世界中の誰よりも(後編) |
帰りはタクシーに乗った。俺はバスを待つつもりだったのだけど、気がついたら七条さんが慣れた感じでタクシーを呼び止め、さっさと乗りこんでしまっていたのだ。あわてて横に座った俺に、七条さんはこういった。 「こんなうれしい日にバスなんて待っていられませんよ。一秒でも早く帰りたい。そう思いませんか?」 何も考えずに「そうですね」といってしまってから、俺は、えっ!? と思った。 ちょっと待てよ、おい。今なんていったっけ? 一秒でも早く帰りたい、って。確かにそういったよな? それも、うれしいから、って? えっと……。じゃあ帰ったら? 帰って部屋に入って、それで、その後は……? もしかして、する……のかな? 七条さんと。また、あんなことを……? まさか。そんなわけないよな。まだこんなに明るいし。きっと西園寺さんと一緒にお茶でも飲むんじゃないかな。えっと、なんだっけ、あれ。あ、そうだ。ウエッジウッドのイングリッシュ・アップルティー。七条さんも好きだ、っていってたし。意識しすぎてんだよ、俺。バッカみたい。 だけど……。 タクシーに乗ったというだけで、なんだかものすごい贅沢をした気分になっていた俺は、その一言で一気に現実の世界に戻ってきてしまった。ついさっき、七条さんに好きですといったのは俺の方なのに。でも実際に「するかもしれない」と思っただけで、むちゃくちゃ緊張して身体がこわばってきてしまう。かといって「部屋に帰ったらエッチをするんですか」と聞くわけにもいかない。 ほんの少し手をのばしただけで触れられる場所にいるその人を、意識しちゃいけないと思うくらいに、意識せずにはいられない。このあいだの屋上でのことが、断片的にフラッシュ・バックしてきはじめて、いてもたってもいられないような不思議な焦燥感が身を包む。この気持ちが期待なのか不安なのかさえ、すでに自分でもわからなくなっていた。 ところが俺がこんなに困っているのに、七条さんときたら、平然とした顔で携帯電話の紙袋をごそごそしているのだ。思わず恨めしげな顔を向けた俺の鼻先に、小さめの紙袋がさしだされた。 「はい。これは伊藤くんの分です」 「え!? 俺の……って?」 「壊れてしまったんでしょう? 伊藤くんの携帯。バスの事故のときに」 「それは、そう……です、けど……」 「機種はおそろいですが、色は僕が選びました。……僕の選んだ色では不安ですか?」 「いっいえ、あの、そんなことないです」 あわてて紙袋を受け取り、中の箱を開けてみる。確かにそれは俺が選んだほうの機種で、七条さんのとは対照的な、パールの入った鮮やかなスカイブルーの携帯電話が入っていた。 「あっ、あの……有難うございます。えっと、その……なんかびっくりしちゃって、俺、なんていったらいいのか……」 「お礼なんていりませんよ。それどころか、もっと早くこうしておかなければならなかったのに、今までほったらかしておいて申し訳なかったです。ああ、それから、費用のことですが、副会長氏と折半にしていますから。心配せずに、どうぞ遠慮なく受け取ってください」 「ええっ!? 中嶋さんと、ですかぁっ!?」 これにはマジで驚いた。あまりにも驚いたので、つい大きな声を出してしまったくらいに。運転手さんがバックミラーでこっちを見ているのに気づかなかったら、思わず七条さんの胸倉を掴んでいたかもしれない。 「そんなに驚くことですか? 責任の大半は副会長氏にあるんですから、当然だと思いますが?」 七条さんは不思議そうにいうけれど、俺が驚いたのはそんなことじゃなかった。だって、だって、それって、あの……。 俺の頭の中に、ある光景が浮かんだ。学内の廊下を足早に学生会室に向かう七条さん。いつもははりつけている笑顔を、ドアの前ですっかり消してしまってからノックする。返事をしたのは王様だろうか。それとも中嶋さん? それからドアを開けて中に入り、そして……。 「……中嶋さんと、話をした……んですか??」 「いつもしていますよ。それに今回の申し入れには、一も二もなく賛同してくれました。あんな悪人でも、伊藤くんの一件には、さすがに何か思うところがあったようですね」 そういった七条さんは、ホントに楽しそうに笑った。俺はそれまで、中嶋さんに話をしにいったということで、七条さんにいったいどれだけ嫌な思いをさせたかと、心の底から申し訳なく思っていたのだが。この瞬間にやめてしまった。今、七条さんの背中には、先のとがった翼と尻尾が見えている。 寮までの道のり。俺は七条さんの斜めうしろを歩いた。電話を受け取ってから忘れていた緊張感が、タクシーを降りるなりまた襲ってきたのだ。電話の入った紙袋を抱きしめ、敷石に目を落としながら歩いていると、自分自身の足が見える。この一歩一歩が寮へ、俺の部屋、あるいは七条さんの部屋へと近づいている。何が待っているのかわからない、ごくごく近いところにある近未来。ふと気がつくと、ともすれば遅れがちになる俺を、立ち止まって七条さんが待っていた。 「すみません……」 「いえ。僕がちょっと急ぎすぎたようです」 そうして並びかけた俺の耳元で、七条さんがささやきかけた。 「ところで後学のために聞いておきたいんですが……。いいですか?」 「はい?」 背の高い七条さんが、かがみこむようにしてことばをつづける。 「伊藤くんとのことが浮気なら、じゃあ僕にとって本命って誰だと思ったんですか?」 不意をつかれて、思わず咳きこんでしまった。なんだってそんなこと覚えてるんだよ、この人は!? 目の端に涙を浮かべながらげほげほやっていたら、七条さんが背中をさすってくれた。 「大丈夫ですか?」 「えっ、げほ、はっ、はい……、けほけほけほ、けほん」 「あんまり大丈夫そうじゃないですね」 心配そうに俺の顔をのぞきこんできた七条さんは、しかし表情とは裏腹のことばをつづけた。 「で? 僕のお相手は誰だったんですか?」 ああ、もう駄目だ。この人を相手に隠し事なんてできやしない。 「西園寺さん、です……」 「僕が? 郁と?」 七条さんはくすっと笑った。ああもう俺、絶対馬鹿にされてるよ……。 しかし七条さんはそれについては何もいわず、さあいきましょうといって歩き始めた。 七条さんが足を止めたのは、俺の部屋でも七条さんの部屋でもなく、意外なことに西園寺さんの部屋の前だった。ちょっとほっとした反面、不安にもなる。まさかさっきの話をしにきたんじゃ……ないよな。 「郁、入りますよ」 軽くノックしてからそう告げると、返事も待たずにノブを回した。学内広しといえども、こんなことができるのはこの人ぐらいなものだろう。さあ君もと促されて部屋に足を踏み入れる。 あいかわらず豪華な部屋の豪華なソファに、部屋に負けないくらいとびきり豪華な人が座っていた。何か読んでいたらしい本を脇において、俺たちを出迎える。といっても立ち上がったりなんかしない。この人にそんなことは似合わない。そしてそれは、当のご本人が一番よく知っているのだ。俺は思わず感歎のため息をもらしていた。 「ただいま戻りました」 「ずいぶん早かったな」 「ええ、まあ」 口元に笑いを浮かべながら、西園寺さんは実に興味深そうに俺を見つめていた。その間、七条さんも何もいわない。当然俺が何かいえるわけもなく……、ただじっとその視線に耐えていた。 「……どうやら、関係は修復できたようだな」 「おかげさまで」 「やっぱりコミュニケーションが不足しただけだったんだろう」 「恥ずかしながら、そうだったみたいです」 やっぱり、って。何それ、いったい……? 思わず目を白黒させてしまった俺に、西園寺さんがいった。 「おまえがつれないといって、ここ数日の臣はひどかったんだぞ」 「ええっ。そうだったんですかっ!?」 思わず七条さんの方を振り返る。七条さんは軽く肩をすくめて見せた。 「とにかくもう、口を開けば伊藤くんが冷たい、とか、伊藤くんの心がわからない、とか。挙句の果てに『僕が下手だったから、愛想をつかされてしまったんでしょうか』なんて真顔でいわれてみろ、いくら臣でも部屋からたたき出してやりたくなったぞ」 ああ恥ずかしい。七条さんてば何てこと相談するんだよ。もうどんな顔して西園寺さんと話したらいいのかわからないよ……。 「それ以上やられるとこっちも限界がくる。だからいってやったんだ。おまえたちはただのコミュニケーション不足なんだから、携帯電話でも買って、女の子みたいにしょっちゅうメールを交換していればいいんだ、ってな」 「は、はぁ……」 「まあいい、これで元の臣に戻るだろう」 そういって西園寺さんは何事もなかったかのように、脇に置いた本を取り上げた。ここで『臣、紅茶を』なんていうんだろう。ところが西園寺さんが口を開く前に、七条さんが西園寺さんの前に進み出た。 「ところがそうもいっていられなくなったのです」 「ん!?」 西園寺さんが目を上げた。 「僕の言動が彼を不安にさせてしまったようなので、それを取り除くことが、僕としての誠意だと思うのです」 再び本を閉じた西園寺さんが、不審そうに少し細めた目で七条さんを見やる。七条さんは西園寺さんの前に膝まづくと、西園寺さんの手をとった。 「郁。僕はこれまでどおり、オフィシャルな時間のすべてを郁のために使います。だからプライベートな時間の一部を、伊藤くんのために使うことを許して欲しいのです」 とてつもない光景が目の前でくりひろげられている。だが俺には何の違和感も感じられなかった。豪華な背景と相俟って、まるで一幅の絵画のような光景に、思わず息を呑んでしまう。 七条さん。ホントに俺でよかったんですか。と、胸の中で問いかけてみる。俺のために膝をついてくれる七条さんに、俺はいったい何ができるというのだろう。 「……おまえは大事だとか何だとかいいながら、いまだに『伊藤くん』なのか?」 「あ、ああ……。そうですね。考えたこともありませんでしたが」 こんな問いかけは想像してもいなかったのだろう。七条さんには珍しく、ことばを返すのに数秒のタイムラグがあった。もちろん俺だって想像してなかったけど。 「ふん、まあそれもおまえらしくていいだろう。……ところで啓太」 「はっ、はいっ!!」 「ずっと臣といたいのなら、成績をあげろ。私は無能な人間はいらない」 「……はい?」 「郁が認めてくれたということですよ」 西園寺さんの前から立ちあがった七条さんがフォローをしてくれた。でなかったらきっと俺、お礼がいえなかったと思う。そうしたら西園寺さんの機嫌を損ねていたかもしれない。 ああそうかと、俺は思った。俺はこれから、こうやって七条さんと歩いていくんだ。西園寺さんの示した道を、七条さんに導かれながら。このとき俺ははじめて、『七条さんとつきあう』ことの意味を悟ったのだった。 「有難うございます。西園寺さん。俺、これから努力します。勉強だけじゃなく、いろんなことにも」 「そうか」 そういって西園寺さんは、胸に染みとおるような微笑を返してくれた。俺、この微笑は死ぬまで絶対に忘れないと思った。 「ということで、郁」 いつのまにか俺の後ろに回っていた七条さんが、俺の両肩に手を置いていった。 「ようやく相思相愛になれた僕たちに、ちょっとした協力をお願いしたいのですが」 「わたしに何をしろと?」 「じつは僕はもう一秒でも早く伊藤くんとの愛を確かめたいと思っているのですが」 うそっ!! 何それ、今からする、ってことかあ? それはいいけど、って、いや、よくないけど、んなこと何でわざわざ西園寺さんにいうんだよっ!? 「ふん? 勝手にすればいい」 ほらっ。やっぱり西園寺さんが不機嫌そうになったじゃないかっ。 「ええ。でも伊藤くんの部屋は廊下のソファコーナーのすぐ側ですから、今の時間帯は使えないのです。それで僕の部屋を使わざるを得ないのですが、このままだと郁に迷惑をかけてしまいそうなので……」 「わたしが迷惑をする、と?」 「実は伊藤くんはとても声が大きいんです。屋上でさえ、誰かに声を聞きつけられやしないかとはらはらしたくらいですから、隣の部屋だと、きっと郁の読書の邪魔をしてしまいます」 うわっ。顔真っ赤だよっ。違うっ。耳まで赤いよ、これ。って、いや、そんなことじゃなくて。だけど。声が大きいって、そんな。ど、ど、ど、どーしたらいいのか、わからないよ。もう泣きそう……。 顔が上げられない俺に、西園寺さんの視線が突き刺さった。もう駄目だ。もう二度と西園寺さんの顔が見られそうにない……。 「……わかった。図書館にいってくる。ただし二時間だけだぞ」 憮然とした口調でいいおいた西園寺さんが、本を片手に出ていった。俺と七条さんも、そのすぐあとについて出る。 七条さんが隣の部屋の鍵を開けるのを、俺は心臓をばくばくさせながら眺めていた。目の前でドアが開かれ、どうぞといわれても、すくんでしまった足が前に進まない。七条さんはふっと表情をゆるめると、俺の手を握り――そしてその大きな手に引かれて、俺は一歩を踏み出したのだった。 |
いずみんから一言。 ?年ぶりに小説を書きました。書き方をすっかり忘れてたものだから、エンドまで長かったです〃 これがここでおしまいなのは、みみずくからのリクエストが「エッチ無し」だった(笑)から。 ヒデを1本やってカンを取り戻したら、そっちの方もやってみたいと思います。 |
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