Sweet,Sweet,
Honey Moon

 Interval 〜 幕間 〜




 夜半。バスローブ姿でソファに腰かけた中嶋は、彼には珍しく呆然としていた。途方にくれていた、と言ってもいいかもしれない。らしくないため息が知らないうちに口をついていた。
 閉め忘れたカーテンから差しこむわずかな光が、中嶋の膝に頭をのせた啓太の顔をぼんやりと照らし出している。額に落ちかかる啓太の前髪を、中嶋は指でそっと掻き上げてみた。シャワーを浴びさせたときの湿り気がまだ少し残っていた。
 何故こんなことになってしまったのか、中嶋は考えようとしていた。そうすればこの状況を考えずにすむからだ。だが答えはすでにわかっていた。
 啓太が欲しくてしかたがなかった。だからである。
 中嶋がヨーロッパに発つ直前。啓太がマンションに引っ越してきた日の夜に抱きはしたものの、すぐに学園に戻る啓太のことを考えると本気にはなれなかった。中嶋にとってあの夜は、軽い手合わせをした程度にすぎなかったのである。つまり今夜は約2ヶ月ぶりの啓太だったことになる。
 白状すれば、その間、禁欲していたわけではない。何人かの女子大生と交渉を持ったし、例のクラブの本店にも顔を出している。だからこそ昨夜、啓太がベッドに入ってきたときも理性をつなぎとめておけたと、それは今でも思っている。
 だが啓太のやわらかい頬にくちびるを落としたとたん、何かが変わってしまったようだ。いつもと同じようにしているつもりだったのに、いつのまにか溺れてしまっていた。いけないと思ったが止めることはできなかった。そして我に返ると、すでに意識を飛ばしてしまっている啓太の身体を貫いていた。……何度も、何度も。
 意識のない人間を抱く趣味はないと言ったのは、つい今朝方のことだ。いや。すでに日付が変わっているから、昨日の朝か。それからわずか十数時間でこのていたらくである。
 ぐったりとしてしまった啓太を抱き上げ、シャワーを浴びさせた。そして身体を拭いてやっているとき、バスタオルについたピンク色のしみに気がついたのだった。執拗に啓太を責めたてたことは何度もある。だがこんな、眼に見える傷をつけたことなど初めてだった。今まではたとえ啓太を相手にしていたとしても、頭のどこかに冷めた部分が残っていて、ここまでになる前に歯止めをかけてくれていたのだ。そう。ちょうど啓太がマンションに越してきた夜のように。
 久しぶりの啓太の身体だった。啓太の方にも今夜が特別の夜だという意識があったのだろう。中嶋の要求に必死に応えようとしてくれた。それが愛しくて、というのは単なる言い訳にすぎない。己の若さが啓太に無理をさせてしまったのは明白だった。まったく初めての事態に中嶋は、どうしたらいいのかわからなくなったしまったのだった。
「…………悪かった」
 消え入るような声で、中嶋が小さくつぶやいた。

 ここのホテルは部屋数こそ20室と少ないが、数々の賞を受賞した実力を持っている。レストランも自慢のひとつで、某有名ホテルの元総料理長が作る料理は高い評価を得ていた。その自信は、欧州のホテルには珍しく、夕食つきプランが基本となっているところに現れていた。5泊もする中嶋はもちろん夕食不要で予約していたのだが。
 チェック・インのとき、勧められるままに夕食の予約を入れたのは、一度くらい自慢の料理を味わってみるのもいいかもしれないと思ったからだ。だがその料理を、啓太の分は少なくしてもらったにもかかわらず、あまり食べられなかった。丹羽たちと別れ、部屋に案内されてからというもの、呆れるくらいに緊張していたので、おそらくその所為だろうと思われた。ただでさえ丹羽が何度も「新婚さん」と言っていたうえに、本当に新婚旅行だと思いこんだホテル側がサービスでシャンパンを届けてきたのが、かえって緊張を高めてしまったようだった。
 要するに啓太は、今夜を初夜だと思いつめていたのである。アルコールに弱い啓太のために、中嶋がシャンパンをほんの少しだけオレンジジュースに垂らして薄いミモザを作った。それを飲ませてみても、やはり啓太の緊張はとけなかった。昨夜は寝てしまったので、今夜は失敗できないという想いがあるのだろう。
 中嶋にしてみれば、今更、何を緊張することがあるかと思うのだが、初夜だと思いこんでいるらしい啓太の様子に唆られるのも事実だった。それなら最後まで、その趣向につきあうだけのことだ。ただ、先人が勝手につけた名目で、啓太が必要以上に緊張しすぎるのも困りものだった。
 こういうときにはさっさと抱いてしまうに限る。そう考えた中嶋は、啓太がスーツケースの中身を片付けている間に、バスタブに湯を張った。

 バスルームは、中嶋が適当に放りこんだオイルの香りに満ちていた。バスタブは広くゆったりしていて、たっぷり張られた湯はとても温かかった。表面が見えないくらいの泡が立っている。その中で中嶋に抱き取られてもなお、啓太は固く身体をこわばらせたままだった。だが啓太を胸に寄りかからせただけで、中嶋は無理をせず、身体を預けてくるのをじっと待とうとした。啓太は何も嫌がっているわけではない。何度もあった「来ない」という選択肢を全部パスしてきたのだ。今、中嶋の腕の中にいるのは啓太自身の意思だった。それがわかっているから中嶋は待てたのである。ゆったりとした動きで、中嶋は啓太の肩のあたりを撫でつづけた。それ以上はまだ何もしない。
 中嶋の思ったとおり、いくらもしないうちに啓太が、ほうっ、と甘い息を吐いた。その瞬間を待っていた中嶋の腕に力が入る。もう啓太も逆らわなかった。完全に緊張が解けたわけではなかったが、身体を委ねられる程度にはなれたのである。それで十分だった。中嶋が啓太の耳元に低めた声で囁きかけた。
「さあ言え。どこを洗って欲しい」
「……どこ、って……?」
「あとで舐めて欲しいところを言うんだ。そこを洗ってやる」
「そんな……」
「言わないと舐めてやらんぞ」
「…………」
「くっ……。いい子だ」
 かろうじて中嶋の耳にだけ届くような声で答えた啓太のことばは、中嶋を期待以上に満足させた。やがて啓太の全身をくまなく洗いあげた中嶋は、バスローブを着せた啓太の身体を抱き上げた。すでに何度か達してしまっていた啓太は、恥ずかしいと抵抗することさえできず、黙って中嶋の肩に腕を回した。

 寝室の扉は開いていたが、啓太があまりにも意識してしまっていたので、中嶋も中は見ていなかった。ガイドブック等には「カップル向き」と説明がついていたが、そんなものはただのセールストークだと思っていた。だが足を踏み入れた寝室はまさに新婚旅行向きの部屋だった。
 面積的にはどちらかといえば狭い方だろう。しかしそれは計算され尽くした狭さといえた。ふたりの間に何も入るもののない広さである。ベッドも同じく普通のダブルサイズだったが、4本柱の上に天蓋がのっていて、枕元の方からベッドの長さの3分の1程度まで、美しいドレープを描く布がかかっていた。
 せっかくの演出ではあるが邪魔な布を避けて、中嶋は啓太をベッドの足元の方に下ろした。ベッドの上にぺたんと座りこんだ啓太は、ためらいがちに中嶋が腰に巻いていたバスタオルに手をかけた。
「……これ、はずしても……、いい、ですか……」
「好きにすればいい。どのみち全部おまえのものだ」
 震える手でバスタオルを下に落とした啓太は、ちょうど眼の高さにあるものを手にとろうとした。手にとって、その先端にキスをしたかったのだ。だがそのまえに中嶋に抱きすくめられ、押し倒されていた。中嶋の手は啓太の身体の線に沿ってゆっくりと滑り降りていき、バスローブの紐を解いた。その手が襟元から入ってくるのを感じた啓太は、今まで伏せていた眼を上げて中嶋の眼をとらえた。
「うん? どうかしたのか」
「あの……。ほんとに俺でよかったんですか……?」
「おまえでいいなんて思ったことは、ただの一度もない」
 啓太に息を飲む暇さえ与えず、中嶋があとをつづける。
「俺はおまえがいいんだ。おまえでいいんじゃない。間違えるな」
 言葉を無くしてしまった啓太は、中嶋に抱きつきながら何度も頷いた。

 最初に感じたのは痛みだった。身体の奥に鈍い痛みを感じて、啓太はゆっくりと眠りの淵から浮上してきた。そうするうちに、今度は胸が重苦しいのに気がついた。顎のあたりにも違和感がある。
 痛みはいつものことだ。今夜はそれが、少しばかりひどいだけ。
 今夜の中嶋はそのくらい激しかったのである。中嶋とはもう何度も身体を重ねてきたが、こんなに激しいのは初めてだった。執拗とか情熱的とか形容詞はいくらもあるが、そのどれもが当てはまらないくらい激しく、中嶋は啓太を求めた。ただただ啓太が欲しい。その思いは啓太にも伝わっていて、拙いながらもなんとかそれに応えようとした。その結果がこの痛みなのだった。
―― 中嶋さん、すごかったな……。
 夢うつつの中で啓太はそんなことを思った。信じられないくらい激しく中嶋が自分を欲しがってくれたのだ。それは特別な夜にふさわしい、とても幸せな記憶だった。しかも今夜はそれだけではとどまらない。
―― それに中嶋さんは『俺がいい』って言ってくれたし。
 中嶋の激しさで啓太は満たされていた。満たされて足りることを『満足』というなら、今の啓太ほど満足している人間はいないだろう。肉体的な満足ももちろんだが、精神的な満足は計り知れなかった。指一本だって動かしたくないくらい疲れていたけれど、どうしても中嶋に触れたくなって、啓太はそっと手を伸ばそうとした。そして身動きができないことに気がつき……、一気に意識を浮上させた。
 ちゃんと眼が覚めてみてもやはり身体は動かせなかったし、胸の重苦しいのも取れていなかった。
―― どうしよう。せっかく連れてきてもらったのに、病気になっちゃったんだろうか……。
 不安の中で啓太は眼を開いた。天蓋から流れ落ちる布に遮られ、ベッドの上は部屋の中よりも暗かった。それでも闇に慣れた眼は、胸の上を映し出した。心臓がとくん、と音を立てた。
 中嶋が啓太に抱きついて眠っていた。胸が重苦しかったのは中嶋が頭をのせていたからだ。動けなかったのは中嶋の腕が啓太をしっかりと抱きこんでいたから。そして顎のあたりの違和感は、中嶋の髪がくすぐっていたのだった。
 夜中に啓太が眼を覚ますと、中嶋はいつもまっすぐ上を向いて眠っていた。傲慢とも見える寝姿は、しかしいかにも中嶋らしいといえるもので、啓太はそれを不満に思ったりしたことはなかった。中嶋は眠っているときでさえ『中嶋英明』なのだ。だからいつも抱きついているのは啓太の方。中嶋に引き寄せられていれば、それはご褒美をもらったようなものだった。
 それが今夜は中嶋が啓太に抱きついて眠っているのだ。小さな子供のように。啓太の胸に顔を寄せて。
 あまりの幸せに、啓太は自分が泣いてしまうんじゃないかと思った。でも涙は出なかった。悲しすぎると泣けないように、幸せすぎても泣けないのだった。
―― 中嶋さん、俺……。今この瞬間だけでも、貴方に愛されてるって、自惚れちゃっていいですよね……?
 啓太は少しだけ動かせる左手を中嶋の腕に重ねた。あいかわらず身体の奥は痛くて、胸は重苦しいままだった。だが啓太はこれ以上ないくらい幸せな気分でそれを受け入れた。それは今夜、中嶋に愛された証に他ならなかった。

 甘く甘く、凝縮された蜜のような時間だけが、ふたりを覆い尽くしていく。



いずみんから一言

……甘くしようと努力はしたのよ。自滅しちゃったけど(泣)。まあ甘いのは次回ということで。
このホテルは実在します。「旧市街へは徒歩で」とか書いてあるくせに、地図を見ると30分くらい歩かないと
行けないので、場所だけ移動させました。4本柱のベッドも有り。ただし布は伊住の創作です(笑)。
つながり具合の関係から削っちゃいましたが、ホテルの写真ではWベッドの上にクマのぬいぐるみが置いてありました。で、ヒデが「遠藤がいるぞ」と(笑)。恥ずかしがった啓太くんと和希への意趣返しをしようとした中嶋氏とのニーズが一致した結果、部屋の外に放り出されちまいました。本人が知らないところでも和希は不幸になっているようです(爆)。




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