Sweet,Sweet,
Honey Moon

〜 5.神聖な誓い 〜




「おい啓太。カドフェルは好きか?」
 森の中にたたずむコッホ城はロマンチックな外見とはうらはらに、丹羽が「きんきらきん」と表現したくらいの派手な内装が施されていた。派手というか華美というか満艦飾というか、当地の公爵様はこんなのがお好みだったのか、というのが一行の一致した見解だった。堀があって跳ね上げ橋があって……というのは日本の城と同じなのに、やはりここは異国なのであった。少々圧倒されて車に戻った啓太がペットボトルのミネラル・ウォーターで一息入れていたときに、思い出したように丹羽が問いかけてきたのだった。啓太の持っていたペットボトルは、横から中嶋がさりげなく奪い取り、口に運んだ。
「カドフェルって、えーっと、なんかタイトルだけは聞いたことがあるような……」
「『修道士カドフェル』だ。ドラマでもやってたぜ?」
「あはは……。すみません」
「気にすんな。誰だって好みってものがあるよな」
 申し訳なさそうに頭をかく啓太に丹羽が笑い飛ばした。
「ということでヒデ」
「ああ。シュルーズベリはパスだな」
「了解。んじゃラドローに向かって発進、と行きますか」
 城の前のもと来た道を、ゆっくりと丹羽が戻り始めた。
「ニューポートから北上でいいんだな」
「いや。チェプストーまで行ってくれ。遠回りといってもたかが知れているし、あとがまっすぐ北上でいいからわかりやすい」
 ふたりの会話を聞いていた篠宮が、まずチェプストーを探しだして道路地図にマークした。シュルーズベリとラドローは、昨夜の打合せですでにマークしていた。だがそこまでのルートは中嶋に一任されていたのだ。啓太と合流してから英国を離れるまでは、中嶋がルートを決めるというのが暗黙の了解になっていた。中嶋が啓太に見せてやりたいと思ったところに、丹羽や篠宮が異論をはさむはずもなかったのである。そのかわりというわけでもないのだろうが、フランクフルトから英国に入るまでは篠宮がルートを決めていた。英国を離れてからフランクフルトに戻るまでは丹羽が決めるのだろう。そのあたりは特に話し合わなくても、自然に分担ができていた。
「でもどうしてカドフェルなんですか?」
「シュルーズベリの修道院が舞台が舞台になっているんだ。だからもしおまえがファンなら見せてやろうと思ってな。カドフェル体験のアトラクションなどもできているようだし。しかしまあ、好きでもなければあんなところ、はるか昔に破壊された建物の残りにすぎん」
「えっ!? 壊されてるんですか?」
「残っているのは聖堂の部分だけのようだな」
 観光スポットになっているのに、壊されていたというのは意外だった。しかし壊された建物を残してあるというのもおもしろい気がした。その聖堂の部分だけでもたいしたものなのだが、啓太の頭の中には「瓦礫の中にたたずむ聖堂」という勝手に作り上げた風景が、いろんなショットで展開されていた。そんな啓太の表情を読み違えたのか、篠宮が実に真面目に解説を加えた。
「壊されたのは清教徒革命のときだ。修道院自体はそれより前、ヘンリー8世の時代に閉鎖されている。伊藤がもし社会科で世界史を選択していたら、おもしろかったかもしれないな」
「へええ。世界史はとってないんです。でもカドフェルは読んどけばよかったかな……」
「DVDはないが、原作本ならうちにある。読みたければ読めばいい」
「はあい」
 中嶋が口にした「うち」ということばに、啓太はたまらない幸せを感じた。啓太の「うち」はもう埼玉の家ではなく、中嶋と暮らすマンションなのだ。
そうだ。うちに帰ったらまず、中嶋さんにもらったラブ・スプーンを飾らないといけないんだ。今のうちにどこに飾るか考えておこう。
 それは啓太にとって、とてつもなく楽しい思いつきだった。啓太はこのスプーンのお礼に、自分からも何かこの旅行の記念になるものを中嶋に贈りたいと思った。

 昨日通ったM4と並行するようにして走るA48をチェプストーまで戻った丹羽は、そこからA466に転進。車の鼻づらを北へ向けた。同じ国道一級線でも、この道は中央分離帯もなければ片側も一車線しかない。篠宮に小言を言われた丹羽がスピードを落としたので、啓太は窓の外に次々と現れては消えていく街並みをのんびりと楽しむことができた。それからしばらく走った頃。気がつくと周囲の風景が変っていた。今までの、どことなく男っぽい風景から一変して、のどかな田園や牧場が広がっている。イングランドとの国境を越えたのだと、篠宮が啓太に教えてくれた。
 信号で停まっていると、すぐ左手が小さな牧場になっていた。今まで見えていたようなだだっ広いものではなく、テニスコート数面程度のものがいくつか点在している。そこの木で作られた簡単な柵の中に、何故か1匹だけぽつんと立っているロバが、むこうの道の真ん中をのんびり歩いていくアヒルかガチョウの群れをうらやましそうに見ていた。そのうしろに、進むに進めなくなってしまった車をみつけて、啓太は大笑いをしてしまった。もう少しで啓太たちのいる道に合流できるのに、そこは車1台分の幅しかない田舎道だったのだ。それでもクラクションで蹴散らそうとしないドライバーに、篠宮は「あれこそ英国紳士だ」と言った。
「あっ。また片側二車線になりましたね」
「今のヘリフォードでA49に入ったからな」
「つまりだな、二桁までのAルートは高速道路と同じなんだよ。信号があって他の道とも入り乱れてるってとこが違うだけさ。だから制限速度も同じ。というわけで、ちょっくらアクセル踏ましてもらうわ」
 ひばりちゃんの鼻歌とともにラドローに着いた一行は、休憩ついでに車を預けて、坂道を少し歩いた。空気はまだ少し冷たいが、散歩をするには気持ちのいい天気だった。振り返るとここは丘の上で、下を流れている川が見えた。わざわざ観るほどのこともないようなので城には行かなかったが、ここは普通の、それでいて魅力的な街だった。メインストリートらしき通りの両側には本屋や肉屋やパブ、ドラッグストアなどが実に調和のとれた街並みを作り出していた。歩いているのも地元の人ばかりらしく、ここでは彼らの服装や歩く姿までもが重要な風景の一部だ。やがてそのうちの一軒にフランス語でカフェと書かれたプレートを見つけた丹羽は、ここにしようと言ってドアを押し開けた。
「ここなら美味いコーヒーがありそうだ。昼飯のは泥水だったからな」
「まだ懲りんのか。英国でコーヒーに期待するな」
「んなこと言うけどよ。もし紅茶で不味かってみろ。それこそ眼もあてられないぜ? コーヒーだから、まだ諦めもつくってもんだ」
 中庭からの光が大量に差しこんでいて、くすんだ外観からは想像できないくらい店内は明るかった。時間が中途半端なせいか、それともただ流行っていないだけなのか、ほかに客はいない。よく磨かれた板張りの床が、歩を進めるたびに硬質のいい音を立てた。カウンターの中にいたフランス人の母娘らしいふたりが、物珍しそうに入ってきた客を見ている。英国人の観光客さえそう多くなさそうなこの街では、日本人を見かけることなどないのだろう。もしかしたら彼らは、この母娘がはじめて見る日本人かもしれなかった。
「見るべきものはないかもしれないが、ここには普通の生活がある」
 丹羽の嗅覚が正しかったのか、思いもかけずありついた美味いコーヒーをすすりながら、中嶋がぽつんと言った。
「そうだな。観光だけなら他所でもできる。だがこういう普通の街を歩くのは貴重な体験といえるかもしれない」
「といって田舎すぎるわけじゃねえ。さっき通ってきた道沿いの街より立派だし、そこに演劇祭のポスターだって貼ってある。観光客の少ないのは、単に地理的なもんだろ」
 もう二度と来ないだろう異国の街。そこでさえ異国風のカフェ。レースのカーテンがかかった大きな窓。その向こうに見える、中嶋が見せようとしてくれた街並み。穏やかに会話をする中嶋と篠宮と丹羽。時折、低く聞こえてくるフランス語。手元から立ち上ってくるコーヒーの香り。自分がその中にいることさえ奇跡のように思えてしまう。
 この美しい風景を啓太は終生、忘れることがなかった。

 パスすることになったシュルーズベリを迂回してから約2時間。街の風景が一変した。それまでのような石造りの建物がもちろん主流ではあるのだが、木組みの枠が印象的な家が混じりはじめたのだ。それは木の国から来た日本人にはどこかやすらぎを感じさせる風景だった。
 緩やかなカーブを過ぎ、前方に暗い茶色の壁が見えてくると、木枠の家が一気に増えた。うしろから身を乗り出した中嶋が、プリントアウトされた地図を見ながら丹羽に道を伝える。すでに夕方近くなっているので、ここが今日の目的地なのだろう。小ぢんまりとした印象はあまり変わらないのに、ここは休憩を取ったラドローと違って、かなりの観光地であるようだ。車の中から眺めている啓太にさえ、活気のようなものが感じられた。
 日本人観光客だと思われるグループがいくつか、おみやげの入っているらしい袋を下げて歩いているし、カメラを片手に騒いでいるのはアメリカ人の団体だろうか。その他にも観光客らしい人たちが何組も歩いていた。時間を考えるとおそらくホテルに帰ろうとしているのだろうが、観光シーズンとは言いがたい時季でさえこれだけの観光客が歩いているのだ。オン・シーズンの賑わいぶりは容易に想像がついた。しかし道路標識を見逃した啓太には、ここがどこなのか見当もつけられなかった。
 それからいくらも走らないうちに丹羽が車を停めた。ここは本当に小さな街のようだ。車が停まったのは少し大きめの普通の家といった建物の前で、ドアを真ん中に、左右対称のベイウインドウと尖った屋根が眼を惹いた。ドアの上に小さく掲げられたプレートを見なければ、ホテルとは気づかないようなたたずまいだった。
「さあ。降りるぞ」
「あのっ、ここは? とてもきれいな街ですけど」
 ドアを開けかけた中嶋が、啓太の方を振り向いてふっと表情を緩めた。
「チェスターだ。荷物は全部おろせよ。ここで5泊する」

 ホテルは建物こそ小さいが、中の造りはかなり贅沢なものだった。昨日泊まったようなアメリカナイズされた大型のホテルでは、こういう「派手さを排除した落ち着いた贅沢」というのを求めるのは無理だろう。中嶋がチェック・インをしていると、車を置きに行った丹羽と篠宮が入ってきた。
「おう啓太。確かここで5泊って言ってたよな」
「はい。5泊もって、俺ちょっとびっくりしちゃって」
「何を言う。同じところでつづけて何泊もできるのは、本当に贅沢な旅だけだ。特にここは英国の至宝とまで言われる街だ。ゆっくり堪能するといい」
「あ? そう、なんですか……」
「そうさ。でな、俺と篠宮はそんな贅沢はできんからよ、5泊目に帰ってくるわ」
「えっ!? 王様も篠宮さんも行っちゃうんですか?」
 ただでさえ大きな眼を、さらに見開いて驚く啓太に、丹羽が苦笑して見せた。
「おまえなあ……。新婚さんと一緒にいなきゃならん俺たちのことも考えてくれや」
「それは丹羽の言い訳だ。丹羽ときたらこの州から逃げ出したくてしかたがないんだ。なにしろここはチェシャー・キャットの故郷、チェシャー州だからな」
「だけど……」
「啓太」
 チェック・インを終えた中嶋が声をかけた。
「丹羽や篠宮だって、せっかく英国まで来ているんだ。ほかに行きたい所だってあるだろう。俺たちに付きあわせるのは単なる身勝手だ」
「……はい」
 中嶋にたしなめられた啓太が、少し不安そうに頷いた。この感覚に啓太は覚えがあった。あれは中嶋のマンションに引っ越した日。夕食のあとで両親と妹を乗せた車を見送ったときだった。取り残されるという思いが啓太を不安にさせた。ちょうどあのときと同じ感覚に襲われたのだった。
 中嶋を選んだということは両親や妹と一緒に埼玉の家に帰れないということであり、丹羽たちと一緒に行けないということなのだ。これが「両親と一緒には帰らない」「丹羽たちとは行かない」と思えるようになるには、まだまだかかりそうな啓太だった。
「あの……。5日目、待ってますから……。だから早めに帰ってきてくださいね」
「ああ、丹羽が嫌がってもちゃんと連れて帰ってくる。安心していろ」
「その代わりに、うまいメシを食わせてくれる店、探しといてくれよな。英国ってとこはどうもメシがまずくていけねえ」
「わかりました。美味しいごはんのお店ですね。ちゃんと探しておきます」
 精一杯の笑顔を作り上げた啓太に何度か頷いて見せた丹羽は、啓太の左手を取ると、何か硬いものを握らせた。
「これはな、俺と篠宮からのお祝いだ。この街もいいだろうが、どっか連れてってもらえ。な?」
「王様?」
 啓太が手を開いてみると、それはここまで乗ってきた車のキィだった。
「丹羽。それではおまえたちが困るだろう」
 思わず口をはさんだ中嶋に、丹羽がうるさそうにしっしっと手を振った。
「うるせぇぞ、ヒデ。おまえにやったんじゃねえ。俺らは啓太にキィを預けたんだ。間違えるな」
「しかし……」
「心配しなくてもいい。俺と丹羽のふたりくらい、なんとでもなる」
「あのっ、王様。篠宮さんっ。俺、別に車なくても大丈夫ですから。こんなの受け取れないです」
 慌ててキィを返そうとした啓太の手を、篠宮が両手で包みこんだ。
「伊藤。これは俺たちからの気持ちだ。返したりしないでくれ」
「今思いついたことじゃねえぞ。ヒデが5泊も予約を入れたって聞いたときから、篠宮と話してたんだ。それが証拠に、ほら。エクスプローラー・パス持ってるだろ? これ英国内では買えないやつだ。ちゃーんと日本から用意してたんだよ」
「王様……。篠宮さん……」
「ということで、コーチの時間が迫ってるからそろそろ行くわ」
 そう言うと丹羽も篠宮も、足元に下ろしていたソフト・アタッシェを取り上げた。
「そうか。気を遣わせてすまなかったな。有難く使わせてもらう」
「って、中嶋さん!?」
 驚いたように振り向く啓太を、中嶋は見なかった。その向こうにいる丹羽や篠宮と眼を交わしあっていたのだ。だが中嶋の両手は、しっかりと啓太の肩を掴んでいた。その力の強さが、もう何も言うなと言っていた。
「だから言ってるだろ。これは啓太にだ。おまえにじゃない」
「ああ、そうだったな。……ところで、これからどこへ行くつもりだ?」
「今日はマンチェスターで泊まる。あとはエジンバラへ行って……。ハイランドのあたりも良さそうだし、セント・アンドリュースでゴルフと洒落こむのもいいかと思ってるとこだ」
「俺はどこか小さい蒸留所でいいから、本当に自分の好みにあったシングル・モルトを見つけられたらと思っている。いいのが見つかれば、おまえにも買っておこうか」
「そうだな。丹羽と違っておまえの舌なら信じられる。適当な数だけマンションに送っておいてくれ。住所は丹羽と同じだ」
「わかった」
 淡々と話をしている中嶋たちと違って、啓太はほとんど泣きそうになっていた。中嶋英明という、世間一般からは祝福などされない相手についてきた自分を、丹羽と篠宮は彼らなりのやり方で認め、祝おうとしてくれているのだ。涙をこぼさないようにするのに必死だった。
「じゃあな、啓太。中嶋に思いっきり可愛がってもらえよ」
 そう言い残して丹羽と篠宮はあっさりと踵を返した。その背中に向かって、啓太は深々と頭を下げていた。ドアの閉まる音が耳に届いたとき、こらえきれなかった涙が一粒、足元の絨緞に吸いこまれた。
「……もういいだろう。ベルボーイがずっと待ってくれている。これ以上、待たせては悪い」
「……はい」
 中嶋に肩を抱かれて、啓太はゆっくりと歩き始めた。右手はしっかりと車のキィを握りしめたままだった。篠宮と丹羽の心の塊であるかのようなキィに報いる方法はひとつしか思い浮かばなかった。
―― 王様。篠宮さん。俺はこうやって中嶋さんとふたりで歩いていきます。いつか最期の息を引き取るときまで、ずっと。一緒に ――
 神などではなく篠宮と丹羽に向けたそれは、啓太にとって何よりも神聖な誓いかもしれなかった。


いずみんから一言

なんとか第5話をUPすることができました。書き始めたときには自分でサイトを開くことになるなど、想像もしていませんでした。正確には行き場のなくなった第5話を世に出してやるためにサイトを開いたようなものなんですが。ご協力くださった関係各方面には感謝してもしきれません。本当に有難うございました。
これで何の心配もなく最終話まで書きつづける環境ができました。
皆様方には今しばらくおつきあいくださいますよう、お願い申し上げます。

それはさておき。
アンケートにご協力いただいた新婚旅行ですが、ようやく目的地に到着しました。
どうでしょう。チェスターって意外でしたか? 新婚旅行先として、英国内でも結構人気があるそうです。
写真があったら出そうと思って探したのですが、行ったのが震災の前年で、写真などは地震でひっくりかえった荷物のどこかに紛れてしまったらしく、どうしても見つかりませんでした。
捨てていないので見つかったら出しますね。




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