世界中の誰よりも(前編)


「携帯電話を買おうと思ってるんですが、つきあっていただけますか?」
 七条さんに声をかけられたのは、あの人とあんな……ことになって、しばらくしてからのことだった。そのころ俺はあまりの身の上の変化(!?)からか、ちょっと情緒不安定気味になっていたらしく、七条さんのことを疑いかけていたところだったので、誘われたとき、ちょっとぽかんとしてしまった。
「おや。何か予定が入っていましたか? だったら別にこの次でも……」
「い、いえっ。いきます。俺、一緒にいかせてください!!」
 笑顔をはりつけて歩いているような七条さんの、目元だけがふわっと暖かくなった。その暖かさが、胸の奥のわだかまりを一気に溶かしていく。
 うわっ……。と、思った。俺、やっぱりこの人を――。
「今から上着を取りにいって……、それでも次のバスには大丈夫ですね?」
「はっ、はいっ」
「じゃあバス停で。待っていますよ」
「はいっ。必ずいきますから。だから待っててくださいっ!!」
 思いがけなくかけてもらったことばに、うれしいより先に涙が出そうにさえなって、俺は何かいいかけた七条さんに背を向けると、寮の部屋までダッシュした。頭の中では、今しがたの七条さんのことばがぐるぐる回っている。
 七条さんが外出に誘ってくれた。予定があったら、また次にしてくれるっていった。ひとりで出かけたり、西園寺さんを誘ったりせずに、俺と――。
 俺は部屋に戻るなり上着を引っつかみ、財布をポケットにねじこむと、バス停へと走った。ドアを閉めるのさえまだるっこしく、ましてや鍵なんてかけていられなかった。

 日曜の午後だというのに、携帯電話のショップは思ったよりすいていた。心づもりがあったらしく、店の中を見回していた七条さんは、まっすぐにある機種のところにいった。
「迷っているのは、この機種とこの機種なんですよ。機能的にはほとんど同じですから、あとはデザインと色なんですが……。あいにく僕はそういうところが疎くて。いつも郁から『お前は趣味が悪い』といわれてるんです」
「そんなっ。俺だってたいした趣味なんかしてないですよっ。和希と比べたら見るも無残で……」
「遠藤君ですか?」
 のぞきこむように振り向いた七条さんの顔が、ふれあうくらい近くにあった。思わずどきっとするくらい色が白い。西園寺さんも白いけど、七条さんのはやっぱり特別だ。服を脱いだらきれいだろうな……。
 あぶない。もうちょっとであのときのことを思い出してしまうところだった。俺は慌てて妄念を振り払おうとした。
「そうですね。彼はいつも仕立てのいいスーツを、見事に着こなしていますね」
「理事長やってなかったらデザイナーめざしてた、ってくらいですから。やっぱりどこか違うんだな」
 七条さんの吐息がわずかにかかる。耐え切れなくなりそうな自分をはぐらかしたかったのかもしれない。俺は視線を落とすとディスプレイされている携帯電話を手にとった。
「それがいいですか?」
 頭の上から降ってきたことばに、我に返った俺は、ちょっと慌ててしまった。いいかげんで掴んでいた電話は、なんともいえないショッキングピンクだったのだ。
「え、あ。あの、ホントに俺が選んじゃっていいんですか?」
「もちろんです。そのために来てもらったんですから」
「うわ。責任重大だ」
 あれこれと手にとって迷っていると、七条さんの視線が感じられた。暖かくてやわらかい、まるで小さい子供を見守るお母さんのような視線。
 お願いです。七条さん。そんな眼で見ないでください。だって俺は七条さんのことを……。
 しばらく迷ったすえ、俺は一台の電話を選び出した。それはほんの少し緑がかった、限りなく黒に近いグレーで、もうひとつの機種よりはシャープなフォルムをしていた。
「ああ。とてもきれいですね。つや消しになっている分、色に奥行きが感じられます」
「それで、いいですか?」
「ええ。とても気に入りましたよ。選んでもらって、本当によかった」
 じつをいうとそれは時折七条さんの背中に見える、先のとがった翼や尻尾の色なんだけど。これはナイショにしておこう。だってすごく喜んでくれているから。それにナイショは何も、七条さんだけの専売特許じゃない。
「じゃあ僕は手続きをしてきますから……。そうですね、30分後にこの前のカフェということで、どうですか」
 わかりましたといって店を出たものの、俺はどっぷりと落ちこんでしまっていた。たかが携帯電話を選んだくらいで、あんなに喜んでくれた七条さん。その七条さんを疑っていたなんて。俺ってなんてとんでもないことをしてしまったんだろう。なんだか自分が極悪非道の人非人になった気がしてきた。
「よしっ。やっぱ謝っとこう。そのほうがすっきりする」
 もうカフェはすぐそこに見えていたけれど、俺は足を止めた。戻るんだったら早くしないと、どこかで行き違いになってしまうかもしれない。人ごみを縫うようにして、俺は携帯電話のショップまでダッシュで戻った。だから店の奥に七条さんの背中が見えたときには、正直ほっとした。そして俺はそのままショップの前で待つことにした。
 
 店を出たら俺がいたので、七条さんはちょっとびっくりしたようだった。
「すみません、俺……。どうしても七条さんに聞いておいてもらいたいことがあるんです」
「なんだか真剣な話のようですね……。じゃあ海岸にでもいってみましょうか。ちょっと寒いかもしれませんが、この時期なら人もいないでしょうし」
 そういって七条さんは先に立って歩き始めた。少し足早で、相変わらず笑顔がはりついているものの、どことなく表情が硬い気がする。それに俺の方をぜんぜん見てくれないのだ。俺はとてつもなく不安になって、七条さんの横顔だけを見ながら必死で足を動かしていた。やがて、どこをどう通ったのか、気がつくと目の前に海があった。
「わぁ……!!」
 思わず声が漏れた。青い海の向こうに学園島があった。潮の香りが身体一杯に満ちてくる。
 俺と七条さんはそこから少し歩いて、白砂の上に腰を降ろした。その場所からは左手に、優美なアーチを描く橋が見えている。対岸はどうやら、王様がいつも昼寝をしている場所のようだった。
「あの橋……」
「……はい?」
「あの橋から、すべてが始まったんですね。……俺と、七条さんとの、すべてが……」
「そうですね。あのときの、僕と副会長とのつまらないトラブルに巻きこんでしまって、今でも申し訳なく思っていますよ」
「そんな。誰も怪我しなかったから、あれはもういいんです、ってば」
「そうですか? でもこうやって下から見あげてみると、君が無事で、そして今こうして横に座ってくれているのが、まるで奇跡のようじゃありませんか?」
 後になって、そのことばと橋までの高さを思い出してぞっとすることになるのだが、このときの俺にそんな余裕はなかった。
 抱えこんだひざにあごを埋め、落ちかかる前髪の向こうに海を見つめたまま、なんとかして「ごめんなさい」の一言をしぼりだそうと、必死になっていたのだった。
「え!? 何かいいましたか?」
「……ごめんなさい、七条さん」
「どうして君が謝るんですか?」
「だって俺、俺……。七条さんを疑っていたんです」
 驚いたように振り向く七条さんが感じられた。でも俺はそんな七条さんの顔が見られず、膝に額があたるまで、腕の中に顔をもぐりこませてしまった。
「七条さんって、あんなすごいことをしておきながら、むちゃくちゃ冷静だし。なんか前よりよそよそしくなったみたいな気もするし。だから……だから、俺……。七条さんにとって、俺は単なる遊びだったんじゃないか、って。ちょっとした浮気みたいなものだったんだ、って。そんなふうに思っちゃって……。それで……。なのに七条さんはこうやって誘ってくれて……。携帯選んだくらいであんなに喜んでくれたし……」
 ただでさえ支離滅裂だったのに、あとはもうことばにならなかった。自分でもよくわからない悔し涙のようなものが目の端ににじんできて、俯いたままそれをごしごしこすった。
「……ああ、よかった」
 突然耳に入ってきたことばを理解するのに、いったい何秒かかったろう。ことばの意味より先に、心底ほっとしたといったような口調が心にダイレクトに伝わってきて、俺は思わず顔を上げた。
「よかった」
 もう一度そう呟いた七条さんは、そっと手を伸ばすと俺を抱き寄せてくれた。七条さんの長い指が俺の髪にもぐりこみ、あやすように頭をなで、毛先をもてあそぶ。俺はされるまま、七条さんの肩に頭を預けていた。
「実をいうと僕も、伊藤くんの態度に少なからずショックを受けていたんですよ」
「え!?」
 驚いて身体を起こしかけたが、七条さんの腕はそれを許してくれなかった。しかたなく俺はもう一度、七条さんの肩に頭を預けなおした。
「俺が……ですか? 何か七条さんの気に触るようなことをしましたか!?」
「先日のお風呂のときなんですけどね」
「あ」
 
 ついこの間のことだった。風呂に入っていたらドアが開いたので何気にそっちを見ると、七条さんが西園寺さんと何か話しながら入ってくるところだった。ああ。やっぱり七条さんって足が長い。そう思ったとたん、誰よりも白くて長い足の、つけ根が眼に入ってしまった。髪と同じ不思議な色のヘアと、そして。
……あ、と思ったときにはもう駄目だった。時間にすればほんの一瞬。数秒もなかったに違いない。それでも俺は俺自身を押しとどめることができなくなってしまっていたのだった。まさかそんな状態のままで風呂に入っているわけにもいかない。俺は考えるより先に湯船を飛びだしていた。
「伊藤?」
 一緒に入っていた同じクラスのやつが何かいっているのは耳に入っていたが、すでに振り向ける状態ではなくなっていた。
「何だ、あいつ。さっき入ったばっかなのによ」
 むちゃくちゃ苦労して何とかパンツははいたけど、ズボンのファスナーは途中で諦めた。それでも走ることはできなくて、手近のトイレの個室に落ち着いたときには、もう全身が汗でぐっしょりになっていた……。

「伊藤くんてば僕の顔を見るなり出ていってしまったでしょう」
「……すみません……」
「あれから僕は僕なりに、いろいろと考えてみたんですよ。僕は君にとって初めての男だったみたいでしたから」
「……ああ、もう本当に……」
「だから印象が強かったので、ついつきあうなんていってしまったけど、よく考えたらあれはただのその場の勢い。冷静になれば、何も好き好んで男となんかつきあわなくても、家に帰ればかわいいガールフレンドが待ってくれているのに」
「あの、お願いですから、もう……」
「とかまあ、そんなことをいろいろと考えてしまっていたような訳なんです」
「あっあの、だからあれは……」
「あれは? なんですか?」
「あれは、その。……七条さんのアレが眼に入っちゃって、そしたら俺、もうどうすることもできなくなって……」
「…………ああ…」
 一瞬きょとんとした七条さんのくちびるから、ふっと笑いがもれた。
「なるほど。伊藤くんのやんちゃ坊主さんが突然悪戯をはじめた。……そういうことですね」
 居たたまれない思いで、それでもなんとか頷いたけど。俺の顔、きっと耳まで真っ赤だったに違いない。冷たいくらいの潮風がとても気持ちよかったから。
 そんなにいじめないでください、と思う。でもこれくらいの罰は受けて当然、とも思う。今はただ、抱き寄せてくれる七条さんのぬくもりがとてもうれしい。
「そんなことだとはわからないものだから、今日誘ったのも内心はびくびくものだったんですよ。そうしたら携帯電話ショップの前で、君が思いつめたような顔で立っていたから、てっきり別れ話を切り出されるものだとばかり……」
 自分でも気づかないうちに、俺は手をのばして七条さんの首に抱きついていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
 七条さんのくちびるでふさがれてしまったので、あとはことばにできなかった。それを無理やりひきはがすようにしてことばをつづける。ちょっともったいない気はしたけれど、今を逃すと、もう二度と口にできないかもしれないと思ったからだった。
「でも今日誘ってもらって、ホントにうれしかったんです。思わず涙が出てしまったくらいに。それで俺、遊びでもいい、浮気でもいいから七条さんのそばにいたい。そう思ったんです。七条さんがどう思ってたって、そんなことは関係ないんですよね。きっと……。俺が好きだって、俺が七条さんが好きだっていう気持ちがあれば、それでよかったんじゃないかって。それに気づいたとたん、疑ってた自分がものすごく恥ずかしくなってしまったんです」
 一気にいってしまったら、嘘みたいに楽になった。身体中から毒が抜けたみたいに。それはきっと「嫉妬」っていう毒だったんじゃないかと、そんなことをちょっとだけ考えた。
 そして俺は七条さんに向かって精一杯にっこりと笑いかけ、「今日ならいえる」最後の一言を口にした。
「俺、世界中の人にだっていえますよ。俺が好きなのは七条さんだ、って」
「…伊藤くん……」
「あ、だけど、同じクラスのやつの前ではちょっと嫌かな、なんて」
 いってしまってからやっぱり少し恥ずかしくなって、俺は照れかくしにちょっと笑うと頭をかいた。
「……本当に僕はなんて困った人なんでしょうね?」
 七条さんはちょっと困ったような、ちょっと照れているような、それでいてちょっと喜んでいるような、この人にしては珍しく、素の七条さんが透けて見えるような表情をしていた。
「こんなにも大切に思っている人に、そこまで思いつめさせていたなんて。……本当に僕は恋人失格ですね?」
「そっ、そんなことないです。俺が勝手に……」
「それなのに僕ときたら、自分だけが傷ついたみたいに思っていたんですからね。伊藤くん。許してもらえますか?」
「ゆっ、許すなんて、そんな」
「だってそうでしょう。恋人になってくださいとお願いしたのは僕のほうなんですから。だから改めてお願いします。こんな僕でよかったら、もう一度、つきあってもらえますか?」
「はいっ。こちらこそ、よろしくお願いしますっ!!」
「有難う。もう君を不安にさせたりしません」
 そういうと七条さんは立ちあがった。俺の前に大きな手がさしのべられる。俺は迷わずその手を掴んでいた。




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