取り、ほんの一口、口に含んだだけだ。そのグラスを俺に返すとき、軽く手が触れ合った。 「さて、どうする?」 「え……っと、どう、って……?」 「アンコールだ。何が聴きたい。1曲くらいはリクエストを聞いてやる」 前もって聞いていたならともかく、突然そんなこと言われたって思いつくもんじゃない。かといって大勢の人が待ってるのに、そんなに長く考えていられるわけもない。何度か唸った俺のアタマに浮かんだのは、中嶋さんの持っているCDのジャケットだった。とてもきれいな夜空の写真が印象的だったのだ。今夜を飾るのにこれ以上の曲は、今の俺には思いつけそうになかった。 「ふうん……。『 Fly me to the Moom 』ねぇ……」 「……あの……、だめ、ですか?」 うんと言ってくれなかった中嶋さんにおそるおそる聞いてみた。もしも弾けない曲をリクエストしてしまったのなら……。一瞬、ひやっとした俺だったが、中嶋さんは無造作に「いや」と言った。 「おまえがいいならそれでいいさ」 先刻よりもすごい拍手に迎えられて、中嶋さんはピアノに戻っていった。だが俺は意味深な中嶋さんのことばが気になって仕方がなかった。「俺がいいのなら」ってどういうことだろう。この場に相応しくない曲を選んでしまったのなら、ちゃんとそう言ってくれるだろうし。 聞き覚えのある曲が中嶋さんの指で奏でられる。弾きはじめて間もなく、また拍手が起こった。曲のタイトルがわかったからだろう。こんなふうに拍手がもらえる曲が選べてよかったと思ったときだった。 スポットライトを浴びた中嶋さんが、ピアノを弾きながら歌っていた。 Fly me to the moon And let me sing among the stars Let me see what spring is like On Jupiter and Mars In other words , hold my hand In other words , baby , kiss me Fill my heart with song And let me sing for ever more You are all I long for All I worship and adore In other words , please be true In other words , I love you …… 俺はクリスチャンじゃないから、クリスマスなんて、ただケーキを食べてプレゼントをもらう日にすぎなかった。聖なる夜だと言われても、ふーん、っていう程度にさえも思わなかった。 だけど今夜は違う。今夜は俺にとって特別の夜。これ以上ない聖なる夜だった。 中嶋さんの持っているCDはサックスのソロだったので、こんな歌詞の歌がついているなんて知らなかった。ましてやそれを中嶋さんが歌ってくれるなんて。 求められているのはピアノの演奏なのだから、中嶋さんは歌わないでおこうと思えばそれですんだはずだ。だけど歌ってくれたんだ。ちゃんと、舞台の上で。これが聖なる夜でなくて何だって言うんだ? 「中嶋くんはずいぶん君を可愛がっているようだね」 だから曲が終わったとき、佐野さんからこんなふうに言われても、素直に「はい」と答えられたのだった。恥ずかしいとかそんなことは思いもしなかった。 「彼はあんなにピアノが上手いのに、よほど気が乗らないと弾いてくれないんですよ。それがホテルを見つけたと言ったら二つ返事で引き受けてくれた。これはもうニュースだったんだよ、我々の間ではね」 「あの俺……、今年は本当にひどい目にあっちゃって、受験どころか、ヘタしてたらここに座ってることさえできなかったんです。本当に中嶋さんに助けてもらわなかったらどうなってたか……。だから今日は、たぶん中嶋さんなりの厄落としを考えてくれたんじゃないかって思うんです」 何の説明にもなってないなと自分でも思ったけど、でもこれよりほかにどう言っていいのかわからなかった。それでも佐野さんは、ただにこにことしながら頷いてくれていた。 お酒も飲んでいないのにすっかり酔ってしまった俺に、外の風はとても心地よかった。 「あ〜。気持ちいーい」 「……こら、啓太。おまえのジンジャエール、酒が入ってたのか?」 「えー? そんなことないですよぉ」 電車で二駅戻って、神戸駅で下りた俺たちは、ハーバーランドに向かう道を歩いていた。街路樹はライトアップされ、正面にはとりどりの色に変化する観覧車が見えている。その向こうに浮かぶ月。綺麗だった。風景も、人も。無駄なものは何ひとつなく、お互いを引き立てあっている。 そんな中で、俺はいつもよりほんの少しばかりはしゃいでいたようだ。だけどそれは……。中嶋さんもだったと思う。今日のような中嶋さんを俺は知らなかった。 機嫌がいいのとは違う。楽しげというのでもない。そんな中嶋さんなら俺は何度も見てきた。じゃあどこがと言われると困ってしまうんだけど、どこかが違っていた。俺はそれを感じて、はしゃいでいたのかもしれない。 中嶋さんって落ち着いてるっていうか、年齢以上に大人に見える。だけど今日は ―― いや、正確には「佐野さんの前では」だ ―― つい先月、二十歳になったばかりの、年齢相応の中嶋さんみたいなものが見え隠れしていた。佐野さんという人を俺は知らない。でも中嶋さんにとって心を許せる相手であることだけはわかった。 このとき俺が感じていたのは、嫉妬ではなく安堵感だった。中嶋さんがご両親やお姉さんと疎遠なのは俺だって気づいている。BL学園に入学して以来、顔を合わせたのは五指に満たないとも言っていた。その中嶋さんがほんの少しでも心を預けられる人がいたっていうのがわかって、なんだかすごくほっとしたのだった。 「さあ、こっちですよ」 「はぁい」 佐野さんの声に、俺たちは横断歩道を渡って建物の中に入った。右がデパート、左はスーパーで、俺たちが入っていったのは、その間の屋根がついた通路だった。何本も木が植えられ、それを取り囲むようにベンチが並んでいる。コーヒーやクレープ、ジェラートなどのおしゃれな屋台もあって、まるで小さな公園のようだ。その高い高い天井の上から無数の青い電球が下がっていた。ところどころに白い電球が混じっている。これはまるで……。 「…………星が降ってくるみたいだ…… !! 」 思わず足を止めて、中嶋さんにしがみついていた。ルミナリエには平然としていた中嶋さんもこれは見上げていた。青い、青い世界。まるで宇宙の中にいるようだった。 「どうですか。うちの女性たちが是非といって譲らなかったスポットは」 ええ、すごいですね。そういう中嶋さんの声を遠いものに聞きながら、俺は宇宙を感じていた。 外へ出ると、中嶋さんの車で入ってきた場所に出た。同じ場所を昼と夜景と両方見たことになる。俺たちをホテルの前まで送っておいて、佐野さんたちはホテル前からタクシーで帰っていった。あっけないくらいだったが、この適度な距離感が、中嶋さんと佐野さんの関係を良好なものにしているのだろう。 綺麗なものをたくさん見て、なんだかとても気分がよかった。バッグは部屋に入れてくれてるということだったので、吹き抜けに面したシースルーエレベーターでまっすぐ部屋に向かう。 中に入ってまず眼に飛びこんできたのは、開けられたカーテンの向こうに見える、港の夜景だった。電気をつけるのがもったいなくて、しばらくそのままでいた。それでも眼が慣れてくると、ここがスィートルームだということがわかる。ホテルが取りにくいって言ってたからこんな部屋しか空いてなかったのかもしれない。そんなことを思いながら何気なくベッドルームをのぞいた瞬間。俺は絶句していた。部屋の真ん中にダブルベッドが鎮座ましましていたのだ。 「……中嶋さん。佐野さんに部屋を頼んだとき、なんて言ったんですか?」 「ふたりで泊まるが、最悪、シングルひとつでもかまわないと言ったんだが。……どうした」 「だってこんなダブルベッド。俺たちこんなところで寝るって、バレバレじゃないですかぁっ」 シングルひとつでもいいなんていうから、きっと女の子と来るって思ったんだろう。そんなところに俺が現れて、あの人たちはどう思っただろう? ジャズハウスでは俺たちの関係を気づかれてもいいと思ってたけど、実際にダブルベッドを見てしまうと、そのインパクトは大きかった。 「いいじゃないか。誰も気にしてなかった」 たしかに気にはしていなさそうだったけど、でも今頃はご家庭の話題になっているかもしれない。普段の接点がない街で本当によかったと思った。 「俺も気にしていない。おまえは気になるのか?」 だって。と言いかけて、俺は首を横に振った。この部屋は中嶋さんがピアノの演奏と引き換えに用意してくれた部屋だ。だから今日は特別な夜、聖なる夜だったはずだ。だとしたら特別にこんなことがあったってかまわないじゃないか? 「いいえ。俺も気にしてません」 「そうか?」 「それよりあの……、リクエスト聞いてくださって、有難うございました」 「ああ」 「ピアノを弾いてる中嶋さんは、すっごくかっこ良かったです」 「ふ……ん?」 「だから……。もう一度、俺を月まで連れて行ってくれますか?」 「……いけない受験生だな」 口ではそんなことを言いながらも、中嶋さんは俺の方に手を伸ばしてくれた。もつれあうように倒れこんだベッドの向こう。低くなった目線の先に月が見える。 ―― 早くここまでおいで ―― そんな月の声を、俺は確かに聞いた気がした。 |
いずみんから一言 すんません。ちょっと中身に「?」ってとこが何箇所かありました。 この年の9月。啓太くんがある事件に巻きこまれてしまったのですが、それがまだ書けてない訳です。 そのうち書こうと思いますので、少々お待ちを。 話自体はぬるくてすんません(汗)。しかもローカルネタ(滝汗)。 新婚旅行でほぼ1年もの間、資料と格闘してきた反動で、何も見ずに書けるものを書きたかったのです。 神戸ルミナリエの写真は「芦屋物語」というサイトに過去のものも含めてupされています。 うちのサイトがサイトなものでリンクはできませんが、検索すると一発で出てきますのでぜひどうぞ。 しかし……。年末になると、なんで歌つきのものが書きたくなるんだろう……? |